25 / 46
7.『晶石の谷』(2)
しおりを挟む
「……ラズーンの基盤、だ。一言で言えば」
リークは片手で冷たくなった雪白(レコーマー)の毛をそっと撫でてやりながら、
「いや、この雪白(レコーマー)達も、世界も、全ての、というべきかな」
微かに呟いた。
「どういうこと?」
「ラズーンは二百年に一度、最大の危機を迎える。その危機をうまく乗り越えられないと、この世界が崩壊する。それを防ぐために……ラズーンを再構成するために『銀の王族』が必要になるんだ。……『銀の王族』の持っているものが」
(世界が崩壊する)
ラズーンの危機がこの世界の危機になる、それは想像がつく。だが、世界が崩壊する、とはどういうことなのか。
「持っているものって…」
ユーノは必死に自分の持ち物を、自分の姿を考える。
「……銀のオーラ?」
からからになってくる喉に何度か唾を呑み込んで、さらに問いかけた。
「オーラは意味としては視察官(オペ)のものとそう変わらない」
リークは軽く首を振った。
「それぞれの『役割』の認識票みたいなものだ」
(認識票)
『銀の王族』には『銀の王族』の、視察官(オペ)には視察官(オペ)の定められた役割があり、それはラズーンの危機を防ぎ、世界を崩壊させないことに繋がっている、ということ、しかもそれはすぐにそれとわかるようにしておかねばならないものだということ。
(人違いっていうのはあり得ないってことか)
ではアシャが視察官(オペ)としてユーノを『銀の王族』だと認めたのなら、偶然や勘違いの類ではないということだ。
(でも……私に何ができる?)
確かにユーノは剣を使え、人よりは闘いに秀でているかもしれない。けれども、それこそ、世界を巻き込むような戦争などが起こったとしても、ユーノ程度の力など意味を為さないだろう。イルファのような強力無双の兵士か、レスファートのように人の心を読める存在の方がよほど戦略的に必要だろう。
それは旅の途中で会った、別の『銀の王族』だろうハイラカにしても同じだ。彼だって特別な力を持っているようには思えない。ましてや、今回行方不明になったアルトに至っては、世界の命運を握る存在にしてはあっさり命を消されかねない状態だ。
(何だろう、この妙な感じ)
たとえば『銀の王族』にそれぞれ秘められた能力か何かがあって、それをラズーンに辿り着いて目覚めさせて役立てるのだとしても、それほど貴重な存在ならもっと厳重に警護すればいい。いや、そもそも、ラズーンの子、というぐらいなら、元々はラズーンに居たのかも知れない、ならばそこから手放さなければいい。
(ちぐはぐな、噛み合わない感じ)
かけがえのない存在なのに、あえて運を天に任せるような曖昧な扱い。
「じゃあ『銀の王族』って」
一体何をするの。
そう尋ねかけたことばは、独り言のように続いたリークの声で思わず呑み込んでしまった。
「まあ、アシャは違う。アシャの金のオーラは特別なもので……それ故にクラノを得たんだが」
「クラノ?」
「ああ、このあたりではあまり使わないことばかな……称号のことだよ」
リークは小さく溜め息をついた。
「彼の正式な名前は、アシャ・ラズーンだ」
「アシャ、らず…」
思わずユーノは体を強張らせる。
セレドに限らず、個人名に国名を重ねる、あるいは国の古い呼び名を重ねるーセレドの場合はセレディスが古称となるーことは、とりもなおさず、その人間が国を継ぐ正当な立場のものであるということを示している。アシャが、自分の名前に『ラズーン』を戴くということは、つまり。
(アシャは統合府ラズーンの正統世継ぎ!)
頭の遠い所でくらりとしためまいが起こった。
ユーノも育ち方が外れているとはいえ皇女、国の規模の格差は重々理解している。また、セレドのような辺境の小国でも、父のセレド皇が重要な政策を定める議事にどれほどの重責を負うのかつぶさに見ている。
それらの小国が寄り集まって大陸ごとの諸国群となり、それらの集合が世界となり、その世界の諸国を統括するのがラズーンだ。そのラズーンを統べる王となれば、それは世界の王、王の中の王と呼ぶしかなく。
(その…世継ぎ…)
格が違い過ぎる。
竦む感覚があった。
「ラズーンの……世継ぎが……どうして……諸国を巡る旅人なんかに…」
思わず漏らした自分の声が掠れていた。
言われてみれば、育ちの良さは十分伺えた。並々ならぬ博識、優れて洗練された特殊な剣の腕、宮殿などでの気品ある振る舞いとどこでも物怖じすることのない大胆さは、美貌だけではなく、もっと巨大な世界のもっと多くの人々に、『ラズーン』の名を背負って対してきたからだったのだ。
今にして思えば、イシュタの対応もメーネの訳ありげな様子も、それならば全て納得がいく。統合府ラズーンの世継ぎがふらふらと辺境を彷徨っていれば、そこには何らかの意図があると考えるのが当然、ましてや気持ちを向けるなど恐れ多く、ただただ不興を買わないことが得策と考える輩も多いはず、どこへ出向いても顔を知られていれば歓待されて当然と言える。
「さあ……実はそれは一つの謎なのだ」
リークの声もあやふやに聞こえた。
「アシャがなぜラズーンを出たのか。なぜそれを父である『太皇(スーグ)』が許されたのか。誰も本当の理由は知らないのだ」
「………」
(どうしよう)
ユーノはじっとりと体を濡らしていく冷や汗を堪えた。
アシャがラズーンの正統世継ぎだとすれば。
知らなかった、隠されていたとは言え、ユーノはその王の中の王の世継ぎを付き人に仕立ててあれこれ世話をさせ、数々の無礼な扱いをしてきている。こんな旅に引っ張り出し数々の危険に巻き込み、あまつさえ……唇まで重ねている。
(どう、しよう)
ラズーンの『太皇(スーグ)』は寛大な方だろうか。息子に加えられた理不尽な扱いを、諸国の無知な者どもはと愚かさと哀れみで看過してくださるだろうか。
(どうしよう…っ)
これはもう好きだの嫌いだのと言える状況ではない。アシャの気持ちがどうかという問題でもない。
(セレドが…っ)
もしアシャへのユーノの対応が、ユーノ一人のものではなく、セレドがラズーンを軽んじた故だと思われたら、ユーノはもちろん、セレドそのものの扱いが悲惨なものになるのは火を見るより明らか、レアナの想いは散るしかなく、皇家が滅亡するだけならまだしも、守ってきた大切な民も同罪として攻め落とされるようなことになったら。
(私のせいだ)
胸の底が凍り付く。
「リーク…」
最後の望みをかけて必死に尋ねる。
「アシャ以外にもラズーンの名を受けている人はいるの…?」
王家には時に多人数の王子が居る。アシャが諸国を放浪しても追手も守護もつかなかったというのは、ひょっとするとアシャがラズーンの中ではそれほど重要な王子ではないのかもしれない。
「ああ、四、五人は居るはずだ」
「そう…」
リークがあっさり応えて思わずほっとする。
(そうだ……そうだ、よね)
きっとアシャはその中の四番目とか五番目とかの王子なのだ。だから、ラズーンを離れても誰もそう気に留めず、本人のしたいままにさせているのかもしれない。
(うん、きっとそうだ)
汗に濡れた額をちょっと拭ってユーノは吐息をついた。
(もしそうなら)
確かにうんと少ないことかもしれないけれど、そういう自分勝手にラズーンを出奔した『不良』王子が、諸国の美姫に一目惚れして、強く強くその側に居たいと願ったのなら、そしてユーノが無事に一度はアシャをラズーンへ連れ帰れば、その働きに免じ、特別の恩寵をもって、アシャがセレドの皇となって降りることを許されるかも知れない。セレド皇ミアナ皇妃も、放浪詩人ではなくラズーンの王子であるとなれば、血縁を結ぶことは国家の安定に強力な約束となる、レアナとアシャの婚姻を反対する理由はないだろう。
(そうなれば、レアナ姉さまも喜ぶし、セレドも無事だし)
もしかしたら、ユーノにはやはりある程度のお咎めがあるかもしれないけれど、もしそれが万が一ユーの一人の命で購えるものなら全く問題はない。
(うん、だからできる限り早くラズーンに着いて)
その『銀の王族』とやらの役目を一所懸命果たして、アシャをセレドに戴きたいと心を尽くして頼んでみよう。
「うん」
「え?」
「あ、いや」
一人頷いてリークに怪訝な顔をされ、我に返る。
(そんな先のことより、まずここから脱出しなくてはならないんだっけ)
それにまだわかっていないことがある。
ラズーンが二百年に一度迎える危機とは何なのか。
『銀の王族』はラズーンで何をするのか。
そして『運命(リマイン)』とは、そのラズーンとどういう関係にあるのか。
「リーク、あのね、ラズーンは…っ!」
尋ねようとしたユーノの耳に、静まり返っていた周囲にふいにカラッと岩が崩れる音が響き渡った。ことばを切って振り返ったユーノは、同時に剣を手元に引き寄せて立ち上がり、闇に向かって叫んだ。
「誰だ!」
「どうした?」
ふいに立ち止まったアシャに、イルファが低く問いかけた。
雪白(レコーマー)から降りて入り込んだ晶石の裂け目、足下も不安定な薄暗がりの中で、アシャは遠くの稲妻を探すように視線を彷徨わせる。
「いや…叫び声が聞こえたような気がした。ユーノ達に何かあったかな」
「あいつなら大丈夫だ。俺が太鼓判を押す。あの『風の申し子』とやらは、どうか知らんがな」
イルファがしたたかに笑う。
「違いない」
アシャは苦笑を返した。
なまじの視察官(オペ)よりユーノの方が剣の腕は上かも知れない。
(本当になんて娘だ)
華奢な体に底知れぬ忍耐力と度量と鋭さを秘めて、ただ一人でも、人の心を呑もうとする闇に立ち向かおうとする。細い腕にずしりと重い剣を操り、瞳に深い哀しみをたたえる少女。差し出すアシャの手にためらいがちに首を振り、そっと一歩、いつも、いつも、遠ざかってしまう。
(俺は何を恐れている?)
アシャは自分に問いかける。
ユーノのことだ、そう易々と刺客の手に倒れる事はあるまい。
ならば、アシャは何を恐れているのか。
(ユーノがこれ以上、俺から離れていってしまうこと、か?)
リークは視察官(オペ)の中では口が軽い。些細なきっかけで、アシャの正体をユーノに話してしまうかも知れない。
それを知ったユーノは、アシャに対してどう振る舞うだろう。
(この世の果て、世界の統合府、ラズーン、か)
アシャ・ラズーン。
その名に示された称号は、ラズーン支配下(ロダ)の人間をひれ伏させてあまりある。
しかも、アシャは、称号(クラノ)を与えられた中でも最上級、ラズーンの正統世継ぎとしての権利を持っている。
(世界を統べる国の、世界を統べる王としての権利)
もちろん、ラズーンを統べる『太皇(スーグ)』は、そんなことにはこだわらないだろう。アシャが権利を放棄したいと言えば、考えてもくれるだろう。アシャにはそれなりの事情がある。
しかし、ユーノはどう思うだろう、アシャのその地位を。
(身も世も捨てて希う)
そういう恋も幾度か見た。そこまでかけられる情熱と周囲を無視して暴走する想いを、人間ゆえかと眺めたこともある。だがしかし、自分にだけは起こりえないと思っていた、どんな不可思議が起ころうとも、たとえラズーンが明日滅すると聞かされても。
アシャ・ラズーンという存在には、そういうことが許されない枷がある、人の尊厳の意味を奪う、頑丈で冷徹な鎖。
(なのに、俺は)
今のアシャには、どんな理由にせよ、ユーノがこれ以上自分の側から離れていく理由は作りたくない。その理由が自分の出自を巡ってじわじわとユーノの意識に入り込んでいくのが、これほど不安になるというのも予想外だ。
(旅に身を委ねるアシャ、であればよかった)
ただの、地位も力もないただの男であれば、自分の欲望を理由にユーノの側にいることはできただろうに。
(シートスが聞いたらどう思う)
野戦部隊(シーガリオン)を率いる剛毅な男は、怒れば一都を灰燼に帰す平原竜(タロ)でも時がくれば『番い』になりたがりますからな、と高笑いするだろう。
「アシャ…」
イルファの声にアシャは我に返った。
前方からゆらゆらと揺らめく明かりがやってくる。その明かりのせいで、辺りは一層闇を増したかのように見える。
アシャは見つめるイルファのごつい顔に頷き、岩陰に身をひそめた。
明かりの色から見て、おそらくは松明の火だろう。たまたまここへ迷い込んできた輩が、たまたま松明を用意していたとは思えない。意図があって入り込んできている何者かが居るのだ。
(『運命(リマイン)』支配下(ロダ)の人間か……あるいは)
チッと微かな音がした。イルファが剣に手をかけたのを横目に、アシャは目を細める。
明かりは二人の殺気を感じた様子もなく、相変わらず頼りなげな揺れ方をして近づいてくる。晶石はきらきらと光を放ち、周囲を不思議な色合いに染める。
「!」
角を曲がってきた相手に、アシャは息を呑んだ。それは他の誰でもない、ソクーラの『貴婦人』の弟、エタ王子の姿だったのだ。
ぎょっとした顔でこちらを振り向くイルファを眼で制して、アシャはエタの様子を見守った。
放心しているふうではない。明らかに自分の意志でここへやってきている。
エタは二人が身をひそめている岩の少し先のところで、知っていなければ、それとはわからないだろう、小さな裂け目に入っていく。
「…アシャ」
明かりの揺らめきも裂け目に吸い込まれ、辺りが元の薄暗がりに戻ると、イルファが不審そうな声音で尋ねてきた。
「どういうことだ? なぜ、あいつがここにいる?」
「わからん」
応えながらアシャも眉を寄せた。
(ソクーラは、まだ『運命(リマイン)』支配下(ロダ)になかったはずだが)
サマルカンドが定期的に伝えてくるラズーンへの照合を思い起こす。
それとも、『運命(リマイン)』の侵攻がラズーンが把握しているよりも早く、既にソクーラも『貴婦人』の気づかないところで『運命(リマイン)』に落ちているということか。
(二百年祭だからな)
統合府ラズーンにも弱みはある。二百年ごとにくる、必然的とも言える支配力の低下だ。
ただ今回はその進み方が速すぎる。歴代のどの祭よりも、急速にラズーンは求心力を失っていると思える。
今回の二百年祭が、リークが心ならずも口を滑らせたラズーン存亡の危機となるのかも知れない。
(いつかは来ると知らされていたが)
どうしてよりにもよって今回なのだろう、と苦々しく思う。
そんな、世界が揺り動かされるような時代の中を、すぐ死の女神(イラークトル)の腕に駆け込みたがる、しかも他の誰よりも愛しい存在となりつつある娘を連れて渡っていかねばならぬとは。
だが、ある意味ではその激動こそがユーノを作り上げたとも言えるのだ。
(時代が人を、人が時代を作り上げる)
濃密なその関係を横目に見るしかない命としては複雑な思いが広がるだけだ。
「おい」
「ん?」
「この裂け目、狭いがかなり深いぞ、どうする?」
エタが入っていった裂け目を調べていたイルファが、窮屈そうに振り向いて顔をしかめた。
「それに、おかしな臭いもする」
「臭い?」
「腐肉の臭い、に近い」
「腐肉…」
嫌な予感が胸に広がったのはイルファも同じ、こんなところでレガに会えば、身動きとれなくなる。だがレガが居るならば、そこにアルトが捕らえられている可能性もある。
もっとも生きているかどうかは保証の限りではないが。
「行くしかないようだな」
「仕方ねえな。ま、お前となら心中しても本望だが」
裂け目に入りかけたアシャは思わず身を引いた。先に立ったイルファが険のある目つきで振り向く。
「俺とじゃ、不満だっていうのか」
「いや、そうじゃないが……お前が言うとどうも別の含みがあるように聞こえる」
「どんな含みだ、お前となら生死共にしても悔いはないという、強い仲間意識だろうが」
「強い仲間意識、な」
「そうだ身も心も一つにして一緒に歩こうという強い仲間意識だぞ!」
「……」
アシャは無言でもう少し距離を取った。
(そういう『仲間意識』を少しでもユーノが持ってくれるなら)
アシャも心丈夫なのだが。
「…確かに臭うな」
奥へ進むにつれて漂ってくる臭いにアシャは眉を寄せる。
腐臭、そう言えなくもない。だが、レガや『運命(リマイン)』が好むような生々しいものではないようだ。
「狭い、な」
体を屈めたり捻ったりと奮闘しつつ、それでもあちらこちらの岩角で体を擦りながら、イルファはぼやく。
「一体どこまで続いてやがる」
「谷のなかばぐらいまでは来ているだろう…途中で詰まるなよ」
「詰まれば生涯二人きりか」
「安心しろ、俺の後には道がある」
「見捨てるのか」
「助けを呼んでくるという方法もあるという話だ」
「相変わらず冷たい男だな、ちょっとは気持ちを察してくれてもいいだろう」
そういうことをこの状況で口にするからややこしくなるんだろう、そう突っ込みかけて、先を行くイルファがぐいぐい速度を上げ出したのに気づく。
「何だ? 急に楽に通れるようになったぞ」
「通路が広くなってるんだな……おい」
首を傾げたイルファの姿がふい、と目の前から消える。
「すげえ…」
「何だ?」
少し先から響いた声に足を速めると、数歩先で裂け目はいきなり大広間のような洞窟になっていた。
松明の炎が赤く、洞窟の中央あたりで揺れている。どこからか光が差し込んで、埃を浮かび上がらせながら洞窟の中を照らし出している。
そこは墓場だった。
ただし、人の手の加わっていない、そして人のものではない墓場だ。
煌めく晶石に取り囲まれ、見下ろされ、受け止められ、骨と皮になった十数体の乾いた雪白(レコーマー)の死体と、数知れぬほどばらばらになって散ったり砕けたりしている巨大な生き物の白骨が、そこに横たわっていた。
おそらくは死期を悟った雪白(レコーマー)は、ここに来て死出の旅を始めるのだろう。
虚ろな眼窩には既に深く澄んだ青の瞳はなく、ふわふわと真白な毛だけが微かな空気の流れに漂っている。
悲しみはない。
ただ、辿り着いて全てが終わった、死というものの安らぎと静寂が満ちているだけだ。
「アシャ! イルファ!」
こちらに気づいたらしいエタが振り返り、頓狂な声を上げた。
「どうしたんです? こんな所で?」
「あなたこそ」
近づいてくるアシャ達に、エタは穏やかな目を少し籠らせて立ち上がり、今まで跪いていた場所に横たわる一頭の雪白(レコーマー)に視線を落とした。
「雪白(レコーマー)の死を看取りに……ぼくの好きな一頭でしたから」
今息を引き取ったばかりなのだろう、ひんやりと静かな洞窟の中、その雪白(レコーマー)の周囲だけ仄かに温かな気配があった。
「けれど、あなた達こそどうして。晶石の谷へ向かわれたはずではなかったんですか」
「ああ、実は…」
アシャは晶石の谷から入ったところで明かりを見つけ、その後を追いかけてきたことを話した。
「へえ……じゃあ」
エタは驚いた表情で振り返り、岩の彼方を透かし見るような顔になった。
「向こうの平原から入れる所が繋がっているんだな。ここも回りの岩から見て、晶石の谷の一部だろうとは思っていたんですが」
「それはいいが、それよりここで怪しいやつを」
見かけなかったか、そう尋ねかけたイルファは、エタの顔が強張り、瞳が見る見る大きく見開かれるのにことばを切った。視線を追って振り返ったアシャが、
「これは…また」
凄みを帯びて殺気立った声に重なるように、ガシャッと乾いた音が響く。実のない虚ろな音色、それは止むことなく、始まった部分から次第次第に洞窟全体へと広がっていく。
「おい…っ」
イルファが潰されたような声を上げた。
「『運命(リマイン)』流の歓迎らしいな、イルファ」
目を細め、不敵に嗤ったアシャのことばも震え始めたエタの耳には届いていないかもしれない。
「アシャ…っ」
悲鳴が唇をつく。
「……でも、みんな、死体なのに…っ」
掠れたエタの声は、洞窟全体に響き渡る骨の音、岩の崩れる音、死肉がぼたぼた落ちる胸の悪くなるような重い音にかき消されていく。
大広間のような洞窟に転がっていた無数の白骨と死体がよろめきながら立ち上がり、今や次々とアシャ達を目指して迫ってきつつあった。
リークは片手で冷たくなった雪白(レコーマー)の毛をそっと撫でてやりながら、
「いや、この雪白(レコーマー)達も、世界も、全ての、というべきかな」
微かに呟いた。
「どういうこと?」
「ラズーンは二百年に一度、最大の危機を迎える。その危機をうまく乗り越えられないと、この世界が崩壊する。それを防ぐために……ラズーンを再構成するために『銀の王族』が必要になるんだ。……『銀の王族』の持っているものが」
(世界が崩壊する)
ラズーンの危機がこの世界の危機になる、それは想像がつく。だが、世界が崩壊する、とはどういうことなのか。
「持っているものって…」
ユーノは必死に自分の持ち物を、自分の姿を考える。
「……銀のオーラ?」
からからになってくる喉に何度か唾を呑み込んで、さらに問いかけた。
「オーラは意味としては視察官(オペ)のものとそう変わらない」
リークは軽く首を振った。
「それぞれの『役割』の認識票みたいなものだ」
(認識票)
『銀の王族』には『銀の王族』の、視察官(オペ)には視察官(オペ)の定められた役割があり、それはラズーンの危機を防ぎ、世界を崩壊させないことに繋がっている、ということ、しかもそれはすぐにそれとわかるようにしておかねばならないものだということ。
(人違いっていうのはあり得ないってことか)
ではアシャが視察官(オペ)としてユーノを『銀の王族』だと認めたのなら、偶然や勘違いの類ではないということだ。
(でも……私に何ができる?)
確かにユーノは剣を使え、人よりは闘いに秀でているかもしれない。けれども、それこそ、世界を巻き込むような戦争などが起こったとしても、ユーノ程度の力など意味を為さないだろう。イルファのような強力無双の兵士か、レスファートのように人の心を読める存在の方がよほど戦略的に必要だろう。
それは旅の途中で会った、別の『銀の王族』だろうハイラカにしても同じだ。彼だって特別な力を持っているようには思えない。ましてや、今回行方不明になったアルトに至っては、世界の命運を握る存在にしてはあっさり命を消されかねない状態だ。
(何だろう、この妙な感じ)
たとえば『銀の王族』にそれぞれ秘められた能力か何かがあって、それをラズーンに辿り着いて目覚めさせて役立てるのだとしても、それほど貴重な存在ならもっと厳重に警護すればいい。いや、そもそも、ラズーンの子、というぐらいなら、元々はラズーンに居たのかも知れない、ならばそこから手放さなければいい。
(ちぐはぐな、噛み合わない感じ)
かけがえのない存在なのに、あえて運を天に任せるような曖昧な扱い。
「じゃあ『銀の王族』って」
一体何をするの。
そう尋ねかけたことばは、独り言のように続いたリークの声で思わず呑み込んでしまった。
「まあ、アシャは違う。アシャの金のオーラは特別なもので……それ故にクラノを得たんだが」
「クラノ?」
「ああ、このあたりではあまり使わないことばかな……称号のことだよ」
リークは小さく溜め息をついた。
「彼の正式な名前は、アシャ・ラズーンだ」
「アシャ、らず…」
思わずユーノは体を強張らせる。
セレドに限らず、個人名に国名を重ねる、あるいは国の古い呼び名を重ねるーセレドの場合はセレディスが古称となるーことは、とりもなおさず、その人間が国を継ぐ正当な立場のものであるということを示している。アシャが、自分の名前に『ラズーン』を戴くということは、つまり。
(アシャは統合府ラズーンの正統世継ぎ!)
頭の遠い所でくらりとしためまいが起こった。
ユーノも育ち方が外れているとはいえ皇女、国の規模の格差は重々理解している。また、セレドのような辺境の小国でも、父のセレド皇が重要な政策を定める議事にどれほどの重責を負うのかつぶさに見ている。
それらの小国が寄り集まって大陸ごとの諸国群となり、それらの集合が世界となり、その世界の諸国を統括するのがラズーンだ。そのラズーンを統べる王となれば、それは世界の王、王の中の王と呼ぶしかなく。
(その…世継ぎ…)
格が違い過ぎる。
竦む感覚があった。
「ラズーンの……世継ぎが……どうして……諸国を巡る旅人なんかに…」
思わず漏らした自分の声が掠れていた。
言われてみれば、育ちの良さは十分伺えた。並々ならぬ博識、優れて洗練された特殊な剣の腕、宮殿などでの気品ある振る舞いとどこでも物怖じすることのない大胆さは、美貌だけではなく、もっと巨大な世界のもっと多くの人々に、『ラズーン』の名を背負って対してきたからだったのだ。
今にして思えば、イシュタの対応もメーネの訳ありげな様子も、それならば全て納得がいく。統合府ラズーンの世継ぎがふらふらと辺境を彷徨っていれば、そこには何らかの意図があると考えるのが当然、ましてや気持ちを向けるなど恐れ多く、ただただ不興を買わないことが得策と考える輩も多いはず、どこへ出向いても顔を知られていれば歓待されて当然と言える。
「さあ……実はそれは一つの謎なのだ」
リークの声もあやふやに聞こえた。
「アシャがなぜラズーンを出たのか。なぜそれを父である『太皇(スーグ)』が許されたのか。誰も本当の理由は知らないのだ」
「………」
(どうしよう)
ユーノはじっとりと体を濡らしていく冷や汗を堪えた。
アシャがラズーンの正統世継ぎだとすれば。
知らなかった、隠されていたとは言え、ユーノはその王の中の王の世継ぎを付き人に仕立ててあれこれ世話をさせ、数々の無礼な扱いをしてきている。こんな旅に引っ張り出し数々の危険に巻き込み、あまつさえ……唇まで重ねている。
(どう、しよう)
ラズーンの『太皇(スーグ)』は寛大な方だろうか。息子に加えられた理不尽な扱いを、諸国の無知な者どもはと愚かさと哀れみで看過してくださるだろうか。
(どうしよう…っ)
これはもう好きだの嫌いだのと言える状況ではない。アシャの気持ちがどうかという問題でもない。
(セレドが…っ)
もしアシャへのユーノの対応が、ユーノ一人のものではなく、セレドがラズーンを軽んじた故だと思われたら、ユーノはもちろん、セレドそのものの扱いが悲惨なものになるのは火を見るより明らか、レアナの想いは散るしかなく、皇家が滅亡するだけならまだしも、守ってきた大切な民も同罪として攻め落とされるようなことになったら。
(私のせいだ)
胸の底が凍り付く。
「リーク…」
最後の望みをかけて必死に尋ねる。
「アシャ以外にもラズーンの名を受けている人はいるの…?」
王家には時に多人数の王子が居る。アシャが諸国を放浪しても追手も守護もつかなかったというのは、ひょっとするとアシャがラズーンの中ではそれほど重要な王子ではないのかもしれない。
「ああ、四、五人は居るはずだ」
「そう…」
リークがあっさり応えて思わずほっとする。
(そうだ……そうだ、よね)
きっとアシャはその中の四番目とか五番目とかの王子なのだ。だから、ラズーンを離れても誰もそう気に留めず、本人のしたいままにさせているのかもしれない。
(うん、きっとそうだ)
汗に濡れた額をちょっと拭ってユーノは吐息をついた。
(もしそうなら)
確かにうんと少ないことかもしれないけれど、そういう自分勝手にラズーンを出奔した『不良』王子が、諸国の美姫に一目惚れして、強く強くその側に居たいと願ったのなら、そしてユーノが無事に一度はアシャをラズーンへ連れ帰れば、その働きに免じ、特別の恩寵をもって、アシャがセレドの皇となって降りることを許されるかも知れない。セレド皇ミアナ皇妃も、放浪詩人ではなくラズーンの王子であるとなれば、血縁を結ぶことは国家の安定に強力な約束となる、レアナとアシャの婚姻を反対する理由はないだろう。
(そうなれば、レアナ姉さまも喜ぶし、セレドも無事だし)
もしかしたら、ユーノにはやはりある程度のお咎めがあるかもしれないけれど、もしそれが万が一ユーの一人の命で購えるものなら全く問題はない。
(うん、だからできる限り早くラズーンに着いて)
その『銀の王族』とやらの役目を一所懸命果たして、アシャをセレドに戴きたいと心を尽くして頼んでみよう。
「うん」
「え?」
「あ、いや」
一人頷いてリークに怪訝な顔をされ、我に返る。
(そんな先のことより、まずここから脱出しなくてはならないんだっけ)
それにまだわかっていないことがある。
ラズーンが二百年に一度迎える危機とは何なのか。
『銀の王族』はラズーンで何をするのか。
そして『運命(リマイン)』とは、そのラズーンとどういう関係にあるのか。
「リーク、あのね、ラズーンは…っ!」
尋ねようとしたユーノの耳に、静まり返っていた周囲にふいにカラッと岩が崩れる音が響き渡った。ことばを切って振り返ったユーノは、同時に剣を手元に引き寄せて立ち上がり、闇に向かって叫んだ。
「誰だ!」
「どうした?」
ふいに立ち止まったアシャに、イルファが低く問いかけた。
雪白(レコーマー)から降りて入り込んだ晶石の裂け目、足下も不安定な薄暗がりの中で、アシャは遠くの稲妻を探すように視線を彷徨わせる。
「いや…叫び声が聞こえたような気がした。ユーノ達に何かあったかな」
「あいつなら大丈夫だ。俺が太鼓判を押す。あの『風の申し子』とやらは、どうか知らんがな」
イルファがしたたかに笑う。
「違いない」
アシャは苦笑を返した。
なまじの視察官(オペ)よりユーノの方が剣の腕は上かも知れない。
(本当になんて娘だ)
華奢な体に底知れぬ忍耐力と度量と鋭さを秘めて、ただ一人でも、人の心を呑もうとする闇に立ち向かおうとする。細い腕にずしりと重い剣を操り、瞳に深い哀しみをたたえる少女。差し出すアシャの手にためらいがちに首を振り、そっと一歩、いつも、いつも、遠ざかってしまう。
(俺は何を恐れている?)
アシャは自分に問いかける。
ユーノのことだ、そう易々と刺客の手に倒れる事はあるまい。
ならば、アシャは何を恐れているのか。
(ユーノがこれ以上、俺から離れていってしまうこと、か?)
リークは視察官(オペ)の中では口が軽い。些細なきっかけで、アシャの正体をユーノに話してしまうかも知れない。
それを知ったユーノは、アシャに対してどう振る舞うだろう。
(この世の果て、世界の統合府、ラズーン、か)
アシャ・ラズーン。
その名に示された称号は、ラズーン支配下(ロダ)の人間をひれ伏させてあまりある。
しかも、アシャは、称号(クラノ)を与えられた中でも最上級、ラズーンの正統世継ぎとしての権利を持っている。
(世界を統べる国の、世界を統べる王としての権利)
もちろん、ラズーンを統べる『太皇(スーグ)』は、そんなことにはこだわらないだろう。アシャが権利を放棄したいと言えば、考えてもくれるだろう。アシャにはそれなりの事情がある。
しかし、ユーノはどう思うだろう、アシャのその地位を。
(身も世も捨てて希う)
そういう恋も幾度か見た。そこまでかけられる情熱と周囲を無視して暴走する想いを、人間ゆえかと眺めたこともある。だがしかし、自分にだけは起こりえないと思っていた、どんな不可思議が起ころうとも、たとえラズーンが明日滅すると聞かされても。
アシャ・ラズーンという存在には、そういうことが許されない枷がある、人の尊厳の意味を奪う、頑丈で冷徹な鎖。
(なのに、俺は)
今のアシャには、どんな理由にせよ、ユーノがこれ以上自分の側から離れていく理由は作りたくない。その理由が自分の出自を巡ってじわじわとユーノの意識に入り込んでいくのが、これほど不安になるというのも予想外だ。
(旅に身を委ねるアシャ、であればよかった)
ただの、地位も力もないただの男であれば、自分の欲望を理由にユーノの側にいることはできただろうに。
(シートスが聞いたらどう思う)
野戦部隊(シーガリオン)を率いる剛毅な男は、怒れば一都を灰燼に帰す平原竜(タロ)でも時がくれば『番い』になりたがりますからな、と高笑いするだろう。
「アシャ…」
イルファの声にアシャは我に返った。
前方からゆらゆらと揺らめく明かりがやってくる。その明かりのせいで、辺りは一層闇を増したかのように見える。
アシャは見つめるイルファのごつい顔に頷き、岩陰に身をひそめた。
明かりの色から見て、おそらくは松明の火だろう。たまたまここへ迷い込んできた輩が、たまたま松明を用意していたとは思えない。意図があって入り込んできている何者かが居るのだ。
(『運命(リマイン)』支配下(ロダ)の人間か……あるいは)
チッと微かな音がした。イルファが剣に手をかけたのを横目に、アシャは目を細める。
明かりは二人の殺気を感じた様子もなく、相変わらず頼りなげな揺れ方をして近づいてくる。晶石はきらきらと光を放ち、周囲を不思議な色合いに染める。
「!」
角を曲がってきた相手に、アシャは息を呑んだ。それは他の誰でもない、ソクーラの『貴婦人』の弟、エタ王子の姿だったのだ。
ぎょっとした顔でこちらを振り向くイルファを眼で制して、アシャはエタの様子を見守った。
放心しているふうではない。明らかに自分の意志でここへやってきている。
エタは二人が身をひそめている岩の少し先のところで、知っていなければ、それとはわからないだろう、小さな裂け目に入っていく。
「…アシャ」
明かりの揺らめきも裂け目に吸い込まれ、辺りが元の薄暗がりに戻ると、イルファが不審そうな声音で尋ねてきた。
「どういうことだ? なぜ、あいつがここにいる?」
「わからん」
応えながらアシャも眉を寄せた。
(ソクーラは、まだ『運命(リマイン)』支配下(ロダ)になかったはずだが)
サマルカンドが定期的に伝えてくるラズーンへの照合を思い起こす。
それとも、『運命(リマイン)』の侵攻がラズーンが把握しているよりも早く、既にソクーラも『貴婦人』の気づかないところで『運命(リマイン)』に落ちているということか。
(二百年祭だからな)
統合府ラズーンにも弱みはある。二百年ごとにくる、必然的とも言える支配力の低下だ。
ただ今回はその進み方が速すぎる。歴代のどの祭よりも、急速にラズーンは求心力を失っていると思える。
今回の二百年祭が、リークが心ならずも口を滑らせたラズーン存亡の危機となるのかも知れない。
(いつかは来ると知らされていたが)
どうしてよりにもよって今回なのだろう、と苦々しく思う。
そんな、世界が揺り動かされるような時代の中を、すぐ死の女神(イラークトル)の腕に駆け込みたがる、しかも他の誰よりも愛しい存在となりつつある娘を連れて渡っていかねばならぬとは。
だが、ある意味ではその激動こそがユーノを作り上げたとも言えるのだ。
(時代が人を、人が時代を作り上げる)
濃密なその関係を横目に見るしかない命としては複雑な思いが広がるだけだ。
「おい」
「ん?」
「この裂け目、狭いがかなり深いぞ、どうする?」
エタが入っていった裂け目を調べていたイルファが、窮屈そうに振り向いて顔をしかめた。
「それに、おかしな臭いもする」
「臭い?」
「腐肉の臭い、に近い」
「腐肉…」
嫌な予感が胸に広がったのはイルファも同じ、こんなところでレガに会えば、身動きとれなくなる。だがレガが居るならば、そこにアルトが捕らえられている可能性もある。
もっとも生きているかどうかは保証の限りではないが。
「行くしかないようだな」
「仕方ねえな。ま、お前となら心中しても本望だが」
裂け目に入りかけたアシャは思わず身を引いた。先に立ったイルファが険のある目つきで振り向く。
「俺とじゃ、不満だっていうのか」
「いや、そうじゃないが……お前が言うとどうも別の含みがあるように聞こえる」
「どんな含みだ、お前となら生死共にしても悔いはないという、強い仲間意識だろうが」
「強い仲間意識、な」
「そうだ身も心も一つにして一緒に歩こうという強い仲間意識だぞ!」
「……」
アシャは無言でもう少し距離を取った。
(そういう『仲間意識』を少しでもユーノが持ってくれるなら)
アシャも心丈夫なのだが。
「…確かに臭うな」
奥へ進むにつれて漂ってくる臭いにアシャは眉を寄せる。
腐臭、そう言えなくもない。だが、レガや『運命(リマイン)』が好むような生々しいものではないようだ。
「狭い、な」
体を屈めたり捻ったりと奮闘しつつ、それでもあちらこちらの岩角で体を擦りながら、イルファはぼやく。
「一体どこまで続いてやがる」
「谷のなかばぐらいまでは来ているだろう…途中で詰まるなよ」
「詰まれば生涯二人きりか」
「安心しろ、俺の後には道がある」
「見捨てるのか」
「助けを呼んでくるという方法もあるという話だ」
「相変わらず冷たい男だな、ちょっとは気持ちを察してくれてもいいだろう」
そういうことをこの状況で口にするからややこしくなるんだろう、そう突っ込みかけて、先を行くイルファがぐいぐい速度を上げ出したのに気づく。
「何だ? 急に楽に通れるようになったぞ」
「通路が広くなってるんだな……おい」
首を傾げたイルファの姿がふい、と目の前から消える。
「すげえ…」
「何だ?」
少し先から響いた声に足を速めると、数歩先で裂け目はいきなり大広間のような洞窟になっていた。
松明の炎が赤く、洞窟の中央あたりで揺れている。どこからか光が差し込んで、埃を浮かび上がらせながら洞窟の中を照らし出している。
そこは墓場だった。
ただし、人の手の加わっていない、そして人のものではない墓場だ。
煌めく晶石に取り囲まれ、見下ろされ、受け止められ、骨と皮になった十数体の乾いた雪白(レコーマー)の死体と、数知れぬほどばらばらになって散ったり砕けたりしている巨大な生き物の白骨が、そこに横たわっていた。
おそらくは死期を悟った雪白(レコーマー)は、ここに来て死出の旅を始めるのだろう。
虚ろな眼窩には既に深く澄んだ青の瞳はなく、ふわふわと真白な毛だけが微かな空気の流れに漂っている。
悲しみはない。
ただ、辿り着いて全てが終わった、死というものの安らぎと静寂が満ちているだけだ。
「アシャ! イルファ!」
こちらに気づいたらしいエタが振り返り、頓狂な声を上げた。
「どうしたんです? こんな所で?」
「あなたこそ」
近づいてくるアシャ達に、エタは穏やかな目を少し籠らせて立ち上がり、今まで跪いていた場所に横たわる一頭の雪白(レコーマー)に視線を落とした。
「雪白(レコーマー)の死を看取りに……ぼくの好きな一頭でしたから」
今息を引き取ったばかりなのだろう、ひんやりと静かな洞窟の中、その雪白(レコーマー)の周囲だけ仄かに温かな気配があった。
「けれど、あなた達こそどうして。晶石の谷へ向かわれたはずではなかったんですか」
「ああ、実は…」
アシャは晶石の谷から入ったところで明かりを見つけ、その後を追いかけてきたことを話した。
「へえ……じゃあ」
エタは驚いた表情で振り返り、岩の彼方を透かし見るような顔になった。
「向こうの平原から入れる所が繋がっているんだな。ここも回りの岩から見て、晶石の谷の一部だろうとは思っていたんですが」
「それはいいが、それよりここで怪しいやつを」
見かけなかったか、そう尋ねかけたイルファは、エタの顔が強張り、瞳が見る見る大きく見開かれるのにことばを切った。視線を追って振り返ったアシャが、
「これは…また」
凄みを帯びて殺気立った声に重なるように、ガシャッと乾いた音が響く。実のない虚ろな音色、それは止むことなく、始まった部分から次第次第に洞窟全体へと広がっていく。
「おい…っ」
イルファが潰されたような声を上げた。
「『運命(リマイン)』流の歓迎らしいな、イルファ」
目を細め、不敵に嗤ったアシャのことばも震え始めたエタの耳には届いていないかもしれない。
「アシャ…っ」
悲鳴が唇をつく。
「……でも、みんな、死体なのに…っ」
掠れたエタの声は、洞窟全体に響き渡る骨の音、岩の崩れる音、死肉がぼたぼた落ちる胸の悪くなるような重い音にかき消されていく。
大広間のような洞窟に転がっていた無数の白骨と死体がよろめきながら立ち上がり、今や次々とアシャ達を目指して迫ってきつつあった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
レオナルド先生創世記
ポルネス・フリューゲル
ファンタジー
ビッグバーンを皮切りに宇宙が誕生し、やがて展開された宇宙の背景をユーモアたっぷりにとてもこっけいなジャック・レオナルド氏のサプライズの幕開け、幕開け!
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる