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11.『運命(リマイン)』狩り(3)
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街がいきなり目を覚ましたようだった。
のろのろと家屋から這い出して来る亡者のような顔つきの、様々な年齢の無数の人間が、イルファ達にゆっくりと迫りつつあった。
「おい……こいつぁ…」
イルファは一渡り周囲を見回して目を細めた。べろり、といささか獰猛な仕草で唇を舐める。
「ちょっとすげえな」
「すげえ、ではすまん…」
すぐ側に居たテオの配下の一人、ゲルトが震え声で呟いた。
「こんなのに勝てるわけはない。やはり無茶な策だったのだ。王子は客人にたぶらかされたに違いない」
「アシャの悪口は聞きたかねえな」
イルファはじろりとゲルトをねめつけ、さりげなく剣の向きを変えて見せた。
「アシャは言ってたんだ、押さえはいらねえ、とっておきの『狩人』が来るからってな」
「で、でも、その『狩人』はどこに来てるんだ」
同じくテオ配下、キートが引き攣った緊張した声で囁いた。
じわじわと包囲を縮めてくる人の輪の中から、誰か一人でも飛びかかってくれば最後、それを皮切りに、わっと総勢が襲いかかってくるのは目に見えている。
「見渡す限り敵だぞ」
キートの声が泣きそうになっている。
「今はな」
イルファはあしらった。
「どこにも味方はいないじゃないか」
「まだな」
「いつ味方が現れる?」
「そのうちな」
「どこにだ?」
「ええい、うるせえっ!」
イルファは切れた。
「他力本願しかできねえ奴が、ごたごた抜かすんじゃねえ! そのうち、てめえの目ン中にまで味方って奴を突っ込んでやるから、ちったあ黙れっ!」
「仲間割れをしてる時じゃない」
黙っていたケジェが体を固めた。
「来るぞ!」
ケジェの声が消えるか消えないかで、人垣は瞬時に崩れた。狭い湾に押し寄せてくる大きな波のように、イルファ達めがけて押し寄せて来る。
「でえいっ!」
イルファの剣がうなりを上げて、空を切った。数人が旋風に巻き込まれて吹き飛んでいく。だが、それも数回功を奏しただけ、圧倒的な数の不利はイルファだけでは手に余る。
「あっ!」
ケジェが片腕を押さえてよろめいた。キートが悲鳴まじりに叫び声を上げながら剣を振り回している。
「うわあああっ、なんだっ、なんだっ、これっ!」
剣が当たって致命傷を負った敵が、次々とずるずるとした液体状のわけのわからぬ代物となって崩れ落ちるのに、誰もが次第に恐慌を来たし始めていた。
「人間じゃないのか? 人間じゃないのか! 人間じゃないのかあっ?!」
叫びながら、その声でますます怯え追い詰められて、キートは両目を開き切ったままだ。ゲルトが傷を負って、基底部の入り口に転がり込んだ。必死に無言で入り口を護り耐え抜いていたトラプが、やはり無言でがくりと膝をつく。
「んなろくそおっ!」
さすがのイルファにも焦りがでてきた。いくらイルファが『丈夫』でも、五体バラバラに切り刻まれては『復活』できない。
「仕方ねえっ!」
イルファは喚いた、
「こうなったら、俺は愛に死んでやるっ!」
キートがイルファのことばに、さらに我を失った顔で暴れ出す。
もう構わない、どこからでも何でもこい。
そう身構えたイルファだが、そのとたん、ふいと、雪崩落ちるように襲いかかってくる人波の彼方に、何か妙にゆったりと揺れ動く白いものがあるのに気がついた。
「あん? 何だ、ありゃ」
飛びかかってきた一人を殴りつけて放り出しながら、イルファはもっとよく見ようと首を伸ばした。そのイルファに誘われて、ケジェが片手を庇いながら同じ方向に目をやり………呟いた。
「何だ……あれは?」
それは、白い馬だった。
王侯貴族の持つ、よく手入れされた毛並みと見事な体格の美しい馬だった。
だが、その顔には中央に大きな目がたった一つしかない。
まるで宝玉のような眩いほどの金色の瞳。
豊かなたてがみを乱し、風に白い炎のように尾を舞わせながら、人波を石くれのように蹴散らして、みるみるこちらへ駆け寄ってくる。
乗っているのは、どう見ても、薄水色のドレスを着た女性だった。泡を吹きながら猛々しく走り寄ってくる馬を軽々と制し、この世のものとは思えぬどこか淡い幻のように、けれども確かに敵を冷酷に散らしながら、彼女はどんどん近づいてくる。
「ぐくぅあっ!」
「ぎゃっ!」
「ひいいっ!」
怒号と悲鳴が女性の進行に従って辺りを圧倒し始めた。
イルファ達を襲っていた敵も、一体何事が起きたのかと背後を慌ただしく振り返る。
響き出した音には、聞くに堪えない、何かを踏みつけ踏みにじりへし折る音も混じっていた。絶叫と胸が悪くなる粘液質の、あるいは液体状のものが次々とぶちまかれていく音。
それらを全く気に止めた様子もなく、馬を進め続ける女性の長い髪を、風がふわりと吹き払った。星明かりがその顔をためらうように照らし出す。
「ぐ」
「むぅ」
イルファ達の喉から妙な呻きが上がった。
無理もなかった。
艶やかな髪に取り巻かれた女性の顔には、あるべき肉がなかった。卵形の美しい輪郭の中にあったのは骸骨以外の何ものでもなかった。ぽっかり開いた眼窩からは今にもウジ虫が零れそうだし、白々とした骨の肌に剥き出された牙のように並ぶ歯が、星明かりにぞっとするような光を放っている。柔らかさなど微塵もない顔の造作には、残酷な冷笑しか感じられない。目と鼻があるべき位置に開いた穴に潜んだ闇からは死の臭いがした。そして、人間を踏みにじり引き潰すように暗黒の彼方から一つ目の馬に乗って駆けて来る姿は、それでも胸を喰い尽くすような圧倒的な美があった。
『目を閉じなさい』
突然、辺りに威圧的な声が響いた。中空にいきなり弾けた火花のように、耳を貫き脳髄を痛めつける荒々しい力を思わせる声だ。
『私の今宵の相手はそなた達ではない。もっとも、目を焦がされ、その身を私に差し出そうというなら、あえて拒みはせぬが?』
死の国から吹く風も、これほどのおぞましさと陰惨さを含まないだろうという声音だった。
「う、うあ」
慌ててキートが目を閉じる。イルファも急いで目を閉じた。
理屈ではない、剣士としての直感が、対抗出来る敵ではないと教えたのだ。
それでも、視界を閉ざす寸前、イルファは女性の手から次々と金の光球が放たれ、敵を呑み込み打ち倒し、消し去るのを見た。女性と面と向き合った者達が絶叫して目を押さえたかと思うや否や、ある者は溶け、ある者はいきなり炎を上げて燃え上がり、崩れ落ちていく様も。
「く、くそ」
情けないとは思ったが、身体の表面をみるみる冷たい汗が覆って、イルファは震えた。
すぐ側を馬がゆっくり通り過ぎて行くのがわかる。
彼女がアシャの話していた『狩人』で、味方なのだともわかっている、それでも、体の震えが止まらない。
『ほほ、ほほほ』
暗い、魔的な笑い声が響き渡った。
『そなた達は素直で可愛いのう。あのひねくれたアシャとは違ってな……ほほほ』
体を振り絞るような、喉を引き裂くような悲鳴が続く。腹をねじ切りせり上げてくる凄まじい腐臭が鼻を襲う。絶叫と、重いものが中空から降り落ちる音、何を踏むのか嵐の野を駆けるような濡れた馬の蹄の音、そして、女性はますます楽しげに、高く高く笑いながら、歌っているようにことばを繋ぐ。
「我が名はミネルバ。暗き闇の娘と人は呼ぶ。我が勤めは「運命(リマイン)」狩り、その命を啜り楽しむことこそ、我が定め。ほほ、ほほ、嬉しやなあ、命がさても儚う散るは、この手の闇か、そなたの闇か。さあ、誰ぞ答えよ、答えてみよ』
闇に響くその声は、呪歌とも聞こえ、巨大な魔を呼ぶ詠唱とも聞こえる。
「とんでもねえのを…よこしやがって」
『人の子よ』
「うわっ、はいはいっ」
ぼやいたイルファにミネルバが唐突に話しかけてきて、ひやりとした。
『もう目を開けても構わぬぞ。そなたの周囲に敵はおらぬわ。それに』
再び心を凍てつかせるような笑い声が響いた。
『そうさな、天下一の見せ物、二度とは見られぬ一幕を見せようぞ』
声は笑みを含んでいる。
イルファはごくりと唾を呑み込んだ。自慢じゃないが、もし万が一相手の気が変わっていて、イルファもついでに屠ろうと考えていたらと思うと、すぐには目が開けられない。
「ええい、くそっ」
必死に自分を叱咤して、イルファはそろそろと目を開けた。
すぐに、自分の目が限界まで見開くのを感じる。
今まで見たことのない悪夢が広がっていた。
のたうっている者も呻いている者ももはやいない。
大地はどろどろと形を失った肉塊とも血液ともいえぬものに覆われて、土が見えない。腐臭の酷さに感覚は麻痺していて、この汚泥と化した死体の海を土が呑み込むのにどれぐらいの時間がかかるのだろうと、イルファさえぼんやりしてしまった。
「ひいいっ!」
遠くの方で悲鳴が響いた。
はっとして目をやったイルファは、星明かりの中で、白馬がまだ数人を追い回し、死の乱舞を続けさせているのを見た。白馬の背中には丸太のような物が積まれている。それが硬直した死体だと気づくのに、時間はかからなかった。
『久しぶりよの、「運命(リマイン)」狩りは』
楽しげな、凄惨な声が、またどこからともなく聞こえてきた。
白馬の前で追われていた者が一人、何かに脚を取られたように倒れる。その背骨を踏み砕いて笑い、なおもミネルバは他の者を追う。
じっと見ていたイルファは、じっとりとにじんだ額の汗を拭いながら、それらがすべて『運命(リマイン)』であるのに気づいた。そうでない雑魚は、早々に片付けられてしまったらしい。
また、今一人の『運命(リマイン)』が脚を縺れさせて転び、その手足をミネルバの操る白馬が容赦なく踏み潰した。絶叫を上げて跳ね上がった後ぐったりした体が、透明な糸で引き上げられるようにふわりと浮いて、ミネルバの後ろ、白馬の背に狩りの獲物として積まれていく。
次の標的となった『運命(リマイン)』は二人、それぞれ別方向に向かって駆け出し、何度かミネルバの追撃を免れたかに見えたが、ミネルバはまたも、あの重苦しく粘り着くような笑い声を響かせて軽々と白馬を操った。カッ、と鋭い音をたてて、白馬のどす黒く血に塗れた脚が僅かに残った大地を蹴る。見る間に一人を蹴り砕いて生け贄とする。もう一人が逃げ惑うのを楽しむように放っておいたが、逃げ切れるかと見えた瞬間に白馬の歩みを翻し、『運命(リマイン)』の望みを儚く断ち切る。
最後の一人となった『運命(リマイン)』は、もうこれまでと居直ったのか振り返りながら黒剣をかざし、地面を身を潜めて走っていくと、素早くミネルバに飛びかかった。それは絶妙な技で、残忍な喜びに満ちた目が輝き、笑み綻んだ唇は血を吸ったように赤く燃え、振り下ろした黒剣は見事にミネルバの脳天を叩き割るかと思えた。
だが。
『甘いのう、集団でない「運命(リマイン)」とは』
ミネルバが物憂げに呟くと同時に白く美しい手が差し伸べられ、思いもかけぬ豪胆さでがっと黒剣を刃ごと掴む。はっとしたイルファ達の目の前で、鈍い振動と黄金の光が、ミネルバの手から剣へ、剣から『運命(リマイン)』へと走った。
「!!!!」
耳を裂くような悲鳴を上げて『運命(リマイン)』が体を弓なりに反らせる。その体に光のひびのようなものが走ったかと思うと、次の瞬間には『運命(リマイン)』はみるみる焼け縮れたような黒い塊に変わってしまった。
『これでは、私の花婿にはふさわしくはないのう』
さも残念そうなミネルバの声に、ケジェがぞくりと身を縮める。
その気配に気づいたように振り返りながら、ミネルバは手を離し、『運命(リマイン)』の死骸が散り果てるのにまかせた。
『怯えておるのか、そなた』
くすくす…と、人の心の脆さを嘲るような嗤い声を漏らして肩を震わせ、ミネルバはたおやかな白い手で手綱を握りしめた。
『無理もない、私と面と向かって意見するのはアシャぐらいなものだからな』
ことばと同時に、ミネルバの虚ろな眼窩の奥に禍々しいものが躍った気がして、イルファがごくりと唾を呑んだ。
ミネルバの白い骨の造作には、表情というものはほとんど感じられない。だが、相手が今にも哄笑しかねないほど上機嫌なのはまざまざと伝わってくる。死の女神か、魔界の狩人か。甘く暗い褥へと、その白い手で幾人の犠牲者を誘い込んできたのだろうか。陥れられた人間は、彼女が振り返って素顔を見せるまで、その体に秘めている惨い結末に気づくことはなかっただろう。
『アシャはどこにいるのだ、我が狩を望んでおきながら、見物にも現れぬのか』
冷ややかなからかいを込めて陰鬱な声が問い正す。が、もちろん返すべき答えなど誰も持っていない。
『まあよい』
ミネルバはやがて鷹揚に譲った。
『いずれまた、相見えることもあろう。そう伝えるがよい』
おぞましい戦利品を山積みにした馬をゆっくりと巡らせ、それらの悲惨さ重苦しさとは対照的なほど軽やかに、金髪と薄水色のドレスをなびかせて、ミネルバは地平の彼方、まだ夜が色濃く漂う方角へと去って行く。
「ふ…う…」
見送った者の中から、示し合わせたように重く暗い溜め息が漏れた。
「あれも……ラズーンの一部なんだな」
イルファの声は寒々と、明け始めた夜に響いた。
ゆらり、とテオ二世の体が一歩前へ動いた。
「テオ」
嫣然と笑み綻ぶミルバの笑みが、より一層広がる。
テオの背後で待つアシャは目を細めて、それでもことばを呑んだ。
「ミルバ…」
さっきまで響いていた阿鼻叫喚は、次第におさまってきてはいるものの、時折、人の心をひきむしり号泣するような悲鳴が上がっている。
一歩、続いてもう一歩、テオがミルバに近づく。テオのグレイの瞳は、彼の心の煩悶を映して暗く、乱れたプラチナ・ブロンドに煙る顔の輪郭の線がずいぶんときつくなっている。
「テオ」
ミルバは玉座を降りて、いそいそとテオの側に駆け寄った。そうしながら、テオ二世の背後で黙然と事の次第を眺めているアシャに嘲笑を投げかける。
アシャはきつく歯を食いしばった。
「ミルバ」
一瞬、テオ二世は立ち止まった。右手がアシャに預けられた剣を弱々しく探りかけたが、やがて力なくだらりと垂れ下がる。
「イ・ク・ラトール(誰よりも愛しい人)」
ことばが震え、瞳が潤んだ。
テオがどれほど酷な選択に耐えているのかは、誰の目にも明らかだ。彼は自分の死と王国の滅亡か、父母と最愛の人の最も無惨な死か、どちらかを選べと言われているのだ。
「父君……母君…」
再びテオは両親に目をやった。濁って生気のない目で笑み返す父母に、優しく哀しい視線を投げる。
「あなた達はぼくを大事に育てて下さった。誰より慈しみ、誰よりも守って下さった」
低い掠れた声がテオの唇から漏れる。
「その御恩を忘れるわけではない、また、忘れることなどできない………けれど、ミルバは誰よりも愛しい人(イ・ク・ラトール)……」
そのことばを聞いたミルバの瞳が嬉しそうに輝いた。
「だから、この方法を取ったとしても、許して下さいますね……?」
テオはミルバに左手を差し伸べた。作り物の人形の笑みも、これほど虚しいものはあるまいと思えるような微笑を満面に広げ、そのテオの腕にミルバが身を投げる。
と、そのミルバの顔が強張った。
「…え…?」
のろのろとテオを見上げる。
「辺境区の紋章、イワイヅタは、親株と切り離されても育っていくんだ、ミルバ」
まっすぐ前を向いたテオのグレイの目は、窓から見える明けていく空に向けられている。
だが、彼が見ているのは別のものだった。
荒涼とした大地に建てられている、眩いまでに白い塔、イウィヅタの浮き彫りが、その壁面を見事に覆う…。
「君には話したことはなかったね」
テオは引き攣った顔で彼を見上げるミルバに視線を落とした。つうっと、その瞳から澄んだ涙が溢れて頬を伝い、ミルバの髪へと零れ落ちていく。
「古来、辺境区の王子は、そのイワイヅタの習いに従って育てられる。分かれたそのとき、既にイワイヅタが別株として己の生を全うするように、王子もこの世に生を受けたそのときから、自分の命を貫くためなら親を振り返る必要はない、そう教えられて育つ…」
テオの瞳の優しさと裏腹に口調は切なく、終わりを知ったように静かだった。
「それが、己以外に守ることのできない、辺境区の掟なんだ」
「! …あぐっ」
突然、テオの右手が鋭く動いた。
ミルバが体を強張らせ、自分の体が力を失ってずるずる崩れ落ちるのを押しとどめようとするように、テオの腕に縋る。その華奢な背中から、どす黒い煙が立ちのぼり、見る見る範囲を広げていく。耳にしたくない音ーー泥状のものが、かろうじて保っていた形をふいに崩したようなーーが玉座の両側で起こり、辺りの空気が腐臭に満ちた。
零れ落ちる涙を拭おうともせず、じっとミルバの体を支えていたテオのプラチナ・ブロンドに、その日最初の朝日が砕ける。それと同時に、ミルバの体は、まるで土くれの人形のように、テオの両腕を擦り抜けて転げ落ち、崩れ落ちていった。
「……」
体がなくなっても、ミルバを抱いていたテオの左手は丸く優しく空を抱いている。そして、その何もなくなった空間に、テオの右手もまた空に浮いている、アシャの短剣をミルバの体に深々と突き立てた形のままに。
朝日が『紅(あか)の塔』の中に差し込み、部屋を明るく照らし出していく。
テオは小刻みに体を震わせ、やがて、短剣を取り落とした。両方の掌を顔に当て、押し殺した泣き声を立て始める。
「……」
アシャは気配を乱さない静かな動きでテオに近づき、床に落ちた短剣を拾い上げた。泣き続けるテオを見つめ、厳しい顔で剣を収めながら窓辺に近寄る。
美しい朝焼けが広がっていた。
空は聖堂の大伽藍のように神々しい厳かな輝きをたたえ、生きとし生ける者全てに祝福を与えようと両手を広げているようにも見える。雲が一切れ二切れ、空の端を彷徨っている闇の子のように、頼りなく浮かんでいた。
地上に目を転じると、すでに屠られた人々の屍の赤黒い泥の流れは、土と砂に吸い込まれ始めていた。
だが、その中に『運命(リマイン)』らしい姿はほとんどない。『狩人』が獲物として持ち去ったのだろう。
(ミネルバらしい)
アシャは皮肉な笑みを浮かべた。
(喜々として死を弄ぶ)
いやそもそも、この世界の成り立ちこそが、命を弄んだゆえの所行の結果ではないのか?
吹き込む風に乱れる前髪に、アシャは目を細め、
「……?」
ふと、何かに呼ばれたような気がして振り向いた。
「!」
凍りつく。
『白の塔』の基底部に、いつの間にか黒い影が群がり寄っている。
閃光のように、イルファと合流した時の会話が思い浮かんだ。
『あんまりうざいから、少々脅しをかけといたぜ』
自慢げな口調。
「まさか」
「アシャ?」
まだ涙声で、それでも流れた涙だけは何とか拭き取ったテオが、アシャの変化に気づいて近寄ってきた。
「あれ、は」
同じように『白の塔』を見やって固まる。
「テオ…残してきたのは何人だった?」
こちらに全て囲い込めるはずだった。
「確か……十数名…」
「兵は!」
声が叩きつけるように強くなってしまう。
「五名です!」
恐らくはミルバも馬鹿ではなかったのだ。イルファの脅しに何が潜んでいるのかを考えていた。そして、アシャ達の攻撃が近いと察し、先手を打つべく兵を回していたのだ。
アシャ達がこちらに迫る間、手薄になるだろう本拠地を叩くべく。
体中から血の気が引いた。
「テオ!」
「わかっています!」
二人は身を翻し、階段を駆け下り始めた。瞬く間に、入り口のイルファ達の元へ辿りつく。
「おいアシャ、何をそう慌てて」
「やられた!」
「何?」
「『白の塔』だ! 先手を打たれた!」
アシャは険しく空を見上げた。薄紅に染まる高みに白く空間を切り取って、悠々とクフィラが滑空している。
「サマル!」
鋭い口笛でサマルカンドを呼んだアシャは、腕に一旦休ませる間も惜しむように、その足に金の短剣を掴ませ、急いで放った。
「ユーノに渡すんだ、行けっ!」
いつになく激しい調子の主人の命令に、サマルカンドはすぐに高く舞い上がった。そのまま、どんな力自慢の者が投げた石つぶてでも出せるまいという速度で、『白の塔』を目指していく。
「大丈夫ですか?!」
隠しておいた馬に駆け寄り跨がって、テオが問いかけてきた。同じように馬に乗るや否や駆けさせながら、アシャは首を振る。
「わからん!」
ユーノのことだ、少しは持ちこたえてくれるかもしれない、かもしれないが。
(それも、限界がある!)
「…くっ」
自分の甘さと愚かさに歯噛みする。
いくら天賦の才があったところで、傷の痛みに耐えながらレスファートを庇い、しかも塔の上に追い詰められていくという不利な状況で戦い抜くことが、どこまでできるというのだ、『運命(リマイン)』相手に。
「女性…ですもの…ね…」
さすがに息を切らせながら追随してくるテオが呟いた。
びくりとして、とっさに振り返りながら、アシャはイルファ達の位置を確かめる。かなり後ろに置き去っている、聞こえてはいないはずだ。
(だが、こいつは知っている)
ふいに、祝福、ということばがアシャの脳裏に蘇った。ついでに、大抵の場合、辺境区の『祝福』と呼ばれる行為は『口づけ』だという、あまり嬉しくないことまで思い出してしまう。
「あなたは……知っていたんでしょう?」
顔が歪むのを感じた。
「イルファは知らないが」
暗に知らせるな、と釘を刺すと、当然だという顔でテオが頷く。
「どうして…もっと……守ってあげないんですか」
乗り手の心を映すような険しい蹄の音が響く。
「あの人は…女性扱い……されることに……慣れていない…」
二頭の馬は互いの力量を競い合うように走り続ける。
「……このあたりの娘でも……知っている……礼を受けることさえ……不慣れだ」
殺気を帯びた低い声が呟く。
「手がずっと……震えていた」
無意識に、アシャは唇を噛んで顔を背けた。
(手を取ったのか)
俺より先に、こいつはユーノの手を。
(ユーノが手を預けたのか)
心が乱れる。
テオのことば一つ一つに苛立つ自分が居るのを意識して、痛みを感じる。それに伴い、集中力が薄れていく危険な兆候さえも。
「女性は……守られるべきだ……っ」
アシャの煩悶を見抜いたように、テオが激しく詰った。
(ならばお前は)
ミルバを守ったのか。いや違う、そうじゃない、それが問題ではない。
「……っ、ふっ」
意識的に呼吸を強く吐いて気持ちを切り替える。
こんなところで、しかもユーノの危機に、自意識過剰の暴発など起こしている場合ではない。
目の前に『白の塔』が見る見る迫りつつある。
乱れ泡立ち殺気立つ気持ちの方向を、テオから切り離す。精神制御は視察官(オペ)の本能、『どれほど愛しい娘でも、再び会いたく想うなら、まずは己が生き抜くこと』、視察官(オペ)の訓練を行うときに、冗談まじりで呟かれる警句が、今重く痛みを伴った刃としてアシャの胸に突き刺さる。
(生きていてくれ)
胸に溢れるのは血の味がする願いだ。
(俺が辿りつくまで、生き延びていてくれ)
前方を見据え、剣を抜き放つ。
「そこから先は…っ」
世界を滅ぼそうとも、俺が守る。
「ユー…ノォおおおおっっ!」
迸った雄叫びに、テオが震えた。
のろのろと家屋から這い出して来る亡者のような顔つきの、様々な年齢の無数の人間が、イルファ達にゆっくりと迫りつつあった。
「おい……こいつぁ…」
イルファは一渡り周囲を見回して目を細めた。べろり、といささか獰猛な仕草で唇を舐める。
「ちょっとすげえな」
「すげえ、ではすまん…」
すぐ側に居たテオの配下の一人、ゲルトが震え声で呟いた。
「こんなのに勝てるわけはない。やはり無茶な策だったのだ。王子は客人にたぶらかされたに違いない」
「アシャの悪口は聞きたかねえな」
イルファはじろりとゲルトをねめつけ、さりげなく剣の向きを変えて見せた。
「アシャは言ってたんだ、押さえはいらねえ、とっておきの『狩人』が来るからってな」
「で、でも、その『狩人』はどこに来てるんだ」
同じくテオ配下、キートが引き攣った緊張した声で囁いた。
じわじわと包囲を縮めてくる人の輪の中から、誰か一人でも飛びかかってくれば最後、それを皮切りに、わっと総勢が襲いかかってくるのは目に見えている。
「見渡す限り敵だぞ」
キートの声が泣きそうになっている。
「今はな」
イルファはあしらった。
「どこにも味方はいないじゃないか」
「まだな」
「いつ味方が現れる?」
「そのうちな」
「どこにだ?」
「ええい、うるせえっ!」
イルファは切れた。
「他力本願しかできねえ奴が、ごたごた抜かすんじゃねえ! そのうち、てめえの目ン中にまで味方って奴を突っ込んでやるから、ちったあ黙れっ!」
「仲間割れをしてる時じゃない」
黙っていたケジェが体を固めた。
「来るぞ!」
ケジェの声が消えるか消えないかで、人垣は瞬時に崩れた。狭い湾に押し寄せてくる大きな波のように、イルファ達めがけて押し寄せて来る。
「でえいっ!」
イルファの剣がうなりを上げて、空を切った。数人が旋風に巻き込まれて吹き飛んでいく。だが、それも数回功を奏しただけ、圧倒的な数の不利はイルファだけでは手に余る。
「あっ!」
ケジェが片腕を押さえてよろめいた。キートが悲鳴まじりに叫び声を上げながら剣を振り回している。
「うわあああっ、なんだっ、なんだっ、これっ!」
剣が当たって致命傷を負った敵が、次々とずるずるとした液体状のわけのわからぬ代物となって崩れ落ちるのに、誰もが次第に恐慌を来たし始めていた。
「人間じゃないのか? 人間じゃないのか! 人間じゃないのかあっ?!」
叫びながら、その声でますます怯え追い詰められて、キートは両目を開き切ったままだ。ゲルトが傷を負って、基底部の入り口に転がり込んだ。必死に無言で入り口を護り耐え抜いていたトラプが、やはり無言でがくりと膝をつく。
「んなろくそおっ!」
さすがのイルファにも焦りがでてきた。いくらイルファが『丈夫』でも、五体バラバラに切り刻まれては『復活』できない。
「仕方ねえっ!」
イルファは喚いた、
「こうなったら、俺は愛に死んでやるっ!」
キートがイルファのことばに、さらに我を失った顔で暴れ出す。
もう構わない、どこからでも何でもこい。
そう身構えたイルファだが、そのとたん、ふいと、雪崩落ちるように襲いかかってくる人波の彼方に、何か妙にゆったりと揺れ動く白いものがあるのに気がついた。
「あん? 何だ、ありゃ」
飛びかかってきた一人を殴りつけて放り出しながら、イルファはもっとよく見ようと首を伸ばした。そのイルファに誘われて、ケジェが片手を庇いながら同じ方向に目をやり………呟いた。
「何だ……あれは?」
それは、白い馬だった。
王侯貴族の持つ、よく手入れされた毛並みと見事な体格の美しい馬だった。
だが、その顔には中央に大きな目がたった一つしかない。
まるで宝玉のような眩いほどの金色の瞳。
豊かなたてがみを乱し、風に白い炎のように尾を舞わせながら、人波を石くれのように蹴散らして、みるみるこちらへ駆け寄ってくる。
乗っているのは、どう見ても、薄水色のドレスを着た女性だった。泡を吹きながら猛々しく走り寄ってくる馬を軽々と制し、この世のものとは思えぬどこか淡い幻のように、けれども確かに敵を冷酷に散らしながら、彼女はどんどん近づいてくる。
「ぐくぅあっ!」
「ぎゃっ!」
「ひいいっ!」
怒号と悲鳴が女性の進行に従って辺りを圧倒し始めた。
イルファ達を襲っていた敵も、一体何事が起きたのかと背後を慌ただしく振り返る。
響き出した音には、聞くに堪えない、何かを踏みつけ踏みにじりへし折る音も混じっていた。絶叫と胸が悪くなる粘液質の、あるいは液体状のものが次々とぶちまかれていく音。
それらを全く気に止めた様子もなく、馬を進め続ける女性の長い髪を、風がふわりと吹き払った。星明かりがその顔をためらうように照らし出す。
「ぐ」
「むぅ」
イルファ達の喉から妙な呻きが上がった。
無理もなかった。
艶やかな髪に取り巻かれた女性の顔には、あるべき肉がなかった。卵形の美しい輪郭の中にあったのは骸骨以外の何ものでもなかった。ぽっかり開いた眼窩からは今にもウジ虫が零れそうだし、白々とした骨の肌に剥き出された牙のように並ぶ歯が、星明かりにぞっとするような光を放っている。柔らかさなど微塵もない顔の造作には、残酷な冷笑しか感じられない。目と鼻があるべき位置に開いた穴に潜んだ闇からは死の臭いがした。そして、人間を踏みにじり引き潰すように暗黒の彼方から一つ目の馬に乗って駆けて来る姿は、それでも胸を喰い尽くすような圧倒的な美があった。
『目を閉じなさい』
突然、辺りに威圧的な声が響いた。中空にいきなり弾けた火花のように、耳を貫き脳髄を痛めつける荒々しい力を思わせる声だ。
『私の今宵の相手はそなた達ではない。もっとも、目を焦がされ、その身を私に差し出そうというなら、あえて拒みはせぬが?』
死の国から吹く風も、これほどのおぞましさと陰惨さを含まないだろうという声音だった。
「う、うあ」
慌ててキートが目を閉じる。イルファも急いで目を閉じた。
理屈ではない、剣士としての直感が、対抗出来る敵ではないと教えたのだ。
それでも、視界を閉ざす寸前、イルファは女性の手から次々と金の光球が放たれ、敵を呑み込み打ち倒し、消し去るのを見た。女性と面と向き合った者達が絶叫して目を押さえたかと思うや否や、ある者は溶け、ある者はいきなり炎を上げて燃え上がり、崩れ落ちていく様も。
「く、くそ」
情けないとは思ったが、身体の表面をみるみる冷たい汗が覆って、イルファは震えた。
すぐ側を馬がゆっくり通り過ぎて行くのがわかる。
彼女がアシャの話していた『狩人』で、味方なのだともわかっている、それでも、体の震えが止まらない。
『ほほ、ほほほ』
暗い、魔的な笑い声が響き渡った。
『そなた達は素直で可愛いのう。あのひねくれたアシャとは違ってな……ほほほ』
体を振り絞るような、喉を引き裂くような悲鳴が続く。腹をねじ切りせり上げてくる凄まじい腐臭が鼻を襲う。絶叫と、重いものが中空から降り落ちる音、何を踏むのか嵐の野を駆けるような濡れた馬の蹄の音、そして、女性はますます楽しげに、高く高く笑いながら、歌っているようにことばを繋ぐ。
「我が名はミネルバ。暗き闇の娘と人は呼ぶ。我が勤めは「運命(リマイン)」狩り、その命を啜り楽しむことこそ、我が定め。ほほ、ほほ、嬉しやなあ、命がさても儚う散るは、この手の闇か、そなたの闇か。さあ、誰ぞ答えよ、答えてみよ』
闇に響くその声は、呪歌とも聞こえ、巨大な魔を呼ぶ詠唱とも聞こえる。
「とんでもねえのを…よこしやがって」
『人の子よ』
「うわっ、はいはいっ」
ぼやいたイルファにミネルバが唐突に話しかけてきて、ひやりとした。
『もう目を開けても構わぬぞ。そなたの周囲に敵はおらぬわ。それに』
再び心を凍てつかせるような笑い声が響いた。
『そうさな、天下一の見せ物、二度とは見られぬ一幕を見せようぞ』
声は笑みを含んでいる。
イルファはごくりと唾を呑み込んだ。自慢じゃないが、もし万が一相手の気が変わっていて、イルファもついでに屠ろうと考えていたらと思うと、すぐには目が開けられない。
「ええい、くそっ」
必死に自分を叱咤して、イルファはそろそろと目を開けた。
すぐに、自分の目が限界まで見開くのを感じる。
今まで見たことのない悪夢が広がっていた。
のたうっている者も呻いている者ももはやいない。
大地はどろどろと形を失った肉塊とも血液ともいえぬものに覆われて、土が見えない。腐臭の酷さに感覚は麻痺していて、この汚泥と化した死体の海を土が呑み込むのにどれぐらいの時間がかかるのだろうと、イルファさえぼんやりしてしまった。
「ひいいっ!」
遠くの方で悲鳴が響いた。
はっとして目をやったイルファは、星明かりの中で、白馬がまだ数人を追い回し、死の乱舞を続けさせているのを見た。白馬の背中には丸太のような物が積まれている。それが硬直した死体だと気づくのに、時間はかからなかった。
『久しぶりよの、「運命(リマイン)」狩りは』
楽しげな、凄惨な声が、またどこからともなく聞こえてきた。
白馬の前で追われていた者が一人、何かに脚を取られたように倒れる。その背骨を踏み砕いて笑い、なおもミネルバは他の者を追う。
じっと見ていたイルファは、じっとりとにじんだ額の汗を拭いながら、それらがすべて『運命(リマイン)』であるのに気づいた。そうでない雑魚は、早々に片付けられてしまったらしい。
また、今一人の『運命(リマイン)』が脚を縺れさせて転び、その手足をミネルバの操る白馬が容赦なく踏み潰した。絶叫を上げて跳ね上がった後ぐったりした体が、透明な糸で引き上げられるようにふわりと浮いて、ミネルバの後ろ、白馬の背に狩りの獲物として積まれていく。
次の標的となった『運命(リマイン)』は二人、それぞれ別方向に向かって駆け出し、何度かミネルバの追撃を免れたかに見えたが、ミネルバはまたも、あの重苦しく粘り着くような笑い声を響かせて軽々と白馬を操った。カッ、と鋭い音をたてて、白馬のどす黒く血に塗れた脚が僅かに残った大地を蹴る。見る間に一人を蹴り砕いて生け贄とする。もう一人が逃げ惑うのを楽しむように放っておいたが、逃げ切れるかと見えた瞬間に白馬の歩みを翻し、『運命(リマイン)』の望みを儚く断ち切る。
最後の一人となった『運命(リマイン)』は、もうこれまでと居直ったのか振り返りながら黒剣をかざし、地面を身を潜めて走っていくと、素早くミネルバに飛びかかった。それは絶妙な技で、残忍な喜びに満ちた目が輝き、笑み綻んだ唇は血を吸ったように赤く燃え、振り下ろした黒剣は見事にミネルバの脳天を叩き割るかと思えた。
だが。
『甘いのう、集団でない「運命(リマイン)」とは』
ミネルバが物憂げに呟くと同時に白く美しい手が差し伸べられ、思いもかけぬ豪胆さでがっと黒剣を刃ごと掴む。はっとしたイルファ達の目の前で、鈍い振動と黄金の光が、ミネルバの手から剣へ、剣から『運命(リマイン)』へと走った。
「!!!!」
耳を裂くような悲鳴を上げて『運命(リマイン)』が体を弓なりに反らせる。その体に光のひびのようなものが走ったかと思うと、次の瞬間には『運命(リマイン)』はみるみる焼け縮れたような黒い塊に変わってしまった。
『これでは、私の花婿にはふさわしくはないのう』
さも残念そうなミネルバの声に、ケジェがぞくりと身を縮める。
その気配に気づいたように振り返りながら、ミネルバは手を離し、『運命(リマイン)』の死骸が散り果てるのにまかせた。
『怯えておるのか、そなた』
くすくす…と、人の心の脆さを嘲るような嗤い声を漏らして肩を震わせ、ミネルバはたおやかな白い手で手綱を握りしめた。
『無理もない、私と面と向かって意見するのはアシャぐらいなものだからな』
ことばと同時に、ミネルバの虚ろな眼窩の奥に禍々しいものが躍った気がして、イルファがごくりと唾を呑んだ。
ミネルバの白い骨の造作には、表情というものはほとんど感じられない。だが、相手が今にも哄笑しかねないほど上機嫌なのはまざまざと伝わってくる。死の女神か、魔界の狩人か。甘く暗い褥へと、その白い手で幾人の犠牲者を誘い込んできたのだろうか。陥れられた人間は、彼女が振り返って素顔を見せるまで、その体に秘めている惨い結末に気づくことはなかっただろう。
『アシャはどこにいるのだ、我が狩を望んでおきながら、見物にも現れぬのか』
冷ややかなからかいを込めて陰鬱な声が問い正す。が、もちろん返すべき答えなど誰も持っていない。
『まあよい』
ミネルバはやがて鷹揚に譲った。
『いずれまた、相見えることもあろう。そう伝えるがよい』
おぞましい戦利品を山積みにした馬をゆっくりと巡らせ、それらの悲惨さ重苦しさとは対照的なほど軽やかに、金髪と薄水色のドレスをなびかせて、ミネルバは地平の彼方、まだ夜が色濃く漂う方角へと去って行く。
「ふ…う…」
見送った者の中から、示し合わせたように重く暗い溜め息が漏れた。
「あれも……ラズーンの一部なんだな」
イルファの声は寒々と、明け始めた夜に響いた。
ゆらり、とテオ二世の体が一歩前へ動いた。
「テオ」
嫣然と笑み綻ぶミルバの笑みが、より一層広がる。
テオの背後で待つアシャは目を細めて、それでもことばを呑んだ。
「ミルバ…」
さっきまで響いていた阿鼻叫喚は、次第におさまってきてはいるものの、時折、人の心をひきむしり号泣するような悲鳴が上がっている。
一歩、続いてもう一歩、テオがミルバに近づく。テオのグレイの瞳は、彼の心の煩悶を映して暗く、乱れたプラチナ・ブロンドに煙る顔の輪郭の線がずいぶんときつくなっている。
「テオ」
ミルバは玉座を降りて、いそいそとテオの側に駆け寄った。そうしながら、テオ二世の背後で黙然と事の次第を眺めているアシャに嘲笑を投げかける。
アシャはきつく歯を食いしばった。
「ミルバ」
一瞬、テオ二世は立ち止まった。右手がアシャに預けられた剣を弱々しく探りかけたが、やがて力なくだらりと垂れ下がる。
「イ・ク・ラトール(誰よりも愛しい人)」
ことばが震え、瞳が潤んだ。
テオがどれほど酷な選択に耐えているのかは、誰の目にも明らかだ。彼は自分の死と王国の滅亡か、父母と最愛の人の最も無惨な死か、どちらかを選べと言われているのだ。
「父君……母君…」
再びテオは両親に目をやった。濁って生気のない目で笑み返す父母に、優しく哀しい視線を投げる。
「あなた達はぼくを大事に育てて下さった。誰より慈しみ、誰よりも守って下さった」
低い掠れた声がテオの唇から漏れる。
「その御恩を忘れるわけではない、また、忘れることなどできない………けれど、ミルバは誰よりも愛しい人(イ・ク・ラトール)……」
そのことばを聞いたミルバの瞳が嬉しそうに輝いた。
「だから、この方法を取ったとしても、許して下さいますね……?」
テオはミルバに左手を差し伸べた。作り物の人形の笑みも、これほど虚しいものはあるまいと思えるような微笑を満面に広げ、そのテオの腕にミルバが身を投げる。
と、そのミルバの顔が強張った。
「…え…?」
のろのろとテオを見上げる。
「辺境区の紋章、イワイヅタは、親株と切り離されても育っていくんだ、ミルバ」
まっすぐ前を向いたテオのグレイの目は、窓から見える明けていく空に向けられている。
だが、彼が見ているのは別のものだった。
荒涼とした大地に建てられている、眩いまでに白い塔、イウィヅタの浮き彫りが、その壁面を見事に覆う…。
「君には話したことはなかったね」
テオは引き攣った顔で彼を見上げるミルバに視線を落とした。つうっと、その瞳から澄んだ涙が溢れて頬を伝い、ミルバの髪へと零れ落ちていく。
「古来、辺境区の王子は、そのイワイヅタの習いに従って育てられる。分かれたそのとき、既にイワイヅタが別株として己の生を全うするように、王子もこの世に生を受けたそのときから、自分の命を貫くためなら親を振り返る必要はない、そう教えられて育つ…」
テオの瞳の優しさと裏腹に口調は切なく、終わりを知ったように静かだった。
「それが、己以外に守ることのできない、辺境区の掟なんだ」
「! …あぐっ」
突然、テオの右手が鋭く動いた。
ミルバが体を強張らせ、自分の体が力を失ってずるずる崩れ落ちるのを押しとどめようとするように、テオの腕に縋る。その華奢な背中から、どす黒い煙が立ちのぼり、見る見る範囲を広げていく。耳にしたくない音ーー泥状のものが、かろうじて保っていた形をふいに崩したようなーーが玉座の両側で起こり、辺りの空気が腐臭に満ちた。
零れ落ちる涙を拭おうともせず、じっとミルバの体を支えていたテオのプラチナ・ブロンドに、その日最初の朝日が砕ける。それと同時に、ミルバの体は、まるで土くれの人形のように、テオの両腕を擦り抜けて転げ落ち、崩れ落ちていった。
「……」
体がなくなっても、ミルバを抱いていたテオの左手は丸く優しく空を抱いている。そして、その何もなくなった空間に、テオの右手もまた空に浮いている、アシャの短剣をミルバの体に深々と突き立てた形のままに。
朝日が『紅(あか)の塔』の中に差し込み、部屋を明るく照らし出していく。
テオは小刻みに体を震わせ、やがて、短剣を取り落とした。両方の掌を顔に当て、押し殺した泣き声を立て始める。
「……」
アシャは気配を乱さない静かな動きでテオに近づき、床に落ちた短剣を拾い上げた。泣き続けるテオを見つめ、厳しい顔で剣を収めながら窓辺に近寄る。
美しい朝焼けが広がっていた。
空は聖堂の大伽藍のように神々しい厳かな輝きをたたえ、生きとし生ける者全てに祝福を与えようと両手を広げているようにも見える。雲が一切れ二切れ、空の端を彷徨っている闇の子のように、頼りなく浮かんでいた。
地上に目を転じると、すでに屠られた人々の屍の赤黒い泥の流れは、土と砂に吸い込まれ始めていた。
だが、その中に『運命(リマイン)』らしい姿はほとんどない。『狩人』が獲物として持ち去ったのだろう。
(ミネルバらしい)
アシャは皮肉な笑みを浮かべた。
(喜々として死を弄ぶ)
いやそもそも、この世界の成り立ちこそが、命を弄んだゆえの所行の結果ではないのか?
吹き込む風に乱れる前髪に、アシャは目を細め、
「……?」
ふと、何かに呼ばれたような気がして振り向いた。
「!」
凍りつく。
『白の塔』の基底部に、いつの間にか黒い影が群がり寄っている。
閃光のように、イルファと合流した時の会話が思い浮かんだ。
『あんまりうざいから、少々脅しをかけといたぜ』
自慢げな口調。
「まさか」
「アシャ?」
まだ涙声で、それでも流れた涙だけは何とか拭き取ったテオが、アシャの変化に気づいて近寄ってきた。
「あれ、は」
同じように『白の塔』を見やって固まる。
「テオ…残してきたのは何人だった?」
こちらに全て囲い込めるはずだった。
「確か……十数名…」
「兵は!」
声が叩きつけるように強くなってしまう。
「五名です!」
恐らくはミルバも馬鹿ではなかったのだ。イルファの脅しに何が潜んでいるのかを考えていた。そして、アシャ達の攻撃が近いと察し、先手を打つべく兵を回していたのだ。
アシャ達がこちらに迫る間、手薄になるだろう本拠地を叩くべく。
体中から血の気が引いた。
「テオ!」
「わかっています!」
二人は身を翻し、階段を駆け下り始めた。瞬く間に、入り口のイルファ達の元へ辿りつく。
「おいアシャ、何をそう慌てて」
「やられた!」
「何?」
「『白の塔』だ! 先手を打たれた!」
アシャは険しく空を見上げた。薄紅に染まる高みに白く空間を切り取って、悠々とクフィラが滑空している。
「サマル!」
鋭い口笛でサマルカンドを呼んだアシャは、腕に一旦休ませる間も惜しむように、その足に金の短剣を掴ませ、急いで放った。
「ユーノに渡すんだ、行けっ!」
いつになく激しい調子の主人の命令に、サマルカンドはすぐに高く舞い上がった。そのまま、どんな力自慢の者が投げた石つぶてでも出せるまいという速度で、『白の塔』を目指していく。
「大丈夫ですか?!」
隠しておいた馬に駆け寄り跨がって、テオが問いかけてきた。同じように馬に乗るや否や駆けさせながら、アシャは首を振る。
「わからん!」
ユーノのことだ、少しは持ちこたえてくれるかもしれない、かもしれないが。
(それも、限界がある!)
「…くっ」
自分の甘さと愚かさに歯噛みする。
いくら天賦の才があったところで、傷の痛みに耐えながらレスファートを庇い、しかも塔の上に追い詰められていくという不利な状況で戦い抜くことが、どこまでできるというのだ、『運命(リマイン)』相手に。
「女性…ですもの…ね…」
さすがに息を切らせながら追随してくるテオが呟いた。
びくりとして、とっさに振り返りながら、アシャはイルファ達の位置を確かめる。かなり後ろに置き去っている、聞こえてはいないはずだ。
(だが、こいつは知っている)
ふいに、祝福、ということばがアシャの脳裏に蘇った。ついでに、大抵の場合、辺境区の『祝福』と呼ばれる行為は『口づけ』だという、あまり嬉しくないことまで思い出してしまう。
「あなたは……知っていたんでしょう?」
顔が歪むのを感じた。
「イルファは知らないが」
暗に知らせるな、と釘を刺すと、当然だという顔でテオが頷く。
「どうして…もっと……守ってあげないんですか」
乗り手の心を映すような険しい蹄の音が響く。
「あの人は…女性扱い……されることに……慣れていない…」
二頭の馬は互いの力量を競い合うように走り続ける。
「……このあたりの娘でも……知っている……礼を受けることさえ……不慣れだ」
殺気を帯びた低い声が呟く。
「手がずっと……震えていた」
無意識に、アシャは唇を噛んで顔を背けた。
(手を取ったのか)
俺より先に、こいつはユーノの手を。
(ユーノが手を預けたのか)
心が乱れる。
テオのことば一つ一つに苛立つ自分が居るのを意識して、痛みを感じる。それに伴い、集中力が薄れていく危険な兆候さえも。
「女性は……守られるべきだ……っ」
アシャの煩悶を見抜いたように、テオが激しく詰った。
(ならばお前は)
ミルバを守ったのか。いや違う、そうじゃない、それが問題ではない。
「……っ、ふっ」
意識的に呼吸を強く吐いて気持ちを切り替える。
こんなところで、しかもユーノの危機に、自意識過剰の暴発など起こしている場合ではない。
目の前に『白の塔』が見る見る迫りつつある。
乱れ泡立ち殺気立つ気持ちの方向を、テオから切り離す。精神制御は視察官(オペ)の本能、『どれほど愛しい娘でも、再び会いたく想うなら、まずは己が生き抜くこと』、視察官(オペ)の訓練を行うときに、冗談まじりで呟かれる警句が、今重く痛みを伴った刃としてアシャの胸に突き刺さる。
(生きていてくれ)
胸に溢れるのは血の味がする願いだ。
(俺が辿りつくまで、生き延びていてくれ)
前方を見据え、剣を抜き放つ。
「そこから先は…っ」
世界を滅ぼそうとも、俺が守る。
「ユー…ノォおおおおっっ!」
迸った雄叫びに、テオが震えた。
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