1 / 5
1
しおりを挟む
枝を伝う其奴は、此方をじっと見ていた。
虫という奴は目に単眼と複眼という二つの種類を持ち、より高尚な虫程、沢山の目を持っているらしい。一体、その目で何人の私を捉えているのだろうか。そう考えると、いやはや気色の悪い物である。
木漏れ日射し込む街路樹は真夏の匂いがした。私は大きな入道雲が浮かんでいる透き通る様な青空を見上げると、ポケットから取り出したハンカチで噴き出して来る汗を拭った。
「他人に良い事をすると、自分にも返って来る」
そんな言葉がかつて存在していた気もするが、過度な期待は出来ない。完全に貧乏籤である。何故、こんな事になってしまったのだろうか。
「時間を戻せるのなら、貴方はどんな過去をやり直したいですか?」
女生徒が私に問い掛けた。不可解な言動でクラスから浮いている娘である。では自分は如何なのかと言うと、浮き沈みも無く相手にすらされない「影の薄い」という言葉がよく似合う、何の面白味も無い男なのだけれども。
「貴方が望めば、どんな時間も取り戻せると思うの」
私は首を傾げると、力無く苦笑した。一体、如何してしまったというのだ。気でも狂ってしまったのだろうか。失礼だとは分かっていても、私は深い溜息を我慢する事が出来なかった。
「少しでも共感出来たなら、放課後に校門で待っていて」
そう言うと、彼女は今まで見せた事のない満面の笑みを浮かべた。私は思わずドキリとした。先程までの警戒心は何処へやら、好きでもない女性の前で顔を赤く染めて萎縮するという醜態を晒らした。
フワリと夏服のブラウスが揺れる。仄かに良い香りを残して、彼女は霞の如く姿を消した。
これはデートのお誘いであろう。普段目立たない存在の私にとっては、千載一遇の好機に思えた。よく考えてみると、言動は如何であれ、スッとした透明感のある上玉ではないか。男女の逢い引きなんぞ生徒の分際で経験出来るとは、いやはや何とも隅に置けぬ男なのだ。
もう四時限が終了しており、本日の授業は五時限までなので、後一時間程で放課後が訪れる。一時限位はさぼって帰ってしまおうかとも思っていたが、根は真面目なのだ。今までの行いあっての、思いも寄らない幸運なのである。
授業が終わるや否や、浮き足立った私は息を弾ませながら校門へと急いだ。彼女はまだ来ていない様で、男性が女性を待つ古臭い映画のワンシーンが頭を過る。
「嗚呼、これが青春という奴なのだろうか」
今まで浮かばれなかった身の上の私に罸は当たるまい。折角なので、少しの間、悦に浸る事にした。
「待った?」
私は彼女の声で我に返った。どんな顔をして待っていたのかは分からないが、外から見れば『恋に現を抜かす木偶』として映っていたのではなかろうか。そう心配すると、恥ずかしそうに首を横に振った。待ち焦がれた彼女は二割増しで美しく見えた。私は喜びと照れ臭さで、そわそわと身体を震わせた。
ふと振り返ると、周囲から多数の視線を感じる。確かに対象が対象であり、実際には然う然う無い光景なので物珍しさもあるのだろうが、それを知っていても他人から注目されるのは満更悪い気分ではなかった。
私は彼女と二人で初夏の家路を満喫した。彼女が笑うと嬉しかったし、私が笑うと嬉しそうだった。
道すがら彼女はひっくり返った虫を助けると、「他人に良い事をすると、自分にも返って来る」と小さく笑った。
「それは虫だ」そう囁く天の邪鬼を、私は必死に押さえつけた。
「少し寄りたい所があるの」
彼女の頼みに私は無言で頷くと、快く承諾した。乙女の頼みを無下に断る程に野暮ではないし、寄り道なんて中々ときめいてしまうではないか。私は胸の高鳴りを押さえられずにいた。
彼女の願いは「歩道橋に上りたい」という、寄り道と言うには随分と可愛らしい物であった。大通りの立派な歩道橋は少し帰宅路からは逸れてしまうので、彼女は気を遣ってくれたのだろう。しかし、暇人の私にとっては如何という事も無く、寧ろ大歓迎である。何なら、このまま語らい合って一夜を明かしたとしても、全く問題は無かった。
二人並んで歩道橋の階段を上る。私は勇気を出して彼女との進展を図ろうと考えた。寄り道に誘うという事は、もっと長く一緒にいたいという気持ちの現れであろう。微かな期待を胸に段差を飛ばして先行すると、彼女の手を牽こうと企てた。しかし、儚くも厭らしい気持ちは見事に掻い潜られ、彼女は軽やかに頂上へと駆け上がると、後ろに手を組んで意地悪そうに微笑んだ。赤い夕日を背にしたその構図は、絵にして額縁にでも飾っておきたくなる程に見事な物で、後光の射す女神の前では、冴えない男は跋が悪そうに自分の髪を触るしかなかった。
高架下には数多くの営みの流れが存在した。忙しなく同じ方向に流れていく自動車を見下ろしていると、何となく学校に行っているだけの自分と重なった。「周りの世界も大して変わらない」そう感じると、日常の嫌な事がとても小さな事の様に思えた。
「私と一緒に遠い所に行ってくれる?」
彼女は優しく問うたが、目は笑ってはいなかった。突然の提案に私は答える事が出来なかった。戸惑いを隠せない私を見かねた彼女は、意を決した様に目を瞑って大きく息を吐き出した。
「理解して貰えないんだね」
彼女が寂しそうに笑うと、純白の制服の裾が宙に舞った。微かな香りだけを残すと、何事も無かったかの様に交通の畝りに身を投じた。
私は急いで手を伸ばしたが、初動が遅れた為か彼女の腕を掴み損ねてしまった。初めて話し掛けられた時の透明感と去り際の雰囲気がまるで同じ感覚で、「こういう事だったのか」と妙に納得せざるを得ない。置き場の無くなった指は虚しく空を泳ぎ、私はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
暫く唖然としていた私は、「望めばどんな時間も取り戻せる」という彼女の言葉を、ふと思い出した。聞いた時は不可解で到底理解出来ぬ言葉ではあったが、物は試しである。誰が聞いたとしても阿呆にしか見えぬであろうが、このままでは心残りから気分が悪くて仕方がない。私は彼女を取り戻したい一心で、懸命に「これは夢であって、現実ではない」と念じた。
虫という奴は目に単眼と複眼という二つの種類を持ち、より高尚な虫程、沢山の目を持っているらしい。一体、その目で何人の私を捉えているのだろうか。そう考えると、いやはや気色の悪い物である。
木漏れ日射し込む街路樹は真夏の匂いがした。私は大きな入道雲が浮かんでいる透き通る様な青空を見上げると、ポケットから取り出したハンカチで噴き出して来る汗を拭った。
「他人に良い事をすると、自分にも返って来る」
そんな言葉がかつて存在していた気もするが、過度な期待は出来ない。完全に貧乏籤である。何故、こんな事になってしまったのだろうか。
「時間を戻せるのなら、貴方はどんな過去をやり直したいですか?」
女生徒が私に問い掛けた。不可解な言動でクラスから浮いている娘である。では自分は如何なのかと言うと、浮き沈みも無く相手にすらされない「影の薄い」という言葉がよく似合う、何の面白味も無い男なのだけれども。
「貴方が望めば、どんな時間も取り戻せると思うの」
私は首を傾げると、力無く苦笑した。一体、如何してしまったというのだ。気でも狂ってしまったのだろうか。失礼だとは分かっていても、私は深い溜息を我慢する事が出来なかった。
「少しでも共感出来たなら、放課後に校門で待っていて」
そう言うと、彼女は今まで見せた事のない満面の笑みを浮かべた。私は思わずドキリとした。先程までの警戒心は何処へやら、好きでもない女性の前で顔を赤く染めて萎縮するという醜態を晒らした。
フワリと夏服のブラウスが揺れる。仄かに良い香りを残して、彼女は霞の如く姿を消した。
これはデートのお誘いであろう。普段目立たない存在の私にとっては、千載一遇の好機に思えた。よく考えてみると、言動は如何であれ、スッとした透明感のある上玉ではないか。男女の逢い引きなんぞ生徒の分際で経験出来るとは、いやはや何とも隅に置けぬ男なのだ。
もう四時限が終了しており、本日の授業は五時限までなので、後一時間程で放課後が訪れる。一時限位はさぼって帰ってしまおうかとも思っていたが、根は真面目なのだ。今までの行いあっての、思いも寄らない幸運なのである。
授業が終わるや否や、浮き足立った私は息を弾ませながら校門へと急いだ。彼女はまだ来ていない様で、男性が女性を待つ古臭い映画のワンシーンが頭を過る。
「嗚呼、これが青春という奴なのだろうか」
今まで浮かばれなかった身の上の私に罸は当たるまい。折角なので、少しの間、悦に浸る事にした。
「待った?」
私は彼女の声で我に返った。どんな顔をして待っていたのかは分からないが、外から見れば『恋に現を抜かす木偶』として映っていたのではなかろうか。そう心配すると、恥ずかしそうに首を横に振った。待ち焦がれた彼女は二割増しで美しく見えた。私は喜びと照れ臭さで、そわそわと身体を震わせた。
ふと振り返ると、周囲から多数の視線を感じる。確かに対象が対象であり、実際には然う然う無い光景なので物珍しさもあるのだろうが、それを知っていても他人から注目されるのは満更悪い気分ではなかった。
私は彼女と二人で初夏の家路を満喫した。彼女が笑うと嬉しかったし、私が笑うと嬉しそうだった。
道すがら彼女はひっくり返った虫を助けると、「他人に良い事をすると、自分にも返って来る」と小さく笑った。
「それは虫だ」そう囁く天の邪鬼を、私は必死に押さえつけた。
「少し寄りたい所があるの」
彼女の頼みに私は無言で頷くと、快く承諾した。乙女の頼みを無下に断る程に野暮ではないし、寄り道なんて中々ときめいてしまうではないか。私は胸の高鳴りを押さえられずにいた。
彼女の願いは「歩道橋に上りたい」という、寄り道と言うには随分と可愛らしい物であった。大通りの立派な歩道橋は少し帰宅路からは逸れてしまうので、彼女は気を遣ってくれたのだろう。しかし、暇人の私にとっては如何という事も無く、寧ろ大歓迎である。何なら、このまま語らい合って一夜を明かしたとしても、全く問題は無かった。
二人並んで歩道橋の階段を上る。私は勇気を出して彼女との進展を図ろうと考えた。寄り道に誘うという事は、もっと長く一緒にいたいという気持ちの現れであろう。微かな期待を胸に段差を飛ばして先行すると、彼女の手を牽こうと企てた。しかし、儚くも厭らしい気持ちは見事に掻い潜られ、彼女は軽やかに頂上へと駆け上がると、後ろに手を組んで意地悪そうに微笑んだ。赤い夕日を背にしたその構図は、絵にして額縁にでも飾っておきたくなる程に見事な物で、後光の射す女神の前では、冴えない男は跋が悪そうに自分の髪を触るしかなかった。
高架下には数多くの営みの流れが存在した。忙しなく同じ方向に流れていく自動車を見下ろしていると、何となく学校に行っているだけの自分と重なった。「周りの世界も大して変わらない」そう感じると、日常の嫌な事がとても小さな事の様に思えた。
「私と一緒に遠い所に行ってくれる?」
彼女は優しく問うたが、目は笑ってはいなかった。突然の提案に私は答える事が出来なかった。戸惑いを隠せない私を見かねた彼女は、意を決した様に目を瞑って大きく息を吐き出した。
「理解して貰えないんだね」
彼女が寂しそうに笑うと、純白の制服の裾が宙に舞った。微かな香りだけを残すと、何事も無かったかの様に交通の畝りに身を投じた。
私は急いで手を伸ばしたが、初動が遅れた為か彼女の腕を掴み損ねてしまった。初めて話し掛けられた時の透明感と去り際の雰囲気がまるで同じ感覚で、「こういう事だったのか」と妙に納得せざるを得ない。置き場の無くなった指は虚しく空を泳ぎ、私はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
暫く唖然としていた私は、「望めばどんな時間も取り戻せる」という彼女の言葉を、ふと思い出した。聞いた時は不可解で到底理解出来ぬ言葉ではあったが、物は試しである。誰が聞いたとしても阿呆にしか見えぬであろうが、このままでは心残りから気分が悪くて仕方がない。私は彼女を取り戻したい一心で、懸命に「これは夢であって、現実ではない」と念じた。
2
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる