『ラズーン』第二部

segakiyui

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6.『風の申し子』(3)

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(ああ、また雪白(レコーマー)が鳴いている)
 与えられた一室、横になるとそのまま吸い込まれていきそうになるベッドで、ユーノはうつぶせに身を沈ませ、ぼんやりと考えている。
 四肢から力を抜き切ろうとしても、心のどこかに緊張が残っていて、もし誰かがいきなり部屋に入ってこようとすれば、瞬時に側にある剣に手が伸びるだろうとわかっている。
『剣を、ですか?』
 ミノの不審そうな声が耳に戻ってくる。
『ここは安全ですのに』
 幼い顔立ちに微かに浮かんだ怒りは、客人が見せた主人への警戒に対するもの、敬愛する主の支配下で安らげないと伝えられるのは、主を貶められるのと同じだと伝えている。
(ごめんね、ミノ)
 ユーノは心の中で謝った。
 どうしようもないのだ。今まで剣を体から離して眠りについたことなど、ほとんどない。そうしていなければ、次の日の朝日は見られないと知っていたからだ。
 ミアアアア……と、高く澄んだ雪白(レコーマー)の声が響く、重く静まり返った闇を刺し貫いていくように。
 思い出すともなしに、幼い頃のことが甦る。

 いつものように、カザドが攻めてきた翌日のことだった。連夜の闘いに疲れ果てて、いつベッドに転がり込んだのかの覚えもなかった。
 目を覚ましたのは額に当てられた白い手のせい、まばゆく日差しがちらつく中に、母の姿が浮かんでいた。
「どうしたの? うなされていましたよ」
 薄紅の唇で微笑んだ母が、心配そうに問いかけた。
「母さま…」
 日の光が目に痛いほど、なぜかふいにほっとして、ユーノは微かに囁いた。
「怖い夢でも見たのね、ほら、こんなに汗をかいて」
 母の白く美しい指先が額と頬を辿っていく。柔らかに広がる花の香り、出入りの商人が運ぶ香水は母の面差しによく似合う。
 陶然と甘さに酔いながら、ユーノは無意識に手を伸ばしていた。
 母の胸へ、何もかもが許されているのだと言いたげな、懐かしくも温かい腕の中へと。
「ユーノ…」
 母は囁いて、体を起こしたユーノを支えようとするように、そっと彼女の方へ手を伸ばした。
「何かあるなら話してちょうだいね。私はあなたの母さまでしょう?」
 怖い夢。
 そうなんだ。ひどく怖い夢に毎日うなされているんだ。明日は母さま達の顔がみれなくなるんじゃないかという、竦むような孤独な夢に。
 そう打ち明けることが、今ならできそうな気がして、幼いユーノは安堵に泣きそうになりながら母の腕に触れた。
 もう大丈夫だ、母はきっとユーノを庇ってくれるだろう。ユーノのことばを信じ、守ってくれるだろう。背後に忍び寄る影を心配せずに、ようやく幸せな眠りにひたれるようになるだろう。
「母さ…」
 掠れた声を絞り出す、期待に震えながら。
 けれど。
「母さま!」
 いきなり開いた扉から、泣きながらレアナが飛び込んできて、ユーノはびくっと手を引いた。
 レアナは白い寝衣の裾を乱して、振り返った母の腕の中へまっすぐに飛び込む。
(あ…)
 ずきり、とユーノの胸に痛みが走った。
「あらあら、どうしたの、レアナ」
「母さま! 母さま!」
 泣きじゃくりながら、レアナは母をしっかり見つめて訴える。
「怖い夢を見たの! とっても怖い夢を見たの! 怪物が出てきて、私を食べようとするの!!」
「まあ、かわいそうに。でも、大丈夫よ、母さまが守ってあげますからね」
「だって……だって……」
 レアナは泣き続けながら母の胸にしがみついている。そして母もまた、レアナを強く抱き締めている。
 その二人をじっと見つめていたユーノは、ほんの少し、首を傾げる。
 額に髪が乱れ落ちる、さらさらと、小さな、レアナの泣き声に消されてしまう、聞こえない音をたてて。
(母さま)
 声にならない声が胸の内にひたひた満ちる。
(母さま。私、本当に、怪物に食べられちゃうかも知れない)
 言いたかった。
 しがみつき、泣きじゃくり、地団駄踏みながら、夜ごと襲う恐怖と不安を訴えたかった。
 母はきっと驚くだろう。いろいろと尋ねてくれるだろう。ユーノも抱き締めてくれるかも知れない。今、レアナにしているように髪を撫で、キスをくれ、優しく慰めてくれるかも知れない、だが。
(言って……どうなる?)
 誰がどうすればいい、という単純な話ではないのだ。
 カザドがセレドを密かに狙って攻撃を繰り返しているとわかれば、この平和な光景はたちまち崩れ、国はあっという間に戦乱に巻き込まれていくだろう。戦うことを随分昔に忘れてしまった民は、蹂躙されもがいたあげくにのたうち倒れていくのだろう。
 それはいつか起きてしまうことかも知れない。
 けれど、今目の前にある、この穏やかな光景を壊す権利は、ユーノにはないような気がした。
 たとえ、その中に、ユーノが永久に入れないとしても、守ることはできる、大事な人を、大事なものを。
 胸の内を吹き抜けていく風に、カラカラと何かが鳴る。それは冷たく、物悲しい音だった。
「母さま」
 ユーノは静かに声を掛けた。
 さきほどのユーノへの気遣いを忘れたように訝しげに振り向く母に、眠たそうに装って笑って見せる。
「私、まだ眠いや。もう少し寝るよ」
「そう? ……じゃあ、レアナ、こちらへいらっしゃい。ユーノはまだ眠いんですって」
 母さまの側であなたも少しおやすみなさい。
 柔らかな声で言い聞かせながら、まだしがみつくレアナを伴って、ゆっくり扉の外へ消えていく。
 扉が閉まると、ユーノは微笑みを消した。汗まみれになって湿っている寝床の中へ再び伏せる。この間受けたばかりの傷が、引っ掛けたのだろうか、ずきずき痛んだ。体を丸め、掛け物を深く頭まで被り、傷めた足首を抱え込む。
 そうしてしばらくしていると、微かな安堵感が広がってきた。痛みも薄れ、そっと手を離す。そのまま、自分の腕で胸を抱き、体をより深く曲げて、小さく丸くなっていく。寝床の中で、これ以上小さくなれないほど体を竦めたとき、ようやく一筋、頬を涙が伝った。
「ふ……うっ…」
(怖いよ)
 零れる涙がことばを解放する。
(怖いの……母さま……父さま……姉さま…)
 どこへも届かぬとわかっているから上げられる悲鳴だった。
 誰も聞かぬとわかっているから吐き出せた弱音だった。
「ふくっ」
 声が漏れそうになって、顎を胸に強く押し付け、顔を伏せ、声を飲み込み。
 ユーノは静かに泣き続けた……。

(あの時はまだ怪我が治っていたからましだった)
 思い出して苦く笑う。
(一度なんか、まともにばれそうになったっけ……)

 一、二年前のことだ。
 その日、ちょっとした油断から、ユーノは深手を負って皇宮に戻って来ていた。
 ベッドに寝ると血で掛け物を汚してしまうからと、部屋の隅で布を押し当て、止血しながら横になっていた時、母が急に入ってきて驚いた。
「ユーノ? これをごらんなさい。明日の夜会用に作らせたのだけど」
 母が手にしていたのは銀白のドレスだった。
「……どこにいるの?」
「ここだよ、母さま」
 慌てて怪我をした片手を部屋着で隠しながら、椅子に座ったユーノの隣に母は腰を降ろした。
「どうかしら」
「きれいだね…けど、私はあんまり…」
「でもきっと、今度はあなたにも似合うと思うのよ。レアナもセアラも、とてもよく似合っていたから」
「うん…でも…」
 腕ばかり押さえていては妙に思われる、かといって、止血できていなかった傷からはどんどん血が流れていくのがわかる。
 疲労と出血で朦朧としてきて、母が見せているドレスが霞み、一瞬視界を失ってことばを切った。だが、母は気づかぬ様子でことばを継いだ。
「ユーノ、あなたもそろそろ、少しは娘らしく振る舞わなくてはいけませんよ。わかっているでしょう、あなたはセレドの皇女なのよ。いつかは立派な殿方と連れ添い、穏やかで幸せな暮らしをするよう心がけなくては」
「できる、かな」
 眩む視界を必死に瞬きしながら呟き、乱れる呼吸を整える。それでもぐっと深い場所に落ち込みそうになって、二度三度、無意識に首を振った。それを母は否定と取ったらしい。
「できるできないではなく、努力しなくては。皇女には皇女の務めがあります。それに」
 できますよ、私の娘なら。
 説得する声には思いやりと優しさが溢れている。
「そう…だね」
 ユーノは一瞬込み上げた吐き気を何とかしのいだ。
「うん…それ……着て、みるよ」
「ユーノ?」
 母が唐突にこちらを覗き込んで、体が竦む。
「顔色が悪いわね。気分でも悪いの? そう言えば」
 妙な臭いもするようね、何でしょう。
 立ち上がって、今にも部屋中を探そうとする母を、ユーノは慌てて引き止めた。
「あ、昼間、剣の練習をしてたん、だ」
「剣を?」
 不審そうに振り向く母に苦笑して見せる。
「そのとき、急に飛び出してきた鳥がいて、傷つけて、しまったから」
「まあ、ユーノ、何てかわいそうなことを」
 母がくっきりと眉を寄せた。
「命あるものを傷つけてはだめですよ。その剣も放っているのはなおいけません」
 ちゃんと手入れして片付けておきなさい。
「はい、わかって、ます」
「生き物は全て精一杯生きているのだから、大切に守らなくては。遊びで傷つけるようなことがないようになさい」
 遊びで。
 胸を貫くそのことばに吹き上がる傷みを、必死に笑みの下に噛み殺す。
(ならば、母さま)
 私が死んだ方がいいのかな。
「それではおやすみなさい、ユーノ」
「…おやすみなさい」
 ユーノのとぎれとぎれのことばを、ドレスを不快がったととったのか、母は小さく溜め息をついて静かに部屋を出て行った。
「……遊びで、か」
 また込み上げる吐き気に冷や汗をかきながら、部屋着の上から傷を押さえる。見下ろすと、その下には血溜まりができている。妙な臭いとは血の臭いだったのだが、母が気づくはずもない。体は鉛のように重くなり、足の力が抜けていて、椅子から立ち上がれなくなっていた。
「あそ、び…」
 剣がただの遊びであったのなら。
 ユーノのドレスを着ない理由が、ただの好みであったのなら。
 広げられたドレスを霞む目で眺める。
 確かに美しい。確かに見事だ。確かにそれは大切に仕立てられたものだ、けど。
 ユーノの生きている世界とあまりにも遠く関係がない。
(誰も、わからないんだ)
「ふ…っ」
 視界が真っ暗になった。そのまま気を失ったのは、傷だけではない、どこまで落ち込んでも果てのない、孤独という闇の感覚を自覚したからかもしれない。

(あのときはゼランが面倒を見てくれたっけ)
 母さま達には内緒ですね、と頼もしく笑ってくれたのを僅かに心の支えにしたが、それも。
(当たり前だな、敵だったんだから)
 苦しくて切なくて、シーツを掴んでベッドに体を押し付ける。噛み締めた唇には、あの日と同じ味がしている。眉をしかめ、辛い記憶を忘れようとしても、思い出は怪我を重ねるたびに孤独の色を深めていく。
(どこまでいっても、どんな目にあっても)
 助けなんか、こない。
 部屋の外では、ミア……ミアアア……ミアア……アアア…と、まるで呼び交すような雪白(レコーマー)の声が響き続けている。
(だめだ……今夜は本当にどうかしている)
 何を考えても、どれだけ気持ちを逸らそうとしても、何度も何度も心が記憶に舞い戻る。
「くそっ」
 しばらく激情に耐えていたユーノは、ようよう力を抜いて、体を起こした。枕元に置いてある深緑の衣に目をやる。小川の水に濡れたのは乾かしたが、まだ返していないアシャの衣。
(このせいも、あるのかな)
 未練がましく側に置いているから、こんな気持ちに囚われるのかもしれない。明日には絶対返してしまおう。
「うん」
 小さく頷いて、ベッドから滑り降り、窓を開けた。
 静まり返った夜の空気は清冽だった。遠く近く、風に乗ってうねるように波打ちながら響いてくる雪白(レコーマー)の声も、その夜気の中ではさっきほど甘い切なさを呼び起こさない。
「…大丈夫」
 言い聞かせる。
「まだ、大丈夫」
 一つ深い溜め息をついて窓を閉めようとしたユーノは、ふと、宮殿の影からにじみ出るように離れていく人影に気が付いた。気配を消し、するすると去って行く姿は、どうもただ事ではない。
「誰だ!」
 鋭く一声問うと、人影はびくりとしてユーノを振り返った。
 淡い金髪と、エメラルドの瞳には覚えがある。
「『風の申し子』?」
「見つかってしまったか」
 雪白(レコーマー)の背中で気を失っていた青年は苦い顔で吐いた。
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