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第7話

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 深夜の倉庫に、柔らかな旋律が流れる。
 ピアノ椅子の二脚あるうちの一つに、僕は座っていた。
 観客は僕一人。何という贅沢。
 建設資材が整然と積み上げられたそこは、埃っぽくて薄っすらとカビ臭い。
 そんな中で作業服姿の男性がグランドピアノを演奏するギャップ。
 あの夜、僕が乱入して中断させた曲を弾いてくれている佐賀美さん。一音一音を慈しむように演奏している。そして、歪んだ音を出す鍵盤に眉をしかめるのも、あの夜と同じだった。
 なだらかな音が、初夏の湿った空気と交わる。
 いつもと違う世界に身を委ねていると、僕の中の「常識」が、静かに揺らぎ始めた。
 甘美な波動が心を細かく振動させ、偽りのない本当の気持ちが、ふわりと浮かび上がって来る。
 自分の内側から沸き起こる、「正直」な感情に抵抗しては逆戻りする日々。
 そんな心情の起伏の連続に、僕は疲れ果てていた。
 佐賀美さんの真剣な横顔を見つめていると、胸の奥が熱くなる。
 この人、素敵だ――ただ純粋に、そう感じる。
 つまり僕は、この男性を「好き」なのだと、素直に受け入れた瞬間でもあった。
 でもこの気持ちは、ラブか、ライクか。
 自分でも線引きは出来ず、境界線は、あやふやだ。

 演奏が終わり、佐賀美さんが小さなため息をつく。
 よほど神経を研ぎ澄ませて弾いていたのだろう。
 この集中力が仕事の面にも表れているのだとつくづく思う。夕飯を食べ忘れてしまうほどだから。
「ありがとうございます。これは何という曲でしょうか」
 佐賀美さんが落ち着いた頃合いを見計らって僕は聞く。
「これは練習曲。昔、習っていた時の教本に載っていた曲だよ」
「そうなんですか。綺麗な曲ですね」
「うん。俺も気に入ってて、今でもよく弾いてるんだ。幼稚園に入園する頃にはもうピアノを習ってたから、何歳の時の教本だったかは忘れたけどね」
「そんな早くから! 僕、その頃なんて一日中、バッタを捕まえて遊んでましたよ」
「羨ましい。俺なんか幼稚園と平行して、ピアノと英会話と塾の日々だった。早期情操教育のメニュー総なめってやつさ。俺の貴重な幼年期を返して欲しいくらいだ。試験やピアノの発表会が近いと、遠足にも行かせてもらえなくてね。芋ほり遠足、行きたかったよ」
 佐賀美さんは、驚くほど饒舌に喋る。
 この人は、いきなり黙り込んで恐い顔になったり、そうかと思えば微笑んでみたりと、かなり気持ちの変動が激しい。
 加えて、生まれ育った環境は一般市民の生活レベルではなさそうだ。
「僕の生きて来た世界と全然違うんですね」
「まあ、確かにそうかもしれん。でも、今こうして藤沢君と同じ会社で働いて、連日連夜残業しては、そのまま床で寝るんだから、ピアノをやるもやらぬも結果は同じだったってわけだ」
 自嘲するように苦笑し、うつむく。
「そうさ。結局は何の役にも立たなかったんだ。音楽も、その為の外国語も……」
 両手をじっと見つめて、寂しそうに呟く。
「親は、俺が音大の教授か、ピアニストになって欲しかったらしいけどな」
 そう言って、繊細な指先で鍵盤をなぞる。
「なあ、藤沢君」
「はい」
「俺の経歴書、見たことあるかい」
「いいえ。ありません」
 まさか棚部の口からその件は聞いていますとは言えず、咄嗟に嘘をつく。
「俺、音楽科で入学して、建築科で卒業したんだ。途中で気が変わって、転科したんだよ」
「ええっ? そうなんですか」
 初めて聞いたふりをしながら、棚部との居酒屋での会話を思い出す。
 気が変わったとなれば、才能でもお金の問題でもない。よって、棚部の下世話な憶測は外れたことになる。
 では何が起きたのか――いや、詮索するのは止めておこう。
 転職にしろ転科にしろ、この人の中で何かが根底からひっくり返ったからそうしたのだ。
 それはとても勇気のいる行動だと思うし、時間もお金も、さらには周囲もを巻き込んでいるはずだ。
 なのでここは余計な事を言わず、聞き役に回るのが正解であろう。
「だから俺は、その時にきっぱりと音楽を辞めた……いや。そうでもない。そうでもないんだが……まあ、今は気晴らしに楽しく弾いてるよ。せっかく長くやって来たんだし……趣味としてね」
 まずい。無理に話をきれいにまとめようとして、逆に強い葛藤が表に出てしまっている。
 これは話題の向きを微妙に変えた方がいい。また不機嫌になったら困る。
「失礼ですが、ご実家からの通勤ですか。ピアノの弾くには、防音とか色んな面で気を使いますものね」
「いや。実家は同じ市内だけど、一人暮らしだよ。電子ピアノを買ってさ。あれなら、ヘッドホンを着けて、いつでも弾けるから」
「ヘッドホン! 文明の利器ですね」
 話の内容の軌道変更が成功し、密かにホッとする。
「でもな、やっぱり時々、本物に触りたくなる。だから、これが来た時は嬉しかった」
 目を細め、ピアノを撫でる。
「たとえ、キズだらけで音が変でも?」
「かまわない。回収されて解体されるまで、俺が弾いてあげようと思ったんだ」
「外に放置されたり、焼き肉用の薪にされなくて本当に良かったですね」
「全くだ。あの時は本気で田上課長の尻へ蹴りを入れてやろうかと思った。それに賛同する部長連中へは、分厚い資材カタログで、ぶん殴ってやりたかった」
「こ、恐い……! 佐賀美さんって、実は凶暴なんですね」
「ふふふ。内緒だぞ。絶対言うなよ」
 佐賀美さんは愉快げに自分の唇へ人差し指を当てる。
「はい。もちろんです」
 僕も同じ仕草をして、互いに笑い合う。
 こうやって二人だけの秘密が少しづつ増えていくのが、たまらなく嬉しい。

「それにしても、佐賀美さんみたいにピアノが弾けたら、どんなにいいでしょうね」
 時間が経つにつれ、僕は佐賀美さんと気楽に会話が出来るようになっていた。
「ためしに触ってごらん」
「それは、遠慮しときます」
「どうして」
「学校の音楽室の掟です。弾けない者は触るな近寄るなと」
「ここは音楽室じゃないよ。ほら」
 佐賀美さんが優しく促す。
「で、では……お言葉に甘えて」
 恐る恐る鍵盤に近づき、緊張しながら右手の親指で白い鍵盤を押した。
 ポーンと、静まり返った倉庫に音が響く。
 鍵盤って、こんなに重いのか。
 音よりも、まずそれに驚く。
「今のはファ。そのまま右に一つ飛ばして、次の鍵盤を押してごらん」
「はい」
 最初の音とハモる。
「これは、ラ。また右に同じく飛ばして」
 三音がバランス良く並んで聴こえる。
「じゃあ、三つ一緒に押してごらん」
「はい」
 フォーンと、奥行のある音が広がる。
「ほら、和音が弾けた。いい音だろう」
「はい。三色が綺麗に揃って重なって、お花見の串団子みたいです」
「はあ? 何だそれ」
 佐賀美さんが目を丸くして聞き返す。
 僕も言った後で後悔した。誰に言っても理解されないので封印していたこの表現。ピアノに触れた興奮で、思わず口から出てしまったのだ。
「あ、いや、和音って言うんですか? いい音ですね。僕のファースト和音ですよ」
 変人扱いされる前に誤魔化してしまわなくては。僕はおどけて頭をかく。
「串団子……藤沢君が、そんな表現をするなんて思わなかった。ユニークというか、なんというか」
「いえいえ。単に国語能力が低いんです。工事協議簿なんか、文章が解りにくいって、田上課長からしょっちゅう改善指示が出るくらいですし」
「いやいや。いい意味で言ってるんだよ」
 どうやら馬鹿にはされていない様子。
 ならば、数十年ぶりに「駄目でもともと」で話してみようか。
 運が良ければ理解してくれるし、もしそうでなかったら、笑い話で済ませてもらえばいい。
 藤沢は食い意地が張っていて、和音を「串団子」と表現したとでも。

「実は僕、譜面が読めないので、昔から頭の中で音を色分けしてたんです」
「色分け? そしたら半音もか」
「はい」
「どうやって」
「半音の場合、上がる音は、その色が半分明るくなって、下がる音は、半分暗くなる感じです」
「うーん。驚きだ。音を色で識別しているなんて。しかもシャープやフラットまで!」
「でも周りからは理解不能と言われて、そのうち説明するのも嫌になったので、ずっと黙っていました」
「そりゃそうだろうな」
「だからカラオケでは特に音を外すんです。音を色に変換している暇はないし、余計な邪魔が入るし」
「余計な邪魔?」
「画面で、歌詞をなぞっていくでしょう。白とか単色で」
「ああ、あれな」
「いつもあれで混乱するんです。お酒が入るとなおさら。でも、棚部が言うんです」
「何て」
「自分が楽しけりゃいいんだって。気にしないで堂々と歌えって」
「へえー。たまにはまともな事を言うんだ。少し見直した」
「棚部は言葉や外面は、あんな感じですが、根はいいヤツです。後輩の面倒見もいいし」
「そうか。知らんかった」
 佐賀美さんは真面目な顔で感心している。 裏を返せば、棚部は毎日、二人きりの現場事務所で緊張し、テンパって妙な言葉を口走っているということだ。
 頻繁に来るメールの愚痴も、多少のウケ狙いかと思っていたが、あれは切実な気持ちであったのだ。
 でも確かに、この人は難しいと思う。
 瞬時に変わる機嫌や表情。僕も今まで幾度か冷や汗をかいた。
 その人の個性だと言ってしまえばそれまでだが、大規模な工事現場をこの人と一緒に総括する人間は、よほど性格が合わない限り、気疲れしてしまうと思う。
 ということは、もっと気合いを入れて棚部をフォローしてやらなければ、あいつは潰れてしまうかもしれない。
「ううむ。これで納得した」
 佐賀美さんは、僕の思惑と棚部への危機感には全く気づかない様子で、感慨深げにうんうんと頷いている。
 しかもありがたい事に、僕の「脳内音階色付け法」を受け入れてくれたようだ。
「でしょう? だからピアノもカラオケも、音楽関係はダメダメなんです」
「いや違う。藤沢君の頭の中には建設資材用の色見本がまるごと入っているんだ」
「は?」
「それの一色一色に音が添付されているんだ。学生時代、話には聞いていたけれど、こんな身近にいたなんてびっくりだ」
 あたかも珍獣を眺めるような目で僕を見る。
「どんな色で楽曲を体感しているのだろう。藤沢君は素晴らしい脳を持っているんだね」「……それはどうも」
 これって褒められているのか、けなされているのか。
 けれど短期間ではあるが音大生だった人にそう言われるのは悪くない気分。
「ええと、それはともかく、佐賀美さんを見ていたら、ピアノが弾けたらいいなって。でも無理ですよね。譜面も読めないし。しかもご存じの通り、音を色で識別しているとはいえ、音痴は音痴ですから」
 考えてみれば、僕は入社当初から会社の宴会で、知らなかったとはいえピアノの名手の前で、「音程が事実とは確実に違う歌唱ショー」をやらかしていたのだ。これはもう恥の上塗りでしかない。
「心配するな。弾けるよ。ちなみに藤沢君の音痴は絶望的だがピアノの演奏には関係ない。譜面を色で憶えればいい。大丈夫だ」「はあ」
 なんだか励ましと同時に、さりげなく厳しい事を言われたような。
「けれど休日にわざわざ教室に通うのもしんどいし、そもそもピアノがありません」
「でも、弾いてみたいんだろう?」
「まあ、一生のうちで一度くらいは。定年退職後にでも、習ってみるかもしれません」
「そんな時間の経った後にかよ……」
 佐賀美さんは、しばし鍵盤を見つめ、何か考えているようだった。

「それなら俺が教えようか。このピアノで」
「え? でもご迷惑では。それに月謝を払う余裕は今の僕にはちょっと」
「もちろん無料だよ。俺も一生のうちで、一度はピアノの先生になってみたかったし」
「僕、完全な初心者なんですけど」
「反対にその方がいい。ゼロから教えられるから」
「それなら……お願いできますか?」
「うむ。もちろん皆には絶対内緒だぞ」
「はい! では、よろしくお願いします」
 意外な展開。しかも佐賀美さんに教えてもらえるなんて。
 けれど多忙な現場があり、その上、極秘だから誰もいない夜中にしかできない。
 こんなシビアな制約の中で、果たしてどこまでやれるだろうか。
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