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4.視察官達(2)
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気を失う寸前、ユーノは微かに微笑んだ。全てをわかったかのように。全てを諦めたかのように。
(そうだ)
アシャは心の中で低く呟く。
(そうやって気を失っていろ)
できることなら、何も気づかず、何も知らぬままでラズーンに辿り着くのが一番幸せなのだ、ハイラカや多くの『銀の王族』のように。
(死なせるぐらいなら、と思ったが)
「…辛いな」
アシャは温まってしまった布を絞り直して、汗に濡れたユーノの額を顔をゆっくり拭う。
知性では自分の取った方法が間違っていないとわかっている。ただ眠らせただけでは、回復しきらぬままの体を押して、ユーノはすぐに他の誰かのために走っていってしまうだろう。走って走って、やがてガジェスの時のように、自ら命を捨ててしまう。
(『銀の王族』)
いずれユーノも全てを知るだろう。ラズーンのことも、世界のことも、アシャの存在が何を意味するのかも。
(俺が、どんな人間かも)
その時、ユーノはアシャを望むだろうか。
(ハイラカ・コジャン)
まっすぐに手を差し出した彼のように、まっすぐな気持ちを向けてくる相手に信頼と愛情を注ぎ、アシャには蔑みと怒りの視線しか向けてくれなくなるかもしれない。
(それとも、ラズーンの『洗礼』が終わった後に忘れさせるか)
すべてを。
ラズーンに関わる全てのことを。
アシャのことも何もかも。
(それでどうする?)
もう一度出逢い直して、ユーノの前に一人の男として向かい合うなら、アシャにも希望は残っているか。
考え込んだアシャの背後で気配が動いた。振り返らないまま誰何する。
「イシュタか」
「やっぱり、あなただったのか」
背後の声は詰めていた息を太く吐いた。
「あなたでしかありえないと思ったが、しかしまさか、アシャ・ラズ…」
「しっ」
アシャは相手のことばを素早く遮って振り返った。
戸口に、直毛銀髪、灰色の瞳の男が立っている。上級の役人、王族の使者といった身なりだ。
「久しぶりだな、イシュタ・ルス」
「セレド皇宮で一度会っている」
相手は淡々とした声音で否定した。
「あの時はまさか、あんな所にあなたがいるとは思いもよらなかった。ラズーンのアシャ……称号(クラノ)の持ち主が」
「私は称号(クラノ)持ちの中でも少々変わり者でね」
「しかし、ラズーンの名を継ぐものが、ラズーン支配下(ロダ)をうろついているとは」
イシュタは皮肉な口調で肩を竦めてみせた。
「いいじゃないか。それから、私は支配下(ロダ)ではただの『アシャ』だ、忘れるな」
「御意。……だが、それを言うなら、私もイシュタ・ルスではなく、ただのイシュトになるが」
「なるほどな、違いない」
アシャは苦笑して静かに近づいてくるイシュタを見やった。
「セレドの『銀の王族』…」
そうっとベッドを覗き込む相手がアシャを見て目を細める。
「何だ?」
「いや」
イシュタが微かに笑みを浮かべる。
「こうして話していれば全くかわりのない、ラズーンの『氷のアシャ』、笑顔は見せていても本心は見せない男のままなのに、この子にはどうしてそんな優しい目をするのかと思ってな」
「それはお前の誤解だろう」
アシャは素知らぬ顔で笑い返した。
「不要なもめ事を起こして歩く統治者などいるものか……旅はどうだ?」
「楽じゃない」
イシュタは溜め息をついた。
「あなたの連れほど腕がたてばいいが、大抵の『銀の王族』は無邪気で純粋で人を信じやすい。この動乱の時代を渡っていくにはかなり手間がかかる。視察官(オペ)一人が『銀の王族』一人を護衛してラズーンに向かっている現状だ」
「一人で一人を?」
アシャは眉を寄せた。
「それほどラズーンは揺れているのか? そこまで『銀の王族』を丁寧にかき集めた記録など目にしたことがない」
「太古生物の出現度合いも増えている……わかっていると思っていたが」
「……ああ」
「加えて人心の動揺は著しい。『運命(リマイン)』の方が成果を上げ過ぎているよ。裏切り者どもに誑かされて、ありもしない覇権の夢に溺れる国もでてきている」
「カザド、か」
アシャはユーノの寝顔を見下ろした。
「カザドだけでもない」
イシュタは物憂げに、窓の外に視線を逸らせた。
「最新情報では、『運命(リマイン)』の勢いがラズーンと『銀の王族』存亡に及ぶようなら、『泉の狩人(オーミノ)』を繰り出すのも辞さないという強行論まで出ている」
アシャは思わずイシュタの横顔を睨んだ。
「『泉の狩人(オーミノ)』を、だと?」
脳裏を過るミネルバの面影、連なる禍々しい過去に視線を強める。
「誰が指揮を執る」
ゆるやかに首を巡らせ、眩そうにアシャを見返したイシュタが静かに応えた。
「おそらくはミネルバか……あなただ」
沈黙が満ちた。
空気さえも固まってしまったような緊張、息を詰めるように睨み合っていた二人の耳に、波のように穏やかなユーノの寝息が響く。それをおそらくは同時に聞き取り、二人は緊張を解いた。
「『泉の狩人(オーミノ)』を出す、だと?」
アシャが苦い顔で首を振る。
「…馬鹿な」
「わかっておられるだろうが…」
打ってかわって遠慮がちな口調でイシュタが切り出す。
「ラズーンの崩壊は世界の秩序の崩壊だ。それを防ぐ為には最後の手段になろうとも『泉の狩人(オーミノ)』を使うのも仕方がない………多少の被害は出るにしても」
「……『泉の狩人(オーミノ)』がこちらに味方するとは限らないというのもわかっているんだろうな」
アシャは冷ややかに切り返した。
「私も……ミネルバも指揮を執る気はないだろう。彼女らを御せるのはラフィンニ…いや『太皇(スーグ)』だけだ」
相手は暗い瞳で見返す。
「……無理で押すことがないように祈るだけだ」
沈んだ声で話を打ち切るのに、アシャも相手同様、窓の外へ視線を向けた。
(二百年祭)
覚悟していたとはいえ、ラズーンへ近づくにつれ、切り捨てたはずのものが否応なく絡みついてくる。それもアシャが認めたくない方向、望まない方向に向かって、速度を上げて逆巻く奔流のように。
(ユーノと出会ってから)
応えは天啓のように閃いてアシャを竦ませた。
(出会ったことが既に運命だったのか?)
アシャを悪夢へと引き戻す運命、玉座に達する唯一の道が、実は望まないと拒んで離れることだったとでも言うのだろうか。
(ギヌア)
思い出す、白髪の下の真紅の瞳。再び相見えて戦うしかないのだろうか。
(ここでユーノから離れれば)
ユーノをたとえばイシュタに託し、アシャがユーノの願う通りにセレドに戻ってレアナと結ばれれば、アシャは運命から逃れることができるのだろうか。
(その方が幸せ、か?)
アシャにとってもユーノにとっても……世界にとっても。
顔が歪むのを感じた。
暗闇の草原、ただ一人見上げた空。
星はあったか、それとも幻だったのか。
「ん?」
ふと、視界に入ってきた二人連れに気づいた。
アレノとイルファだ。仲良く肩を並べて話し続けていたかと思うと、イルファが重々しく頷き、アレノが立ち止まった。繰り返し何かを確認するようにイルファを見上げたアレノは、もう一度強く頷いたイルファにぱっと顔を輝かせて走り去る。残されたイルファは確信するように何度もうんうんと頷いている。
(何だ?)
殉教者めいた満足げなイルファの顔に不安を感じた矢先、駆け寄ってきたレスファートがイルファに二言三言話しかけ、呆気にとられた顔になって立ち竦んだ。にこにこしているイルファと対照的にうろたえ、身を翻して、歩き出したイルファに先だって家に駆け戻ってくる。
それほど待つまでもなく、レスファートが部屋に飛び込んできた。
「アシャ!」
興奮して頬を真っ赤にしている。
「イルファを止めてよ!」
続いたことばにアシャも呆気に取られた。
「これから湖にもぐるっていってる!」
「俺は行くと言ったら行く」
イルファは断固として繰り返した。むっつりとしたアシャ、不安そうなレスファート、ナスト、マノーダと一通り見回し、ぐっと唇を曲げる。丸い木のテーブルについている顔触れには、事の成り行きを見守っているイシュタとハイラカの姿もある。
「で…でも」
おどおどとナストが口を挟んだ。
「湖の底の宝は全て湖の神のものですし、言い伝えによれば、恐ろしい魔物(パルーク)がいるとのことですよ」
現にユーノは手酷い傷を負って、湖から救い出された。
「そうだわ。湖は底がないと言われてるほど深いし……いくらアレノ姉さまが頼んだと言っても……もう、どうして、姉さまはそんなことを頼んだのかしら」
マノーダも困惑し不審がる。
「アレノは悪くない」
イルファはきっぱりと言い放って、少し赤くなった。
「ヒュークに振られたと思い込んで、贈られた首飾りを湖に投げたのも無理はない。そのせいであの騒ぎに巻き込まれたのも、アレノのせいじゃない。今度ヒュークと結婚するのに、それがないと結婚しにくいと言うのもわかるし、何よりも俺は、それを拾ってくる役目を俺に託してくれたことが嬉しいのだ」
わはは、と笑ったイルファは自信に満ちて続けた。
「第一、魔物(パルーク)はユーノが倒したんだろう?」
アシャは大きく溜め息をついた。
「何だ」
「いや、かなりおめでたい奴だと」
「最初に俺を振ったのは誰だ」
「…何の関係がある」
「とにかく!」
憮然としたアシャに、イルファは声を張り上げた。
「今の俺には、アレノ以上の相手が見つかるとは思えんのだ。報われずともいい、俺はこの愛に生きる!」
「………」
固まってしまった周囲をよそに、生き生きと瞳を輝かせているイルファに、アシャは溜め息を重ねる。
(梃子でも動きそうにないな)
イシュタへ視線を投げれば、相手は微妙な面持ちでこちらを見返している。
ぐずぐずしてはいられない、だが、ユーノの状態を考えれば、おいそれと旅立つわけにいかない。
(ユーノ)
力なく横たわっていた華奢な体を思い出す。ひそめた眉、青ざめた瞼、額から流れる汗、開いた唇が紡いでいた荒くて熱っぽい吐息。細い手首がだらりと垂れる、何も拒めず、何も防げない無力な存在になっているユーノ。
一人で戦う夜を耐え抜く強い魂をあそこまで貶めてしまった魔物(パルーク)と『運命(リマイン)』の残党が、おそらくはまだ、残っている。
(そうだ、まだあそこに残っているかもしれない、ユーノを傷つけた奴らが)
無意識に噛んだ下唇が緩むのを感じる。冷え冷えとした胸に広がる残忍な喜び。
『運命(リマイン)』討伐は視察官(オペ)の役目ではないが、これほど勢力を伸ばしてきている動きを見過ごすこともあるまい? しかもアシャには屠るだけの十分な能力があり………今や十分すぎる理由がある。いきなり攻撃をしかけては諸候の目を惹き、無用な挑発ともなろうが、イルファの宝探しというのは絶好の隠れ蓑にならないか?
(なるほど)
良い理由だ。
にやりと凄んだ笑みを浮かべる。
(忘却の湖ならば、そう易々と崩壊することもあるまい)
自分の中に横溢する不愉快で昏い熱の発散場所としては格好の広さと深さがあるのではないか?
「イルファ」
「何だ? 止めても無駄だぞ」
「わかってるよ。俺も一緒に行こう」
「へっ…」
「あの神殿にまだカザド達がいると、後々面倒だからな」
「後々面倒って……ここで一気に始末をつけるつもりなのか?」
それはさすがにお前でも無理だろう、魔物とやつらの両方を、というのは。
「ああ、もちろん無理だとも」
にっこりと微笑を返したとたん、イシュタが顔色をなくしてひやりとした顔になったのを目線で戒める。
「俺一人で、なんてな。偵察だけだ、やるときはお前の力を借りねば」
「ああ、わかった! そのときは力を貸してやるぞ、声をかけろ!」
嬉しそうに頷くイルファと対照的にイシュタが寒々とした顔で目を逸らせる。アシャという視察官(オペ)が本気を出して何をやったのか、彼は重々承知している。ついくすくす笑ってしまうと、相手はますます白い顔で表情を消した。ぼそぼそと小さく、支配下(ロダ)だとわかっているんだろうな、と呟く声が聞こえたが無視する。
「よし、そうと決まったら、腹ごしらえをして湖行きだ!」
イルファは微妙な気配に気づいた様子もなく、威勢良く叫んで立ち上がる。
「あ。はい、すぐにご用意いたします!」
はっとしたようにマノーダが立ち上がり、次の間への戸を開けた。振り返りながら、
「ナスト、手伝って!」
「はい!」
慌てていそいそとマノーダに付き従うナストに、
「あれは尻に敷かれるなあ」
イルファがのんびりと感想を漏らす。それを小耳に、アシャは、
「俺とイルファが出ている間、ユーノの事を頼みたいんだが……大丈夫か?」
レスファートに声をかけると、少年はぱっと顔を輝かせた。
「うん! ぼく、ちゃんとユーノを見られるよ! 絶対側から離れたりしない!」
「あの」
ふいにじっと話を聞いていたハイラカが口を挟んで振り向く。
「僕も側についていましょう。ユーノって彼でしょう? 怪我をして休んでいる?」
「ハイラカ」
驚いたようにイシュタが続ける。
「しかし、我々の旅は急ぐものだ」
「でも、彼を放ってはおけません。一日やそこら見ているぐらいの時間はあるでしょう、イシュト」
「う、む…」
「ねえ、アシャ、だめですか。僕とレスファートなら一層ユーノに気をつけてあげられると思うんですが」
なぜそれほど親しげにあいつの名前を呼べる。出会ったばかりなのになぜそれほどあいつの側に居たがる。煮え詰まった思考がアシャの頭を占拠する。
すぐに答えられなかったアシャを、ハイラカは不思議そうに見上げた。
「あなたも彼が大事でしょう?」
誠意と善意に満ちた青い瞳。
意外に真っ向からの真摯は強いのかもしれない。アシャはぐったりした。
「……では、二人に頼む」
「はい」「はいっ」
答えるや否や、レスファートは身を翻した。ハイラカが後に続こうとすると、ちょいと振り返って不愉快そうに顔をしかめ、きょとんとしたハイラカにふん、と露骨に鼻を鳴らして先に立つ。
(子どもはいい)
駆け去るレスファートを羨ましく見送る。
欲しいものをどこまでも追える。
「んじゃ、俺も用意してくるぞ」
落ち着かない気分を抱いたままぼんやり考えたアシャに声をかけ、イルファも部屋を出ていくのに瞬きした。
「ん、ああ」
全く俺は。
(どうしてユーノが絡むと身動き取れなくなる)
舌打ちしながら立ち上がったアシャにイシュトが近づいてきた。
「典型的な『銀の王族』だろう?」
「ああ、そうだな、誠実で、親切な少年らしい」
「甘ちゃんで困るよ、実際」
苦い顔になる相手に笑み返す。
「それこそ『銀の王族』たる所以だ」
あらゆる不安や危機感という圧迫因子を取り除いて、できるだけ変異を起こさせないようにして守ってきた、その成果だ。
「ラズーンにとって十二分に有用な素材に仕上がっているということだ、ぼやくな」
答えながらその非人道性に苦笑する。
「けれど、ユーノは違う」
「……ああ」
では気づいているのか、とアシャは目で問い返す。
「……違う存在の『銀の王族』、ということか?」
「……」
「その意味を私はたぶん本当には知らない」
続くことばをアシャは察して、窓の外を見やる。遠く高くに白く光る翼が翻るのが見えた気がする。地上にあっては恐怖と違和感を持って語られる太古生物のクフィラも、高空にあっては普通の鳥と変わらない。気づかなければ世界の変化は誰の目にも留まらない。
「あなたは知っているんだろう? 『氷のアシャ』」
静かに囁かれたイシュタの声はもっと低くなる。
『氷のアシャ』。
それは人の情熱を持たぬ冷ややかな男という意味ではあるけれど、閉ざされたラズーンの泉に生まれた者、秘められた真実を継ぐ者の響きも重ねていると知るのは、限られた役割のものだけだ。
「かの聖地の名をあなたが継ぐのはもうそう遠くではないのだろう?」
アシャは答えぬまま、イシュタの側を通り過ぎる。
「アシャ」
「……まだだ」
背中を向けて言い捨てる。
「まだ俺は選べない」
「そうして世界を見捨てるのか、滅びを見ているだけなのか」
「……ユーノに返してくるものがある」
「アシャ」
答えず、足を早めて部屋を出る。
そうだ、お前は知らない。
アシャは濁る胸で考える。
世界はもう既に滅んでいるのだ、何度も何度も、見えないところで。繰り返されている幻の現実を、人々は世界だと勘違いしている。幻を守るために幻を差し出す、その虚しい戯れ言の真実、継ぐべきものなどもうどこにもないと知って、自分もまた、いや自分こそが幻の象徴だと知って、アシャは全てを放棄したのに。
けれど出会った幻は確かに熱く生きていて。
この胸を轟かせるほどに激しく輝かしく命の限り走っていて。
ユーノ、という鮮烈な幻を、今これほどまでに守りたいと願う、この気持ちもまた幻ならば。
「幻でも、いい、と、思う、のは」
間違いか?
自分の声がこれほど切なく聴こえたのは初めてだ。
「ああ、なるほど」
そうして気づく、自分が何を求めていたのかを。
「幻でもいいと」
ずっとそう確かめたかったのか、俺は。
「アシャ」
ユーノの休む部屋に唐突に入ってきたアシャを、レスファートがむくれ顔で迎えた。自分一人でユーノを独占できると思ったのに、ハイラカがついているのが面白くないらしい。
「子どもはいいな」
思わず口を突いた本音に、レスファートがますますむくれる。ぽん、とその頭に手を置いて、アシャはベッドに近づいた。
ユーノは疲れ切った表情で眠っている。呼吸は少し穏やかになったようだ。
汗で張り付いた髪の毛を払いのけるように指先で額を拭ってやりながら、アシャは視線で示した。
「もし、目が覚めて苦しがるようなら、その袋の薬を飲ませてくれ。一度に二粒だ。起きようとするようなら、泣きついてでも寝かせておけ」
「うん、わかった」
レスファートがベッドの足下の方でこくりと頷く。
「ん…」
気配に本能が反応したのか、ユーノが身動きした。が、目を覚ますには至らずに、そのまま熱っぽい寝息をたて続ける。
アシャは無言で自分の首から、セレドの紋章ペンダントを外し、ユーノの首にかけた。金鎖の先の紋章をそっと胸元へ押し入れて、触れた肌の熱さに動きを止める。視線を動かすと、無防備な表情で眠り続けている顔がある。
(目を覚ませばきっと)
お前は俺を拒むのだろう。
押さえ難い何かに揺さぶられて、アシャはそっとユーノの頬に唇を触れた。柔らかくて甘い果実の温もりに満足した次の一瞬、
「え!」
「っ」
ふいに間抜けた声が響いて慌てて顔を上げ、窓際に立ってこちらを見守っていたらしいハイラカと視線がぶつかる。
「あ、あの、僕こっちを向いていますからどうぞ!」
奇妙なうろたえた顔になって向きを変える相手に、ハイラカがそこに居るのをわかっていたはずなのに無意識に無視してしまった自分に気づいて衝撃を受ける。
ただ一人レスファートが、そんなアシャとハイラカの固まった空気にきょとんとし、とことことやってきてベッドの端に膝をついた。
「ずるい、アシャ、ぼくも!」
ひょいと身を乗り出して、ちゅ、とユーノの頬に口づける。
「あ、ああ、親愛のね、ええそうですよね僕何を考えて」
ハイラカが顔を赤らめながら急いで向き直って笑いかけてきたのに、そこは経験値と年齢差、動揺を押し殺してしたたかに、にっこり笑い返す。
「ああそうだ……違うものに見えたか?」
「いえあのその、いや僕はただその」
アシャの返答にハイラカがもごもごしながら、より一層赤くなったのに警戒心が強まる。
(こいつ、ひょっとして)
いや、一応ユーノを『弟』として認識しているはずだから。
(まさか、そっち側なのか)
それならば安心だな、とくらくらしてくる頭の芯で考え、思考の破綻具合になおくらくらしながら、後を頼む、と素知らぬ顔で部屋を出たが、
「どうしたんだ、アシャ」
イルファが珍しく生真面目に声をかけてきた。
「何がだ」
「顔が赤いぞ」
「気のせいだ」
「そうか? いや、俺は今いろいろなことに鋭くなっているのだ、お前は確かに顔が赤いぞ」
「人の顔色などほっとけ」
お前は今愛しいアレノのことだけ考えていればいんだ、そう突っ込もうとして、そうだ、こいつがそもそも宝探しなど言い出すからややこしくなってくるんだと相手をねめつける。
「……今度は目が冷たい気が」
「……ほっとけと言ってるだろう」
それより、計画を練ろう。
なお首を傾げるイルファを外に誘った。
(そうだ)
アシャは心の中で低く呟く。
(そうやって気を失っていろ)
できることなら、何も気づかず、何も知らぬままでラズーンに辿り着くのが一番幸せなのだ、ハイラカや多くの『銀の王族』のように。
(死なせるぐらいなら、と思ったが)
「…辛いな」
アシャは温まってしまった布を絞り直して、汗に濡れたユーノの額を顔をゆっくり拭う。
知性では自分の取った方法が間違っていないとわかっている。ただ眠らせただけでは、回復しきらぬままの体を押して、ユーノはすぐに他の誰かのために走っていってしまうだろう。走って走って、やがてガジェスの時のように、自ら命を捨ててしまう。
(『銀の王族』)
いずれユーノも全てを知るだろう。ラズーンのことも、世界のことも、アシャの存在が何を意味するのかも。
(俺が、どんな人間かも)
その時、ユーノはアシャを望むだろうか。
(ハイラカ・コジャン)
まっすぐに手を差し出した彼のように、まっすぐな気持ちを向けてくる相手に信頼と愛情を注ぎ、アシャには蔑みと怒りの視線しか向けてくれなくなるかもしれない。
(それとも、ラズーンの『洗礼』が終わった後に忘れさせるか)
すべてを。
ラズーンに関わる全てのことを。
アシャのことも何もかも。
(それでどうする?)
もう一度出逢い直して、ユーノの前に一人の男として向かい合うなら、アシャにも希望は残っているか。
考え込んだアシャの背後で気配が動いた。振り返らないまま誰何する。
「イシュタか」
「やっぱり、あなただったのか」
背後の声は詰めていた息を太く吐いた。
「あなたでしかありえないと思ったが、しかしまさか、アシャ・ラズ…」
「しっ」
アシャは相手のことばを素早く遮って振り返った。
戸口に、直毛銀髪、灰色の瞳の男が立っている。上級の役人、王族の使者といった身なりだ。
「久しぶりだな、イシュタ・ルス」
「セレド皇宮で一度会っている」
相手は淡々とした声音で否定した。
「あの時はまさか、あんな所にあなたがいるとは思いもよらなかった。ラズーンのアシャ……称号(クラノ)の持ち主が」
「私は称号(クラノ)持ちの中でも少々変わり者でね」
「しかし、ラズーンの名を継ぐものが、ラズーン支配下(ロダ)をうろついているとは」
イシュタは皮肉な口調で肩を竦めてみせた。
「いいじゃないか。それから、私は支配下(ロダ)ではただの『アシャ』だ、忘れるな」
「御意。……だが、それを言うなら、私もイシュタ・ルスではなく、ただのイシュトになるが」
「なるほどな、違いない」
アシャは苦笑して静かに近づいてくるイシュタを見やった。
「セレドの『銀の王族』…」
そうっとベッドを覗き込む相手がアシャを見て目を細める。
「何だ?」
「いや」
イシュタが微かに笑みを浮かべる。
「こうして話していれば全くかわりのない、ラズーンの『氷のアシャ』、笑顔は見せていても本心は見せない男のままなのに、この子にはどうしてそんな優しい目をするのかと思ってな」
「それはお前の誤解だろう」
アシャは素知らぬ顔で笑い返した。
「不要なもめ事を起こして歩く統治者などいるものか……旅はどうだ?」
「楽じゃない」
イシュタは溜め息をついた。
「あなたの連れほど腕がたてばいいが、大抵の『銀の王族』は無邪気で純粋で人を信じやすい。この動乱の時代を渡っていくにはかなり手間がかかる。視察官(オペ)一人が『銀の王族』一人を護衛してラズーンに向かっている現状だ」
「一人で一人を?」
アシャは眉を寄せた。
「それほどラズーンは揺れているのか? そこまで『銀の王族』を丁寧にかき集めた記録など目にしたことがない」
「太古生物の出現度合いも増えている……わかっていると思っていたが」
「……ああ」
「加えて人心の動揺は著しい。『運命(リマイン)』の方が成果を上げ過ぎているよ。裏切り者どもに誑かされて、ありもしない覇権の夢に溺れる国もでてきている」
「カザド、か」
アシャはユーノの寝顔を見下ろした。
「カザドだけでもない」
イシュタは物憂げに、窓の外に視線を逸らせた。
「最新情報では、『運命(リマイン)』の勢いがラズーンと『銀の王族』存亡に及ぶようなら、『泉の狩人(オーミノ)』を繰り出すのも辞さないという強行論まで出ている」
アシャは思わずイシュタの横顔を睨んだ。
「『泉の狩人(オーミノ)』を、だと?」
脳裏を過るミネルバの面影、連なる禍々しい過去に視線を強める。
「誰が指揮を執る」
ゆるやかに首を巡らせ、眩そうにアシャを見返したイシュタが静かに応えた。
「おそらくはミネルバか……あなただ」
沈黙が満ちた。
空気さえも固まってしまったような緊張、息を詰めるように睨み合っていた二人の耳に、波のように穏やかなユーノの寝息が響く。それをおそらくは同時に聞き取り、二人は緊張を解いた。
「『泉の狩人(オーミノ)』を出す、だと?」
アシャが苦い顔で首を振る。
「…馬鹿な」
「わかっておられるだろうが…」
打ってかわって遠慮がちな口調でイシュタが切り出す。
「ラズーンの崩壊は世界の秩序の崩壊だ。それを防ぐ為には最後の手段になろうとも『泉の狩人(オーミノ)』を使うのも仕方がない………多少の被害は出るにしても」
「……『泉の狩人(オーミノ)』がこちらに味方するとは限らないというのもわかっているんだろうな」
アシャは冷ややかに切り返した。
「私も……ミネルバも指揮を執る気はないだろう。彼女らを御せるのはラフィンニ…いや『太皇(スーグ)』だけだ」
相手は暗い瞳で見返す。
「……無理で押すことがないように祈るだけだ」
沈んだ声で話を打ち切るのに、アシャも相手同様、窓の外へ視線を向けた。
(二百年祭)
覚悟していたとはいえ、ラズーンへ近づくにつれ、切り捨てたはずのものが否応なく絡みついてくる。それもアシャが認めたくない方向、望まない方向に向かって、速度を上げて逆巻く奔流のように。
(ユーノと出会ってから)
応えは天啓のように閃いてアシャを竦ませた。
(出会ったことが既に運命だったのか?)
アシャを悪夢へと引き戻す運命、玉座に達する唯一の道が、実は望まないと拒んで離れることだったとでも言うのだろうか。
(ギヌア)
思い出す、白髪の下の真紅の瞳。再び相見えて戦うしかないのだろうか。
(ここでユーノから離れれば)
ユーノをたとえばイシュタに託し、アシャがユーノの願う通りにセレドに戻ってレアナと結ばれれば、アシャは運命から逃れることができるのだろうか。
(その方が幸せ、か?)
アシャにとってもユーノにとっても……世界にとっても。
顔が歪むのを感じた。
暗闇の草原、ただ一人見上げた空。
星はあったか、それとも幻だったのか。
「ん?」
ふと、視界に入ってきた二人連れに気づいた。
アレノとイルファだ。仲良く肩を並べて話し続けていたかと思うと、イルファが重々しく頷き、アレノが立ち止まった。繰り返し何かを確認するようにイルファを見上げたアレノは、もう一度強く頷いたイルファにぱっと顔を輝かせて走り去る。残されたイルファは確信するように何度もうんうんと頷いている。
(何だ?)
殉教者めいた満足げなイルファの顔に不安を感じた矢先、駆け寄ってきたレスファートがイルファに二言三言話しかけ、呆気にとられた顔になって立ち竦んだ。にこにこしているイルファと対照的にうろたえ、身を翻して、歩き出したイルファに先だって家に駆け戻ってくる。
それほど待つまでもなく、レスファートが部屋に飛び込んできた。
「アシャ!」
興奮して頬を真っ赤にしている。
「イルファを止めてよ!」
続いたことばにアシャも呆気に取られた。
「これから湖にもぐるっていってる!」
「俺は行くと言ったら行く」
イルファは断固として繰り返した。むっつりとしたアシャ、不安そうなレスファート、ナスト、マノーダと一通り見回し、ぐっと唇を曲げる。丸い木のテーブルについている顔触れには、事の成り行きを見守っているイシュタとハイラカの姿もある。
「で…でも」
おどおどとナストが口を挟んだ。
「湖の底の宝は全て湖の神のものですし、言い伝えによれば、恐ろしい魔物(パルーク)がいるとのことですよ」
現にユーノは手酷い傷を負って、湖から救い出された。
「そうだわ。湖は底がないと言われてるほど深いし……いくらアレノ姉さまが頼んだと言っても……もう、どうして、姉さまはそんなことを頼んだのかしら」
マノーダも困惑し不審がる。
「アレノは悪くない」
イルファはきっぱりと言い放って、少し赤くなった。
「ヒュークに振られたと思い込んで、贈られた首飾りを湖に投げたのも無理はない。そのせいであの騒ぎに巻き込まれたのも、アレノのせいじゃない。今度ヒュークと結婚するのに、それがないと結婚しにくいと言うのもわかるし、何よりも俺は、それを拾ってくる役目を俺に託してくれたことが嬉しいのだ」
わはは、と笑ったイルファは自信に満ちて続けた。
「第一、魔物(パルーク)はユーノが倒したんだろう?」
アシャは大きく溜め息をついた。
「何だ」
「いや、かなりおめでたい奴だと」
「最初に俺を振ったのは誰だ」
「…何の関係がある」
「とにかく!」
憮然としたアシャに、イルファは声を張り上げた。
「今の俺には、アレノ以上の相手が見つかるとは思えんのだ。報われずともいい、俺はこの愛に生きる!」
「………」
固まってしまった周囲をよそに、生き生きと瞳を輝かせているイルファに、アシャは溜め息を重ねる。
(梃子でも動きそうにないな)
イシュタへ視線を投げれば、相手は微妙な面持ちでこちらを見返している。
ぐずぐずしてはいられない、だが、ユーノの状態を考えれば、おいそれと旅立つわけにいかない。
(ユーノ)
力なく横たわっていた華奢な体を思い出す。ひそめた眉、青ざめた瞼、額から流れる汗、開いた唇が紡いでいた荒くて熱っぽい吐息。細い手首がだらりと垂れる、何も拒めず、何も防げない無力な存在になっているユーノ。
一人で戦う夜を耐え抜く強い魂をあそこまで貶めてしまった魔物(パルーク)と『運命(リマイン)』の残党が、おそらくはまだ、残っている。
(そうだ、まだあそこに残っているかもしれない、ユーノを傷つけた奴らが)
無意識に噛んだ下唇が緩むのを感じる。冷え冷えとした胸に広がる残忍な喜び。
『運命(リマイン)』討伐は視察官(オペ)の役目ではないが、これほど勢力を伸ばしてきている動きを見過ごすこともあるまい? しかもアシャには屠るだけの十分な能力があり………今や十分すぎる理由がある。いきなり攻撃をしかけては諸候の目を惹き、無用な挑発ともなろうが、イルファの宝探しというのは絶好の隠れ蓑にならないか?
(なるほど)
良い理由だ。
にやりと凄んだ笑みを浮かべる。
(忘却の湖ならば、そう易々と崩壊することもあるまい)
自分の中に横溢する不愉快で昏い熱の発散場所としては格好の広さと深さがあるのではないか?
「イルファ」
「何だ? 止めても無駄だぞ」
「わかってるよ。俺も一緒に行こう」
「へっ…」
「あの神殿にまだカザド達がいると、後々面倒だからな」
「後々面倒って……ここで一気に始末をつけるつもりなのか?」
それはさすがにお前でも無理だろう、魔物とやつらの両方を、というのは。
「ああ、もちろん無理だとも」
にっこりと微笑を返したとたん、イシュタが顔色をなくしてひやりとした顔になったのを目線で戒める。
「俺一人で、なんてな。偵察だけだ、やるときはお前の力を借りねば」
「ああ、わかった! そのときは力を貸してやるぞ、声をかけろ!」
嬉しそうに頷くイルファと対照的にイシュタが寒々とした顔で目を逸らせる。アシャという視察官(オペ)が本気を出して何をやったのか、彼は重々承知している。ついくすくす笑ってしまうと、相手はますます白い顔で表情を消した。ぼそぼそと小さく、支配下(ロダ)だとわかっているんだろうな、と呟く声が聞こえたが無視する。
「よし、そうと決まったら、腹ごしらえをして湖行きだ!」
イルファは微妙な気配に気づいた様子もなく、威勢良く叫んで立ち上がる。
「あ。はい、すぐにご用意いたします!」
はっとしたようにマノーダが立ち上がり、次の間への戸を開けた。振り返りながら、
「ナスト、手伝って!」
「はい!」
慌てていそいそとマノーダに付き従うナストに、
「あれは尻に敷かれるなあ」
イルファがのんびりと感想を漏らす。それを小耳に、アシャは、
「俺とイルファが出ている間、ユーノの事を頼みたいんだが……大丈夫か?」
レスファートに声をかけると、少年はぱっと顔を輝かせた。
「うん! ぼく、ちゃんとユーノを見られるよ! 絶対側から離れたりしない!」
「あの」
ふいにじっと話を聞いていたハイラカが口を挟んで振り向く。
「僕も側についていましょう。ユーノって彼でしょう? 怪我をして休んでいる?」
「ハイラカ」
驚いたようにイシュタが続ける。
「しかし、我々の旅は急ぐものだ」
「でも、彼を放ってはおけません。一日やそこら見ているぐらいの時間はあるでしょう、イシュト」
「う、む…」
「ねえ、アシャ、だめですか。僕とレスファートなら一層ユーノに気をつけてあげられると思うんですが」
なぜそれほど親しげにあいつの名前を呼べる。出会ったばかりなのになぜそれほどあいつの側に居たがる。煮え詰まった思考がアシャの頭を占拠する。
すぐに答えられなかったアシャを、ハイラカは不思議そうに見上げた。
「あなたも彼が大事でしょう?」
誠意と善意に満ちた青い瞳。
意外に真っ向からの真摯は強いのかもしれない。アシャはぐったりした。
「……では、二人に頼む」
「はい」「はいっ」
答えるや否や、レスファートは身を翻した。ハイラカが後に続こうとすると、ちょいと振り返って不愉快そうに顔をしかめ、きょとんとしたハイラカにふん、と露骨に鼻を鳴らして先に立つ。
(子どもはいい)
駆け去るレスファートを羨ましく見送る。
欲しいものをどこまでも追える。
「んじゃ、俺も用意してくるぞ」
落ち着かない気分を抱いたままぼんやり考えたアシャに声をかけ、イルファも部屋を出ていくのに瞬きした。
「ん、ああ」
全く俺は。
(どうしてユーノが絡むと身動き取れなくなる)
舌打ちしながら立ち上がったアシャにイシュトが近づいてきた。
「典型的な『銀の王族』だろう?」
「ああ、そうだな、誠実で、親切な少年らしい」
「甘ちゃんで困るよ、実際」
苦い顔になる相手に笑み返す。
「それこそ『銀の王族』たる所以だ」
あらゆる不安や危機感という圧迫因子を取り除いて、できるだけ変異を起こさせないようにして守ってきた、その成果だ。
「ラズーンにとって十二分に有用な素材に仕上がっているということだ、ぼやくな」
答えながらその非人道性に苦笑する。
「けれど、ユーノは違う」
「……ああ」
では気づいているのか、とアシャは目で問い返す。
「……違う存在の『銀の王族』、ということか?」
「……」
「その意味を私はたぶん本当には知らない」
続くことばをアシャは察して、窓の外を見やる。遠く高くに白く光る翼が翻るのが見えた気がする。地上にあっては恐怖と違和感を持って語られる太古生物のクフィラも、高空にあっては普通の鳥と変わらない。気づかなければ世界の変化は誰の目にも留まらない。
「あなたは知っているんだろう? 『氷のアシャ』」
静かに囁かれたイシュタの声はもっと低くなる。
『氷のアシャ』。
それは人の情熱を持たぬ冷ややかな男という意味ではあるけれど、閉ざされたラズーンの泉に生まれた者、秘められた真実を継ぐ者の響きも重ねていると知るのは、限られた役割のものだけだ。
「かの聖地の名をあなたが継ぐのはもうそう遠くではないのだろう?」
アシャは答えぬまま、イシュタの側を通り過ぎる。
「アシャ」
「……まだだ」
背中を向けて言い捨てる。
「まだ俺は選べない」
「そうして世界を見捨てるのか、滅びを見ているだけなのか」
「……ユーノに返してくるものがある」
「アシャ」
答えず、足を早めて部屋を出る。
そうだ、お前は知らない。
アシャは濁る胸で考える。
世界はもう既に滅んでいるのだ、何度も何度も、見えないところで。繰り返されている幻の現実を、人々は世界だと勘違いしている。幻を守るために幻を差し出す、その虚しい戯れ言の真実、継ぐべきものなどもうどこにもないと知って、自分もまた、いや自分こそが幻の象徴だと知って、アシャは全てを放棄したのに。
けれど出会った幻は確かに熱く生きていて。
この胸を轟かせるほどに激しく輝かしく命の限り走っていて。
ユーノ、という鮮烈な幻を、今これほどまでに守りたいと願う、この気持ちもまた幻ならば。
「幻でも、いい、と、思う、のは」
間違いか?
自分の声がこれほど切なく聴こえたのは初めてだ。
「ああ、なるほど」
そうして気づく、自分が何を求めていたのかを。
「幻でもいいと」
ずっとそう確かめたかったのか、俺は。
「アシャ」
ユーノの休む部屋に唐突に入ってきたアシャを、レスファートがむくれ顔で迎えた。自分一人でユーノを独占できると思ったのに、ハイラカがついているのが面白くないらしい。
「子どもはいいな」
思わず口を突いた本音に、レスファートがますますむくれる。ぽん、とその頭に手を置いて、アシャはベッドに近づいた。
ユーノは疲れ切った表情で眠っている。呼吸は少し穏やかになったようだ。
汗で張り付いた髪の毛を払いのけるように指先で額を拭ってやりながら、アシャは視線で示した。
「もし、目が覚めて苦しがるようなら、その袋の薬を飲ませてくれ。一度に二粒だ。起きようとするようなら、泣きついてでも寝かせておけ」
「うん、わかった」
レスファートがベッドの足下の方でこくりと頷く。
「ん…」
気配に本能が反応したのか、ユーノが身動きした。が、目を覚ますには至らずに、そのまま熱っぽい寝息をたて続ける。
アシャは無言で自分の首から、セレドの紋章ペンダントを外し、ユーノの首にかけた。金鎖の先の紋章をそっと胸元へ押し入れて、触れた肌の熱さに動きを止める。視線を動かすと、無防備な表情で眠り続けている顔がある。
(目を覚ませばきっと)
お前は俺を拒むのだろう。
押さえ難い何かに揺さぶられて、アシャはそっとユーノの頬に唇を触れた。柔らかくて甘い果実の温もりに満足した次の一瞬、
「え!」
「っ」
ふいに間抜けた声が響いて慌てて顔を上げ、窓際に立ってこちらを見守っていたらしいハイラカと視線がぶつかる。
「あ、あの、僕こっちを向いていますからどうぞ!」
奇妙なうろたえた顔になって向きを変える相手に、ハイラカがそこに居るのをわかっていたはずなのに無意識に無視してしまった自分に気づいて衝撃を受ける。
ただ一人レスファートが、そんなアシャとハイラカの固まった空気にきょとんとし、とことことやってきてベッドの端に膝をついた。
「ずるい、アシャ、ぼくも!」
ひょいと身を乗り出して、ちゅ、とユーノの頬に口づける。
「あ、ああ、親愛のね、ええそうですよね僕何を考えて」
ハイラカが顔を赤らめながら急いで向き直って笑いかけてきたのに、そこは経験値と年齢差、動揺を押し殺してしたたかに、にっこり笑い返す。
「ああそうだ……違うものに見えたか?」
「いえあのその、いや僕はただその」
アシャの返答にハイラカがもごもごしながら、より一層赤くなったのに警戒心が強まる。
(こいつ、ひょっとして)
いや、一応ユーノを『弟』として認識しているはずだから。
(まさか、そっち側なのか)
それならば安心だな、とくらくらしてくる頭の芯で考え、思考の破綻具合になおくらくらしながら、後を頼む、と素知らぬ顔で部屋を出たが、
「どうしたんだ、アシャ」
イルファが珍しく生真面目に声をかけてきた。
「何がだ」
「顔が赤いぞ」
「気のせいだ」
「そうか? いや、俺は今いろいろなことに鋭くなっているのだ、お前は確かに顔が赤いぞ」
「人の顔色などほっとけ」
お前は今愛しいアレノのことだけ考えていればいんだ、そう突っ込もうとして、そうだ、こいつがそもそも宝探しなど言い出すからややこしくなってくるんだと相手をねめつける。
「……今度は目が冷たい気が」
「……ほっとけと言ってるだろう」
それより、計画を練ろう。
なお首を傾げるイルファを外に誘った。
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