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9.生贄(1)
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(左腕が重い…)
ユーノは夢の中で呟いた。
(アシャの薬、効かなかったのかな)
今までそんなことはなかったのに。
苦しくはない。
だが、左腕は無性に気怠く重く、腕を中心にずぶずぶとどこかに沈んでいきそうだ。足元も危うく、空を歩いている気がする。
(空を?)
ぼんやり考えて、ユーノは我に返った。
鼻先を掠める湿った風に、煙っていた視界がみるみる拭い去られていく。
「っ!」
ぎょっとした。
ねじり角を額に頂いた金の馬達が、周囲をぐるりと取り巻いている。大小はあれど、月獣(ハーン)が作ったものと同じような姿の群れだ。
「月獣(ハーン)?」
声に応じるように、一頭が首を動かした。黄金の渦がたてがみの形に雪崩落ち、美しく光る尾が風に流される。隠れていた月が姿を現す。巨大に輝く銀円に照らされて、月獣(ハーン)達が互いに光を反射させ、辺りを光の世界に変える。
「え…どうして……ボク……こんなところに…」
手を上げ、髪をかきあげようとしたユーノは、動きにつれて起こった金属音に体を強張らせた。
(何?)
巻き付いた金鎖、冷たくすべすべした宝石に触れたユーノは、おそるおそる体を見回した。
「わ…」
顔が熱くなった。たちまち火照った体を抱き締める。何せ、着ているといっても薄く透ける白い布、重なりあうから下の素肌が煙ってかろうじて見えないというだけの代物、それが申し訳程度に金細工で留められているだけ、半裸の域さえ越えている。
(一体,何が)
混乱する頭で、必死に前後に起こったことを思い出してみる。
カザド兵にやられ、左腕が重かった。アシャ達の話を聞いている間に、その重さがどんどん増して眠りに落ちた。それからますます左手の重さが増していった。やがてついに堪え難くなって、支えるだけでも必死になったころ、重さを減らすにはある方向へ動けばいい、と誰かが囁いた。
そうこうしている間に、左手がどんどんどこかに引っ張られていって、確かにそちらへ手を伸ばせば楽になった、だからそのまま夢うつつの間に歩き出した、ように思う。
(あの時か!)
ユーノは舌打ちした。
剣に塗られていた薬は、何かの暗示を受け入れやすくするためのものだったのだろう。
(にしても、この格好っ)
過熱する頬に、ユーノは『運命(リマイン)』を呪った。
人前、いや皇宮の私室でもここまで露出したことなどない。
「畜生!」
口汚くののしって一歩踏み出し、足元にぬめる泥に眉をしかめた。よくも御丁寧にこんな場所にまで呼び出してくれたものだ。不安定なばかりか、ずぶりと爪先を飲み込む感覚、身動きできないと体が警戒して固くなる。
(どういうつもりで、こんなこと)
心の声に答えるように月獣(ハーン)の包囲が狭まり、ぎくりとした。
改めて周囲を見回し、自分を見据える月獣(ハーン)達の緑色の目が、怯えているどころか、怒りに近いものを満たしているのに気づく。
(まずい)
はっとして腰にやった手は虚しく空を掴む、次の瞬間、
「うっ」
どんっ、と背後から突かれて、一、二歩よろめいた。とっさに体を捻って衝撃をやり過ごすのが精一杯、とても反撃なぞできない。それを確かめたように、月獣(ハーン)達がそれぞれ大きく体を振った。頭を高く上げ、嘶くように天を見上げ、脅すように黄金の渦を飛び散らせながら、次々とユーノめがけて突っ込んでくる。
「ちっ!」
間一髪、一頭をかわしても、慣れない衣服、金細工の拘束に縛られて動きがままならない。焦っている間に次の一頭が突きかかってくる、必死に躱す、がそこにはもう別の一頭の角が待ち構えている。
と、ふいにざくっと鋭いものが布を裂き、肌を擦って硬直した。
(殺気!)
間近を走り過ぎた月獣(ハーン)の角に、貫かれ、千切れた薄物の布が引っ掛かっていた。端が淡く紅に染まっているその布を、汚らわしいものでも扱うように、月獣(ハーン)は首を振って落とした。
(好き放題にやられる)
唇を噛んでユーノは身構える。その警戒に勢いがついたように、右から一頭、左から一頭が同時に突っ込んで来たが、とっさに逸らしたユーノの体を捉え損ない、まともにお互いに激突した。
「ニィン!」
裂かれたような悲痛な声を上げて双方がのけぞり、泥の中に転がる。猛々しい馬の姿が霧散して消え、みるみる子猫ぐらいの大きさになってしまう。流す血の緑色が泥を鮮やかに染め、仲間の惨状に残りの月獣(ハーン)達が、明らかに怒りの唸りを上げた。
「ちょっと、待っ………っ!」
次の一頭は避け切れなかった。頭から泥の中に突っ込み、口の中に入った泥水を吐き出し、続いて突き出されてきた角を転がって逃げる。月獣(ハーン)の包囲の一角にできた隙を見つけ、飛び起きてとっさにそこへ駆け込んだ。一頭避け、二頭をかわし、包囲を抜けられるかと思った矢先、三頭目の角に左腕が擦られた。
呻いたユーノの頬に生温かい血が伝う。よろめいて倒れかかる体の下にいた月獣(ハーン)がするりと抜けて、ユーノは派手に倒れ込む。
バシャッ!
「うぷっ」
浅い水溜まりだ。それでも頭を踏みつけられれば溺死する。
必死に顔を上げるユーノの目の前に、月獣(ハーン)の蹄が迫る。無意識に防御しかけた片手を思いっきり蹴られて顔を歪めた。痺れて感覚がなくなった腕を庇い、休むことなく交互に襲い掛かってくる蹄と角の攻撃を、転がり、身を竦め、跳ね起き、走り、体を反らせ、倒れ、ひたすら逃れる。
(どうして)
心の中に疑問が響く。
(どうしてこんなに、憎まれる?)
心の問いに耳のすぐ側で囁きが応じた。
『生贄だ』
「え?」
そのことばが心のどこか柔らかな部分を抉り、立ち竦む。容赦なく突っ込んでくる月獣(ハーン)の角が、ユーノをずたずたに刺し貫こうとするように、すぐ側を走り抜ける。
『君は彼らの生贄なんだ』
「あっ!」
背後の思いもしない角度から激しく蹴りつけられてふらついた。間髪入れず、次の月獣(ハーン)が走り込んでくる。
(生け……贄…?)
「う、あっっ」
同時に二頭にぶつかられ、体が浮いた。跳ね飛ばされて別の水溜まりに落ち込む寸前、突き飛ばした月獣(ハーン)と視線が絡む。
(あ…あ)
緑の目の奥に読み取ったのは、報われない哀しみ。
(あんたさえ、居なくなれば)
背骨が竦む。
そんなことを言われたことなど、なかったはずだが。
いつ額を傷つけたのだろう、とろりとしたものが眉間を伝って流れ落ちてくる。血のぬめりで緩くなったのか、額の金の輪が、ユーノが倒れたのと逆方向に跳ね飛ぶのが闇に光る。
バシャッ!
地面に叩き付けられ朦朧とする視界に、一頭の月獣(ハーン)の角が広がった。体が勝手に動いてしまい、髪一筋の差で避けると同時に、足が月獣(ハーン)の腹を直撃する。
「ニギャッ!!」
絶叫して吹っ飛ぶ月獣(ハーン)、はっとした時は遅かった。仲間を叩かれ、怒り狂った月獣(ハーン)達が一斉にユーノめがけて突っ込んできて、息つく間もなく責め立てられる。
「う、っ、っ、っっ!」
(生贄なんだよ)
霞む頭に月獣(ハーン)の目が囁いてくる。
(あんたさえ死ねばいいんだ)
(私たちは、ずっと我慢してきた)
(薄暗い昼間を!)
(明るい月夜を!)
(ただ平和に暮らせればよかったんだ!!)
声はユーノの心一杯に溢れて圧倒する。辺りを埋め尽くす騒音のような声、その声に体の内側を乗っ取られたような気がして身動き出来ない。
やがて数頭の月獣(ハーン)が近づいてきた。ユーノの脇の下に頭を、肩を、体をそのものを押し入れてくる。ゆっくりと頭上にユーノを担ぎ上げた月獣(ハーン)の集団に、続々と別の月獣(ハーン)が支え手に加わる。
「う…」
半分気を失っていたユーノは薄目を開けて瞬いた。
いつの間にか、自分の体が何かの標的にされるように差し上げられているのに気づく。ぬるい風に泥と血に汚れた薄物が手足に絡み付く。汚れた金細工がずるりと体を擦る。
のろのろと視線を上げると、前方に一頭の月獣(ハーン)が緑色の瞳を燃え立たせて首を振っていた。蹄で泥を跳ねる。意図を確かめる間もなく、走り出したその一頭が、傷ついたままのユーノの左腕をことさら狙うように、力の限り角で跳ね上げてきた。
「っっ!」
激痛に仰け反る。月獣(ハーン)の攻撃は止まない。ユーノを弄ぶように、また別の一頭が角で突き続ける。
「ど…うして…」
思わず尋ねた。
「どう……して……私が……生贄……に……?」
答えが来る方向を見定めようと頭を起こすと、視線の先にいた月獣(ハーン)が怯えたように後じさりする。
『そうとも。おまえはいつも一人で耐えてきた』
どこからか声が囁いた。
『自分が傷つくのも構わず、家族を守り、国を護ってきた。そのお前に、彼らは何を報いてくれたのかね。今この時も彼らは皇宮で楽しく暮らしているだろう。お前がこれほど苦しんで、彼らのためにこれほどの犠牲を払っているのに……』
「あ…」
ユーノは眉をひそめた。一番辛くて脆いところを、一番知りたくないやり方で知らされて、体がきしむようだった。
(違う……違う………私は……ただ……ただ……)
ドスッ。
再び月獣(ハーン)がユーノの身体を角で突く、ののしるように、嘲笑うように、愚かなものがここにいると、世界に知らしめるかのように。
(そうよ、ユーノ)
心の中から声が湧き始める。甘く優しい、切なげな声、案じるように、いたわるように。
(レアナ姉さまのために、アシャを諦めたでしょ。母さまを心配させないために、怪我をしても黙っていた。父さまとセレドのためにカザドを引き付け、剣を習い、傷を受けてもセアラを護り続けたわね)
ガスッ。
「っっ!」
骨の髄まで染み通るような激痛、それは心の中を貫かれているからか。
月獣(ハーン)の攻撃は止まない、ユーノの血に酔ってしまったとでも言いたげに。
(あなたに何が残ったの?)
声は問う、正義と善の名のもとに。
(誰があなたのために泣いてくれるの?)
「……く、っ!!」
唇を噛んで体を強張らせたユーノの腕から、キン、と鋭い音をたてて金の鎖が千切れ飛んだ。
ユーノは夢の中で呟いた。
(アシャの薬、効かなかったのかな)
今までそんなことはなかったのに。
苦しくはない。
だが、左腕は無性に気怠く重く、腕を中心にずぶずぶとどこかに沈んでいきそうだ。足元も危うく、空を歩いている気がする。
(空を?)
ぼんやり考えて、ユーノは我に返った。
鼻先を掠める湿った風に、煙っていた視界がみるみる拭い去られていく。
「っ!」
ぎょっとした。
ねじり角を額に頂いた金の馬達が、周囲をぐるりと取り巻いている。大小はあれど、月獣(ハーン)が作ったものと同じような姿の群れだ。
「月獣(ハーン)?」
声に応じるように、一頭が首を動かした。黄金の渦がたてがみの形に雪崩落ち、美しく光る尾が風に流される。隠れていた月が姿を現す。巨大に輝く銀円に照らされて、月獣(ハーン)達が互いに光を反射させ、辺りを光の世界に変える。
「え…どうして……ボク……こんなところに…」
手を上げ、髪をかきあげようとしたユーノは、動きにつれて起こった金属音に体を強張らせた。
(何?)
巻き付いた金鎖、冷たくすべすべした宝石に触れたユーノは、おそるおそる体を見回した。
「わ…」
顔が熱くなった。たちまち火照った体を抱き締める。何せ、着ているといっても薄く透ける白い布、重なりあうから下の素肌が煙ってかろうじて見えないというだけの代物、それが申し訳程度に金細工で留められているだけ、半裸の域さえ越えている。
(一体,何が)
混乱する頭で、必死に前後に起こったことを思い出してみる。
カザド兵にやられ、左腕が重かった。アシャ達の話を聞いている間に、その重さがどんどん増して眠りに落ちた。それからますます左手の重さが増していった。やがてついに堪え難くなって、支えるだけでも必死になったころ、重さを減らすにはある方向へ動けばいい、と誰かが囁いた。
そうこうしている間に、左手がどんどんどこかに引っ張られていって、確かにそちらへ手を伸ばせば楽になった、だからそのまま夢うつつの間に歩き出した、ように思う。
(あの時か!)
ユーノは舌打ちした。
剣に塗られていた薬は、何かの暗示を受け入れやすくするためのものだったのだろう。
(にしても、この格好っ)
過熱する頬に、ユーノは『運命(リマイン)』を呪った。
人前、いや皇宮の私室でもここまで露出したことなどない。
「畜生!」
口汚くののしって一歩踏み出し、足元にぬめる泥に眉をしかめた。よくも御丁寧にこんな場所にまで呼び出してくれたものだ。不安定なばかりか、ずぶりと爪先を飲み込む感覚、身動きできないと体が警戒して固くなる。
(どういうつもりで、こんなこと)
心の声に答えるように月獣(ハーン)の包囲が狭まり、ぎくりとした。
改めて周囲を見回し、自分を見据える月獣(ハーン)達の緑色の目が、怯えているどころか、怒りに近いものを満たしているのに気づく。
(まずい)
はっとして腰にやった手は虚しく空を掴む、次の瞬間、
「うっ」
どんっ、と背後から突かれて、一、二歩よろめいた。とっさに体を捻って衝撃をやり過ごすのが精一杯、とても反撃なぞできない。それを確かめたように、月獣(ハーン)達がそれぞれ大きく体を振った。頭を高く上げ、嘶くように天を見上げ、脅すように黄金の渦を飛び散らせながら、次々とユーノめがけて突っ込んでくる。
「ちっ!」
間一髪、一頭をかわしても、慣れない衣服、金細工の拘束に縛られて動きがままならない。焦っている間に次の一頭が突きかかってくる、必死に躱す、がそこにはもう別の一頭の角が待ち構えている。
と、ふいにざくっと鋭いものが布を裂き、肌を擦って硬直した。
(殺気!)
間近を走り過ぎた月獣(ハーン)の角に、貫かれ、千切れた薄物の布が引っ掛かっていた。端が淡く紅に染まっているその布を、汚らわしいものでも扱うように、月獣(ハーン)は首を振って落とした。
(好き放題にやられる)
唇を噛んでユーノは身構える。その警戒に勢いがついたように、右から一頭、左から一頭が同時に突っ込んで来たが、とっさに逸らしたユーノの体を捉え損ない、まともにお互いに激突した。
「ニィン!」
裂かれたような悲痛な声を上げて双方がのけぞり、泥の中に転がる。猛々しい馬の姿が霧散して消え、みるみる子猫ぐらいの大きさになってしまう。流す血の緑色が泥を鮮やかに染め、仲間の惨状に残りの月獣(ハーン)達が、明らかに怒りの唸りを上げた。
「ちょっと、待っ………っ!」
次の一頭は避け切れなかった。頭から泥の中に突っ込み、口の中に入った泥水を吐き出し、続いて突き出されてきた角を転がって逃げる。月獣(ハーン)の包囲の一角にできた隙を見つけ、飛び起きてとっさにそこへ駆け込んだ。一頭避け、二頭をかわし、包囲を抜けられるかと思った矢先、三頭目の角に左腕が擦られた。
呻いたユーノの頬に生温かい血が伝う。よろめいて倒れかかる体の下にいた月獣(ハーン)がするりと抜けて、ユーノは派手に倒れ込む。
バシャッ!
「うぷっ」
浅い水溜まりだ。それでも頭を踏みつけられれば溺死する。
必死に顔を上げるユーノの目の前に、月獣(ハーン)の蹄が迫る。無意識に防御しかけた片手を思いっきり蹴られて顔を歪めた。痺れて感覚がなくなった腕を庇い、休むことなく交互に襲い掛かってくる蹄と角の攻撃を、転がり、身を竦め、跳ね起き、走り、体を反らせ、倒れ、ひたすら逃れる。
(どうして)
心の中に疑問が響く。
(どうしてこんなに、憎まれる?)
心の問いに耳のすぐ側で囁きが応じた。
『生贄だ』
「え?」
そのことばが心のどこか柔らかな部分を抉り、立ち竦む。容赦なく突っ込んでくる月獣(ハーン)の角が、ユーノをずたずたに刺し貫こうとするように、すぐ側を走り抜ける。
『君は彼らの生贄なんだ』
「あっ!」
背後の思いもしない角度から激しく蹴りつけられてふらついた。間髪入れず、次の月獣(ハーン)が走り込んでくる。
(生け……贄…?)
「う、あっっ」
同時に二頭にぶつかられ、体が浮いた。跳ね飛ばされて別の水溜まりに落ち込む寸前、突き飛ばした月獣(ハーン)と視線が絡む。
(あ…あ)
緑の目の奥に読み取ったのは、報われない哀しみ。
(あんたさえ、居なくなれば)
背骨が竦む。
そんなことを言われたことなど、なかったはずだが。
いつ額を傷つけたのだろう、とろりとしたものが眉間を伝って流れ落ちてくる。血のぬめりで緩くなったのか、額の金の輪が、ユーノが倒れたのと逆方向に跳ね飛ぶのが闇に光る。
バシャッ!
地面に叩き付けられ朦朧とする視界に、一頭の月獣(ハーン)の角が広がった。体が勝手に動いてしまい、髪一筋の差で避けると同時に、足が月獣(ハーン)の腹を直撃する。
「ニギャッ!!」
絶叫して吹っ飛ぶ月獣(ハーン)、はっとした時は遅かった。仲間を叩かれ、怒り狂った月獣(ハーン)達が一斉にユーノめがけて突っ込んできて、息つく間もなく責め立てられる。
「う、っ、っ、っっ!」
(生贄なんだよ)
霞む頭に月獣(ハーン)の目が囁いてくる。
(あんたさえ死ねばいいんだ)
(私たちは、ずっと我慢してきた)
(薄暗い昼間を!)
(明るい月夜を!)
(ただ平和に暮らせればよかったんだ!!)
声はユーノの心一杯に溢れて圧倒する。辺りを埋め尽くす騒音のような声、その声に体の内側を乗っ取られたような気がして身動き出来ない。
やがて数頭の月獣(ハーン)が近づいてきた。ユーノの脇の下に頭を、肩を、体をそのものを押し入れてくる。ゆっくりと頭上にユーノを担ぎ上げた月獣(ハーン)の集団に、続々と別の月獣(ハーン)が支え手に加わる。
「う…」
半分気を失っていたユーノは薄目を開けて瞬いた。
いつの間にか、自分の体が何かの標的にされるように差し上げられているのに気づく。ぬるい風に泥と血に汚れた薄物が手足に絡み付く。汚れた金細工がずるりと体を擦る。
のろのろと視線を上げると、前方に一頭の月獣(ハーン)が緑色の瞳を燃え立たせて首を振っていた。蹄で泥を跳ねる。意図を確かめる間もなく、走り出したその一頭が、傷ついたままのユーノの左腕をことさら狙うように、力の限り角で跳ね上げてきた。
「っっ!」
激痛に仰け反る。月獣(ハーン)の攻撃は止まない。ユーノを弄ぶように、また別の一頭が角で突き続ける。
「ど…うして…」
思わず尋ねた。
「どう……して……私が……生贄……に……?」
答えが来る方向を見定めようと頭を起こすと、視線の先にいた月獣(ハーン)が怯えたように後じさりする。
『そうとも。おまえはいつも一人で耐えてきた』
どこからか声が囁いた。
『自分が傷つくのも構わず、家族を守り、国を護ってきた。そのお前に、彼らは何を報いてくれたのかね。今この時も彼らは皇宮で楽しく暮らしているだろう。お前がこれほど苦しんで、彼らのためにこれほどの犠牲を払っているのに……』
「あ…」
ユーノは眉をひそめた。一番辛くて脆いところを、一番知りたくないやり方で知らされて、体がきしむようだった。
(違う……違う………私は……ただ……ただ……)
ドスッ。
再び月獣(ハーン)がユーノの身体を角で突く、ののしるように、嘲笑うように、愚かなものがここにいると、世界に知らしめるかのように。
(そうよ、ユーノ)
心の中から声が湧き始める。甘く優しい、切なげな声、案じるように、いたわるように。
(レアナ姉さまのために、アシャを諦めたでしょ。母さまを心配させないために、怪我をしても黙っていた。父さまとセレドのためにカザドを引き付け、剣を習い、傷を受けてもセアラを護り続けたわね)
ガスッ。
「っっ!」
骨の髄まで染み通るような激痛、それは心の中を貫かれているからか。
月獣(ハーン)の攻撃は止まない、ユーノの血に酔ってしまったとでも言いたげに。
(あなたに何が残ったの?)
声は問う、正義と善の名のもとに。
(誰があなたのために泣いてくれるの?)
「……く、っ!!」
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