『ラズーン』第二部

segakiyui

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8.月獣(ハーン)(2)

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「気分はどうだ?」
 覗き込む気配に、ユーノは薄く眼を開けた。
 キャサランの街、家人が消えてしまった家屋の一つに入り込んでの野営、家の中も荒らされてはいるが、火を焚くところも確保出来、雨風しのげれば十分だ。
「ずいぶん…まし」
 炎の明かりに照らされているアシャの顔に笑み返す。
「即効性の麻痺薬だろう。まだ腕の感覚は戻らないか?」
「うん…ちょっと」
 ちょっとどころではない。まるで左腕が消え失せたように感じる。今なら肩から腕を切り落とされてもわからないかもしれない。
「ほら、もう少しこれを飲んでおけ」
「ん」
 差し出された木の椀にはどろっとした緑色のものが入っている。つんと特殊な鼻をつく匂い、意識がはっきりする前に一度飲んだらしいが、そのあたりはあまり覚えていない。
 唇を開き、口の中に入ってきたものを何とか一所懸命飲み下そうとする。どんな成分かよく知らないが、青臭い匂いやざらざらとした舌触り、鼻の奥を満たす苦みのせいだけではなく、飲み込む動作そのものがなかなかできない。喉が他人のもののようだ。
 眉をしかめたユーノに、アシャが優しい笑みを浮かべて椀に水を少し注いでくれた。
「苦いか」
「うん……。もう一杯、水、くれる?」
「それが、あんまり水が手に入らなくてな」
 『運命(リマイン)』が行ったのは住人の排除だけではなく、水や火を得る施設そのものの破壊もあり、井戸などはことごとく潰されていて、ようやく見つけたのは家の裏手の庭にあった小さな古井戸、どうやらそこは生い茂った草に隠されていたために破壊を免れたらしい。
「そうか」
 キャサランの入り口でここまでの破壊がされているなら、この先どれほどの蹂躙が待ち構えているかわからず、それは巨大なこの国を突っ切らなくてはならないユーノ達にとって厳しい旅路を示唆している。
 ユーノは溜め息をついて、名残惜しく椀に残った水を舐め、空になった椀をアシャに差し出した。と、その手首を相手が軽く握って引き寄せ、瞬きする。
「アシャ?」
「水はないが」
「うん?」
「水がわりをやろう」
 呆気にとられて開いたままの唇へ、まるで風が吹き寄せるようにさりげなくアシャは唇を寄せた。体を引きかけても動けない、振り放すことを思いつかないまま、唇が触れ合うか触れ合わないかという近さに思わず目を見開く、とたん。
 バンッ!
「アシャ!」
 イルファの大声と同時に部屋の戸が開いた。
「、何だ」
 すっとアシャが身を引いた。ユーノの椀を受け取り、まるで今の動きが幻だったように、素っ気なく背中を向ける。
「この街だけじゃなさそうだぜ、人がいないのは」
「ふうん……それで、月獣(ハーン)は見かけたか?」
「いや一匹も。レスも見ないと言ってる。だけどよ、まさか『運命(リマイン)』だって、いきなりこんなに大勢の人間をすぐに消すなんてこたあ、不可能だろ? 殺すにしても死体の一個や二個や転がってるだろうし、一人ぐらいは生き延びてるだろうが」
「どうだかな」
 アシャは顔から表情を消した。整った女性的な顔が人形のように見える。
「ギヌアが直接指揮を執ってれば別だ」
「ギヌア?」
「『運命(リマイン)』の王だよ」
「そういや、妙にすました奴が一人いたな…」
 イルファとアシャの会話を気怠く聞きながら、ユーノの脳裏には黒馬に乗った白髪の男が浮かんでいた。
 冷笑的な真紅の眼、特徴のあるかぎ鼻で、皮肉っぽく歪めた唇からは人を傷つけることばしか出ないような気がする。
(ギヌア……『運命(リマイン)』の王……)
 ずしん、と左腕がなお重さを増したようだった。
(こんな麻痺薬は初めてだ)
 意識はあるし、傷を受けたところ以外は滑らかに動くのに、左腕だけが異様に重い。いや、重さが少しずつ肩へと広がってきているようにさえ感じられる。
(アシャの薬が効けばいいけど)
 ぼんやり思って、そういえばさっきのアシャの動作は、と思い出した。
(キスしようとした……?)
「まさ……か…な……」
 呟いた声は遠くに流れ、湧き上がってくる眠気に負けて、ユーノは再び深く眠り込んでいった。

 その少し後。
「ん…」
 ごろん、と寝返りを打ったレスファートは、夢に怯えて手探りでユーノの手を求めた。
「ユーノ?」
 寝ぼけ眼で起き上がり、どうして側に眠っているはずのユーノの手が見つからないのか怪しんで、のろのろと周囲を見回す。
 あまり大きくない家だった。一部屋にレス達四人が横になるともう一杯だ。右の壁に沿って、毛皮を敷いてイルファが寝転がっている。炉には赤く火が燃え、それを挟んで左の壁には、布を巻き付けたアシャが静かな寝息をたてていた。その隣は頑丈そうな木の扉で、赤茶けた表面に横に二本、幅の広い鉄が打ち付けてある。横には細工を施した石の窓、外には明けていない深い夜が身を潜ませている。
 そして、その左に、藁を重ね数枚の布を敷いて、ユーノが横になっていたはずだった。痺れ薬に左腕をやられて、けれどアシャの薬で少し楽になったように見えた、そう安心して眠ったはず、なのに。
 今そこには、寒そうな布の窪みが残っているだけだ。
 疲れたぼんやりしたレスファートの頭に、これだけのことが送り込まれるまでにはしばらく時間がかかった。だが、それは突然、少年の心を激しく叩きつけた。
「ユーノ!」
 跳ね起きるレスファート、なのになぜかアシャもイルファも目を覚まさない。
「ユーノ! どこへ行ったの?!」
 レスファートはうろたえて辺りを見回した。
 どこからも応えが返ってこない。風が唸って街路を吹き抜け、枯れ葉を踊らせていく音ばかりだ。
 カタン。
 いきなり背後で音がして、レスファートは体を強張らせて振り向いた。
 カタン……カタン…。
 しっかり閉めていたはずの扉が、風に微かに揺れている。
 鍵代わりの留め金とつっかい棒が外されているのに気づくや否や、レスファートは扉へと突進した。乱暴に重い扉を引っ張り開け、街路に飛び出す。
「ユーノ!」
 ユーノ、ユーノ、ユーノ……。
 石造りの街角に、レスファートの声が虚しく反響していく。
「どこにいるの?!」
 いるの、いるの、いるの……と谺が後を追った。
 ふいに、レスファートの視界の端で何かが動いた。すぐ近くの出っ張った石窓に、何ものかがさっと隠れたようだ。
「……だれ…?」
 誰もいないはずの街。
 いなくなったユーノ。
 生唾を呑んで、レスファートはそちらに近づいていく。
 一歩、一歩、そしてもう一歩。
(また!)
 金色の粉がふわっと散ったような、きらきらした反射。暗闇に明るく、重なり合う石の平面で鮮やかに跳ねる。
 それを見たとたん、レスファートは駆け出した。
「ユーノ!!」
 推測は当たった。
 石窓の向こうに、額にねじり角を生やした金色の馬、その傍らにユーノが陽炎のような儚さで立っている。
 身に着けているのは、眠る前まで着ていた濃紺のチュニックではない。淡く透ける薄物一枚。それを、肩から腕へ、腰を回り片足に纏わりつく数本の金の透かし彫り細工で留めている。左腕に傷に巻いた包帯をくるむようにずっしりとした重そうな腕輪をつけ、もう一方の手には肩から手首へ流れる金鎖を掛け、額に真紅の宝石を飾った金の輪で髪を留めている。首に掛かったさらさらと音をたてる繊細な首飾りも金、煌めく金色で飾られた体は、キャサランの名を人に与えたような眩さだ。
 しかし、その表情は固く冷たく凍てつき、瞳の黒は闇のように何も映していない。
「ユーノ! どうしたの? ぼくがわからないの?」
 不安に駆られてレスファートは急いで歩み寄った。と、まるで威嚇するかのように月獣(ハーン)がレスファートの方へ歩み出た。ユーノが差し出した手の下に首を差し込み、眼だけをレスファートに向けて凝視する。燐光のような緑色の瞳が殺気を含んで少年を捉えた。
「なんだい、おまえなんか、ただの子馬じゃないか」
 唇を噛み、レスファートは真っ向からその視線を受け止めた。大切なものを理不尽に攫われた怒りを込めて言い放つ。
「ユーノを返してよ」
 いやいやと月獣(ハーン)は首を振った。ユーノが応じるように、優しく月獣(ハーン)を撫でる。愛撫に酔うように、月獣(ハーン)は目を細めてユーノを見上げた。
「返せったら!」
 腹立たしくて、怒鳴りながら、レスファートはまた一歩近づいた。
 月獣(ハーン)の尾がふわふわと空に舞う。月は雲に隠されてしまったのか、辺りは暗いが、その中でユーノと月獣(ハーン)だけが別世界の幻でもあるかのように浮かび上がって見える。
「ごたごたぬかさずに、さっさと返しやがれ!」
 レスファートの口を、イルファ仕込みの荒いことばが突いた。
 びくんと体を震わせて、月獣(ハーン)が後じさりする。
 にっと笑ってなおも脅しをかけようとしたレスファートだったが、ユーノがつい、と、まるで月獣(ハーン)を庇うように前に進み出たのにぽかんとした。
「ユーノ?」
 ユーノの表情は動かない。レスファートをまるで見知らぬ誰かのように見返してくる。
「ユーノ…」
 軽く身構えるユーノが、明らかにレスファートではなく月獣(ハーン)を守ろうとしているのだと気づいて、泣きそうになった。
「どうして…?」
 相変わらず無表情なユーノの視線がひんやりとレスファートを射抜き、次の瞬間あっさりと背中を向けた。薄物が夢の欠片のようにひらひらと乱れてユーノを追う。
「ユーノ!」
 慌てて叫んだレスファートの声にも、ユーノは振り返らない。
「行かないでよ!」
 膝を震わせて立ち竦んだまま、レスファートは声を張り上げた。
 だが、ユーノの背中はレスファートの想い全てを拒むようにどんどん遠ざかっていく。その側には、まるで当然のように寄り添う月獣(ハーン)の姿。
(ユーノ、どうして?)
 ぽろぽろとレスファートの頬に熱い涙が零れ落ちた。
『レス!』
 頭の中でユーノの声が響く。
『レスのこと、大好きだからね』
『痛かったろう? よくがまんしたね』
 明るい笑顔、不安を取り除いてくれる腕、温かな胸、しがみつける、抱きしめてくれる、レスファートの拠り所。
「ユーノぉ!」
(ぼくじゃ、とめられないんだ)
 こぶしで涙を擦り取り、レスファートは身を翻した。
 どうしてユーノがいきなりレスファート達から離れたのか、なぜ自分の声に応じてくれないのかわからない、けど。
(アシャなら)
 湖で、草原で、生きるか死ぬかの時にいつも、ユーノはアシャには傷みを晒す、訴える。
(ぼくじゃだめでも、アシャなら)
 必死に駆け戻り、まだなお眠ったままのアシャに飛びつき、激しく揺さぶる。
「アシャ! アシャ!」
 こうしている間にもユーノはどんどんどこかに連れ去られてしまう。焦りと恐怖が胸を締め付ける。
「起きてよ、アシャ!!」
 だが、一体どうしたというのだろう、あれほどの切れ者であるはずのアシャが、これだけ呼んでも目を覚まさない。
 レスファートは歯を食いしばった。両手をアシャの腕に掛けたまま、目を閉じ、頭をアシャの胸に押しつける。
(心を近づける……もっと……もっと……)
 もやもやとした感覚がレスファートの心の中に広がってきた。アシャが何かもがいている感じがする。何かの薬だろうか、心の耳が塞がれている。
(アシャ! 起きて!)
 呼びかけながら、レスファートは眉をしかめた。意識して、人の心の中にこれほど深く入り込むのは初めてだ。たちまち疲労してきて、額から体から汗が滴り落ちる。
(アシャ! ユーノがどこか行っちゃう!!)
 とうとう焦れて、レスファートは心の中で絶叫した。
 びくっと、アシャの腕が跳ね上がる。
「う…む……っ、レス!」
 重く唸ってアシャが目を開けた。ほっとしてへたり込むレスファートの体を急いで支えてくれる。
「アシャ……ユーノが月獣(ハーン)に…」
「わかってる! くそ、『運命(リマイン)』の奴、催眠剤を使ったな!」
 猛々しい表情で立ち上がったアシャは、袋の中から青い錠剤の入った小袋を取り出した。
「レス、イルファに飲ませろ。すぐに効くはずだ」
「うん!」
 レスファートは眠っているイルファに駆け寄り、相手の口をこじ開け、薬を押し込んだ。食い意地がはっているとでもいうのか、しっかりそれを飲み込んで、それほど待つまでもなく、イルファはのんびりとした様子で起き上がった。
「…よう、早いな、アシャ、まだ暗いぞ?」
「早いな、じゃない」
 じろりと相手をねめつけて、アシャは手早く荷物をまとめだした。
「『運命(リマイン)』に先手を取られた。カザド兵の襲撃は囮だった。あいつらは俺達の目をそらすためだけのもので、『運命(リマイン)』の狙いはユーノだったんだ」
「ユーノ? ………いないじゃないか」
「カザド兵の剣に塗ってあったのは催眠剤だ。そいつで俺達はまんまと眠らされ、ユーノだけが引っ張り出されたんだ」
「そういや、剣が擦った時、何かぴりっときたな」
「ぐずぐずしていられない、ギヌアが出てきている」
 荷物を持ち上げるアシャの紫の瞳に、珍しく焦りが浮かんだ。
「俺はユーノを追う。お前はレスを連れてキャサランの国境まで先に行ってくれ、落ち合う場所はそこだ」
 アシャが放り投げた地図をレスファートが覗き込むと、赤い印が描かれている。
「ここだね………あ、れ…?」
 レスファートは首を傾げる。
 地図は今まで見たどんなものより詳しいものに見えた。そればかりか、世界の果て、正確な場所がわからないはずのラズーンの位置や、そこに至る道までも描かれている。
「アシャ……これはどういうことだ?」
 さすがにイルファも気づいたのだろう、ぴくりと眉を上げる。
「一介の旅人が、どうしてこんな地図を持ってる? ……ラズーンまで巡る旅人なぞ、俺は聞いたことがないぞ……ただ一つのお伽噺を別にして」
 イルファが厳しさをたたえてアシャを見据える。レスファートがその視線を追って振り向いたアシャの目は、垂れ落ちてきた金髪に遮られ、淡く煙って見えた。
「後で話す」
 ゆっくり目を伏せると、アシャはくるりと背を向けた。
「話せるところまではな。……今はユーノを助ける方が先だ」
「ぼく……馬を引いてくる!」
 イルファとアシャの間に漂った緊張感に、レスファートは急いで部屋を出た。胸がどきどきしている。何かが起こっていると感じた。
 馬を引いて戻るとアシャが戸口を出て待っていた。
「どっちへ行った?」
 アシャが鋭い視線を街路に投げる。
「そっち! 気をつけてね、アシャ!」
「ああ!」
 音も立てずに馬に跨がり、あっという間に走り去るアシャを見送って、レスファートはイルファの元へ戻った。何だかひどくぐったりとしていたが、イルファが珍しく難しい真面目な顔で地図を睨んでいるのに気づく。
「どうしたの、イルファ」
「この地図…」
「地図?」
「精巧すぎるな。レス、レクスファのこんな国外れに湖があるなんて知っているか?」
 促されて、レスファートも地図を覗き込んだ。
「ううん……一通りの地理はやったけど」
「ここはマクタ山脈が走ってるど真ん中だ。人が行ける場所じゃない」
 考え込んだ声でイルファがつぶやく。
「羽根でもあれば別だが、この山脈の内側への道はないぞ? 誰がどうやって、ここにこの大きさの湖があるとわかる?」
 イルファがぐっと眉を寄せる。
「………これは……ひょっとすると、あの話はお伽噺じゃないってことか?」
「おとぎばなし?」
「……聞いたことぐらいあるだろう。『はじめに天と地あり。戦ののち、荒れた天地の間にラズーンのみ残りき』」
 イルファが諳んじるのに、レスファートは頷いた。
「しってる。『ラズーンはこの世のはてにして、とうちしゃなり。その力、あまねく世界におよび、人をつくり、動物をつくり、この世をつくりたり。また、ラズーンははんていしゃなり。その力をしめすために、いとくらき運命の手もておこない、国々にその目をむかわせり。かくして、ラズーンはとうごうふとして、国々にくんりんせり』……でしょ。おぼえさせられたけど、意味はよくわかんないよ」
「目、だ」
 イルファは首を振った。
「目、が旅人を指すと考えればどうだ? 旅人ならば、どの国をどのように巡っていこうと目立たない。それに、暗き運命の手ってのは」
 ふっと窓の外で何かが動いた。レスファートが振り返る前に、イルファが剣を引き寄せる。
「どうやら……第二陣が来ちまったらしいな」
「え…」
「こっちだ、レス!」
 イルファに軽々引っ張り寄せられたレスファートは、今の今まで自分が居た所にざくりと剣が突き立つのを見た。
「イルファ!」
「わかってる!!」
 扉を蹴破って入ってくるカザド兵を一刀両断、傍らにいたのを殴りつけ、じりじりとイルファは後じさりした。背後に庇われたレスファートも、小造りの短剣を抜く。
 と、いきなり背後に黒い気配がひたりと迫った。
「っ!」
 後ろから伸びた黒い手が、口を塞ぎ押さえる。振り回しかけた短剣がもぎ取られる。
「イル……っ!」
 どすりと重い当て身をくらって、レスファートは呻いた。気づいてくれたらしいイルファの声が、薄れる意識の向こう、剣のぶつかり合う音の合間に遠く聞こえる。
「レス……っ!!」
(イルファ……アシャ……ユーノ……)
 急速に目の前が暗くなり、それきりレスファートは気を失ってしまった。
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