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カチャカチャカチャ。
容子の手の下で、キーボードが音を響かせる。
カチャカチャカチャ。
時計が2時を回ったのは知っている。でも、今夜の容子は珍しく乗っている。
文章が次々指先から溢れていく。考えようとしないでも、情景が頭に浮かび、人物が会話を交わす。街に出て、貴子に会ったのがいい刺激になったのかもしれない。
ともかく、容子は久しく感じなかった、19歳のときのような文章を書く感覚を取り戻していた。時折、肩を動かして解す以外は、ずっとPCに屈み込んでいる。
あまり夢中になっていたので、いつの間にか背後に立っていた、夫の気配にも気づかなかった。
「容子」
「う、ん?」
ふいに声が響いて振り返る。その目に、不愉快そうな顔をした夫が映った。
「いつまで打ってるんだ? もう3時だぞ」
「え……あ、そうなの…」
書いていたものの世界からすぐには現実に戻り切れずにぼうっと頷く。夫はみるみる険しい顔になった。
「そうなの、じゃないだろ」
話すことでよりはっきりと感じたのだろう、夫は不快そうに続けた。
「明日、朝起きられないぞ」
「ん…でも、久しぶりに乗って書けてるんだし…もう少しで寝るから」
「…弁当、なしだな」
嫌みな声で夫が応じた。ゆっくり背中を向けながら、
「それに、夜になるとキーボードの音、結構響くんだぞ。それで目が覚めたんだからな」
言い捨てて、トイレへ向かう。
その後ろ姿を、容子は凍りついたような思いで見つめていた。
だって、昼間は打てないじゃない。弘がいるんだもの、私のしたいことなんて何一つできないじゃない。それに、お弁当だって、今まで抜かしたことなんて、そんなになかったじゃない。たまたま、今日、今夜一晩、どうしてそっとしてくれないの?
続きを打とうとする気持ちは、容子の中から消えていった。大切なようやく引き戻した感覚が、するすると幻のように溶けて行くのを、容子は泣きそうな思いで見送った。
夫がトイレから戻ってくる。
「早く寝ろよ…体が保たんだろ?」
「どうしてよ」
親切ごかしとしか思えないことばに、容子の溜まっていたものが切れた。
「…主婦は家事と育児しかしちゃいけないっていうの?」
「何だよ、いきなり」
「家事と育児を完全にこなしてなくちゃ、他のことをしちゃいけないの?」
「どうしたんだよ、容子」
夫は戸惑って、PCの前で体を固くして座っている容子を見つめた。
「そう言ってるんじゃない、あなたも。何をしてもいい、私が作品を書くのも応援する、なんて言ってたけど、結局、自分に影響がない範囲で、ということなんでしょ。家事と育児をきちんとやって、そのうえで何かできればやってもいい、だなんて、ずるいわよ。あなただって、弘の父親なのに」
「……俺がいつ、何をしたよ」
夫はむっとしたように答えた。きっと見上げて、容子は言い募った。
「何もしてくれないのよ。日曜日だって勝手にどこかへ遊びに行くし、結局弘の面倒を見るのはいつも私だわ。私が出掛けるときは、あなたに『お願い』しなくちゃならない。友達と会っても、夕飯までに帰ってこなくちゃならない」
「…それが主婦、だろ」
夫は抑えた口調になった。
「それに、俺はちゃんと給料を持って帰ってる。家に帰れば弘を風呂にもいれてやるし、遊んでもやる。どこが不満だよ。俺が外で働く、お前が家の中のことをする、それで均等っていうもんだろ」
「でも……私の時間はどこにあるのよ」
「知るかよ。そんなもの、自分が工夫して何とかするもんだろ? 俺だって、勤務中に『俺の自由時間はどこにありますか』なんて、聞いたことないぜ」
「あなたは、家に帰れば自由時間じゃない。まるまる、そうよ。弘と遊ぶのだって、あなたの自由じゃない。でも、私はずっと弘と一緒で、ずっと弘の面倒を見てるのよ?」
「……お前、弘が嫌いなのか?」
「そうじゃない、そうじゃないわよ」
容子は激しく首を振った。
子どもが嫌いなんじゃない。子どもとずっといなくてはならない、それが絶対なのだという、身動きできない感覚が辛いのだ。
「子どもとずっといるのが嫌って……子どもと一緒にいて、大きくしていくのが母親っていうもんだろう」
「じゃあ、父親って? 父親って、一体、何をしてくれるの?」
ぐっと夫がことばを呑んだ。
言わずにすませた一言は、容子に伝わっている。
『誰のお陰で飯が食えるんだ』
そのことばだけは言いたくない、と夫は常々言っていた。夫の父がそれを執拗に繰り返した人で、そのたび夫は強い反感を抱いていたからだ。それを言ってはおしまいだ、話はそこで終わりになる、と夫は嫌がっていた。
その夫の配慮が、今の容子にはなお腹立たしかった。とことんまで夫を怒らせてみたい、そんな奇妙な感覚になっている。
「結局、あなたにとって、私は使用人なんでしょう、家事と育児ができれば、誰でもいいんだわ」
「容子…」
夫はゆっくりと大きな息を吐いた。疲れた顔でそっと言う。
「お前、寝ろ。どうかしてるぞ、今日は」
「だって…」
「言いたかないけどな、お前、自分の思いどおりにならないからって、俺に絡んでるんだよ。お前がうまくいかないのは、俺のせいじゃない」
容子は口をつぐんで目を見開いた。
「とにかく、この話はまた明日だ……あ、今日、か。……俺はもう寝る。お前も寝ろ。お前……疲れてるぞ」
溜め息まじりに寝室へ引き上げて行く夫の後ろで、容子は1人、PCを凝視していた。
容子の手の下で、キーボードが音を響かせる。
カチャカチャカチャ。
時計が2時を回ったのは知っている。でも、今夜の容子は珍しく乗っている。
文章が次々指先から溢れていく。考えようとしないでも、情景が頭に浮かび、人物が会話を交わす。街に出て、貴子に会ったのがいい刺激になったのかもしれない。
ともかく、容子は久しく感じなかった、19歳のときのような文章を書く感覚を取り戻していた。時折、肩を動かして解す以外は、ずっとPCに屈み込んでいる。
あまり夢中になっていたので、いつの間にか背後に立っていた、夫の気配にも気づかなかった。
「容子」
「う、ん?」
ふいに声が響いて振り返る。その目に、不愉快そうな顔をした夫が映った。
「いつまで打ってるんだ? もう3時だぞ」
「え……あ、そうなの…」
書いていたものの世界からすぐには現実に戻り切れずにぼうっと頷く。夫はみるみる険しい顔になった。
「そうなの、じゃないだろ」
話すことでよりはっきりと感じたのだろう、夫は不快そうに続けた。
「明日、朝起きられないぞ」
「ん…でも、久しぶりに乗って書けてるんだし…もう少しで寝るから」
「…弁当、なしだな」
嫌みな声で夫が応じた。ゆっくり背中を向けながら、
「それに、夜になるとキーボードの音、結構響くんだぞ。それで目が覚めたんだからな」
言い捨てて、トイレへ向かう。
その後ろ姿を、容子は凍りついたような思いで見つめていた。
だって、昼間は打てないじゃない。弘がいるんだもの、私のしたいことなんて何一つできないじゃない。それに、お弁当だって、今まで抜かしたことなんて、そんなになかったじゃない。たまたま、今日、今夜一晩、どうしてそっとしてくれないの?
続きを打とうとする気持ちは、容子の中から消えていった。大切なようやく引き戻した感覚が、するすると幻のように溶けて行くのを、容子は泣きそうな思いで見送った。
夫がトイレから戻ってくる。
「早く寝ろよ…体が保たんだろ?」
「どうしてよ」
親切ごかしとしか思えないことばに、容子の溜まっていたものが切れた。
「…主婦は家事と育児しかしちゃいけないっていうの?」
「何だよ、いきなり」
「家事と育児を完全にこなしてなくちゃ、他のことをしちゃいけないの?」
「どうしたんだよ、容子」
夫は戸惑って、PCの前で体を固くして座っている容子を見つめた。
「そう言ってるんじゃない、あなたも。何をしてもいい、私が作品を書くのも応援する、なんて言ってたけど、結局、自分に影響がない範囲で、ということなんでしょ。家事と育児をきちんとやって、そのうえで何かできればやってもいい、だなんて、ずるいわよ。あなただって、弘の父親なのに」
「……俺がいつ、何をしたよ」
夫はむっとしたように答えた。きっと見上げて、容子は言い募った。
「何もしてくれないのよ。日曜日だって勝手にどこかへ遊びに行くし、結局弘の面倒を見るのはいつも私だわ。私が出掛けるときは、あなたに『お願い』しなくちゃならない。友達と会っても、夕飯までに帰ってこなくちゃならない」
「…それが主婦、だろ」
夫は抑えた口調になった。
「それに、俺はちゃんと給料を持って帰ってる。家に帰れば弘を風呂にもいれてやるし、遊んでもやる。どこが不満だよ。俺が外で働く、お前が家の中のことをする、それで均等っていうもんだろ」
「でも……私の時間はどこにあるのよ」
「知るかよ。そんなもの、自分が工夫して何とかするもんだろ? 俺だって、勤務中に『俺の自由時間はどこにありますか』なんて、聞いたことないぜ」
「あなたは、家に帰れば自由時間じゃない。まるまる、そうよ。弘と遊ぶのだって、あなたの自由じゃない。でも、私はずっと弘と一緒で、ずっと弘の面倒を見てるのよ?」
「……お前、弘が嫌いなのか?」
「そうじゃない、そうじゃないわよ」
容子は激しく首を振った。
子どもが嫌いなんじゃない。子どもとずっといなくてはならない、それが絶対なのだという、身動きできない感覚が辛いのだ。
「子どもとずっといるのが嫌って……子どもと一緒にいて、大きくしていくのが母親っていうもんだろう」
「じゃあ、父親って? 父親って、一体、何をしてくれるの?」
ぐっと夫がことばを呑んだ。
言わずにすませた一言は、容子に伝わっている。
『誰のお陰で飯が食えるんだ』
そのことばだけは言いたくない、と夫は常々言っていた。夫の父がそれを執拗に繰り返した人で、そのたび夫は強い反感を抱いていたからだ。それを言ってはおしまいだ、話はそこで終わりになる、と夫は嫌がっていた。
その夫の配慮が、今の容子にはなお腹立たしかった。とことんまで夫を怒らせてみたい、そんな奇妙な感覚になっている。
「結局、あなたにとって、私は使用人なんでしょう、家事と育児ができれば、誰でもいいんだわ」
「容子…」
夫はゆっくりと大きな息を吐いた。疲れた顔でそっと言う。
「お前、寝ろ。どうかしてるぞ、今日は」
「だって…」
「言いたかないけどな、お前、自分の思いどおりにならないからって、俺に絡んでるんだよ。お前がうまくいかないのは、俺のせいじゃない」
容子は口をつぐんで目を見開いた。
「とにかく、この話はまた明日だ……あ、今日、か。……俺はもう寝る。お前も寝ろ。お前……疲れてるぞ」
溜め息まじりに寝室へ引き上げて行く夫の後ろで、容子は1人、PCを凝視していた。
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