『ラズーン』第二部

segakiyui

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13.麦の女王(1)

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「考えたんだが」
 アシャが切り出したのは、キャサランを出て隣国のアグナイに入り、二日ほどたった夜のことだった。
 乾いた空気は冷え冷えとしたものを含んで、人に火を恋しがらせる。起伏の多い平原の赤茶けた土の上で、組んだ木が勢い良く燃え上がり、馬の背の荷物を解いているイルファや、小さな棒と木の皮で遊んでいるレスファート、じっと炎を覗き込んでいるユーノを照らし出している。
 香ばしい薫り、樹液が炙られ爆ぜる音、揺れ動く光と影。
「これから、ラズーンへ近づくに従って、これまで以上に『運命(リマイン)』の攻撃が激しくなってくるだろう」
 自分の声に重い響きが混じらなければいいと思いながら、アシャはことばを継ぐ。
「正直なところ、無事にラズーンへ着くには、かなりの苦労がいる」
 サマルカンドの報告では、既に旅の途中で視察官(オペ)ともどもに屠られた『銀の王族』さえ出始めたとのこと、これまでにない事態にラズーンも増援を考えるかもしれないとあった。
(そんなことなど、なかったのに)
 びく、とレスファートが一人遊びの手を止め、アシャを見つめた。淡い色の瞳に不安げな、何かを我慢しているような表情を浮かべる。
 それに気づいたらしいユーノが、そっと手を伸ばして慰めるように少年の髪に触れた。旅の汚れにもかかわらず、指の間でさらさらと鳴る髪をまさぐり、不安を追い出すように少年の体を引き寄せる。
 ほっ、と小さな溜め息をついて、レスファートはユーノの側にすり寄った。体をユーノの組んだ膝にもたせかけ、肘を枕代わりに頭を乗せる。それでもまだ、レスファートの目は警戒するようにアシャを見つめている。
「だから、宙道(シノイ)を使おうと思う」
「シノイ? 何だ、そりゃ?」
 イルファが不審げに眉をひそめた。
「視察官(オペ)が旅を速める時に利用する道だ」
 わけがわからない顔で瞬きするイルファの横で、ユーノが問いかける。
「普通の道じゃないの?」
 アシャは曖昧に笑った。
「まあな。その道を通れば、国の一つや二つ、半日もかからないで越えられる」
「それでか!」
 イルファが大きく頷いて叫んだ。
「おまえが、歳の割りにはあちこち広い範囲を巡っているのは!」
「…そういうことだ」
 痛い部分に触れられて、一瞬顔が歪むのを感じた。
「どうして今まで使わなかった?」
 旅もうんと楽だったろうに。
「それは…」
 イルファの不満そうな声に説明しかけた矢先、
「それはね」
 ふいにレスファートが口を挟んだ。
「その道をつかうの、すごいセイシンリョクがいるんだ。その道をあけたままにしておくのにも力がいるし、とおる人がおおいほど、力がいるんだ」
 支配下(ロダ)の人間が宙道(シノイ)の知識を持っているわけがない。ましてや、レスファートが宙道(シノイ)について、耳にする機会があるとは思えない。
「レス…」
 アシャの愕然とした声に、レスファートは凍りついた。瞬きして、怯えた顔であたりを見回す。
「ご、ごめんなさい、アシャ。ぼく、そんなつもりじゃ……よむ、つもりなんか……なかったんだ」
 瞳にみるみる涙が溜まってくる。
「ああ…気にするな」
「ぼ、ぼく、この、あいだからへんなの……なんか……いっぱい声が……はいってきて……なんか……こわいんだ」
 レスファートはがたがた震え出していた。ぎゅっとユーノの膝にすがりつき、必死な顔で彼女を見上げる。
「ユーノ……ユーノ……ぼく……あのとき……ユーノが死んだとき………たすけにいかなくちゃならないとき……なんか……いっぱいで……いろんなものがいっぱいで………ぼく……ぼく……!」
 小さな悲鳴を上げて、レスファートはユーノの膝に突っ伏した。体中を大きく震わせて、蒼白な顔になっている。
「レス!」
 呆気にとられていたイルファが慌てて駆け寄ってくる。
「た……すけなきゃって……たす……たすけなきゃって……大きくなって……大、大きく……」
 微かに漏れる呟きに、そういうことか、と気づき、アシャはレスファートに近づいて静かに声をかけた。
「レス? レスファート?」
「ユーノが……たすけてっ……って……ぼく……ぼく…」
「どうしたんだ!」
「イルファ」
 喚きかけたイルファを黙れ、と目で制し、アシャは少年の顎を掴んで顔を上げさせた。
「アシャ…」
 不安そうなユーノの声に頷き、カタカタと細かく歯を鳴らしながら、こちらを向いてはいるのに、視線はアシャより遥か後方の彼方を見つめているレスファートを覗き込む。もしやと思って手にしていた小さな袋から白い錠剤を出し、レスファートの間に捩じ込むように押し入れ、水を入れた。
「む」
「吐くなっ」
 とっさに吐き出そうとしたレスファートを一喝、掌で少年の口を押さえる。目を大きく開いたまま、レスファートがごくりと音とたてて薬を飲み下す。見守るユーノとイルファの前で、アシャは穏やかな低い声で囁いた。
「レス?」
 一瞬不安げに閉じられた瞳がゆっくりと開く。
 虚ろに光を吸い込んで霞む淡い青。
「いいか、レス」
 開き気味の瞳孔の奥を意識で貫くように見つめながら、アシャはことばを継いだ。
「お前は俺達の仲間だ。なくてはならない人間だ」
「おい、アシャ、何を…」「しっ」
 口を挟みかけたイルファをユーノが制した。
 ぱちぱちと爆ぜる焚き火の横で、レスファートはアシャに向き合ったまま、じっと体を硬直させている。
「お前がいなくなれば、どんなに寂しいだろうな。仲間っていうのは、一人が何もかもできなくちゃならないものじゃない。一人ができないことは、他の誰かができればいい。それが仲間なんだ」
 なだめるように優しい声を意識して、レスファートの追い詰められた心に送り込む。
 ことばの意味が伝わっているとは思えない。だが、レスファートは心象を読める。アシャのことばに含まれた感情は確実に届くはずだ。
「でも…」
 夢の中にいるように、レスファートはぼんやりと口を動かした。虚ろに遠い視線がアシャを通り越し、アシャの声を頼りに、何か違うものを探し求めているようだ。
「ぼく……ユーノ…すきなのに……だれより……すきなのに……ぼくは……ゆーのをまもれない……」
 新たな涙が瞳に盛り上がって、頬を伝って零れ落ちた。
「いつだってぼく………ゆーのにまもってもらってばっかりだ……」
「それでも、ユーノはお前を……必要としている」
(少なくとも……俺よりもうんと)
 胸に動いた切ない想いを押し殺す。
「ユーノはお前を嫌ったりしない」
(俺を好きになることは、ないかもしれないが)
 危うい感情、これほど年下の者に向けるには気まずい嫉妬も、今この際には利用できる、アシャ・ラズーンという男は。
「ユーノは俺が守ってやれる」
 事実だけを述べる声に優しさは含ませない。
「だが、俺はなかなかユーノの側にはいられない」
(拒まれるだけ、竦まれるだけ)
 傷ついた自分の弱さは晒して残し、ユーノを恋うる少年の優越と自信に繋げる。
「今度だって、お前が知らせてくれなければ、俺はどうにもできなかった」
 それは現実、動かし難い冷酷な事実。
 アシャ一人ではおそらくユーノもろとも全てを屠った可能性の方が高い。
(愚かな、兵器でしかない、男)
 だから、あれほど側に居て、あれほど手当に全身全霊尽くしても、ユーノはアシャの危うさを見抜いて寄り添ってきてくれないのだ、きっと。
「ほんと…?」
「ああ」
 本当か、と問いかけた、その真実の意味を理解したのは、おそらくレスファートの中にある特殊な力とアシャだけだ。
「ほんと……ユーノ……?」
 ふらりと体を揺らせて、レスファートはユーノを振り返った。
「レス…」
 ユーノもまた、思い詰めた顔でレスファートを見つめている。
「ぼく……なにもできなくても……ゆーの…ぼくをきらわない……?」
「誰が、いつ、レスを嫌いだと言った?」
 唇を噛んで爆発しそうなのを堪えていた、そんな表情のユーノがついに叫ぶ。アシャの前で頼りなげに竦んでいるレスファートを引き寄せて抱き締める。
「ボクがレスを嫌うはずないだろ!」
「ゆーの…」
 抱かれるままになっていたレスファートがしゃくり上げた。
「レスが好きだよ」
 ユーノが低く囁く。
「謝るのはボクだ。守れなくてごめんよ、でもレスが大好きなんだ」
 のろのろとレスファートは両手を抱擁から抜き出した。そっとユーノの首に回す。本物かどうか確かめるようなあやふやな動作、次の瞬間、力の限りしがみつく。
「ぼくもすき! ユーノがすき! ユーノ! ユーノ! ゆー…」
 声が突然途中で途切れ、がくりとレスファートが崩れ落ちた。
「レス!」
「大丈夫だ、薬が効いただけだ」
 ぞっとしたように叫んだユーノを、アシャは静かに応じた。
「しばらく抱き締めててやってくれ。今夜は一緒に眠っていてやったほうがいい」
 俺には与えてくれない、その優しい抱擁で。
「少し……休ませてやってくれ」
 呟いて、アシャは胸の内を過った苦い声に顔を伏せて立ち上がる。
「荷物を降ろしてくる」
「わかった」
 レスファートを抱きかかえるユーノの横顔から顔を背けた。
(休みたいのは俺だがな)
 できれば一晩、ユーノ自ら差し出してくれる胸に憩って。
「おう、手伝うぞ」
「頼む」
 追いかけてくるイルファに振り返らないまま応えて、不安になった。
(気のせいだろうか)
 俺はどんどんみっともない男になっていく気がする。

「アシャ……一体レスはどうしたんだ?」
 泣き寝入りしてしまったレスファートのあどけない寝顔に目をやりながら、ユーノは尋ねた。
「『運命(リマイン)』の心理攻撃の後遺症、といったところだな」
「こういしょう?」
 なんだそれは、食い物か、とイルファが妙な突っ込み方をしてくる。
「レスは毒物か何か盛られたのか」
「違う。……想像だが、月獣(ハーン)の一件で、自分がもっと力を持ち、もっと早く成長することを望んだんだろう、無意識に。無理な許容範囲の拡大をしていたところに、心理攻撃の傷と、現実の危機が重なった」
 アシャは微妙な表情になって付け加えた。
「過負荷になっていた。受け入れ過ぎていたんだ」
「……だから、『声がいっぱい』か…」
 ユーノは抱きかかえたレスファートの乱れた髪を払い、涙の跡を拭き取ってやった。
「そうだ、それに」
 アシャはより複雑な顔になる。
「レスがそれほどお前を想っていた、ということも一因だろう。かけがえのない相手を守れないということは……男にとってはつらい」
「わかるなあ」
 ユーノは思わず吐息をつく。
「大事な人を守れないのは…つらいよね」
「……そっちで『わかってしまう』のか」
「え?」
「いや……なんでもない」
 アシャが深く大きな溜め息をつく。
「……でも、レスにどうしてやったらいい?」
 今夜は休ませてやればいい。けれど、この先も旅は続く。月獣(ハーン)や、二つの塔のようなことは何度もあるだろう。その度に、レスファートが衝撃を受け動けなくなってしまうなら、よほど考えなくてはならない。
「他の人間にはどうにもできん」
 アシャはもう一度溜め息を重ねた。
「自分で抜け出すしか、ない」
「……ゆーの…」
 レスファートが小さく呟いて手を伸ばし、ユーノの所在を確かめる。眠る前と同じ場所に居ると知って安心したのか、再びすやすやと寝息を立て始める。
「さっき話してたシノイ、って」
 ユーノは何事か考えに耽っているアシャを見やった。
「ああ、宙道、とも言われている。空間に道を開くんだ。幸いに、この近くに一つ、その出入り口があるはずだ」
(また、遠くなった)
 空間に道を開く。
 想像もつかないその手法を、アシャはこともなげに口にする。
(私には、理解できない何かを、アシャはずっと抱えてる)
 アシャの中にある不可思議なもの。
 おそらくそれを分かち合うのはレアナとだけ、ということなのだろう。
「じゃあ、それを?」
 気持ちを切り替えて問いかけた。
「ああ」
 寝息を立てているレスファートを、アシャはどこか諦めの混じったような瞳で眺め、ゆっくり瞬きして空を見上げた。
「レスが落ち着き次第、出発しよう」
 空を埋めるように光っていた星の一つが、すうっと流れ落ちていった。

 アグナイは麦の名産地だ。
 小麦やレク麦などは言うに及ばず、アグナイでしかとれない、粒の大きな褐色の実りを揺らせるパデット麦、ゲト酒のもとになるゲト麦など、品質もよく種類も豊富なものが、今や国の三分の二以上を占める麦畑に豊かに実っていた。
 ユーノはふと気づいて、さっきから苦虫を噛み潰したような表情になっているアシャに問いかけた。
「どうしたんだ、アシャ?」
 そろそろ中天高くなった太陽は麦畑に照りつけ、褐色の波がうねる中の小道を馬でゆっくり進んで行くのは気持ちよかった。なのに、アシャはついさっき通り過ぎた建物ーーそれはどうやら、この辺りの村の守護神を祭っているらしいーーを見てから、むっつりしたままだ。
「あ…ああ」
 アシャはようやく眉根を緩めて、独り言のように呟いた。
「まさか、あそこにあんなものを建てるとはな…」
「?」
 首を傾げるユーノの鼻先に、ぷんと甘い匂いが漂ってきた。彼女の前にちょこんと座っていたレスファートが、くんくんと子犬のように鼻を鳴らしてみて、歓声を上げる。
「おかしのにおい!」
「上等な食い物の匂いだ!」
 イルファもはしゃいだ声を上げた。
「そういえば、腹が減ったな。おい、アシャ、あそこの村で何か食おうぜ」
「そうだな…」
 イルファの誘いにも、アシャは今一つ関心を示さない。その肩にはサマルカンドが翼を休め、考え込んだ主人を不審そうに見つめている。始めはユーノの肩に乗ろうとしたのだが、小柄なユーノの肩には乗切れないと判断したらしく、アシャの元に戻ったのだ。
(アシャが悩んでるの、宙道(シノイ)のことかな)
 ユーノはやっと慣れてきたヒストを手綱で操りながら気がついた。
 視察官(オペ)が使うという宙道(シノイ)。
(空間に道を開く、なんて)
 そんなことが人間業でできるとは思えない。
「どうやら、ここが酒場みたいだな」
 ユーノの戸惑いをよそに、イルファはさっさと食べ物にありつけそうなところを探し出していた。
「酒も少しぐらいはいいだろ、アシャ」
 機嫌よく馬から降りるイルファ、ユーノもヒストから降り、レスファートを降ろしてやる。
 レスファートはまだどこか不安そうだ。ユーノがこの場で霧にでもなって消えてしまわないかと恐れるように、しっかりと彼女の首にしがみついて馬から降りた。
「レスが食べられるものもあるといいけど」
「おかしのにおいがしたよ。おかし、ないの?」
「うーん……あればいいけど」
 馬の背から荷物を下ろすのに手間取っているイルファを置いてレスファートを降ろし、先に立って木製の扉を押しかけたとたん、アシャがいきなりうろたえた声を上げた。
「え、あ、待て、ユーノ!」
「え?」
 単身店に入ってしまったユーノがアシャを振り返ると同時に、中からわあっという歓声が溢れ出した。
「?!」
「ああ…」
 アシャが片手で目を覆って呻く。
「すっかり忘れてたな…」
 うんざりした声でぼやく。
「何だ?」
「麦祭だ。とんでもないのにひっかかった」
 アシャは澱んだ声で続ける。
「これで五日はここから動けないぞ」
「あん?」
 間をぱちくりさせたイルファ、がっくり項垂れるアシャ、思わずユーノにしがみついたレスファート、そして、ユーノはいきなり自分に向かって投げられた色とリどりの花とリボンと細かく千切られた香草の葉に、とっさに剣に滑らせた手をかろうじて止めて目を白黒させて立ちすくんだ。
 大きな窓から日差しが一杯に入り込む明るい店内に、ぎっしりと人間が詰まっている。どの顔も好奇心に満ちて生き生きと笑っている。
「な、に?」
 驚くユーノに、また楽しくてたまらないと言った笑い声が沸き起こった。
 その中から、髪も髭も真っ白な、体格のいい訳知り顔の老人が現れ、温和な笑みを浮かべる。
「ようこそ、アグナイのティアンカへ、旅の人」
「ラズーンのもとに」
 慌て気味に礼を返したユーノに、着飾った娘達がくすくすと堪え切れぬように笑う。
「男の子だわ」
「まあ、それじゃあしっかり仕上げなきゃ」
「可愛いわよね?」
「結構いいんじゃない?」
 きょとんとしているユーノに、老人は憐れむような微笑を向けた。
「失礼は許して下され。しかし、アグナイの麦祭は有名なもの、知らぬ方が悪い、ということになりますな」
「アグナイの麦祭?」
 老人のことばをそのまま繰り返したが、聞き覚えがない。
「そうして、見たところ、どうもあなたさまは少年らしいが、この祭りの間は女王を務めてもらいますぞ。それが『しきたり』でしてな」
 老人はゆっくり頷いて平然と続けた。
「え…」
 女王?
 曖昧に笑っていた顔が強張る。ほほほほ、と娘達の笑いが大きくなる。
「えーっ!」
 ようやく事情が呑み込めてきて喚いたがもう遅かった。賑やかな笑いとおしゃべりで、娘達がユーノを取り囲む。
「さあ、着替えてくださいな」
「綺麗に仕上げて差し上げますよ」
「え、ちょ、ちょっとぉ!」
 なまじ相手が敵でないだけに抵抗出来ず、あれよあれよと言う間にユーノは奥の別室に連れ込まれていった。
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