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前編
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髪を適当に扱うと、こんなにもひどい状態になってしまうものなのだろうか。
服もあちこちほころびがある上に、サイズもきちんと合ってはいない。
綺麗な青い瞳をしているが、きつい色の口紅とは合っていない。
古びたサンダルを履いて、ふわふわと頼りない足取りで42番街にあるバーに彼女は入っていった。時刻はまだ夜の8時を回ったばかりで、バーが営業している時間ではない。
開店準備をしている女店長は、入ってきた彼女の姿を見て苦笑いとも呆れとも見える表情をして、カウンターの一番奥を親指で指した。
彼女は無言のままその席に座る。肩に下げていた小さめのトートバッグから本とノートを取り出す。本のタイトルは、物理II、だ。
「今日は物理?」
「別にいいでしょ」
「一昨日は数学で、その前は…」
「ああもう、うるさいなあ」
「こんな場所でやらなくたって、家でやってもいいでしょうに。宿題なんて」
「…課題を出してないのがバレたら、まずいのよ。外出禁止にされちゃう」
彼女は話をしながら、ノートにも書き込みを始める。
「どれどれ…。なんか小難しいこと書いてるねえ」
「いいから。まあ、場所を貸してくれることには、感謝してるけど」
「ちゃんと家には帰ってるの?」
「帰らないと、きっと監視役がついちゃうわよ」
「監視役なんてのは穏やかじゃないけど、それだけ心配してるって事じゃないの」
「あっちが心配してるのは世間体よ。…まあ、この時間に外に出ている事も知らないはずだけどね」
時刻的には、そこから二時間ほど前になる。その日の夕食の後で彼女は自分の部屋に戻った。その後ろには年配の女性がついている。
部屋は非常に広く、手狭なアパートより広いくらいで、装飾も非常に凝っている。
彼女は机に向かって上の棚の本を出して読み始める。
ついてきていた年配の女性は扉の横にある椅子に座る。
彼女はしおりを挟んであったページを開いて確認するように目を走らせ、時折年配の女性に問いかけながら読み進む。
外がすっかり暗くなるまで机の前に座っていて、分厚い本のもう半分くらいまで読み進んでいた。
ベッドの横にある大きな時計が時刻を告げた。
「お嬢様。それでは本日のお勤めは終わらせていただきます」
「ありがとうございます、ヘレン先生。最初は変わった内容と思いましたけど、とてもわかりやすいです」
「そのように言っていただけると幸いです。興味を持っていただけましたか」
「はい。難しいものと思っていた経済学があんなに興味深いものだとは思っていませんでした」
「お嬢様に才能があるからでございますよ。それでは、次回は土曜日に伺います」
「ごきげんよう」
ヘレン女史が部屋を出ると、それまでにこやかだった彼女の表情が、いかにもげんなりしたものになった。
「何が経済学よ」
彼女はそれまで着ていた清楚な感じの服を脱いで、ラフな服に着替え、屋敷を抜け出した。
街は歩いて20分程度。最初に入ったのはデパートの洗面所。他に誰もいないことを確認すると、鏡を覗き込み、髪を整える…と言うより、荒らしている。
クセのないストレートの黒髪に大小様々なバレッタを何個も挟んで、ヘアカラーも使い、ボサボサのような装飾にする。青いカラコンを入れて、黒い瞳を隠し、色として合っているとは言いがたいリップを引くと、全くの別人になっていた。
個室で更に別の服に着替えて、余分になった荷物は駅前のコインロッカーに入れ、まず最初に駆け込んだのが件のバーであった。
「そう言えば、今日はなんでわざわざ抜け出して、ここで宿題やってんのよ」
「アスガルドのライブがあるの。これ終わらせてからじゃ、間に合わないもん」
「帰ってからやるのは?」
「雰囲気…というか、余韻に浸ってたいもん」
彼女は会話を交わしながらも、目線はノートから離さず、次々と書き込んでゆく。
「ふん…まあいいけどね。あんたはトラブルとかは聞かないし、こうやって、根はお真面目さんだからね~」
「お届け物です」
ドアが開いて、ビールケースを抱えた男性が入ってきた。
「ああ、いつもの所に置いといて」
「あいよ」
ビールケースを二つと、三つほどの銘柄のウイスキーを入れて、伝票を渡す。
「はい。ありがとうね」
「まいど。あれ? お店の娘じゃないっすよね」
「うちの娘がここでお勉強すると思う?」
広くはない店舗の中、二人は彼女のすぐ後ろで話をしていた。
「はは。確かに。あ」
「なんだい」
「いやその…3番は…」
「3番?」
振り向きもしなかったが、それを聞いてはいた彼女は、ちょっとイラつきながらも、見直してみる。
「あっ、間違えてた。マジで?」
「その公式は見間違えやすいからな」
「あんた何者?」
彼女は初めて目線をノートから外して男を見た。
「ああ、こいつはね。家の手伝いをして配達にも出てるけど、大学の教授サマなんだよね」
「そんな御大層なものじゃないっすよ。ちゃんと稼げているなら、家の手伝いなんてねえ」
自虐的な笑みを浮かべながら男は出て行った。
「大学ってどこの」
「うん? ああ、国立第一だよ」
「えっ、ちょっ、国立第一で教授だなんて、エリート中のエリートじゃないの。それがなんで」
「あいつの言ったとおりさ。いかに天下の国立第一で教授になったからって、カネになるとは限らないのさ」
「…何をやってるのか知ってるの」
「ロケット工学とかだよ。うちの国は宇宙開発はまだまだ先の話だから、スポンサーが付かないんだとさ」
「だから物理にも詳しいのね」
「ちっとは気にかかるかい」
「興味はないわけじゃ…。でも、やけに詳しいのね」
「小学校からの腐れ縁みたいなもんだからね。ロケットに対する夢は何百回となく聞かされたよ。大学でその事に従事できるまではよかったんけどね。現実のものになるのは、早くてあんたの世代じゃないのかな。ま、そういうこった。宿題とっとと済ませちまって、ライブハウスに行くんだね。もうすぐ、店の娘が来る時間だからさ」
ライブ会場は、いつにも増して熱気が入っていた。
ライブが終わり、彼女は余韻を楽しみながら帰り道の途中の公園を突っ切っていた。
静かな公園の中、彼女の鼻歌は結構響いていた。
服もあちこちほころびがある上に、サイズもきちんと合ってはいない。
綺麗な青い瞳をしているが、きつい色の口紅とは合っていない。
古びたサンダルを履いて、ふわふわと頼りない足取りで42番街にあるバーに彼女は入っていった。時刻はまだ夜の8時を回ったばかりで、バーが営業している時間ではない。
開店準備をしている女店長は、入ってきた彼女の姿を見て苦笑いとも呆れとも見える表情をして、カウンターの一番奥を親指で指した。
彼女は無言のままその席に座る。肩に下げていた小さめのトートバッグから本とノートを取り出す。本のタイトルは、物理II、だ。
「今日は物理?」
「別にいいでしょ」
「一昨日は数学で、その前は…」
「ああもう、うるさいなあ」
「こんな場所でやらなくたって、家でやってもいいでしょうに。宿題なんて」
「…課題を出してないのがバレたら、まずいのよ。外出禁止にされちゃう」
彼女は話をしながら、ノートにも書き込みを始める。
「どれどれ…。なんか小難しいこと書いてるねえ」
「いいから。まあ、場所を貸してくれることには、感謝してるけど」
「ちゃんと家には帰ってるの?」
「帰らないと、きっと監視役がついちゃうわよ」
「監視役なんてのは穏やかじゃないけど、それだけ心配してるって事じゃないの」
「あっちが心配してるのは世間体よ。…まあ、この時間に外に出ている事も知らないはずだけどね」
時刻的には、そこから二時間ほど前になる。その日の夕食の後で彼女は自分の部屋に戻った。その後ろには年配の女性がついている。
部屋は非常に広く、手狭なアパートより広いくらいで、装飾も非常に凝っている。
彼女は机に向かって上の棚の本を出して読み始める。
ついてきていた年配の女性は扉の横にある椅子に座る。
彼女はしおりを挟んであったページを開いて確認するように目を走らせ、時折年配の女性に問いかけながら読み進む。
外がすっかり暗くなるまで机の前に座っていて、分厚い本のもう半分くらいまで読み進んでいた。
ベッドの横にある大きな時計が時刻を告げた。
「お嬢様。それでは本日のお勤めは終わらせていただきます」
「ありがとうございます、ヘレン先生。最初は変わった内容と思いましたけど、とてもわかりやすいです」
「そのように言っていただけると幸いです。興味を持っていただけましたか」
「はい。難しいものと思っていた経済学があんなに興味深いものだとは思っていませんでした」
「お嬢様に才能があるからでございますよ。それでは、次回は土曜日に伺います」
「ごきげんよう」
ヘレン女史が部屋を出ると、それまでにこやかだった彼女の表情が、いかにもげんなりしたものになった。
「何が経済学よ」
彼女はそれまで着ていた清楚な感じの服を脱いで、ラフな服に着替え、屋敷を抜け出した。
街は歩いて20分程度。最初に入ったのはデパートの洗面所。他に誰もいないことを確認すると、鏡を覗き込み、髪を整える…と言うより、荒らしている。
クセのないストレートの黒髪に大小様々なバレッタを何個も挟んで、ヘアカラーも使い、ボサボサのような装飾にする。青いカラコンを入れて、黒い瞳を隠し、色として合っているとは言いがたいリップを引くと、全くの別人になっていた。
個室で更に別の服に着替えて、余分になった荷物は駅前のコインロッカーに入れ、まず最初に駆け込んだのが件のバーであった。
「そう言えば、今日はなんでわざわざ抜け出して、ここで宿題やってんのよ」
「アスガルドのライブがあるの。これ終わらせてからじゃ、間に合わないもん」
「帰ってからやるのは?」
「雰囲気…というか、余韻に浸ってたいもん」
彼女は会話を交わしながらも、目線はノートから離さず、次々と書き込んでゆく。
「ふん…まあいいけどね。あんたはトラブルとかは聞かないし、こうやって、根はお真面目さんだからね~」
「お届け物です」
ドアが開いて、ビールケースを抱えた男性が入ってきた。
「ああ、いつもの所に置いといて」
「あいよ」
ビールケースを二つと、三つほどの銘柄のウイスキーを入れて、伝票を渡す。
「はい。ありがとうね」
「まいど。あれ? お店の娘じゃないっすよね」
「うちの娘がここでお勉強すると思う?」
広くはない店舗の中、二人は彼女のすぐ後ろで話をしていた。
「はは。確かに。あ」
「なんだい」
「いやその…3番は…」
「3番?」
振り向きもしなかったが、それを聞いてはいた彼女は、ちょっとイラつきながらも、見直してみる。
「あっ、間違えてた。マジで?」
「その公式は見間違えやすいからな」
「あんた何者?」
彼女は初めて目線をノートから外して男を見た。
「ああ、こいつはね。家の手伝いをして配達にも出てるけど、大学の教授サマなんだよね」
「そんな御大層なものじゃないっすよ。ちゃんと稼げているなら、家の手伝いなんてねえ」
自虐的な笑みを浮かべながら男は出て行った。
「大学ってどこの」
「うん? ああ、国立第一だよ」
「えっ、ちょっ、国立第一で教授だなんて、エリート中のエリートじゃないの。それがなんで」
「あいつの言ったとおりさ。いかに天下の国立第一で教授になったからって、カネになるとは限らないのさ」
「…何をやってるのか知ってるの」
「ロケット工学とかだよ。うちの国は宇宙開発はまだまだ先の話だから、スポンサーが付かないんだとさ」
「だから物理にも詳しいのね」
「ちっとは気にかかるかい」
「興味はないわけじゃ…。でも、やけに詳しいのね」
「小学校からの腐れ縁みたいなもんだからね。ロケットに対する夢は何百回となく聞かされたよ。大学でその事に従事できるまではよかったんけどね。現実のものになるのは、早くてあんたの世代じゃないのかな。ま、そういうこった。宿題とっとと済ませちまって、ライブハウスに行くんだね。もうすぐ、店の娘が来る時間だからさ」
ライブ会場は、いつにも増して熱気が入っていた。
ライブが終わり、彼女は余韻を楽しみながら帰り道の途中の公園を突っ切っていた。
静かな公園の中、彼女の鼻歌は結構響いていた。
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