9 / 23
悪夢【前編】
しおりを挟む
「上塚岡神社…ここね」
グレーのスーツに身を包んだ女性が鳥居をくぐった。立ち居姿は凛としており、歩く姿にも力強さを感じさせる。
彼女は本堂には向かわず、まっすぐ社務所に行った。
「こんにちは」
そして窓口の巫女装束の女性に声をかける。
「いらっしゃいませ。御用向きは何でございましょうか」
「いえ、松種さんを訪ねるように言われて来たのですが」
「承りました。少々お待ちください」
巫女装束の女性は席を立ち、他の者に窓口を任せて、奥へと向かった。そして作務衣姿の男性…将矢を引き連れて戻ってきた。
巫女装束の女性は再び窓口に座り、対応は将矢が引き継いだ。
「松種です。どうぞこちらへ」
将矢は女性を引き連れて賽銭箱の前を通り、本堂の側面にある、目立たない扉を開けた。本堂はさほど大きいものではないので、正面から入っても、その側面の扉から入っても行く場所としては同じなのであるが、「その時」の場合は必ずこの入り口が用いられることになっている。
お堂のほぼ中央には座布団が二つ並べてあり、将矢は彼女を入り口側の方に座るように促した。
そして脇に抱えていたファイルを開く。
「三葉様でいらっしゃいますね」
「違います」
「え?」
将矢は慌ててファイルを見直す。
「と、言ったらどうなさるつもりなのでしょうか? 確認は窓口の所で行なうべきですわね。三葉で間違いありません」
将矢は渋い顔をしてファイルを閉じた。それでも気を取り直して、挨拶をしてから奥へ下がった。
この始終を、しっかり九尾比丘尼は見ていた。
「ほほう、気の強そうな御仁じゃな。じゃが筋は通っておる。嫌いではないぞ、その気性。少々小芝居でもして試そうかと思っておったが、その必要はなさそうじゃな。将矢、一本取られたというところかの」
「ここに来る必要あるんですかね。まあ、どんな人にも悩みはあるでしょうし、他人からは理解できるものではないとは、わかってはいるんですけどね」
将矢は九尾比丘尼にファイルを渡して、お茶の準備に取り掛かった。
「どれどれ…。三葉沙津貴。三十七歳。ほう、若く見えるのう。二十代とか言っても通用するかもしれんな。動きもキビキビして若々しいこともあるしな」
将矢がお茶を出しに行った。一口飲んだ沙津貴は笑顔になり、「おいしいお茶ですね」と素直に褒めていた。将矢はちょっと面食らった感じになっていたが、「ありがとうございます」と礼を返して退出した。
そして程なく九尾比丘尼が出ていった。
「わしが九尾比丘尼じゃ」
さすがに九尾比丘尼の姿を見て、沙津貴も驚きを隠せなかった。
「失礼ですが、本当に…」
「うむ。姿はかりそめのものじゃ。気にするでない。それでは聞かせてもらおうかの」
それまで快活そうにしていた沙津貴の表情が曇った。それでも、さほど間を空けずに沙津貴は話を始めた。
「父が失踪して、もう…16いえ17年になります」
うつむき加減に沙津貴は淡々と話をしていた。
「厳しい人でしたが、決して理不尽な事はしませんでした。体罰を受けたこともあります…。でも、それは間違いなく、私に非があったためでした。そのこともきちんと説明してくれました。そして、私が非を認め謝ると、やさしく笑いかけて頭をなでてくれる。それ以上は追及はしない。そんな人でした」
彼女の目が涙で潤む。
「あの日、何があったのかが知りたいのです。失踪した日、父は普通に会社へと向かったはずでした。しかし、父はそのまま消息を絶ちました。私が知ったのは父が勤めている会社から電話があり、父が出勤していないことを告げられたからです」
九尾比丘尼は彼女の話を聞き終え、いつもの説明を行なう。
「過去を見ることによって、不都合な事実が浮き彫りになる事もある。お主の父後はお主の知らぬところで、お主の知り得ぬことをしていたかもしれぬ。それは知らぬ方が良かったと思う事かもしれぬ。実際にそのような事も以前にあったのじゃ」
「万一、そうなっても構いません。私は父を信じています。父の心まで見通されるという事でないのであれば、言葉は悪いかもしれませんが、わたしは父を信じる、その思いに沿って解釈します。現実から目をそらしている、逃避であると思われるかもしれませんが」
九尾比丘尼は、まだ言葉を続けようとした沙津貴を制した。
「わしが言えるのは、事実のみじゃ。わしはそれには何も加えず隠さず伝える。それで良いか」
「はい。よろしくお願いします」
「行方不明になっているとのことであるが、万が一、犯罪に関わる事が出てきたら如何にするつもりじゃ」
「それでも父を信じる方向に変わりはありません。たとえ父が主犯だということであってもです。そうであっても必ず理由がある。納得できる理由があると信じます」
「わかった。わしらはそれに関しては何も働きかける事はしない。直接わしらに関わってくるならば別じゃが、警察なり官庁なりに知らせることはせん。知らせたいのであれば、お主が行なうが良い。それも全て任せる」
「ありがとうございます」
九尾比丘尼は立ち上がって、沙津貴の頭に手を置いた。
沙津貴は目を閉じる。九尾比丘尼も目を閉じ沙津貴の意識に集中する。
すぐに脳裏に沙津貴の姿が浮かぶ。意識をその背後に向けると沙津貴の姿が変わった。
元々若く見える沙津貴であるが、二十歳前後というところであろうか。
(少し遡りすぎたか…)
調整を加えようとしたその時であった。九尾比丘尼は妙な感覚に囚われる。沙津貴の姿が微妙にぶれる。二つの姿が重なりまた戻る。もうひとつ現れた方の姿に集中しようとすると逆に見えなくなる。まるで、見られることから隠そうとしているかのようである。
「むっ」
不意に手に痛みを感じた。何事が起きたのかと思い、痛みを感じた手を見たが、傷はおろか腫れてもいない。何も起こった様子はなかった。
脳裏にある沙津貴の姿がまた変わっていた。ぶれて見えていた方、集中した時に見えなくなっていた姿が前面に出てきていた。
服がはだけて血まみれであった。だが、その姿に集中しようとすると、また見えにくくなる。
(なにが…)
考える間もなく、痛みが次々と九尾比丘尼を襲った。激しい痛みではなかったが、人が…沙津貴が受けていたとしたら感覚的にはこのようなものではないだろう。
(理不尽ではない体罰は受けていたと言ったが、それにしては多すぎるのではないか。それだけではない。この年齢になってまでというのも、おかしい)
今見ている間隔は、沙津貴が父親が失踪したと言っていたあたりと思しきところから、前後半年間くらい。まだ続いている痛みは明らかに沙津貴の話とは矛盾する内容であった。
(止むを得ん!)
九尾比丘尼は意を決して、一気に沙津貴の意識深くに跳び込んだ。先に見えていた沙津貴の姿が消え、血まみれの姿のみの沙津貴が残る。そして真実の全容が見え始めた。
三葉才一郎は小心者の見栄っ張りであった。体は大きく、力もあるが、自分の器の小ささ、言動や行動の矛盾を隠すために、その外見を利用して威圧をしたり、時には暴力を用いたりする男であった。
会社において、部下を指導する立場となったときも、上手く行っている時は、力強く引っ張っていく印象を持たれていた。だが、一度歯車が狂うと、言動の矛盾が露呈し、それを隠すための嘘、そして暴言によるごまかしに変わり、最後には暴力に繋がった。
その暴力を社内調査室に報告されると、才一郎は何もできなくなった。元より非は才一郎にあり、会社組織という自分より上位にあるものに対抗しようとする意気も、彼は持ち合わせていなかったのだ。
暴力の程度は大したものではなく、怪我を負うまでの者はいなかったことから、処分は厳重注意止まりであったが、もはや仕事の上で彼を信頼する者はおらず、上司からも重要な案件を任されることはなくなり、事実上閑職にまわされた状態であった。
そうなると、自分の鬱憤を晴らす暴力の矛先は、家族に集中した。
以前から暴力と言えるものがなかったわけではない。殴る蹴るといった物理的暴力こそなかったが、怒鳴る事は日常茶飯事で、常に威圧的な行動を取っていた。
家族は自分と妻と娘が一人だけ。才一郎は体格が大きく、見た目は頼もしい。だが、気性は前述の如くであり、自分から見て弱い立場である家族には、常に強者であることを誇示していた。妻の侑香は小柄で気性も強くはなく、才一郎に強く出られると反対意見は持っていたとしても収めてしまっていた。
それでも妊娠中から沙津貴が生まれて二年くらいは、まだ何でもなかったのだが、例の会社での一件を皮切りに、暴力が始まった。
小さな子供であれば普通に行うであろう粗相に、会社でのことから不満を募らせていた才一郎は大声で威圧的に怒鳴った。泣き出した沙津貴を持て余した才一郎は、何が泣き止ませるのに効果的であるかも、何が教育的であるかも考えることなく、沙津貴に手を上げようとした。
その様子を見た侑香は沙津貴を庇った。そして才一郎の手は侑香を殴る結果となった。自分の考えていた事と異なる状況に一瞬はたじろいだ才一郎であったが、相手が侑香であることから、何も言うこともなく、その場を離れて風呂に入った。状況からすれば、才一郎は逃げたのであるが、才一郎自身はそのようなことを考えることもなく、また指摘する者も当然いなかったので、物事の解決に暴力を用いることが自分にとって容易である方法となってしまったのだった。
会社では、上司にも部下にも相手にされなくなった才一郎の暴力は、激しさを増した。
沙津貴は中学校に上がるくらいには、背も伸び、才一郎とそれほど変わらないくらいにはなっていたが、その頃まだ細身であった沙津貴は体力的には才一郎にかなうものではなかった。
家出することも何度考えたかわからないが、侑香が家を出るまでの意気地がなく、母親を一人置いて出て行くことはできなかった。
だが高校に入学すると沙津貴は変わった。陸上部に入った沙津貴はその活動が余程合っていたのであろう。精神的にも安定し、バランス良く肉もつき、非常に快活な生徒として校内でも人気があった。男女問わず友人も多く、元々長身であったこともあり、良い意味で非常に目立つ生徒であった。無論、精神的な安定は学業の成績も向上させる結果をもたらしていた。
そうした一方で、若く健康的に体力を付けてきた沙津貴を見て、才一郎は一種の恐れを抱いていた。沙津貴が小中学生の時のような弱々しい子供ではなくなり、自分も中年に差しかかり、体力の衰えを感じ始めていたため、いつ逆転されることもあるかもしれないと思い始めていたのだった。だが、沙津貴を見る目はそれだけではなく、中学時代の貧相ともいえる体つきから、バランスのとれたプロポーションとなった肉体に、娘としてではなく女性としての感覚、すなわち欲情もおぼえていたのだった。
いつ反撃されるかもしれないという恐れゆえに、暴力の方向は侑香に大きく傾くことになった。だが当然、沙津貴は侑香を庇う。沙津貴は反撃まではしなかったが、毅然として才一郎を睨みつけた。そうやって、真っ直ぐに見返されるとたじろがずにはいられなかった。元来の気性である小心者である事は何も変わっていなかったのだ。
そして沙津貴が高校を卒業し、会社勤めを始めた年の秋のことであった。
才一郎は酔って帰ってきた。この頃は毎日のように酒を飲んで帰ってきては、侑香に暴力を振るうようになっていた。顔にもアザを作ることもあり、ここ数日は外出もできず、買い物は沙津貴が行なっていた。その状況のためであろう、侑香は不眠症となって通院するようになっていた。
侑香は二階の沙津貴の部屋にいた。
数日前から準備していた事だったが、とうとう侑香は才一郎との離婚を切り出そうとしていたのだった。だが、酔っ払っている状態で話をしても、逆上するだけかもしれないし、小心者の常として、翌朝に酔っていた事を言い訳に反故にされる事も考えられる。たとえ自分に非があるとわかっていても、妻から離婚を切り出されることに激怒することは容易に想像できた。
話を切り出すことは侑香では難しいと思い、最初に沙津貴が話す段取りを付けていた。
何日も延期にしたこともあり、焦りがあったのであろう。また、才一郎の酔いがここ数日の中では浅かったこと、ご機嫌とりではないが、今日の買い物でたまたま才一郎の好物でもある果物を買ってきていたことなどから、強行したことが結果としては裏目となった。
リビングのテーブルを挟んで話を始めた沙津貴であったが、才一郎は話の核心になると、もう聞こうとせずに椅子から立ち上がる。それでも話を続けようとして才一郎に詰め寄る沙津貴であったが、襟首を掴まれ引き倒されてしまう。それでも尚も喰い下がる沙津貴に苛立つ才一郎が沙津貴を押し返そうとしたとき、腕時計のベルトが襟のボタンに引っかかり、そのまま押し返したため、沙津貴はよろけてテーブルでは支えきれずに、テーブルを引き倒して自分も倒れてしまう。また、ブラウスのボタンが何個か飛んで、沙津貴の胸元が露わになってしまった。
思わず沙津貴は胸元を隠した。
ところが、その羞恥心を現した行動と無防備となった体勢が才一郎の理性を奪ってしまう。強気に出た行動と酔いも手伝っていたのだろう。小心者の才一郎では普段はそのような行動に出るなどとは考えられなかった。
床に倒れた沙津貴を組み伏せて、抵抗する沙津貴をものともせ ず、ブラウスがはだけられる。中年に差し掛かっていたとはいえ、まだ四十代である。そうそう腕力は衰えてはいなかった。
沙津貴の両腕がブラウスを戻そうとした隙に、スカートがめくり上げられ、その手が下着にかけられたとき、沙津貴は悲鳴をあげながら無我夢中で床を探って手にしたものを才一郎に叩きつけていた。
(続)
グレーのスーツに身を包んだ女性が鳥居をくぐった。立ち居姿は凛としており、歩く姿にも力強さを感じさせる。
彼女は本堂には向かわず、まっすぐ社務所に行った。
「こんにちは」
そして窓口の巫女装束の女性に声をかける。
「いらっしゃいませ。御用向きは何でございましょうか」
「いえ、松種さんを訪ねるように言われて来たのですが」
「承りました。少々お待ちください」
巫女装束の女性は席を立ち、他の者に窓口を任せて、奥へと向かった。そして作務衣姿の男性…将矢を引き連れて戻ってきた。
巫女装束の女性は再び窓口に座り、対応は将矢が引き継いだ。
「松種です。どうぞこちらへ」
将矢は女性を引き連れて賽銭箱の前を通り、本堂の側面にある、目立たない扉を開けた。本堂はさほど大きいものではないので、正面から入っても、その側面の扉から入っても行く場所としては同じなのであるが、「その時」の場合は必ずこの入り口が用いられることになっている。
お堂のほぼ中央には座布団が二つ並べてあり、将矢は彼女を入り口側の方に座るように促した。
そして脇に抱えていたファイルを開く。
「三葉様でいらっしゃいますね」
「違います」
「え?」
将矢は慌ててファイルを見直す。
「と、言ったらどうなさるつもりなのでしょうか? 確認は窓口の所で行なうべきですわね。三葉で間違いありません」
将矢は渋い顔をしてファイルを閉じた。それでも気を取り直して、挨拶をしてから奥へ下がった。
この始終を、しっかり九尾比丘尼は見ていた。
「ほほう、気の強そうな御仁じゃな。じゃが筋は通っておる。嫌いではないぞ、その気性。少々小芝居でもして試そうかと思っておったが、その必要はなさそうじゃな。将矢、一本取られたというところかの」
「ここに来る必要あるんですかね。まあ、どんな人にも悩みはあるでしょうし、他人からは理解できるものではないとは、わかってはいるんですけどね」
将矢は九尾比丘尼にファイルを渡して、お茶の準備に取り掛かった。
「どれどれ…。三葉沙津貴。三十七歳。ほう、若く見えるのう。二十代とか言っても通用するかもしれんな。動きもキビキビして若々しいこともあるしな」
将矢がお茶を出しに行った。一口飲んだ沙津貴は笑顔になり、「おいしいお茶ですね」と素直に褒めていた。将矢はちょっと面食らった感じになっていたが、「ありがとうございます」と礼を返して退出した。
そして程なく九尾比丘尼が出ていった。
「わしが九尾比丘尼じゃ」
さすがに九尾比丘尼の姿を見て、沙津貴も驚きを隠せなかった。
「失礼ですが、本当に…」
「うむ。姿はかりそめのものじゃ。気にするでない。それでは聞かせてもらおうかの」
それまで快活そうにしていた沙津貴の表情が曇った。それでも、さほど間を空けずに沙津貴は話を始めた。
「父が失踪して、もう…16いえ17年になります」
うつむき加減に沙津貴は淡々と話をしていた。
「厳しい人でしたが、決して理不尽な事はしませんでした。体罰を受けたこともあります…。でも、それは間違いなく、私に非があったためでした。そのこともきちんと説明してくれました。そして、私が非を認め謝ると、やさしく笑いかけて頭をなでてくれる。それ以上は追及はしない。そんな人でした」
彼女の目が涙で潤む。
「あの日、何があったのかが知りたいのです。失踪した日、父は普通に会社へと向かったはずでした。しかし、父はそのまま消息を絶ちました。私が知ったのは父が勤めている会社から電話があり、父が出勤していないことを告げられたからです」
九尾比丘尼は彼女の話を聞き終え、いつもの説明を行なう。
「過去を見ることによって、不都合な事実が浮き彫りになる事もある。お主の父後はお主の知らぬところで、お主の知り得ぬことをしていたかもしれぬ。それは知らぬ方が良かったと思う事かもしれぬ。実際にそのような事も以前にあったのじゃ」
「万一、そうなっても構いません。私は父を信じています。父の心まで見通されるという事でないのであれば、言葉は悪いかもしれませんが、わたしは父を信じる、その思いに沿って解釈します。現実から目をそらしている、逃避であると思われるかもしれませんが」
九尾比丘尼は、まだ言葉を続けようとした沙津貴を制した。
「わしが言えるのは、事実のみじゃ。わしはそれには何も加えず隠さず伝える。それで良いか」
「はい。よろしくお願いします」
「行方不明になっているとのことであるが、万が一、犯罪に関わる事が出てきたら如何にするつもりじゃ」
「それでも父を信じる方向に変わりはありません。たとえ父が主犯だということであってもです。そうであっても必ず理由がある。納得できる理由があると信じます」
「わかった。わしらはそれに関しては何も働きかける事はしない。直接わしらに関わってくるならば別じゃが、警察なり官庁なりに知らせることはせん。知らせたいのであれば、お主が行なうが良い。それも全て任せる」
「ありがとうございます」
九尾比丘尼は立ち上がって、沙津貴の頭に手を置いた。
沙津貴は目を閉じる。九尾比丘尼も目を閉じ沙津貴の意識に集中する。
すぐに脳裏に沙津貴の姿が浮かぶ。意識をその背後に向けると沙津貴の姿が変わった。
元々若く見える沙津貴であるが、二十歳前後というところであろうか。
(少し遡りすぎたか…)
調整を加えようとしたその時であった。九尾比丘尼は妙な感覚に囚われる。沙津貴の姿が微妙にぶれる。二つの姿が重なりまた戻る。もうひとつ現れた方の姿に集中しようとすると逆に見えなくなる。まるで、見られることから隠そうとしているかのようである。
「むっ」
不意に手に痛みを感じた。何事が起きたのかと思い、痛みを感じた手を見たが、傷はおろか腫れてもいない。何も起こった様子はなかった。
脳裏にある沙津貴の姿がまた変わっていた。ぶれて見えていた方、集中した時に見えなくなっていた姿が前面に出てきていた。
服がはだけて血まみれであった。だが、その姿に集中しようとすると、また見えにくくなる。
(なにが…)
考える間もなく、痛みが次々と九尾比丘尼を襲った。激しい痛みではなかったが、人が…沙津貴が受けていたとしたら感覚的にはこのようなものではないだろう。
(理不尽ではない体罰は受けていたと言ったが、それにしては多すぎるのではないか。それだけではない。この年齢になってまでというのも、おかしい)
今見ている間隔は、沙津貴が父親が失踪したと言っていたあたりと思しきところから、前後半年間くらい。まだ続いている痛みは明らかに沙津貴の話とは矛盾する内容であった。
(止むを得ん!)
九尾比丘尼は意を決して、一気に沙津貴の意識深くに跳び込んだ。先に見えていた沙津貴の姿が消え、血まみれの姿のみの沙津貴が残る。そして真実の全容が見え始めた。
三葉才一郎は小心者の見栄っ張りであった。体は大きく、力もあるが、自分の器の小ささ、言動や行動の矛盾を隠すために、その外見を利用して威圧をしたり、時には暴力を用いたりする男であった。
会社において、部下を指導する立場となったときも、上手く行っている時は、力強く引っ張っていく印象を持たれていた。だが、一度歯車が狂うと、言動の矛盾が露呈し、それを隠すための嘘、そして暴言によるごまかしに変わり、最後には暴力に繋がった。
その暴力を社内調査室に報告されると、才一郎は何もできなくなった。元より非は才一郎にあり、会社組織という自分より上位にあるものに対抗しようとする意気も、彼は持ち合わせていなかったのだ。
暴力の程度は大したものではなく、怪我を負うまでの者はいなかったことから、処分は厳重注意止まりであったが、もはや仕事の上で彼を信頼する者はおらず、上司からも重要な案件を任されることはなくなり、事実上閑職にまわされた状態であった。
そうなると、自分の鬱憤を晴らす暴力の矛先は、家族に集中した。
以前から暴力と言えるものがなかったわけではない。殴る蹴るといった物理的暴力こそなかったが、怒鳴る事は日常茶飯事で、常に威圧的な行動を取っていた。
家族は自分と妻と娘が一人だけ。才一郎は体格が大きく、見た目は頼もしい。だが、気性は前述の如くであり、自分から見て弱い立場である家族には、常に強者であることを誇示していた。妻の侑香は小柄で気性も強くはなく、才一郎に強く出られると反対意見は持っていたとしても収めてしまっていた。
それでも妊娠中から沙津貴が生まれて二年くらいは、まだ何でもなかったのだが、例の会社での一件を皮切りに、暴力が始まった。
小さな子供であれば普通に行うであろう粗相に、会社でのことから不満を募らせていた才一郎は大声で威圧的に怒鳴った。泣き出した沙津貴を持て余した才一郎は、何が泣き止ませるのに効果的であるかも、何が教育的であるかも考えることなく、沙津貴に手を上げようとした。
その様子を見た侑香は沙津貴を庇った。そして才一郎の手は侑香を殴る結果となった。自分の考えていた事と異なる状況に一瞬はたじろいだ才一郎であったが、相手が侑香であることから、何も言うこともなく、その場を離れて風呂に入った。状況からすれば、才一郎は逃げたのであるが、才一郎自身はそのようなことを考えることもなく、また指摘する者も当然いなかったので、物事の解決に暴力を用いることが自分にとって容易である方法となってしまったのだった。
会社では、上司にも部下にも相手にされなくなった才一郎の暴力は、激しさを増した。
沙津貴は中学校に上がるくらいには、背も伸び、才一郎とそれほど変わらないくらいにはなっていたが、その頃まだ細身であった沙津貴は体力的には才一郎にかなうものではなかった。
家出することも何度考えたかわからないが、侑香が家を出るまでの意気地がなく、母親を一人置いて出て行くことはできなかった。
だが高校に入学すると沙津貴は変わった。陸上部に入った沙津貴はその活動が余程合っていたのであろう。精神的にも安定し、バランス良く肉もつき、非常に快活な生徒として校内でも人気があった。男女問わず友人も多く、元々長身であったこともあり、良い意味で非常に目立つ生徒であった。無論、精神的な安定は学業の成績も向上させる結果をもたらしていた。
そうした一方で、若く健康的に体力を付けてきた沙津貴を見て、才一郎は一種の恐れを抱いていた。沙津貴が小中学生の時のような弱々しい子供ではなくなり、自分も中年に差しかかり、体力の衰えを感じ始めていたため、いつ逆転されることもあるかもしれないと思い始めていたのだった。だが、沙津貴を見る目はそれだけではなく、中学時代の貧相ともいえる体つきから、バランスのとれたプロポーションとなった肉体に、娘としてではなく女性としての感覚、すなわち欲情もおぼえていたのだった。
いつ反撃されるかもしれないという恐れゆえに、暴力の方向は侑香に大きく傾くことになった。だが当然、沙津貴は侑香を庇う。沙津貴は反撃まではしなかったが、毅然として才一郎を睨みつけた。そうやって、真っ直ぐに見返されるとたじろがずにはいられなかった。元来の気性である小心者である事は何も変わっていなかったのだ。
そして沙津貴が高校を卒業し、会社勤めを始めた年の秋のことであった。
才一郎は酔って帰ってきた。この頃は毎日のように酒を飲んで帰ってきては、侑香に暴力を振るうようになっていた。顔にもアザを作ることもあり、ここ数日は外出もできず、買い物は沙津貴が行なっていた。その状況のためであろう、侑香は不眠症となって通院するようになっていた。
侑香は二階の沙津貴の部屋にいた。
数日前から準備していた事だったが、とうとう侑香は才一郎との離婚を切り出そうとしていたのだった。だが、酔っ払っている状態で話をしても、逆上するだけかもしれないし、小心者の常として、翌朝に酔っていた事を言い訳に反故にされる事も考えられる。たとえ自分に非があるとわかっていても、妻から離婚を切り出されることに激怒することは容易に想像できた。
話を切り出すことは侑香では難しいと思い、最初に沙津貴が話す段取りを付けていた。
何日も延期にしたこともあり、焦りがあったのであろう。また、才一郎の酔いがここ数日の中では浅かったこと、ご機嫌とりではないが、今日の買い物でたまたま才一郎の好物でもある果物を買ってきていたことなどから、強行したことが結果としては裏目となった。
リビングのテーブルを挟んで話を始めた沙津貴であったが、才一郎は話の核心になると、もう聞こうとせずに椅子から立ち上がる。それでも話を続けようとして才一郎に詰め寄る沙津貴であったが、襟首を掴まれ引き倒されてしまう。それでも尚も喰い下がる沙津貴に苛立つ才一郎が沙津貴を押し返そうとしたとき、腕時計のベルトが襟のボタンに引っかかり、そのまま押し返したため、沙津貴はよろけてテーブルでは支えきれずに、テーブルを引き倒して自分も倒れてしまう。また、ブラウスのボタンが何個か飛んで、沙津貴の胸元が露わになってしまった。
思わず沙津貴は胸元を隠した。
ところが、その羞恥心を現した行動と無防備となった体勢が才一郎の理性を奪ってしまう。強気に出た行動と酔いも手伝っていたのだろう。小心者の才一郎では普段はそのような行動に出るなどとは考えられなかった。
床に倒れた沙津貴を組み伏せて、抵抗する沙津貴をものともせ ず、ブラウスがはだけられる。中年に差し掛かっていたとはいえ、まだ四十代である。そうそう腕力は衰えてはいなかった。
沙津貴の両腕がブラウスを戻そうとした隙に、スカートがめくり上げられ、その手が下着にかけられたとき、沙津貴は悲鳴をあげながら無我夢中で床を探って手にしたものを才一郎に叩きつけていた。
(続)
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ある辺境伯の後悔
だましだまし
恋愛
妻セディナを愛する辺境伯ルブラン・レイナーラ。
父親似だが目元が妻によく似た長女と
目元は自分譲りだが母親似の長男。
愛する妻と妻の容姿を受け継いだ可愛い子供たちに囲まれ彼は誰よりも幸せだと思っていた。
愛しい妻が次女を産んで亡くなるまでは…。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる