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悪夢【後編】
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不意に才一郎の手の力が失われ、才一郎は後ろに倒れた。
才一郎が倒れようとした瞬間、沙津貴の目の前が真っ赤に染まった。
沙津貴が才一郎に叩きつけていたもの、それは果物の皮を剥くために用意されていたペティナイフであった。昔から使っていた古いもので、先端が鋭く尖っていたため、胸元に深々と突き刺さったのであった
沙津貴は呆然として倒れた才一郎を見つめていた。ナイフは才一郎の心臓を直撃しており、即死であった。
激しい物音がしてから、急に静かになったので、侑香が様子を見に二階から降りてきた。そしてブラウスがはだけたままで血まみれになって呆然と座っている沙津貴を目にした。
侑香にはその状況すべてを正確に把握するまではできなかったが、沙津貴が才一郎を殺してしまったことはわかった。また、沙津貴が呆然としているのは不慮の事故であるため、ということまではわかった。
侑香は沙津貴に声をかけ、頬を軽く叩いてはみたが、しっかりとした反応は返ってこなかった。単に父親を刺してしまったというだけの事ではないと察した侑香は、徹底して沙津貴を庇う事に意を決した。
沙津貴の体を洗ってやり、睡眠薬入りの飲み物を飲ませて、部屋に寝かせた。沙津貴は完全に意識の外にあったのではないようで、侑香に支えられながらであったが、言われる通りに歩き、部屋のベッドで横になると、すぐに眠りについた。
そしてその先の侑香の行動は凄まじい、鬼気迫ると言えるほどのバイタリティに満ちたものであった。
才一郎の死体は毛布にくるんで車に積み込み、人気の無い山中に棄てた。よくもそれだけの力が出たものである。沙津貴を守るためということ、そして才一郎との生活に終止符が打たれたということで、興奮状態にあったとしてもである。
現場となったリビングは徹底的に掃除をし、血まみれになっていた沙津貴の服も処分をした。そしてそれらのことを全て終えたときには、外は白みかかっていた。
沙津貴が目を覚ましたとき、自分の部屋で寝ていたという事自体がよくわからなかった。いつ部屋に行ったのかも覚えていない。それどころか、昨日の夜のことが全く思い出せなかったのだった。
あちこち体が痛む。特に頭が痛い。昨日の夜に何かあったのは間違いないのだろうが、それでどうして自分が部屋で寝ている事態になっているのか理解できなかった。
部屋を出て一階のリビングに行くと、台所で侑香が食事の支度をしているのが見えた。
「お母さん…」
「沙津貴、起きて大丈夫なの」
「何があったの…? おかしいのよ。あたし、昨日の夜のことを何も覚えてないの。買い物から帰ってきて…。ああ、だめ。頭が痛くて…」
沙津貴はよろめいてテーブルに手をついた。 侑香は心配そうに沙津貴に駆け寄る。だが、その時、沙津貴は自分が手をついたテーブルに何か感じるものがあった。
「沙津貴、無理しないでまだ寝ていなさい」
「テーブルがひっくり返って…あれ? なんでそんな事思ったのかしら? ええと…お父さんは…?」
「もう会社に行ったわ。早出だって言って不機嫌そうにしてたわ」
無論、それは嘘である。だが、侑香はすらすらと支えることなく答えていた。
「あたしのこと何か言ってた?」
「ううん。何も」
「そう…」
「沙津貴、今日は会社を休みなさい。本当に顔色がひどいわよ。なんだったら、お母さんが連絡しておいてあげるから」
「大丈夫…。ううん、会社はお母さんの言う通り、行けそうにないけど、連絡くらいは自分でするから」
沙津貴の症状の原因は、侑香が昨晩飲ませた睡眠薬であった。分量が適切ではなかったため、副作用による症状が出ていたのだった。
だが、これらの事すべてが、侑香に対しては有利な状況を作り出してしまっていたのだった。
才一郎の遺体は山中に遺棄してきた。穴を掘って埋めたりしたのではなく、何も考えずにただ投棄しただけである。だが逆にそのために野生動物に食い荒らされてしまい、発見自体も遅かったのだが、目視だけでは人間であることもよくわからず、残留物では性別すら簡単に判別することができない有様だったのである。
沙津貴に睡眠薬を飲ませたのも、早く眠らせ、休ませてやりたいと思って使用しただけだったのだが、そもそもが自分の不眠症のために処方されていた睡眠薬であり、自分より体が大きい沙津貴への適正量もわからない。用法も量も誤って使用した結果、その副作用によって沙津貴の記憶を混乱させてしまった。そのため、その後の侑香の行動や言動に矛盾があっても沙津貴は指摘できなかったのである。
会社に休む旨の連絡を入れて、沙津貴は部屋に戻ってベッドに入った。そして昼近くになって、水を飲みに一階に降りたところに電話がかかってきた。侑香は病院に行っており、家には沙津貴だけだった。
電話を取ると、才一郎の会社からであった。才一郎が出社していないという事だった。記憶の混乱があった沙津貴は、それをそのまま受け取る以外になかった。
侑香は病院にいるはずであるから、携帯に掛けるのは憚られたので、帰宅を待った。そして、帰宅した侑香にその事を告げると、沙津貴には非常に驚いた様子を見せていた。
実際、才一郎は過去に無断欠勤をしたことはない。いや、欠勤そのものがほとんどなかった。生活習慣を正しくしていたのではなく、これも評価を気にしていたことが主要因で、二日酔いや風邪気味であっても強行的に出社していただけだったのだが。
そして、当日才一郎が帰宅する訳もなく、二人は短い時間であったが相談し、失踪届を出した。
沙津貴の目から見た状況は、出勤に使用していたカバンがそのままの状態で家に置いてあり、財布の中の現金もそのままで、キャッシュカードもクレジットカードも持ち出されていなかった。いつも財布の中に現金がどのくらいあったかは知らなかったが、現時点でもかなりの額が残っており、現金だけ持ち出したとは考え難かった。
警察への状況説明は沙津貴がその事を話し、侑香が同意するという形で行われていた。
だが、警察に対する説明には、普段の家庭内の状況、才一郎の家庭内暴力も隠さずに説明している。
会社内の評価も前述の通りであり、会社側としては表明はしていないが、このまま退社扱いとなれば都合良いという考えであった。捜査の協力についても形式上であり、必要であればという前置き付きで、警察への協力は積極的には行なわれなかった。
だが、そのわずか三ヶ月後に侑香が亡くなった。自殺であった。
才一郎は実際には死んでおり、暴力が終焉を迎えた事はわかっていた侑香だったはずだが、そこに至る経緯として、才一郎の遺体を遺棄したことや、沙津貴を守るという名目であってもだまし続けている事に段々と耐えられなくなっていたのだった。
元々、精神的に弱い面を持っており、日を追うごとに神経質になり、物音、特に電話の音には恐怖すら感じるようになっていた。
そして最後は全てを書き記した書類を弁護士に送付した上で、首を吊ったのであった。
そして、それを発見したのは沙津貴である。
これで侑香の書類が弁護士を通じてでも沙津貴に届けられれば、大きなショックを受けたであろうが、才一郎の失踪に関する真実も、侑香の自殺の原因も知ることができたはずだった。
だが、侑香は書類を出すにあたり迂闊にも書留を用いず通常の郵便で送ったために、郵便事故で失われてしまうこととなる。もしかしたら、沙津貴に知らせようという気持ちだけでなく、知られたくないという気持ちもあって、届く確率が高くなる方法を無意識に避けていたのかもしれない。
その事についての事実はもう知ることはできないが、これによって、沙津貴は両親の死に関して真実を知る手掛かりを失ってしまった。いや、沙津貴にとっては、才一郎は失踪したのである。死んでいること、自分が殺害してしまったことは記憶から外れてしまっている。
不可解な事ばかりに見舞われた沙津貴は精神的に不安定になった。
会社でも今までは細かいこと、小さなことの対処はまとめて自分で処理していた。いい意味で大雑把で効率的に動いていたのだが、それが細かいことにも癇癪を起こすようになり、尊大な態度を取るようになった。沙津貴は知ることではなかったが、かつての才一郎の振る舞いに近くなっていたのだった。
だが、沙津貴と才一郎の違いは友人関係にあった。
ある友人が親身になり、普通であれば言いづらいことまで踏み込んだ、的確なアドバイスをしてくれたことから、それ以上の過激で不遜な行動に陥ることなく、自分自身を見直して、会社内での人間関係に関しては修復することができた。
だが、それの元になった事項は何一つ解決していない。その不可解さに対する不満は募り、他に解消する術を持たない沙津貴は結果として精神的に分裂を来すようになる。
現実にあったことは封印し、都合のいい内容で創り上げた、言わば虚偽の記憶によって生活をするようになった。
それが初めに沙津貴が九尾比丘尼に話をした内容である。
だが、それによって表向きには精神的な安定を取り戻した沙津貴は、三十歳の時に独立して会社を立ち上げて、そこそこに経営もうまく回っているという。
だが、全てにおいてうまくいっているわけではない。
父親の失踪について自分の自由な時間の殆どを使って調べ始めたのであった。無意識的には父親の死を知っているのかもしれず、原因が自分であることも知っているのかもしれなかった。だが、正常であると信じている自分自身の心理を、生活に何ら支障があるわけでもないのに、他者の目を持って調べることには、当たり前のことであるが考えに及ぶこともなかった。
もしも真実が得られた時、どのような事が自分に降りかかることになるのか想像もつかないままに。
そして九尾比丘尼のことを聞きつけ、今この席にいる。
不意に九尾比丘尼の手が沙津貴から離れた。これ以上は、九尾比丘尼も辛くなり見ることができなくなってしまったのだった。沙津貴の意識深くに触れていた九尾比丘尼は、沙津貴の苦しみも共有していたのであった。
沙津貴の体が揺らめき、横向きに倒れそうになったが、九尾比丘尼は沙津貴を抱きとめた。
「不憫な…」
安定を得るために存在しない父親像まで想像して、隠さねばならなかった状況にまで触れられた沙津貴は、ダメージとまでは言わないまでも強烈な精神的圧迫を受けていた。そのために意識を失なってしまったのだった。
将矢に布団を用意させて、とりあえずは沙津貴を寝かせた。
沙津貴が目を開いたとき、一瞬どこであるかわからず、混乱した。
「気がついたか」
「九尾比丘尼…様。何が…」
「すまぬ」
「え?」
「わしの力不足じゃ」
九尾比丘尼が沙津貴に話したのは、九尾比丘尼が実際に見たものとは全く異なる内容であった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
沙津貴の父、才一郎は、九尾比丘尼も今までに見たこともない妖に取り憑かれており、今なお状況すら把握することもできない。
母の侑香を自殺に引き込んだのも、その妖であった。
なぜ狙われたのかすら見ることもできない。
妖の手は沙津貴にも影響を与え始めていた。精神的に取り憑かれ始めていたために、排除を目論んだが、思う以上に妖の力が強く、なんとか排除には成功したが、既にもたらされていた影響によって沙津貴は意識を失なってしまった。
沙津貴を保護するためには、妖の逃走を防ぐ手立てはなかった。
手がかりを追う隙もなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「わしとて万能などではない。できぬ事はできぬし、世には知らぬことのほうが多い」
「今までにも…」
「守れなかった者もおる」
九尾比丘尼は下げているドングリの実を手に一瞬思いに入る。
「のう、すまぬが少しばかり時間を貰えぬだろうか」
「時間…ですか?」
「逃した妖を追う。あやつは放置しておけん。きゃつを捉えることができれば、わかることもあるだろう。それがお主の欲する答えになるかどうかはわからぬがな」
沙津貴は起き上がって、衣服を直してから返答した。
「よろしくお願いします。私には妖がどうであるということまではわかりません。少なくとも、この先は私に対処できることはないようです。どうか、何かわかることがあれば、少しでもお知らせください」
そして、改めて礼をしてから沙津貴は神社を退去した。
沙津貴が出ていくと、九尾比丘尼は少し間を置いて、一つため息をついた。
将矢が布団を片付けに出てくる。
「よかったんですか? あれで」
「迷ったがの。真実を告げる道もあったが、母親と同じ道とならぬ確信がなかったからのう。我ながら苦しい言い訳になってしもうたが…、いや逃げ口上とも言えるな。何も加えず隠さず伝えるなどと、とんだ大風呂敷よな。情けない」
「比丘尼様ご自身がおっしゃっておられたではないですか。自分は万能などではないと。とはいえ、この先どうされるのですか」
「いもしない妖を追いかけるわけにもゆくまいし、か。のう、いっそのことお主の首に縄を括り付けて、差し出すというのはどうじゃろな」
「どうじゃろなって、それを俺に聞きますか」
だが、有効な対処法を考えつく前に、この件は望まぬ形の終焉を迎えることとなる。
沙津貴が死んだためである。交通事故であった。
交差点で二台の車が衝突し、その内の一台がはずみで沙津貴の乗っていたタクシーの側面、沙津貴の座っていた所を直撃したのだった。救急車が病院に到着したときには既に心肺停止状態であったという。
事故が地方のニュースになった翌日。事故で死亡したのは沙津貴だけで、特別大きなニュースになってはいなかった。
九尾比丘尼は昼食の席で今回の件を将矢と話した。
「改めて思うが、世の中ままならぬものじゃのう」
「交通事故自体には不審な点はないですね」
「不審になる要素もあるまいに。もうそれはいいから。来月のお祭りの準備は進んでおるのか」
「ええ。昨日町内会に行ってきましたし、神社経由の寄付も出してきましたよ」
将矢はややも不満顔で、食器を片付けた。九尾比丘尼のドライな対応に不満であったのだ。
だが、根本的な問題は沙津貴自身にあったのであり、解決すべき相手も沙津貴自身であった。その沙津貴が亡くなってしまった以上は、九尾比丘尼とてどうしようもないのも確かなことである。
部屋に一人残った九尾比丘尼は、目を閉じてまた首に下げていたドングリを握って物思いに耽っていた。
「…」
何かをつぶやいたようではあったが、誰の耳にも届かぬほどの小さなものだった。
(了)
才一郎が倒れようとした瞬間、沙津貴の目の前が真っ赤に染まった。
沙津貴が才一郎に叩きつけていたもの、それは果物の皮を剥くために用意されていたペティナイフであった。昔から使っていた古いもので、先端が鋭く尖っていたため、胸元に深々と突き刺さったのであった
沙津貴は呆然として倒れた才一郎を見つめていた。ナイフは才一郎の心臓を直撃しており、即死であった。
激しい物音がしてから、急に静かになったので、侑香が様子を見に二階から降りてきた。そしてブラウスがはだけたままで血まみれになって呆然と座っている沙津貴を目にした。
侑香にはその状況すべてを正確に把握するまではできなかったが、沙津貴が才一郎を殺してしまったことはわかった。また、沙津貴が呆然としているのは不慮の事故であるため、ということまではわかった。
侑香は沙津貴に声をかけ、頬を軽く叩いてはみたが、しっかりとした反応は返ってこなかった。単に父親を刺してしまったというだけの事ではないと察した侑香は、徹底して沙津貴を庇う事に意を決した。
沙津貴の体を洗ってやり、睡眠薬入りの飲み物を飲ませて、部屋に寝かせた。沙津貴は完全に意識の外にあったのではないようで、侑香に支えられながらであったが、言われる通りに歩き、部屋のベッドで横になると、すぐに眠りについた。
そしてその先の侑香の行動は凄まじい、鬼気迫ると言えるほどのバイタリティに満ちたものであった。
才一郎の死体は毛布にくるんで車に積み込み、人気の無い山中に棄てた。よくもそれだけの力が出たものである。沙津貴を守るためということ、そして才一郎との生活に終止符が打たれたということで、興奮状態にあったとしてもである。
現場となったリビングは徹底的に掃除をし、血まみれになっていた沙津貴の服も処分をした。そしてそれらのことを全て終えたときには、外は白みかかっていた。
沙津貴が目を覚ましたとき、自分の部屋で寝ていたという事自体がよくわからなかった。いつ部屋に行ったのかも覚えていない。それどころか、昨日の夜のことが全く思い出せなかったのだった。
あちこち体が痛む。特に頭が痛い。昨日の夜に何かあったのは間違いないのだろうが、それでどうして自分が部屋で寝ている事態になっているのか理解できなかった。
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「お母さん…」
「沙津貴、起きて大丈夫なの」
「何があったの…? おかしいのよ。あたし、昨日の夜のことを何も覚えてないの。買い物から帰ってきて…。ああ、だめ。頭が痛くて…」
沙津貴はよろめいてテーブルに手をついた。 侑香は心配そうに沙津貴に駆け寄る。だが、その時、沙津貴は自分が手をついたテーブルに何か感じるものがあった。
「沙津貴、無理しないでまだ寝ていなさい」
「テーブルがひっくり返って…あれ? なんでそんな事思ったのかしら? ええと…お父さんは…?」
「もう会社に行ったわ。早出だって言って不機嫌そうにしてたわ」
無論、それは嘘である。だが、侑香はすらすらと支えることなく答えていた。
「あたしのこと何か言ってた?」
「ううん。何も」
「そう…」
「沙津貴、今日は会社を休みなさい。本当に顔色がひどいわよ。なんだったら、お母さんが連絡しておいてあげるから」
「大丈夫…。ううん、会社はお母さんの言う通り、行けそうにないけど、連絡くらいは自分でするから」
沙津貴の症状の原因は、侑香が昨晩飲ませた睡眠薬であった。分量が適切ではなかったため、副作用による症状が出ていたのだった。
だが、これらの事すべてが、侑香に対しては有利な状況を作り出してしまっていたのだった。
才一郎の遺体は山中に遺棄してきた。穴を掘って埋めたりしたのではなく、何も考えずにただ投棄しただけである。だが逆にそのために野生動物に食い荒らされてしまい、発見自体も遅かったのだが、目視だけでは人間であることもよくわからず、残留物では性別すら簡単に判別することができない有様だったのである。
沙津貴に睡眠薬を飲ませたのも、早く眠らせ、休ませてやりたいと思って使用しただけだったのだが、そもそもが自分の不眠症のために処方されていた睡眠薬であり、自分より体が大きい沙津貴への適正量もわからない。用法も量も誤って使用した結果、その副作用によって沙津貴の記憶を混乱させてしまった。そのため、その後の侑香の行動や言動に矛盾があっても沙津貴は指摘できなかったのである。
会社に休む旨の連絡を入れて、沙津貴は部屋に戻ってベッドに入った。そして昼近くになって、水を飲みに一階に降りたところに電話がかかってきた。侑香は病院に行っており、家には沙津貴だけだった。
電話を取ると、才一郎の会社からであった。才一郎が出社していないという事だった。記憶の混乱があった沙津貴は、それをそのまま受け取る以外になかった。
侑香は病院にいるはずであるから、携帯に掛けるのは憚られたので、帰宅を待った。そして、帰宅した侑香にその事を告げると、沙津貴には非常に驚いた様子を見せていた。
実際、才一郎は過去に無断欠勤をしたことはない。いや、欠勤そのものがほとんどなかった。生活習慣を正しくしていたのではなく、これも評価を気にしていたことが主要因で、二日酔いや風邪気味であっても強行的に出社していただけだったのだが。
そして、当日才一郎が帰宅する訳もなく、二人は短い時間であったが相談し、失踪届を出した。
沙津貴の目から見た状況は、出勤に使用していたカバンがそのままの状態で家に置いてあり、財布の中の現金もそのままで、キャッシュカードもクレジットカードも持ち出されていなかった。いつも財布の中に現金がどのくらいあったかは知らなかったが、現時点でもかなりの額が残っており、現金だけ持ち出したとは考え難かった。
警察への状況説明は沙津貴がその事を話し、侑香が同意するという形で行われていた。
だが、警察に対する説明には、普段の家庭内の状況、才一郎の家庭内暴力も隠さずに説明している。
会社内の評価も前述の通りであり、会社側としては表明はしていないが、このまま退社扱いとなれば都合良いという考えであった。捜査の協力についても形式上であり、必要であればという前置き付きで、警察への協力は積極的には行なわれなかった。
だが、そのわずか三ヶ月後に侑香が亡くなった。自殺であった。
才一郎は実際には死んでおり、暴力が終焉を迎えた事はわかっていた侑香だったはずだが、そこに至る経緯として、才一郎の遺体を遺棄したことや、沙津貴を守るという名目であってもだまし続けている事に段々と耐えられなくなっていたのだった。
元々、精神的に弱い面を持っており、日を追うごとに神経質になり、物音、特に電話の音には恐怖すら感じるようになっていた。
そして最後は全てを書き記した書類を弁護士に送付した上で、首を吊ったのであった。
そして、それを発見したのは沙津貴である。
これで侑香の書類が弁護士を通じてでも沙津貴に届けられれば、大きなショックを受けたであろうが、才一郎の失踪に関する真実も、侑香の自殺の原因も知ることができたはずだった。
だが、侑香は書類を出すにあたり迂闊にも書留を用いず通常の郵便で送ったために、郵便事故で失われてしまうこととなる。もしかしたら、沙津貴に知らせようという気持ちだけでなく、知られたくないという気持ちもあって、届く確率が高くなる方法を無意識に避けていたのかもしれない。
その事についての事実はもう知ることはできないが、これによって、沙津貴は両親の死に関して真実を知る手掛かりを失ってしまった。いや、沙津貴にとっては、才一郎は失踪したのである。死んでいること、自分が殺害してしまったことは記憶から外れてしまっている。
不可解な事ばかりに見舞われた沙津貴は精神的に不安定になった。
会社でも今までは細かいこと、小さなことの対処はまとめて自分で処理していた。いい意味で大雑把で効率的に動いていたのだが、それが細かいことにも癇癪を起こすようになり、尊大な態度を取るようになった。沙津貴は知ることではなかったが、かつての才一郎の振る舞いに近くなっていたのだった。
だが、沙津貴と才一郎の違いは友人関係にあった。
ある友人が親身になり、普通であれば言いづらいことまで踏み込んだ、的確なアドバイスをしてくれたことから、それ以上の過激で不遜な行動に陥ることなく、自分自身を見直して、会社内での人間関係に関しては修復することができた。
だが、それの元になった事項は何一つ解決していない。その不可解さに対する不満は募り、他に解消する術を持たない沙津貴は結果として精神的に分裂を来すようになる。
現実にあったことは封印し、都合のいい内容で創り上げた、言わば虚偽の記憶によって生活をするようになった。
それが初めに沙津貴が九尾比丘尼に話をした内容である。
だが、それによって表向きには精神的な安定を取り戻した沙津貴は、三十歳の時に独立して会社を立ち上げて、そこそこに経営もうまく回っているという。
だが、全てにおいてうまくいっているわけではない。
父親の失踪について自分の自由な時間の殆どを使って調べ始めたのであった。無意識的には父親の死を知っているのかもしれず、原因が自分であることも知っているのかもしれなかった。だが、正常であると信じている自分自身の心理を、生活に何ら支障があるわけでもないのに、他者の目を持って調べることには、当たり前のことであるが考えに及ぶこともなかった。
もしも真実が得られた時、どのような事が自分に降りかかることになるのか想像もつかないままに。
そして九尾比丘尼のことを聞きつけ、今この席にいる。
不意に九尾比丘尼の手が沙津貴から離れた。これ以上は、九尾比丘尼も辛くなり見ることができなくなってしまったのだった。沙津貴の意識深くに触れていた九尾比丘尼は、沙津貴の苦しみも共有していたのであった。
沙津貴の体が揺らめき、横向きに倒れそうになったが、九尾比丘尼は沙津貴を抱きとめた。
「不憫な…」
安定を得るために存在しない父親像まで想像して、隠さねばならなかった状況にまで触れられた沙津貴は、ダメージとまでは言わないまでも強烈な精神的圧迫を受けていた。そのために意識を失なってしまったのだった。
将矢に布団を用意させて、とりあえずは沙津貴を寝かせた。
沙津貴が目を開いたとき、一瞬どこであるかわからず、混乱した。
「気がついたか」
「九尾比丘尼…様。何が…」
「すまぬ」
「え?」
「わしの力不足じゃ」
九尾比丘尼が沙津貴に話したのは、九尾比丘尼が実際に見たものとは全く異なる内容であった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
沙津貴の父、才一郎は、九尾比丘尼も今までに見たこともない妖に取り憑かれており、今なお状況すら把握することもできない。
母の侑香を自殺に引き込んだのも、その妖であった。
なぜ狙われたのかすら見ることもできない。
妖の手は沙津貴にも影響を与え始めていた。精神的に取り憑かれ始めていたために、排除を目論んだが、思う以上に妖の力が強く、なんとか排除には成功したが、既にもたらされていた影響によって沙津貴は意識を失なってしまった。
沙津貴を保護するためには、妖の逃走を防ぐ手立てはなかった。
手がかりを追う隙もなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「わしとて万能などではない。できぬ事はできぬし、世には知らぬことのほうが多い」
「今までにも…」
「守れなかった者もおる」
九尾比丘尼は下げているドングリの実を手に一瞬思いに入る。
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「時間…ですか?」
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沙津貴は起き上がって、衣服を直してから返答した。
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そして、改めて礼をしてから沙津貴は神社を退去した。
沙津貴が出ていくと、九尾比丘尼は少し間を置いて、一つため息をついた。
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「よかったんですか? あれで」
「迷ったがの。真実を告げる道もあったが、母親と同じ道とならぬ確信がなかったからのう。我ながら苦しい言い訳になってしもうたが…、いや逃げ口上とも言えるな。何も加えず隠さず伝えるなどと、とんだ大風呂敷よな。情けない」
「比丘尼様ご自身がおっしゃっておられたではないですか。自分は万能などではないと。とはいえ、この先どうされるのですか」
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だが、根本的な問題は沙津貴自身にあったのであり、解決すべき相手も沙津貴自身であった。その沙津貴が亡くなってしまった以上は、九尾比丘尼とてどうしようもないのも確かなことである。
部屋に一人残った九尾比丘尼は、目を閉じてまた首に下げていたドングリを握って物思いに耽っていた。
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