青き瞳、青い惑星(ほし)

マキノトシヒメ

文字の大きさ
1 / 3

前編

しおりを挟む
 髪を適当に扱うと、こんなにもひどい状態になってしまうものなのだろうか。
 服もあちこちほころびがある上に、サイズもきちんと合ってはいない。
 綺麗な青い瞳をしているが、きつい色の口紅とは合っていない。
 古びたサンダルを履いて、ふわふわと頼りない足取りで42番街にあるバーに彼女は入っていった。時刻はまだ夜の8時を回ったばかりで、バーが営業している時間ではない。
 開店準備をしている女店長は、入ってきた彼女の姿を見て苦笑いとも呆れとも見える表情をして、カウンターの一番奥を親指で指した。
 彼女は無言のままその席に座る。肩に下げていた小さめのトートバッグから本とノートを取り出す。本のタイトルは、物理II、だ。
「今日は物理?」
「別にいいでしょ」
「一昨日は数学で、その前は…」
「ああもう、うるさいなあ」
「こんな場所でやらなくたって、家でやってもいいでしょうに。宿題なんて」
「…課題を出してないのがバレたら、まずいのよ。外出禁止にされちゃう」
 彼女は話をしながら、ノートにも書き込みを始める。
「どれどれ…。なんか小難しいこと書いてるねえ」
「いいから。まあ、場所を貸してくれることには、感謝してるけど」
「ちゃんと家には帰ってるの?」
「帰らないと、きっと監視役がついちゃうわよ」
「監視役なんてのは穏やかじゃないけど、それだけ心配してるって事じゃないの」
「あっちが心配してるのは世間体よ。…まあ、この時間に外に出ている事も知らないはずだけどね」

 時刻的には、そこから二時間ほど前になる。その日の夕食の後で彼女は自分の部屋に戻った。その後ろには年配の女性がついている。
 部屋は非常に広く、手狭なアパートより広いくらいで、装飾も非常に凝っている。
 彼女は机に向かって上の棚の本を出して読み始める。
 ついてきていた年配の女性は扉の横にある椅子に座る。
 彼女はしおりを挟んであったページを開いて確認するように目を走らせ、時折年配の女性に問いかけながら読み進む。
 外がすっかり暗くなるまで机の前に座っていて、分厚い本のもう半分くらいまで読み進んでいた。
 ベッドの横にある大きな時計が時刻を告げた。
「お嬢様。それでは本日のお勤めは終わらせていただきます」
「ありがとうございます、ヘレン先生。最初は変わった内容と思いましたけど、とてもわかりやすいです」
「そのように言っていただけると幸いです。興味を持っていただけましたか」
「はい。難しいものと思っていた経済学があんなに興味深いものだとは思っていませんでした」
「お嬢様に才能があるからでございますよ。それでは、次回は土曜日に伺います」
「ごきげんよう」
 ヘレン女史が部屋を出ると、それまでにこやかだった彼女の表情が、いかにもげんなりしたものになった。
「何が経済学よ」
 彼女はそれまで着ていた清楚な感じの服を脱いで、ラフな服に着替え、屋敷を抜け出した。
 街は歩いて20分程度。最初に入ったのはデパートの洗面所。他に誰もいないことを確認すると、鏡を覗き込み、髪を整える…と言うより、荒らしている。
 クセのないストレートの黒髪に大小様々なバレッタを何個も挟んで、ヘアカラーも使い、ボサボサのような装飾にする。青いカラコンを入れて、黒い瞳を隠し、色として合っているとは言いがたいリップを引くと、全くの別人になっていた。
 個室で更に別の服に着替えて、余分になった荷物は駅前のコインロッカーに入れ、まず最初に駆け込んだのがくだんのバーであった。

「そう言えば、今日はなんでわざわざ抜け出して、ここで宿題やってんのよ」
「アスガルドのライブがあるの。これ終わらせてからじゃ、間に合わないもん」
「帰ってからやるのは?」
「雰囲気…というか、余韻に浸ってたいもん」
 彼女は会話を交わしながらも、目線はノートから離さず、次々と書き込んでゆく。
「ふん…まあいいけどね。あんたはトラブルとかは聞かないし、こうやって、根はお真面目さんだからね~」
「お届け物です」
 ドアが開いて、ビールケースを抱えた男性が入ってきた。
「ああ、いつもの所に置いといて」
「あいよ」
 ビールケースを二つと、三つほどの銘柄のウイスキーを入れて、伝票を渡す。
「はい。ありがとうね」
「まいど。あれ? お店のじゃないっすよね」
「うちのがここでお勉強すると思う?」
 広くはない店舗の中、二人は彼女のすぐ後ろで話をしていた。
「はは。確かに。あ」
「なんだい」
「いやその…3番は…」
「3番?」
 振り向きもしなかったが、それを聞いてはいた彼女は、ちょっとイラつきながらも、見直してみる。
「あっ、間違えてた。マジで?」
「その公式は見間違えやすいからな」
「あんた何者?」
 彼女は初めて目線をノートから外して男を見た。
「ああ、こいつはね。家の手伝いをして配達にも出てるけど、大学の教授サマなんだよね」
「そんな御大層なものじゃないっすよ。ちゃんと稼げているなら、家の手伝いなんてねえ」
 自虐的な笑みを浮かべながら男は出て行った。
「大学ってどこの」
「うん? ああ、国立第一だよ」
「えっ、ちょっ、国立第一で教授だなんて、エリート中のエリートじゃないの。それがなんで」
「あいつの言ったとおりさ。いかに天下の国立第一で教授になったからって、カネになるとは限らないのさ」
「…何をやってるのか知ってるの」
「ロケット工学とかだよ。うちの国は宇宙開発はまだまだ先の話だから、スポンサーが付かないんだとさ」
「だから物理にも詳しいのね」
「ちっとは気にかかるかい」
「興味はないわけじゃ…。でも、やけに詳しいのね」
「小学校からの腐れ縁みたいなもんだからね。ロケットに対する夢は何百回となく聞かされたよ。大学でその事に従事できるまではよかったんけどね。現実のものになるのは、早くてあんたの世代じゃないのかな。ま、そういうこった。宿題とっとと済ませちまって、ライブハウスに行くんだね。もうすぐ、店のが来る時間だからさ」

 ライブ会場は、いつにも増して熱気が入っていた。
 ライブが終わり、彼女は余韻を楽しみながら帰り道の途中の公園を突っ切っていた。
 静かな公園の中、彼女の鼻歌は結構響いていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ある辺境伯の後悔

だましだまし
恋愛
妻セディナを愛する辺境伯ルブラン・レイナーラ。 父親似だが目元が妻によく似た長女と 目元は自分譲りだが母親似の長男。 愛する妻と妻の容姿を受け継いだ可愛い子供たちに囲まれ彼は誰よりも幸せだと思っていた。 愛しい妻が次女を産んで亡くなるまでは…。

短編 お前なんか一生結婚できないって笑ってたくせに、私が王太子妃になったら泣き出すのはどういうこと?

朝陽千早
恋愛
「お前なんか、一生結婚できない」 そう笑ってた幼馴染、今どんな気持ち? ――私、王太子殿下の婚約者になりましたけど? 地味で冴えない伯爵令嬢エリナは、幼い頃からずっと幼馴染のカイルに「お前に嫁の貰い手なんていない」とからかわれてきた。 けれどある日、王都で開かれた舞踏会で、偶然王太子殿下と出会い――そして、求婚された。 はじめは噂だと笑っていたカイルも、正式な婚約発表を前に動揺を隠せない。 ついには「お前に王太子妃なんて務まるわけがない」と暴言を吐くが、王太子殿下がきっぱりと言い返す。 「見る目がないのは君のほうだ」 「私の婚約者を侮辱するのなら、貴族であろうと容赦はしない」 格の違いを見せつけられ、崩れ落ちるカイル。 そんな姿を、もう私は振り返らない。 ――これは、ずっと見下されていた令嬢が、運命の人に見初められる物語。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

【完結】元お義父様が謝りに来ました。 「婚約破棄にした息子を許して欲しい」って…。

BBやっこ
恋愛
婚約はお父様の親友同士の約束だった。 だから、生まれた時から婚約者だったし。成長を共にしたようなもの。仲もほどほどに良かった。そんな私達も学園に入学して、色んな人と交流する中。彼は変わったわ。 女学生と腕を組んでいたという、噂とか。婚約破棄、婚約者はにないと言っている。噂よね? けど、噂が本当ではなくても、真にうけて行動する人もいる。やり方は選べた筈なのに。

ほんの少しの仕返し

turarin
恋愛
公爵夫人のアリーは気づいてしまった。夫のイディオンが、離婚して戻ってきた従姉妹フリンと恋をしていることを。 アリーの実家クレバー侯爵家は、王国一の商会を経営している。その財力を頼られての政略結婚であった。 アリーは皇太子マークと幼なじみであり、マークには皇太子妃にと求められていたが、クレバー侯爵家の影響力が大きくなることを恐れた国王が認めなかった。 皇太子妃教育まで終えている、優秀なアリーは、陰に日向にイディオンを支えてきたが、真実を知って、怒りに震えた。侯爵家からの離縁は難しい。 ならば、周りから、離縁を勧めてもらいましょう。日々、ちょっとずつ、仕返ししていけばいいのです。 もうすぐです。 さようなら、イディオン たくさんのお気に入りや♥ありがとうございます。感激しています。

【完結】狡い人

ジュレヌク
恋愛
双子のライラは、言う。 レイラは、狡い。 レイラの功績を盗み、賞を受賞し、母の愛も全て自分のものにしたくせに、事あるごとに、レイラを責める。 双子のライラに狡いと責められ、レイラは、黙る。 口に出して言いたいことは山ほどあるのに、おし黙る。 そこには、人それぞれの『狡さ』があった。 そんな二人の関係が、ある一つの出来事で大きく変わっていく。 恋を知り、大きく羽ばたくレイラと、地に落ちていくライラ。 2人の違いは、一体なんだったのか?

【書籍化決定】憂鬱なお茶会〜殿下、お茶会を止めて番探しをされては?え?義務?彼女は自分が殿下の番であることを知らない。溺愛まであと半年〜

降魔 鬼灯
恋愛
 コミカライズ化決定しました。 ユリアンナは王太子ルードヴィッヒの婚約者。  幼い頃は仲良しの2人だったのに、最近では全く会話がない。  月一度の砂時計で時間を計られた義務の様なお茶会もルードヴィッヒはこちらを睨みつけるだけで、なんの会話もない。    お茶会が終わったあとに義務的に届く手紙や花束。義務的に届くドレスやアクセサリー。    しまいには「ずっと番と一緒にいたい」なんて言葉も聞いてしまって。 よし分かった、もう無理、婚約破棄しよう! 誤解から婚約破棄を申し出て自制していた番を怒らせ、執着溺愛のブーメランを食らうユリアンナの運命は? 全十話。一日2回更新 7月31日完結予定

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】

皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。

処理中です...