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8.『欲魂』
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左手首にいつの間にくくりつけられていたのか、真っ赤なひもが結ばれている。そしてその先は、予想に違わず克也の右手首にしっかりと結びつけられていて、それを俺は思いっきり引っ張ってしまったのだ。
おそるおそる克也に目をやると、相手は枕に頬をうずめたまま、目だけしっかりと開けていた。
「どこ行くの?」
まずい。相当に怒っている。
「こんな夜中に、病み上がりで、しかも一人でどこに行こうっていうの?」
「お前……起きてたん……?」
おそるおそる尋ねてみれば、克也は険しい表情で俺をにらみつけた。
「眠れるかよ、こんな状況で」
「ああ……そら…そうか」
俺は手首のひもをぼんやりと見た。看病のためとは言え、こんなものをつけて満足に眠れるわけはない。
「すまん……今はずすわ。俺、どれぐらい眠ってた?」
目が覚めてしまったのなら、黙って街に消えるわけにもいかない。片手でひもの結び目を解こうと苦闘しながら問いかける。
「二日か…ひょっとして、三日?」
布団に座り込んでひもを解くのに集中していたせいで、克也が体を起こしたことに気づかなかった。はっとしたときには押さえ込まれて、布団にもう一度倒されていた。
「かつ…」
「二日? 三日? 冗談じゃない」
俺にのしかかったままきつい目をぎらつかせて、克也は唸った。
「ほんっとに覚えてないの?」
「な…何をや」
「一週間、ほとんど目も覚まさないで」
「え…」
一週間?
俺は茫然として動きを止めてしまった。
「飲み食いも一人でできなくて、ひたすら眠ってばかりいて……なのに、意識もないのに、何度もどこかへ行こうとして」
克也は頬を紅潮させて俺をにらみつけている。その目がみるみる潤んでいくのを俺はあっけに取られて見上げた。
「どんなに僕が心配したか、わかってないんだろ」
「か…」
いきなり顔が近づいてきて、俺は一瞬まじに殴られると身をすくめた。それほど克也は怒りまくっていたし、それほど怒ってる克也を見るのも初めてだったし、正直なことを言えば、何か身動きできないほど怖くて、体が動かなかったのだ。
目を閉じて首をすくめる、その次の瞬間に顔を張り飛ばされるはずの衝撃は別のものに変わってしまった。
「ん…」
唇を、奪われた。
口を重ねるとかではなくて、俺の唇を引き込むように克也が口に食らいついてきて、息が止まった。
呼吸ができない。身動きもできない。意識も片端から奪われて体が布団の中に崩れこんでいく。もがこうとした手が握られ抱きかかえられる。
紛れもない恐怖が体を駆け抜けて、皮膚があわ立った。無意識に震え出したのを止められない。
(食われる…)
本気でそう脅えた。その瞬間唇を離されて、俺はみっともないほど必死に喘いだ。過熱した頭も体も震えたままで、何もうまく考えられない。
「達夜」
切なげな熱い息が耳元で俺の名前を呼んだ。
「嫌われてるならって思ってたけど……だめだ、やっぱり、あきらめられない。怖がらせてごめん、体に無理させてごめん、でも、だめだ、君を離すわけにはいかない、絶対に、だめだ」
「克…也」
「君が倒れてくれてよかったって、本気で思ってる。君をここに連れてくる間もいろんな男が物欲しそうに君を見てた。くやしそうに、君を抱いてる僕を見てた。連れてくるんじゃなかったって思ったよ、あのまま『京』にいればよかったって。けど」
克也は顔を上げた。俺をじっと凝視する、その目の熱さにまた心臓がはね上がる。
「君は何度もどこかへ行こうとした……たぶん『京』を守るために動こうとしたんだよね。それを引き留めて、抱きとめて、こうして布団に押さえつけて、眠るまで抱き締めて……眠れるわけが、ないよな?」
苦い笑い、けれどそれはとんでもなく惚れぼれするようないい顔で、俺は力が抜けた。震えが止まって、体がゆっくり熱くなる。どくどくと波打っている血の拍動が、耳の奥からもっと底へ沈んでいくのを感じ取る。
「克也……」
「達夜?」
呼んだ声の調子に気づいたのだろうか、克也は少し目を見開いた。押し付けてくる体が前より熱く重くなっている。ごく、と唾をのみ込んで、かすれた声でつぶやく。
「どうしよう……歯止め……きかないや」
俺は口を開いた。猛々しい克也の目に気力を吸い取られて目を閉じる。
「…いい」
「よくなくても……」
克也が低く殺気立った声で笑った。
「止められないよ…ごめんな、達夜」
克也の顔が胸に落ち、俺は息を詰めてそれを受け入れた。
「……おはよ」
次にはっきりと目を覚ましたのは朝だった。側に枕を並べていた克也が、俺が目を開いたのをすぐに見つけてほほ笑む。
「お…はよ」
「大丈夫?」
「ん…」
大丈夫も何も。
結果から言えば、『事』は起きなかった。
克也が迫ってきて、その腕に抱きすくめられたのは確かだったけど、そしてまた、克也の甘い声とか熱っぽい掌とかは覚えているのだけど、俺の体は別な意味でやっぱりどうにも限界で、克也が本気で事に及ぼうとしたときにはまたぐっすりと眠り込んでしまっていたらしい。
さすがにそうなってしまった俺は、襲うに襲えなかったよ、と克也はいったん目を覚ました俺に小さく笑って囁いてくれ、それからちょっと口を合わせてくれて「お休み」と眠らせてくれたのだ。
実はそれさえも、ぼんやりとあやふやな光景の中で。
けれど、こうして朝日の差し込む部屋で、布団を並べて一緒に眠っている男というのは、なんだか不思議と愛しく温かな存在感があって、俺は妙に静かな気持ちで克也を見られた。
たぶん、これからこういうことはない。
俺は『京』の神女達夜なのだし。祭事方でもあるのだし。
二度とこういうことはない。
俺、が心を揺らした相手は、最初で最後、克也だけ。
それが何だかとてもうれしいような、誇らしいような……そんな気持ちになっていた。
(もう、ええわ)
これできっとふっ切れる。
思い切って、心置きなく、闇舞妓を狩りに出られる。
そう思って、自分が闇舞妓を狩る姿、それこそ俺こそが魔性のように見える姿を克也に見られたくなかったのだと気がついた。
(うん、もうええ)
この後、克也が俺の本性を目にすることで、俺を心底恐れようとも嫌いになろうとも。
俺はずっと克也が好きで、この先ずっと俺の胸には克也がいて。
(それでええ)
「そっか…」
「え?」
いぶかしそうにこっちを覗き込む克也にうなずいた。
「いや、こっちの話」
好きな相手と一夜を千切って、それでも『京』に戻ってくるものの胸のうちは、きっとこういう気持ちなのだ。
大事な面影を生涯一つ胸に置いて、その気概で残りの命を生きる。普通ならば子どもも生まれ、その子どもに愛しい相手の顔も見ることもできるだろう。
そうして『京』の女達は異界を離れて舞い戻ってくる。あでやかな蝶として最後の一息まで舞い切るために、異界から『京』に帰ってくる。
祭事方は、その女達の気概を支えるためにある。
中途半端に想いを持て余してどろどろと情念を煮えたぎらせて腐ることがないように、一夜の命に全てをかけて闇を渡ってくる業を受け止め、安らぎをもって報いるために働いている。
(そっか、そういうことなんや)
ようやく得心がいったような気がして、にっこり笑って克也を見ると、相手は大きく目を見開きぽかんとした顔でこちらを見た。
「さ、起きて……ここがどこなんか話してもらお。それに、一週間も寝込んでたんやったら、『京』の方にも連絡つけたいし、何より、俺、腹減ったわ。何かあるやろか……」
体を起こして振り返ると、つられるように起き上がった克也がまだ呆然と俺を見ている。
「克也? どうしたんや?」
「へえ……女の人って……すごいな」
「何が?」
「実際にしてなくても…十分きれいになっちゃうん……!」
俺は枕で克也を殴った。
「ああ、起きられるようにならはったんやね?」
俺が眠っていた部屋は一階の奥の間で、そこから縁側沿いに玄関の方へ向かうと、こじんまりとした和室があって、そこに上品な気配の老婦人が座っていた。
手に三味線、それと一目でわかる往年の華、柔らかく首をかしげた物腰は香るほどにあでやかで。
俺は急いで改まって縁側に座り両手をついて頭を下げた。
「えろう、お世話になりました。私は神女達夜と申します」
「あれ、まあ」
相手はころころとかわいらしく笑った。三味線を横に置き、ふわりと袂を払って同じように指をそろえ、頭を下げて応じてくれる。
「これはご丁寧にありがとう存じます。わたくし、祇園の浜野と申しまして、克也の祖母に当たります。こちらこそ、達夜さんにはご迷惑おかけいたしました……なにせ」
くすりと笑って構えを解き、俺の後ろの克也へ視線を投げた。
「ええ年した『けだもん』どっさかいなあ」
くすりと笑った唇が紅の色よりもあでやかに花開いて、思わず見惚れてしまった。しかも、その口が紡ぐのは、ことばだけは柔らかだったが、身内だけに通じるからかいまじりの罵倒そのもので。
「ほんにまあ、こらえ性のないこと。ほんまに誰に似たことやら、おなごの寝込みを襲うなんて色気も粋もあったもんやあらへん、しょうのない子やこと」
「へ?」
克也がうろたえたように頬を染めた。
「浜野さん!」
ちらりと俺を横目で見、甲高い声をあげて、俺は一瞬頭痛を覚えた。
(何で知ってるんや、この人)
「まあ、しょうがおへんわ、達夜さん、おきれいやしなあ。ここへきはったときかて、まあ、男衆が、どこのおたなの人ですかて、そらもう、騒がしぅて、騒がしぅて。さすが、ぼんの見立てはよろしなあ言われて、克也までうれしそうに笑うてるしなあ?」
おい、聞いてるのと違うやんか。
そんな視線を投げてみたが、克也は知らぬ顔で天井あたりを眺めている。
「おや……聞いたはらしまへんの?」
「え?」
まじまじと俺を見た浜野がくすくすと楽しそうに笑った。
「かいらしなあ、そんなにあこうならはると、やあ、あてかていじめとなるさかい、この子が囲うの無理ないわ」
赤く、なってる?
言われてふいに自分の顔が熱くなっているのに気づく。気づいたとたんにますます顔の温度が上がって、何だかとても相手の顔を見ていられなくて、俺は思わずうつむいた。
「もういいだろ、浜野さん」
我関せずの顔をしていた克也がふいに割り込んでくる。
「それより、頼んでたこと、わかった?」
「へえ、確かめときましたで」
浜野は胸元から何か書き留めたらしい一枚の和紙を取り出した。
「祇園甲部、宮川町、上七軒、先斗町、祇園東、島原。一通り舞妓芸妓男衆にも聞きましたけど、この一月の間に店だししはった舞妓は一人、良乃はんだけどした。そやけど、あんたはんが会わはった先斗町やおへん、上七軒どす」
「ってことは……やっぱり、本物の舞妓じゃなかったんだ」
「そこが……難しおすけど……」
浜野はいいよどんで複雑な顔で和紙に目を落とした。
「最近、舞妓姿で京都の街を歩く、いうツアーがあるんどす。観光客が京都の思い出作りに、舞妓の衣装を着付けてうろうろするもんやけど、さあ、一見の人にどれがほんまの舞妓かわかるか言うたら、なあ……」
「そういう観光客が舞妓姿をしていた、と?」
「そういう場合もある、言うことでっせ。こちらのかいらしいお嬢さんのことを疑うわけやおへんけど、この世と違うところに異界の『京』があって、そこから闇舞妓とかいう娘はんが流れ込んでて、しかもこちらの男はんを誘い出す言われても、なるほどなあとうなずくわけにはいきまへんやろ?」
俺はぎょっとして克也を見た。一体どこまで話しているのか、そんなことまで話していいのかと思ったからだ。
だが、克也は俺の視線に動じた気配もなかった。にっこり無邪気に笑い返して、
「大丈夫。達夜の言うような話はこっちじゃSFかファンタジーだ。まともに受け取っちゃもらえないよ。けど、浜野さんは祇園に顔が広いだけじゃなくて、妙な特技もある人なんだ、そうでしょ?」
「ややわ、人をばけもんみたいに」
浜野はしっとりと眉をひそめた。
「この御時世、お化けみるぐらいようありますやろ」
「お、お化け?」
俺がどもったのに克也が苦笑する。
「達夜のいる世界と関わっているのか、それとも別の世界と関わってるものなのかは知らないけど、とりあえず、実体のない人間を『お化け』って浜野さんは呼んでる。幽霊とも呼ばれるけど。要するに霊魂だけの存在だよ。こっちに戻ってまっすぐここへ来たのは、浜野さんがそういう方面でも何か見てないかと思ったからだけど」
ふいに俺は合点した。
克也が俺達の世界に対して異常に受け入れがよかったのは、この女性がいたからだ。この世界では存在しないものを、存在している何かとして見ている人がいたからだ。
だから、克也の中には、『この世ではない世界の存在』が前提になって入っている。
「そやから……異界ぽんちになったんか」
元から漂うタイプというか、一つの世界に封じられてはいないのだ。
「は? 何ですて?」
「で、浜野さん、そっちの方でも何も引っ掛からない?」
俺のことばを聞きとがめた浜野を、克也は強引に遮った。
「それが……なあ」
浜野は奇妙な笑みを浮かべた。
「人、の形はしてへんのどすけど、ここしばらく、妙なもんは漂うてますえ」
「妙なもの?」
「どういうたらええんどっしゃろなあ。風船みたいな、そうそう、ほれ、年越しに舞妓がもらう福玉みたいなもん、というたら、一番似てますやろか。白や桃色のまあるい玉に細いひものようなものがまきついていて、それが舞妓や芸妓の帯のあたりにふうわり浮いてくっついていきますのん」
俺は喉を締めつけられたような気がした。胃の辺りに重くて冷たいしこりが塊になって、またたくまに成長する。
「それって人魂?」
無邪気な克也の声が胸に突き刺さる。
「ひとだま、言うほどはっきりしたもんやないんどす。あれ、何か見えたような、思てじっと目を凝らしてるとな、胸の奥がねじれるような気持ちになって、その福玉をひきむしってやりたいような気持ちになりますの」
「……『欲魂』や」
「え?」
俺の声がよほどかすれて殺気だっていたのだろう、克也が振り向いて目を見開いた。
「達夜…」
「それは……『京』の女達の成れの果てや……男と契りたいいう『欲』だけになるように絞られ削られた魂や」
そうなのだ。『闇舞妓』ばかりがうろうろしては目立ち過ぎる。既に相手は男を欲しがる女達の幾たりかを『欲魂』にまで絞り抜いて、それを『闇舞妓』にしょわせて歩かせ、引き付けられてきた男も女も引きさらうように『京』へ連れ帰っているのだろう。
「一週間も……寝てたからや」
視界が潤んで崩れ落ち、俺は唇を噛んだ。
『欲魂』になってしまった女達は『京』にはもう戻せない。『京』をその絞り抜かれて飢えた魂に引き込み腐らせてしまうだからだ。
「神女達夜とも……あろうもんが」
何が『京』の護り人、恋しい男に添われて寝過ごし、本来の役目を果たせなかった。
『欲魂』は葬るしかない。汚れとして次元の裂け目へ切り沈めるしかない。
きっと本当は俺と同じに、ただただ恋しい男に再会したいがために口車に乗せられ利用された哀れな女達なのだ。
ついさっき、ひょっとしたら俺だって、克也に一目会うためならば、闇の海をも渡ってくるかもしれないと、そう女達と同じ気持ちを感じ取ったばかりだから、この衝撃はきつかった。
「達夜…」
心配そうな克也の声がにじむ視界に拍車をかける。
「最低や……」
「え?」
「俺は……最低や」
陰気につぶやく俺に、克也もことばを失った。
おそるおそる克也に目をやると、相手は枕に頬をうずめたまま、目だけしっかりと開けていた。
「どこ行くの?」
まずい。相当に怒っている。
「こんな夜中に、病み上がりで、しかも一人でどこに行こうっていうの?」
「お前……起きてたん……?」
おそるおそる尋ねてみれば、克也は険しい表情で俺をにらみつけた。
「眠れるかよ、こんな状況で」
「ああ……そら…そうか」
俺は手首のひもをぼんやりと見た。看病のためとは言え、こんなものをつけて満足に眠れるわけはない。
「すまん……今はずすわ。俺、どれぐらい眠ってた?」
目が覚めてしまったのなら、黙って街に消えるわけにもいかない。片手でひもの結び目を解こうと苦闘しながら問いかける。
「二日か…ひょっとして、三日?」
布団に座り込んでひもを解くのに集中していたせいで、克也が体を起こしたことに気づかなかった。はっとしたときには押さえ込まれて、布団にもう一度倒されていた。
「かつ…」
「二日? 三日? 冗談じゃない」
俺にのしかかったままきつい目をぎらつかせて、克也は唸った。
「ほんっとに覚えてないの?」
「な…何をや」
「一週間、ほとんど目も覚まさないで」
「え…」
一週間?
俺は茫然として動きを止めてしまった。
「飲み食いも一人でできなくて、ひたすら眠ってばかりいて……なのに、意識もないのに、何度もどこかへ行こうとして」
克也は頬を紅潮させて俺をにらみつけている。その目がみるみる潤んでいくのを俺はあっけに取られて見上げた。
「どんなに僕が心配したか、わかってないんだろ」
「か…」
いきなり顔が近づいてきて、俺は一瞬まじに殴られると身をすくめた。それほど克也は怒りまくっていたし、それほど怒ってる克也を見るのも初めてだったし、正直なことを言えば、何か身動きできないほど怖くて、体が動かなかったのだ。
目を閉じて首をすくめる、その次の瞬間に顔を張り飛ばされるはずの衝撃は別のものに変わってしまった。
「ん…」
唇を、奪われた。
口を重ねるとかではなくて、俺の唇を引き込むように克也が口に食らいついてきて、息が止まった。
呼吸ができない。身動きもできない。意識も片端から奪われて体が布団の中に崩れこんでいく。もがこうとした手が握られ抱きかかえられる。
紛れもない恐怖が体を駆け抜けて、皮膚があわ立った。無意識に震え出したのを止められない。
(食われる…)
本気でそう脅えた。その瞬間唇を離されて、俺はみっともないほど必死に喘いだ。過熱した頭も体も震えたままで、何もうまく考えられない。
「達夜」
切なげな熱い息が耳元で俺の名前を呼んだ。
「嫌われてるならって思ってたけど……だめだ、やっぱり、あきらめられない。怖がらせてごめん、体に無理させてごめん、でも、だめだ、君を離すわけにはいかない、絶対に、だめだ」
「克…也」
「君が倒れてくれてよかったって、本気で思ってる。君をここに連れてくる間もいろんな男が物欲しそうに君を見てた。くやしそうに、君を抱いてる僕を見てた。連れてくるんじゃなかったって思ったよ、あのまま『京』にいればよかったって。けど」
克也は顔を上げた。俺をじっと凝視する、その目の熱さにまた心臓がはね上がる。
「君は何度もどこかへ行こうとした……たぶん『京』を守るために動こうとしたんだよね。それを引き留めて、抱きとめて、こうして布団に押さえつけて、眠るまで抱き締めて……眠れるわけが、ないよな?」
苦い笑い、けれどそれはとんでもなく惚れぼれするようないい顔で、俺は力が抜けた。震えが止まって、体がゆっくり熱くなる。どくどくと波打っている血の拍動が、耳の奥からもっと底へ沈んでいくのを感じ取る。
「克也……」
「達夜?」
呼んだ声の調子に気づいたのだろうか、克也は少し目を見開いた。押し付けてくる体が前より熱く重くなっている。ごく、と唾をのみ込んで、かすれた声でつぶやく。
「どうしよう……歯止め……きかないや」
俺は口を開いた。猛々しい克也の目に気力を吸い取られて目を閉じる。
「…いい」
「よくなくても……」
克也が低く殺気立った声で笑った。
「止められないよ…ごめんな、達夜」
克也の顔が胸に落ち、俺は息を詰めてそれを受け入れた。
「……おはよ」
次にはっきりと目を覚ましたのは朝だった。側に枕を並べていた克也が、俺が目を開いたのをすぐに見つけてほほ笑む。
「お…はよ」
「大丈夫?」
「ん…」
大丈夫も何も。
結果から言えば、『事』は起きなかった。
克也が迫ってきて、その腕に抱きすくめられたのは確かだったけど、そしてまた、克也の甘い声とか熱っぽい掌とかは覚えているのだけど、俺の体は別な意味でやっぱりどうにも限界で、克也が本気で事に及ぼうとしたときにはまたぐっすりと眠り込んでしまっていたらしい。
さすがにそうなってしまった俺は、襲うに襲えなかったよ、と克也はいったん目を覚ました俺に小さく笑って囁いてくれ、それからちょっと口を合わせてくれて「お休み」と眠らせてくれたのだ。
実はそれさえも、ぼんやりとあやふやな光景の中で。
けれど、こうして朝日の差し込む部屋で、布団を並べて一緒に眠っている男というのは、なんだか不思議と愛しく温かな存在感があって、俺は妙に静かな気持ちで克也を見られた。
たぶん、これからこういうことはない。
俺は『京』の神女達夜なのだし。祭事方でもあるのだし。
二度とこういうことはない。
俺、が心を揺らした相手は、最初で最後、克也だけ。
それが何だかとてもうれしいような、誇らしいような……そんな気持ちになっていた。
(もう、ええわ)
これできっとふっ切れる。
思い切って、心置きなく、闇舞妓を狩りに出られる。
そう思って、自分が闇舞妓を狩る姿、それこそ俺こそが魔性のように見える姿を克也に見られたくなかったのだと気がついた。
(うん、もうええ)
この後、克也が俺の本性を目にすることで、俺を心底恐れようとも嫌いになろうとも。
俺はずっと克也が好きで、この先ずっと俺の胸には克也がいて。
(それでええ)
「そっか…」
「え?」
いぶかしそうにこっちを覗き込む克也にうなずいた。
「いや、こっちの話」
好きな相手と一夜を千切って、それでも『京』に戻ってくるものの胸のうちは、きっとこういう気持ちなのだ。
大事な面影を生涯一つ胸に置いて、その気概で残りの命を生きる。普通ならば子どもも生まれ、その子どもに愛しい相手の顔も見ることもできるだろう。
そうして『京』の女達は異界を離れて舞い戻ってくる。あでやかな蝶として最後の一息まで舞い切るために、異界から『京』に帰ってくる。
祭事方は、その女達の気概を支えるためにある。
中途半端に想いを持て余してどろどろと情念を煮えたぎらせて腐ることがないように、一夜の命に全てをかけて闇を渡ってくる業を受け止め、安らぎをもって報いるために働いている。
(そっか、そういうことなんや)
ようやく得心がいったような気がして、にっこり笑って克也を見ると、相手は大きく目を見開きぽかんとした顔でこちらを見た。
「さ、起きて……ここがどこなんか話してもらお。それに、一週間も寝込んでたんやったら、『京』の方にも連絡つけたいし、何より、俺、腹減ったわ。何かあるやろか……」
体を起こして振り返ると、つられるように起き上がった克也がまだ呆然と俺を見ている。
「克也? どうしたんや?」
「へえ……女の人って……すごいな」
「何が?」
「実際にしてなくても…十分きれいになっちゃうん……!」
俺は枕で克也を殴った。
「ああ、起きられるようにならはったんやね?」
俺が眠っていた部屋は一階の奥の間で、そこから縁側沿いに玄関の方へ向かうと、こじんまりとした和室があって、そこに上品な気配の老婦人が座っていた。
手に三味線、それと一目でわかる往年の華、柔らかく首をかしげた物腰は香るほどにあでやかで。
俺は急いで改まって縁側に座り両手をついて頭を下げた。
「えろう、お世話になりました。私は神女達夜と申します」
「あれ、まあ」
相手はころころとかわいらしく笑った。三味線を横に置き、ふわりと袂を払って同じように指をそろえ、頭を下げて応じてくれる。
「これはご丁寧にありがとう存じます。わたくし、祇園の浜野と申しまして、克也の祖母に当たります。こちらこそ、達夜さんにはご迷惑おかけいたしました……なにせ」
くすりと笑って構えを解き、俺の後ろの克也へ視線を投げた。
「ええ年した『けだもん』どっさかいなあ」
くすりと笑った唇が紅の色よりもあでやかに花開いて、思わず見惚れてしまった。しかも、その口が紡ぐのは、ことばだけは柔らかだったが、身内だけに通じるからかいまじりの罵倒そのもので。
「ほんにまあ、こらえ性のないこと。ほんまに誰に似たことやら、おなごの寝込みを襲うなんて色気も粋もあったもんやあらへん、しょうのない子やこと」
「へ?」
克也がうろたえたように頬を染めた。
「浜野さん!」
ちらりと俺を横目で見、甲高い声をあげて、俺は一瞬頭痛を覚えた。
(何で知ってるんや、この人)
「まあ、しょうがおへんわ、達夜さん、おきれいやしなあ。ここへきはったときかて、まあ、男衆が、どこのおたなの人ですかて、そらもう、騒がしぅて、騒がしぅて。さすが、ぼんの見立てはよろしなあ言われて、克也までうれしそうに笑うてるしなあ?」
おい、聞いてるのと違うやんか。
そんな視線を投げてみたが、克也は知らぬ顔で天井あたりを眺めている。
「おや……聞いたはらしまへんの?」
「え?」
まじまじと俺を見た浜野がくすくすと楽しそうに笑った。
「かいらしなあ、そんなにあこうならはると、やあ、あてかていじめとなるさかい、この子が囲うの無理ないわ」
赤く、なってる?
言われてふいに自分の顔が熱くなっているのに気づく。気づいたとたんにますます顔の温度が上がって、何だかとても相手の顔を見ていられなくて、俺は思わずうつむいた。
「もういいだろ、浜野さん」
我関せずの顔をしていた克也がふいに割り込んでくる。
「それより、頼んでたこと、わかった?」
「へえ、確かめときましたで」
浜野は胸元から何か書き留めたらしい一枚の和紙を取り出した。
「祇園甲部、宮川町、上七軒、先斗町、祇園東、島原。一通り舞妓芸妓男衆にも聞きましたけど、この一月の間に店だししはった舞妓は一人、良乃はんだけどした。そやけど、あんたはんが会わはった先斗町やおへん、上七軒どす」
「ってことは……やっぱり、本物の舞妓じゃなかったんだ」
「そこが……難しおすけど……」
浜野はいいよどんで複雑な顔で和紙に目を落とした。
「最近、舞妓姿で京都の街を歩く、いうツアーがあるんどす。観光客が京都の思い出作りに、舞妓の衣装を着付けてうろうろするもんやけど、さあ、一見の人にどれがほんまの舞妓かわかるか言うたら、なあ……」
「そういう観光客が舞妓姿をしていた、と?」
「そういう場合もある、言うことでっせ。こちらのかいらしいお嬢さんのことを疑うわけやおへんけど、この世と違うところに異界の『京』があって、そこから闇舞妓とかいう娘はんが流れ込んでて、しかもこちらの男はんを誘い出す言われても、なるほどなあとうなずくわけにはいきまへんやろ?」
俺はぎょっとして克也を見た。一体どこまで話しているのか、そんなことまで話していいのかと思ったからだ。
だが、克也は俺の視線に動じた気配もなかった。にっこり無邪気に笑い返して、
「大丈夫。達夜の言うような話はこっちじゃSFかファンタジーだ。まともに受け取っちゃもらえないよ。けど、浜野さんは祇園に顔が広いだけじゃなくて、妙な特技もある人なんだ、そうでしょ?」
「ややわ、人をばけもんみたいに」
浜野はしっとりと眉をひそめた。
「この御時世、お化けみるぐらいようありますやろ」
「お、お化け?」
俺がどもったのに克也が苦笑する。
「達夜のいる世界と関わっているのか、それとも別の世界と関わってるものなのかは知らないけど、とりあえず、実体のない人間を『お化け』って浜野さんは呼んでる。幽霊とも呼ばれるけど。要するに霊魂だけの存在だよ。こっちに戻ってまっすぐここへ来たのは、浜野さんがそういう方面でも何か見てないかと思ったからだけど」
ふいに俺は合点した。
克也が俺達の世界に対して異常に受け入れがよかったのは、この女性がいたからだ。この世界では存在しないものを、存在している何かとして見ている人がいたからだ。
だから、克也の中には、『この世ではない世界の存在』が前提になって入っている。
「そやから……異界ぽんちになったんか」
元から漂うタイプというか、一つの世界に封じられてはいないのだ。
「は? 何ですて?」
「で、浜野さん、そっちの方でも何も引っ掛からない?」
俺のことばを聞きとがめた浜野を、克也は強引に遮った。
「それが……なあ」
浜野は奇妙な笑みを浮かべた。
「人、の形はしてへんのどすけど、ここしばらく、妙なもんは漂うてますえ」
「妙なもの?」
「どういうたらええんどっしゃろなあ。風船みたいな、そうそう、ほれ、年越しに舞妓がもらう福玉みたいなもん、というたら、一番似てますやろか。白や桃色のまあるい玉に細いひものようなものがまきついていて、それが舞妓や芸妓の帯のあたりにふうわり浮いてくっついていきますのん」
俺は喉を締めつけられたような気がした。胃の辺りに重くて冷たいしこりが塊になって、またたくまに成長する。
「それって人魂?」
無邪気な克也の声が胸に突き刺さる。
「ひとだま、言うほどはっきりしたもんやないんどす。あれ、何か見えたような、思てじっと目を凝らしてるとな、胸の奥がねじれるような気持ちになって、その福玉をひきむしってやりたいような気持ちになりますの」
「……『欲魂』や」
「え?」
俺の声がよほどかすれて殺気だっていたのだろう、克也が振り向いて目を見開いた。
「達夜…」
「それは……『京』の女達の成れの果てや……男と契りたいいう『欲』だけになるように絞られ削られた魂や」
そうなのだ。『闇舞妓』ばかりがうろうろしては目立ち過ぎる。既に相手は男を欲しがる女達の幾たりかを『欲魂』にまで絞り抜いて、それを『闇舞妓』にしょわせて歩かせ、引き付けられてきた男も女も引きさらうように『京』へ連れ帰っているのだろう。
「一週間も……寝てたからや」
視界が潤んで崩れ落ち、俺は唇を噛んだ。
『欲魂』になってしまった女達は『京』にはもう戻せない。『京』をその絞り抜かれて飢えた魂に引き込み腐らせてしまうだからだ。
「神女達夜とも……あろうもんが」
何が『京』の護り人、恋しい男に添われて寝過ごし、本来の役目を果たせなかった。
『欲魂』は葬るしかない。汚れとして次元の裂け目へ切り沈めるしかない。
きっと本当は俺と同じに、ただただ恋しい男に再会したいがために口車に乗せられ利用された哀れな女達なのだ。
ついさっき、ひょっとしたら俺だって、克也に一目会うためならば、闇の海をも渡ってくるかもしれないと、そう女達と同じ気持ちを感じ取ったばかりだから、この衝撃はきつかった。
「達夜…」
心配そうな克也の声がにじむ視界に拍車をかける。
「最低や……」
「え?」
「俺は……最低や」
陰気につぶやく俺に、克也もことばを失った。
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