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油断【後編】
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通常であれば、その怨嗟も子孫へと分散し、薄まってゆき、無と同じくなっていたであろう。しかし、豪族内の血縁婚が再び怨嗟を集約する結果を生んでしまった。一族の結束を強化するための近すぎない近親者の婚姻は、日本のみならず、世界いずれの所においても例をあげれば、枚挙にいとまもなく存在する。
今、九尾比丘尼の前にいる圭太郎の中にあるそれは、圭太郎の正気を失わせただけで済まず、九尾比丘尼の力の影響を受けて元の九尾狐の怨嗟として最悪の事態を招いてしまったのだった。九尾比丘尼がいつもの通り、せめて簡単にでも前調査を行なっていれば、ここまでのことにはならなかったであろう。
九尾比丘尼が圭太郎の異変に気が付いた時には手遅れであった。圭太郎の顔は激しい怒りに満ちた表情になり、体は一回りも二回りも大きくなったように見えた。実際には体が大きくなったのではないが、あふれ出てくる力がそう見せていたのだった。しかし、その力の源は圭太郎の生命力そのものであり、このまま力を振るうことがあれば、圭太郎の命が削られてゆくばかりとなる。破壊衝動のままに行動すれば、命尽きるまで続けられるであろう。
圭太郎が動き出さないでいるのは、九尾比丘尼が結界によって押さえていたからである。だが、九尾比丘尼の得意は変化や過去視に代表される千里眼である。戦いに関しての経験は乏しい。結界を用いてなんとか動きを押さえてはいるものの、このままいたずらに時間を過ごしてもまた圭太郎の命が削られ続けることに変わりはないのである。
子どもの命を守るために振るわれた力が、その役目を終えて消えた時に残った怨嗟は、純粋な憎しみとして他の何もの、自らの命であっても代償として用いて力を振るう鬼としての存在に圭太郎を変えてしまっていた。さらに悪い事には、その九尾狐の得意は結界、つまり九尾比丘尼が苦手とする九尾狐としての力技であったのである。
「いかん」
わずかに九尾比丘尼の結界が揺らいだスキを突いて、圭太郎は一気に飛び上がり、社の天井もぶち抜いて外へ出た。もうこうなっては、九尾比丘尼にも止めるすべはなかった。社もまた九尾比丘尼の力をこの地の龍脈と合わせて増幅させる器であったのである。
とてつもない咆哮が静かな村を包んだ。九尾比丘尼はわずかな時間でもかせごうと、圭太郎の前に立ちふさがったが、片手だけで打ち払われた。
果たしてどのくらいの時が過ぎたのか。
九尾比丘尼が目を覚ましたのは社の中であった。
「いたた」
「比丘尼様、気が付かれましたか」
九尾比丘尼が横たわっていたのは、社の本堂の天井が残っている部分の下だった。
(バカな! わしが気絶していたじゃと!)
九尾比丘尼は、ハッとして叫んだ。
「圭太郎、圭太郎はどうした」
九尾比丘尼を介抱していた村人は、苦い顔になって右に目線を向けた。九尾比丘尼が釣られてその方に視線を移すと、板敷きの間にそのまま寝かされていた圭太郎の姿を見た。
「圭太…」
圭太郎の顔は怒りの表情で固まっていた。そして髪は白く変わり、 目は白目をむいたままで開かれていた。
村人があの咆哮を聞きつけ、何事かと様子を見に来た時、地面に伏していた圭太郎と九尾比丘尼の姿を見た。九尾比丘尼は意識を失っていただけで、多少のすり傷程度のものはあったが、怪我といえるものは負ってはいなかった。圭太郎も無傷ではあったが、抱き起こした村人が危うく取り落としそうになるほどの恐ろしい形相であった。
今、九尾比丘尼の目の前にいる圭太郎は死んではいなかったが、それはまだ死んでいないという状態に過ぎず、死が時間の問題であるのは明白だった。
九尾比丘尼は圭太郎の手を取った。握り返す力もなく、肌はかさかさに乾いていた。
あの僅かな時間だけで、圭太郎の命はほとんどを使い尽くされていたのだった。九尾比丘尼と圭太郎の倒れていた所の距離はほんの五間(9mほど)しかなかったという。
そして、そのまま圭太郎は息を引き取った。
「すまぬ…。すまぬ」
九尾比丘尼にとって最大の失態であった。まだ初期調査の不備だけなら、多くの点で修正が効いた。しかし原因が九尾狐。それも人との親交を是としていた者が人に裏切られた末に命を落とした故に生じた、かすかな怨みは己にとっても決して他人事とは言えぬ。一度はどのような形であれ自分を受け入れてくれた者たちからの、掌を返された形での拒絶は、永きを生きる九尾比丘尼にとって一度ならず経験があった。
それが九尾比丘尼の方策を誤らせたのであった。無念たる九尾狐に意識を囚われてしまい、これからを生きる術を模索していた圭太郎の事を失念してしまったのだった。
圭太郎が死した今では検証のしようもないが、九尾比丘尼にならば、その怨嗟を消し去るに至らずとも今は押さえ込んで、子孫へと分散させるように導いて、まったく無害なものにすることが可能であったかもしれない。
九尾比丘尼は圭太郎の両親、隣村の庄屋の元へ赴いた。策を巡らすこともできぬわけではなかったが、それは己自身が納得ゆかなかった。
九尾比丘尼が何処かへ向かう場合は、輿が使われて比丘尼は歩かぬのが通例であるが、今回ばかりは自らの足で歩いて行った。圭太郎の遺体も運ぶため、総勢で五名の村の者が供に付いていた。
「以上が事の子細じゃ」
九尾比丘尼は今回の顛末を圭太郎の両親である庄屋夫婦に隠す事なく、加える事なく全てを話した。
「圭太郎が死した原因はわしにある。圭太郎が今後に正しい道を歩むために来ておった事を忘れ、過去の…先祖の僅かな怨念に気を取られ、返って引きずり出してしまうような結果を招いてしもうた。故にすべての責任はわしにある。これこの通りじゃ」
九尾比丘尼は深々と頭を下げ夫婦に詫びた。
「お手をお上げください」
「もったいないことです」
「なれど、圭太郎は戻らぬ。いかに詫びようとも、許せなどとは口が裂けても言える事ではない。子を失った親の気持ちが、その身を引き裂かれんばかりというのも、話には聞くが、どの程のものかということは、わしには計り知ることはできぬ。わしは…子を持たぬからの」
圭太郎の母は目に涙を浮かべた。しかし、決して取り乱すことはなく、毅然とした態度を保っていた。
「比丘尼さまは…」
「主の思うところはわかる。なれどわしに気遣いは無用じゃ。なんとなれば、わしは人ではない。わしも九尾狐であるからじゃ」
その場にいたすべての者が驚愕した。供に来ていた村人もであった。
「そ、それは…」
「嘘偽りはない。主らは凶報を伝えにきたわしらにも、誠意を持った対応をしてくれておる。じゃからわしも最大の誠意を持って応えよう。主らがひとこと「死」を望むと言えば、それに応じることを約束する」
「おやめください!」
声をあげたのは庄屋であった。
「あなた…」
「おやめください。九尾比丘尼様。あなた様がこの界隈のみならず、遠方から来る方にも、いかに大切な事を伝えお救いされてきたか、我らが知らぬと思われましたか。我が村だけでも恩義を受けている者は少なくありません。一人を救えば周りの家族もまた救われるのです。この村に九尾比丘尼様に感謝し、慕っている者がどれだけいると思われますか。その者たちの思いもすべてあなた様には不要のものだと言われるのですか」
「…言葉もないわ」
「圭太郎を悼んで下さるのであれば、生きてくださいませ。そしてより多くの人をお救いくださいませ。その中で、年に一度だけで構いませぬ。圭太郎の事を思い起こしてくださいませ。それがあなた様を慕っておりました圭太郎への何よりの供養となりましょう」
そして、シン…とした空気が部屋を包む。少し間を置いて九尾比丘尼が口を開く。
「あいわかった。お主の心持ち、決して疎かにはせぬぞ」
再び深く頭を下げて、九尾比丘尼は庄屋宅を後にした。
「比丘尼様、帰られるのですか」
「うむ。もうわしにできることはない。村に戻るぞ」
「何かお急ぎのことが?」
「庄屋夫婦は、庄屋としての立場で話さざるを得なかったのじゃ。わしらが帰らねば、圭太郎と親子での別れはできぬ。これからが庄屋夫婦の本当の悲しみの時なのじゃ。圭太郎が帰って来ぬ以上、わしらに対応しておった時間、まことの別れができぬ一瞬一瞬が庄屋夫婦にとっては針のむしろであったであろう」
帰り道も半分ほど来た頃であろうか、一人が声をかけてきた。
「比丘尼様、まことのことでございますか」
「わしが九尾狐である事か」
「は、はい」
「まことじゃ。あの庄屋の前で嘘言を語れるほど面の皮が厚くはないわ。まあ、お主らには隠そうとしていたわけではないが、わしから言うことでもなかったからの。ふふ、言い訳めいておるな」
「そんなことはございません。そんな重大な事を安易に申せる訳もございません。九尾比丘尼様、我々はこの事は誰にも言いません。命をかけても…」
「よせ。言っても構わぬ。わしは言ったであろう、隠そうとしていたわけではないと。人の口に戸は立てられず、と言うであろう。うっかりと言ってしまって、罪悪感に駆られる元を作る必要はない。それに庄屋のところにも口封じのようなものは何も手立てはしておらぬ。他言無用とすらも言ってはおらぬのじゃ。向こうから伝わってきてもおかしくはない。そうであろう」
「しかし…」
「そんな事をしていて、お主らが無理をしていると見えた時は、あえてわしから言うぞ」
「それはおやめください。後生でございます」
「じゃからのう、無理に口を閉ざそうとせぬことじゃ。無理をすればその分、反動は大きい。お主らの心が傷を負うことになろう。つい口を滑らせても笑ってすませてしまうくらいがちょうどいいのじゃ。なれど、お主らの気持ちはまっこと嬉しい。その気持ちはしっかりと受け止めておくぞ」
「ありがとうございます。比丘尼様、もうひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「なんじゃ?」
「庄屋様に申された、死にも応じるというのは…」
少し間があったが、九尾比丘尼が答える。
「本気じゃ。庄屋の意気につけ込んで、助かるように誘導したのではない。特に母御からすれば、あの場でわしの首根っこを締めて、いまここで死ね、となってもおかしくないであろう。そうなっていれば、そのまま受け入れていたがの」
「そんな…」
「それだけの責務があるということじゃ。いつもお気楽にのほほんと暮らしておるだけではないぞ」
「そうとしか見えませんでしたがね」
他の村人が軽口をたたき、皆が釣られて笑う。会話はそこで途絶えて、村へ到着すると、めいめい自分の家へと戻った。
「とはいえ、風通しが良くなってしまったのう」
社に戻り上を見上げると、夕暮れが始まりかけた程度の空はまだまだ明るかった。
大きいとは言えぬ社であったが、本堂と小部屋があり、小部屋は様々な用途に使われている。寝泊まりには問題ないであろう。最も、九尾比丘尼自身は眠るということはない。旅の僧などが泊まりする場合の部屋である。
本堂も大まかなところは村人が片付けてくれていたが、細かい破片は残っていたので、まず掃除を始めることにした。普段から掃除は村人の手を煩わせる事なく、自分で行なっていたので問題はない。そもそもしょっちゅう使う所ではないし、修繕は頼むとして、管理全般は一人でやったほうが却って面倒がなかった。
箒を出して本堂を掃く。意外と細かいゴミは多かった。そんな中、本堂の角に木の実が落ちていたのを目にした。境内にある椎木の実である。圭太郎が寝かされていたところであったので、圭太郎に付いて入ったものだろう。
九尾比丘尼はそのドングリを拾い上げ、ふと思い立って念を込めた。そして腰に下げている巾着袋の中にしまった。
そのまま掃除を続けて、夕方の祈祷をしてから、またドングリを出して祭壇に置いて正座し手を合わせた。
長い間、九尾比丘尼はそのままであった。その間に何を考えていたのであろうか。
庄屋の話にもあったように、九尾比丘尼は庄屋の村にも幾度となく行っており、圭太郎の成長に則した姿も、はっきりと覚えている。ふと、庄屋の言葉が思い起こされた。
(あなた様を慕っておりました圭太郎への何よりの供養となりましょう)
ふと、九尾比丘尼の頬に涙がひとひら流れ落ちた。その感触に様々な思いが交差し、更に目の奥が熱くなった。
「わしも…泣ける…のか」
また圭太郎の姿を思うたび、涙が溢れた。それだけではなく、今までに人と交わしてきた様々な事、喜怒哀楽いずれを思い起こしても、新たな涙が流れ落ちた。
人の姿となり数百年の時を経て、初めて流した涙であった。その涙はしばらく止めどなく流れ、また、九尾比丘尼も流れるままにしていた。
「この思い、決して忘るるまいぞ」
この年に徳川慶喜が大政奉還を行なった。時代が明治へと移ろうとしていた。
(了)
今、九尾比丘尼の前にいる圭太郎の中にあるそれは、圭太郎の正気を失わせただけで済まず、九尾比丘尼の力の影響を受けて元の九尾狐の怨嗟として最悪の事態を招いてしまったのだった。九尾比丘尼がいつもの通り、せめて簡単にでも前調査を行なっていれば、ここまでのことにはならなかったであろう。
九尾比丘尼が圭太郎の異変に気が付いた時には手遅れであった。圭太郎の顔は激しい怒りに満ちた表情になり、体は一回りも二回りも大きくなったように見えた。実際には体が大きくなったのではないが、あふれ出てくる力がそう見せていたのだった。しかし、その力の源は圭太郎の生命力そのものであり、このまま力を振るうことがあれば、圭太郎の命が削られてゆくばかりとなる。破壊衝動のままに行動すれば、命尽きるまで続けられるであろう。
圭太郎が動き出さないでいるのは、九尾比丘尼が結界によって押さえていたからである。だが、九尾比丘尼の得意は変化や過去視に代表される千里眼である。戦いに関しての経験は乏しい。結界を用いてなんとか動きを押さえてはいるものの、このままいたずらに時間を過ごしてもまた圭太郎の命が削られ続けることに変わりはないのである。
子どもの命を守るために振るわれた力が、その役目を終えて消えた時に残った怨嗟は、純粋な憎しみとして他の何もの、自らの命であっても代償として用いて力を振るう鬼としての存在に圭太郎を変えてしまっていた。さらに悪い事には、その九尾狐の得意は結界、つまり九尾比丘尼が苦手とする九尾狐としての力技であったのである。
「いかん」
わずかに九尾比丘尼の結界が揺らいだスキを突いて、圭太郎は一気に飛び上がり、社の天井もぶち抜いて外へ出た。もうこうなっては、九尾比丘尼にも止めるすべはなかった。社もまた九尾比丘尼の力をこの地の龍脈と合わせて増幅させる器であったのである。
とてつもない咆哮が静かな村を包んだ。九尾比丘尼はわずかな時間でもかせごうと、圭太郎の前に立ちふさがったが、片手だけで打ち払われた。
果たしてどのくらいの時が過ぎたのか。
九尾比丘尼が目を覚ましたのは社の中であった。
「いたた」
「比丘尼様、気が付かれましたか」
九尾比丘尼が横たわっていたのは、社の本堂の天井が残っている部分の下だった。
(バカな! わしが気絶していたじゃと!)
九尾比丘尼は、ハッとして叫んだ。
「圭太郎、圭太郎はどうした」
九尾比丘尼を介抱していた村人は、苦い顔になって右に目線を向けた。九尾比丘尼が釣られてその方に視線を移すと、板敷きの間にそのまま寝かされていた圭太郎の姿を見た。
「圭太…」
圭太郎の顔は怒りの表情で固まっていた。そして髪は白く変わり、 目は白目をむいたままで開かれていた。
村人があの咆哮を聞きつけ、何事かと様子を見に来た時、地面に伏していた圭太郎と九尾比丘尼の姿を見た。九尾比丘尼は意識を失っていただけで、多少のすり傷程度のものはあったが、怪我といえるものは負ってはいなかった。圭太郎も無傷ではあったが、抱き起こした村人が危うく取り落としそうになるほどの恐ろしい形相であった。
今、九尾比丘尼の目の前にいる圭太郎は死んではいなかったが、それはまだ死んでいないという状態に過ぎず、死が時間の問題であるのは明白だった。
九尾比丘尼は圭太郎の手を取った。握り返す力もなく、肌はかさかさに乾いていた。
あの僅かな時間だけで、圭太郎の命はほとんどを使い尽くされていたのだった。九尾比丘尼と圭太郎の倒れていた所の距離はほんの五間(9mほど)しかなかったという。
そして、そのまま圭太郎は息を引き取った。
「すまぬ…。すまぬ」
九尾比丘尼にとって最大の失態であった。まだ初期調査の不備だけなら、多くの点で修正が効いた。しかし原因が九尾狐。それも人との親交を是としていた者が人に裏切られた末に命を落とした故に生じた、かすかな怨みは己にとっても決して他人事とは言えぬ。一度はどのような形であれ自分を受け入れてくれた者たちからの、掌を返された形での拒絶は、永きを生きる九尾比丘尼にとって一度ならず経験があった。
それが九尾比丘尼の方策を誤らせたのであった。無念たる九尾狐に意識を囚われてしまい、これからを生きる術を模索していた圭太郎の事を失念してしまったのだった。
圭太郎が死した今では検証のしようもないが、九尾比丘尼にならば、その怨嗟を消し去るに至らずとも今は押さえ込んで、子孫へと分散させるように導いて、まったく無害なものにすることが可能であったかもしれない。
九尾比丘尼は圭太郎の両親、隣村の庄屋の元へ赴いた。策を巡らすこともできぬわけではなかったが、それは己自身が納得ゆかなかった。
九尾比丘尼が何処かへ向かう場合は、輿が使われて比丘尼は歩かぬのが通例であるが、今回ばかりは自らの足で歩いて行った。圭太郎の遺体も運ぶため、総勢で五名の村の者が供に付いていた。
「以上が事の子細じゃ」
九尾比丘尼は今回の顛末を圭太郎の両親である庄屋夫婦に隠す事なく、加える事なく全てを話した。
「圭太郎が死した原因はわしにある。圭太郎が今後に正しい道を歩むために来ておった事を忘れ、過去の…先祖の僅かな怨念に気を取られ、返って引きずり出してしまうような結果を招いてしもうた。故にすべての責任はわしにある。これこの通りじゃ」
九尾比丘尼は深々と頭を下げ夫婦に詫びた。
「お手をお上げください」
「もったいないことです」
「なれど、圭太郎は戻らぬ。いかに詫びようとも、許せなどとは口が裂けても言える事ではない。子を失った親の気持ちが、その身を引き裂かれんばかりというのも、話には聞くが、どの程のものかということは、わしには計り知ることはできぬ。わしは…子を持たぬからの」
圭太郎の母は目に涙を浮かべた。しかし、決して取り乱すことはなく、毅然とした態度を保っていた。
「比丘尼さまは…」
「主の思うところはわかる。なれどわしに気遣いは無用じゃ。なんとなれば、わしは人ではない。わしも九尾狐であるからじゃ」
その場にいたすべての者が驚愕した。供に来ていた村人もであった。
「そ、それは…」
「嘘偽りはない。主らは凶報を伝えにきたわしらにも、誠意を持った対応をしてくれておる。じゃからわしも最大の誠意を持って応えよう。主らがひとこと「死」を望むと言えば、それに応じることを約束する」
「おやめください!」
声をあげたのは庄屋であった。
「あなた…」
「おやめください。九尾比丘尼様。あなた様がこの界隈のみならず、遠方から来る方にも、いかに大切な事を伝えお救いされてきたか、我らが知らぬと思われましたか。我が村だけでも恩義を受けている者は少なくありません。一人を救えば周りの家族もまた救われるのです。この村に九尾比丘尼様に感謝し、慕っている者がどれだけいると思われますか。その者たちの思いもすべてあなた様には不要のものだと言われるのですか」
「…言葉もないわ」
「圭太郎を悼んで下さるのであれば、生きてくださいませ。そしてより多くの人をお救いくださいませ。その中で、年に一度だけで構いませぬ。圭太郎の事を思い起こしてくださいませ。それがあなた様を慕っておりました圭太郎への何よりの供養となりましょう」
そして、シン…とした空気が部屋を包む。少し間を置いて九尾比丘尼が口を開く。
「あいわかった。お主の心持ち、決して疎かにはせぬぞ」
再び深く頭を下げて、九尾比丘尼は庄屋宅を後にした。
「比丘尼様、帰られるのですか」
「うむ。もうわしにできることはない。村に戻るぞ」
「何かお急ぎのことが?」
「庄屋夫婦は、庄屋としての立場で話さざるを得なかったのじゃ。わしらが帰らねば、圭太郎と親子での別れはできぬ。これからが庄屋夫婦の本当の悲しみの時なのじゃ。圭太郎が帰って来ぬ以上、わしらに対応しておった時間、まことの別れができぬ一瞬一瞬が庄屋夫婦にとっては針のむしろであったであろう」
帰り道も半分ほど来た頃であろうか、一人が声をかけてきた。
「比丘尼様、まことのことでございますか」
「わしが九尾狐である事か」
「は、はい」
「まことじゃ。あの庄屋の前で嘘言を語れるほど面の皮が厚くはないわ。まあ、お主らには隠そうとしていたわけではないが、わしから言うことでもなかったからの。ふふ、言い訳めいておるな」
「そんなことはございません。そんな重大な事を安易に申せる訳もございません。九尾比丘尼様、我々はこの事は誰にも言いません。命をかけても…」
「よせ。言っても構わぬ。わしは言ったであろう、隠そうとしていたわけではないと。人の口に戸は立てられず、と言うであろう。うっかりと言ってしまって、罪悪感に駆られる元を作る必要はない。それに庄屋のところにも口封じのようなものは何も手立てはしておらぬ。他言無用とすらも言ってはおらぬのじゃ。向こうから伝わってきてもおかしくはない。そうであろう」
「しかし…」
「そんな事をしていて、お主らが無理をしていると見えた時は、あえてわしから言うぞ」
「それはおやめください。後生でございます」
「じゃからのう、無理に口を閉ざそうとせぬことじゃ。無理をすればその分、反動は大きい。お主らの心が傷を負うことになろう。つい口を滑らせても笑ってすませてしまうくらいがちょうどいいのじゃ。なれど、お主らの気持ちはまっこと嬉しい。その気持ちはしっかりと受け止めておくぞ」
「ありがとうございます。比丘尼様、もうひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「なんじゃ?」
「庄屋様に申された、死にも応じるというのは…」
少し間があったが、九尾比丘尼が答える。
「本気じゃ。庄屋の意気につけ込んで、助かるように誘導したのではない。特に母御からすれば、あの場でわしの首根っこを締めて、いまここで死ね、となってもおかしくないであろう。そうなっていれば、そのまま受け入れていたがの」
「そんな…」
「それだけの責務があるということじゃ。いつもお気楽にのほほんと暮らしておるだけではないぞ」
「そうとしか見えませんでしたがね」
他の村人が軽口をたたき、皆が釣られて笑う。会話はそこで途絶えて、村へ到着すると、めいめい自分の家へと戻った。
「とはいえ、風通しが良くなってしまったのう」
社に戻り上を見上げると、夕暮れが始まりかけた程度の空はまだまだ明るかった。
大きいとは言えぬ社であったが、本堂と小部屋があり、小部屋は様々な用途に使われている。寝泊まりには問題ないであろう。最も、九尾比丘尼自身は眠るということはない。旅の僧などが泊まりする場合の部屋である。
本堂も大まかなところは村人が片付けてくれていたが、細かい破片は残っていたので、まず掃除を始めることにした。普段から掃除は村人の手を煩わせる事なく、自分で行なっていたので問題はない。そもそもしょっちゅう使う所ではないし、修繕は頼むとして、管理全般は一人でやったほうが却って面倒がなかった。
箒を出して本堂を掃く。意外と細かいゴミは多かった。そんな中、本堂の角に木の実が落ちていたのを目にした。境内にある椎木の実である。圭太郎が寝かされていたところであったので、圭太郎に付いて入ったものだろう。
九尾比丘尼はそのドングリを拾い上げ、ふと思い立って念を込めた。そして腰に下げている巾着袋の中にしまった。
そのまま掃除を続けて、夕方の祈祷をしてから、またドングリを出して祭壇に置いて正座し手を合わせた。
長い間、九尾比丘尼はそのままであった。その間に何を考えていたのであろうか。
庄屋の話にもあったように、九尾比丘尼は庄屋の村にも幾度となく行っており、圭太郎の成長に則した姿も、はっきりと覚えている。ふと、庄屋の言葉が思い起こされた。
(あなた様を慕っておりました圭太郎への何よりの供養となりましょう)
ふと、九尾比丘尼の頬に涙がひとひら流れ落ちた。その感触に様々な思いが交差し、更に目の奥が熱くなった。
「わしも…泣ける…のか」
また圭太郎の姿を思うたび、涙が溢れた。それだけではなく、今までに人と交わしてきた様々な事、喜怒哀楽いずれを思い起こしても、新たな涙が流れ落ちた。
人の姿となり数百年の時を経て、初めて流した涙であった。その涙はしばらく止めどなく流れ、また、九尾比丘尼も流れるままにしていた。
「この思い、決して忘るるまいぞ」
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