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第63話
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「佐賀美さん……?」
「――」
反応がなく、こちらを見向きもしない。
心なしか顔色も悪い。
もしや度重なる激昂のあまり、具合が悪くなったのか。
「あの……大丈夫ですか」
僕は、こわごわと佐賀美さんの手に触れた。
すると、場所を考えろと振り払われると思いきや、逆に力強く握り返される。
その手はとても冷たく、氷のようだった。
「オレへの当てつけかよ。手なんか繋ぎやがって」
碓井が嫌悪を露わに舌打ちする。
「そんな意味で手を握っているのではありません。佐賀美さんの手、今、もの凄く冷たいんです」
「ふん。おおかたこの状況に耐えられなくて、血が下がったんだろうよ。こいつ、舞台根性はあるくせに、他の面ではダメダメだからな」
「そういえば、家電量販店で碓井さんと別れた後も、佐賀美さん、真っ青になって、今みたいな冷たい手になっていました」
「はあ? 何が言いたい! 遠回しに言うなッ! もったいぶらずにハッキリ言え!」
意外だ。碓井が苛立っている。
どうやら先ほどのやり取りで、立場が逆転したらしい。
しかし油断は禁物だ。この男の事だ、いつ話を引っくり返されるか分らない。
よし。行くぞ――
僕は慎重に言葉を選びながら、再び碓井へ語り始めた。
「碓井さん。一人残された当時の佐賀美さんがどんなに悲しんだか、どんな思いで建築科に移ったか、どんな思いでグランドピアノや家具を処分したか、知らないなんて言わせませんよ」
「なにッ」
「それに女と無理して寝たり、婚約破棄や退職までの顛末は、碓井さんを忘れるための捨身の行動と、その結果でしょう。仮に今でも佐賀美さんを自分の恋人だと言い張るのなら、よくぞ本人を目の前に、過去をちゃかしながら暴露できますね。僕なら絶対にできませんよ」
「おい、待て。なぜピアノや家具の事を知っている? まさか佐賀美、お前、話したのか」
「ああ。話した。そこまでは話した。お前が出て行く時に俺に浴びせた、あの言葉もな」
佐賀美さんが顔を上げて言う。
その声には張りがあり、手も次第に温かくなってきた。
「このクソガキ! 知らないって言ってたくせに、嘘をつきやがったな!」
目をむいて碓井が怒鳴る。
「碓井よ。俺達は業者と折衝する時、手の内を極力見せない。知っていても知らんふりをするのも交渉手段の一つなんだ。フジは今、それをやったんだ。フジはお前に全然知らないとは言っていない。ただ、知らないと言ったはずだ」
「な……!」
そして後は僕が続ける。
「卒業後の話も、佐賀美さんはお酒の力を借りてまで話そうとしました。でも、僕の方から断りました。だから全部が全部、佐賀美さんは僕に過去を隠そうとしたわけではありません」
「まあ、確かに悲惨な内容だから、正直、フジには話したくなかったのは事実だけどな」
佐賀美さんは僕の手を握ったまま苦笑する。その手はもう、すっかり温かい。
「だから、お前がどうあがいても、あるいはフジに俺の過去を洗いざらい暴露しても、俺はお前の元へは帰らないし、フジは俺から離れない――どんな事があってもな」
「碓井さん。僕も、ここで引き下がりたくはないんです。佐賀美さんを絶対に失いたくないんです」
「オレだってそうだ。家に帰れば物欲の塊みたいな根性悪の嫁がいて、しかも善人とはいえ、直属の上司と同居する息苦しい生活に、心底辟易してるんだ」
「それはお前が選択した道だろう」
「でも」
「俺達の仲は、もう終わってるんだ。卒業してから一体、何年経ったと思ってるんだ」
「いいや。まだ終わってなんかいない。お前だって、まだオレが好きなはずだ。心の奥で、やり直したいと願っているはずだ!」
「違う。それは単にお前の願望だ」
「願望なんかじゃない。これは事実だ!」
「……碓井。頼むから、聞き分けてくれよ」
佐賀美さんは僕の手を一度強く握ってから静かに離すと、碓井の方へと歩み寄った。
「――」
反応がなく、こちらを見向きもしない。
心なしか顔色も悪い。
もしや度重なる激昂のあまり、具合が悪くなったのか。
「あの……大丈夫ですか」
僕は、こわごわと佐賀美さんの手に触れた。
すると、場所を考えろと振り払われると思いきや、逆に力強く握り返される。
その手はとても冷たく、氷のようだった。
「オレへの当てつけかよ。手なんか繋ぎやがって」
碓井が嫌悪を露わに舌打ちする。
「そんな意味で手を握っているのではありません。佐賀美さんの手、今、もの凄く冷たいんです」
「ふん。おおかたこの状況に耐えられなくて、血が下がったんだろうよ。こいつ、舞台根性はあるくせに、他の面ではダメダメだからな」
「そういえば、家電量販店で碓井さんと別れた後も、佐賀美さん、真っ青になって、今みたいな冷たい手になっていました」
「はあ? 何が言いたい! 遠回しに言うなッ! もったいぶらずにハッキリ言え!」
意外だ。碓井が苛立っている。
どうやら先ほどのやり取りで、立場が逆転したらしい。
しかし油断は禁物だ。この男の事だ、いつ話を引っくり返されるか分らない。
よし。行くぞ――
僕は慎重に言葉を選びながら、再び碓井へ語り始めた。
「碓井さん。一人残された当時の佐賀美さんがどんなに悲しんだか、どんな思いで建築科に移ったか、どんな思いでグランドピアノや家具を処分したか、知らないなんて言わせませんよ」
「なにッ」
「それに女と無理して寝たり、婚約破棄や退職までの顛末は、碓井さんを忘れるための捨身の行動と、その結果でしょう。仮に今でも佐賀美さんを自分の恋人だと言い張るのなら、よくぞ本人を目の前に、過去をちゃかしながら暴露できますね。僕なら絶対にできませんよ」
「おい、待て。なぜピアノや家具の事を知っている? まさか佐賀美、お前、話したのか」
「ああ。話した。そこまでは話した。お前が出て行く時に俺に浴びせた、あの言葉もな」
佐賀美さんが顔を上げて言う。
その声には張りがあり、手も次第に温かくなってきた。
「このクソガキ! 知らないって言ってたくせに、嘘をつきやがったな!」
目をむいて碓井が怒鳴る。
「碓井よ。俺達は業者と折衝する時、手の内を極力見せない。知っていても知らんふりをするのも交渉手段の一つなんだ。フジは今、それをやったんだ。フジはお前に全然知らないとは言っていない。ただ、知らないと言ったはずだ」
「な……!」
そして後は僕が続ける。
「卒業後の話も、佐賀美さんはお酒の力を借りてまで話そうとしました。でも、僕の方から断りました。だから全部が全部、佐賀美さんは僕に過去を隠そうとしたわけではありません」
「まあ、確かに悲惨な内容だから、正直、フジには話したくなかったのは事実だけどな」
佐賀美さんは僕の手を握ったまま苦笑する。その手はもう、すっかり温かい。
「だから、お前がどうあがいても、あるいはフジに俺の過去を洗いざらい暴露しても、俺はお前の元へは帰らないし、フジは俺から離れない――どんな事があってもな」
「碓井さん。僕も、ここで引き下がりたくはないんです。佐賀美さんを絶対に失いたくないんです」
「オレだってそうだ。家に帰れば物欲の塊みたいな根性悪の嫁がいて、しかも善人とはいえ、直属の上司と同居する息苦しい生活に、心底辟易してるんだ」
「それはお前が選択した道だろう」
「でも」
「俺達の仲は、もう終わってるんだ。卒業してから一体、何年経ったと思ってるんだ」
「いいや。まだ終わってなんかいない。お前だって、まだオレが好きなはずだ。心の奥で、やり直したいと願っているはずだ!」
「違う。それは単にお前の願望だ」
「願望なんかじゃない。これは事実だ!」
「……碓井。頼むから、聞き分けてくれよ」
佐賀美さんは僕の手を一度強く握ってから静かに離すと、碓井の方へと歩み寄った。
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