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第62話

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「あります! 僕には、佐賀美さんをしっかりと支える度量があります!」
 こんな男に佐賀美さんを取られてたまるものか。
 嘲笑い、罵倒しながら過去を暴露し、さらにそれを利用して僕から奪い返そうとするような奴なんかには、絶対に佐賀美さんを渡さない。
 それにもし仮に碓井の元へ帰れば、佐賀美さんは確実に潰されてしまう。
 人生を碓井に吸い取られてしまう。
 それこそ日の当たらない牢獄へ永遠に閉じ込められて、美しい羽をズタズタにされてしまう。
 今なら理解できる。
 碓井は佐賀美さんを愛しているのではなく、征服という行動で依存しているのだ。
 学生時代は、それが愛だと互いに思い込んでいただけだ。それは単なる幻想であり、大いなる勘違いなのだ。
 そして幸いな事に、佐賀美さんは今それに気づいている。
 だが碓井はそうではない。
 社会的な部分は年齢相応なのに、恋愛や人間関係の部分だけが、あの頃のままで成長が止まっているのだ。
「碓井さん。過去の女関係なんて関係ありませんよ。僕だって人の事は言えませんから。そりゃあ、婚約破棄された女性は気の毒に思います。でも逆に、それでよかったのではないですか。難しい気性と性格の同性愛者と不毛な結婚生活を死ぬまで送るよりは!」
「フジ……?」
 佐賀美さんが僕の剣幕に驚いて顔を上げる。だが碓井は、せせら笑う。
「へえ、なかなかの口をきくじゃないか。でもその根拠はあるのか。言葉では何とでも言えるからな。物理的な証拠を見せてくれよ」
「物理的、ですか」
「おう、そうだ。しかも今すぐ出せないのなら、一切信用はしない」
 心や愛情が形にできないのを知っている上で要求するとは、実に根の暗い、陰湿な男だ。

「……ならば、これです」
 僕は、未だ痕の残る両手首を碓井に見せた。
「その内出血が、どうしたっていうんだ」
 怪訝そうに眉をひそめる。
「これは逆上した佐賀美さんに強く握られてつけられたものです」
「佐賀美に?」
「ええ。佐賀美さんは碓井さんの仰る通り、心が弱いです。しかも嫉妬深くて、独占欲も強くて、寂しがり屋です。優しさと気性の荒さが同居していて、付き合うのはとて大変です。でも僕は、そんな佐賀美さんを愛しています。だから過去も性格も全部ひっくるめて、僕はこの人を受け入れ、全力で支えます。僕には、それができます!」
「フジ……!」
 佐賀美さんが感無量の面持ちで僕を見る。
「ふん。内出血が愛の証ってやつか。でも勘違いするな。それは単に佐賀美のいつもの癇癪だ。全く、夢見るガキはこれだから困る。年下の分際で大人の恋愛に首を突っ込むな」
 碓井は忌々しげに僕を睨む。 
「では、大人の境界線ってどこですか。恋愛なんて、いくつになってもこじれた工事現場と変わらないと思います。地盤はいくら埋立ててもガタガタ。資材は間に合わない。業者間の諍いもある――そんな事態は年齢に関係なく常に起こるものでしょう」
「オレの佐賀美を工事現場と一緒にするな!」
「いいえ。一緒です。それほどに面倒な人です。この人は」
「オレだって、この男と同棲していたんだから、そんな事くらい解ってる!」
「ならば失礼ですけど、佐賀美さんという恋人がいながら、なぜ結婚なさったんですか」
「決まってるだろ! 出世して環境が整ったら佐賀美を迎えに行くためだ。教授になるのもそのためで、立場がある程度固まれば、早々にうまく立ち回って協議離婚するつもりで結婚したんだ。だがそれを佐賀美にいくら説明しても分かってもらえなくて、勝手に建築科へ移ったり、見当違いの女漁りをしたりと、オレを悩ませるんだよ。この男は」
「そうですか。でも、家電量販店で会った時、結婚は失敗だったと言っていませんでしたか。とても損得勘定で結婚した人とは思えない悲壮感ぶりでしたけど」
「あれは演技だ。佐賀美の気を引くための」
「何の必要があってです? しかも教授には言えないから相談に乗ってくれとまで言ってましたよね。円満に別れるのなら、他人である佐賀美さんよりも、まずは奥様や親族交えての話し合いが先決ではありませんか」
「むう……」
「それに碓井さんは僕と違って裕福なのだから、どこかに部屋を借りて佐賀美さんを住まわせ、自分がそこに通う事も可能なのに、それもしていない。これって矛盾していませんか」
「ちっ! 余計な事をおぼえていやがって」
「店内で佐賀美さんにしつこく絡むからです。あの後、機嫌が悪くて大変だったんですよ」
「調子に乗って減らず口を叩くな! おい佐賀美、お前も黙ってないで何とか言え!
 だが佐賀美さんは返事をしない。ただぼんやりと碓井を見つめているだけだった。
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