『ハートレイト』

segakiyui

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『はい…岩見さん?』
 その時ようやく、大原らしい声がナースコールに応じた。
「ごめん! ライン抜けた! 交換ラインとヘパ生! ドクターも呼んで! モニターチェックお願い!」
「な、何…」
 ラインが真っ赤になって、さすがにうろたえた岩見が怯むのに、北野は相手の腕に残ったラインの端の三方括栓をねじった。三方括栓は緊急時や、別の薬を同時に点滴するために使う接続部で、栓の向きによってラインの中の流れを操作できる。
 外れた先から零れた血液混じりの薬液がベッドの上に点々と朱色の染みを残す。それを視界の端にいれながら、北野は部屋の心拍モニターを見上げた。
 問題になるような波形はまだ出ていない。
 穏やかにと心掛けたつもりだったが、何ということをするのだという思いが先にたって、たたきつけるような口調になってしまった。
「胸は! 苦しくないですか!」
「あ、ああ…」
 押されたように答える岩見の体をベッドに寝かせる。そこへ、大原が、血液が固まらないようにヘパリンを混ぜた生理食塩水を注射器にいれ、新しい点滴ラインとアルコール綿花を手にして飛び込んできた。
「ありがと」
「ドクターすぐ来ます。モニターは大丈夫ですか」
「うん、一応心電図取っておく」
 北野は大原から注射器を受け取り、三方括栓の一方の口に差し込み、血液が逆流したラインが詰まっていないかどうか確認した。
 大原が新しいラインを、まだ微かに揺れている点滴ボトルにつなぎ直す。その先を受け取って、北野はラインを交換し、点滴の落ちに異常がないのを確かめて吐息をついた。もう一度モニターを見上げ、岩見の心臓が紡いでいる命の波形を見つめる。大丈夫なように見えた。
 だが、それまで黙っていた岩見が小さな声でつぶやいた。
「何か…胸が苦しい気がする……」
「え…」
「心電図モニター、持ってきます」
 大原がすっと姿を消した。
 慌てて北野は岩見の血圧を測った。やや低めだが、発作を抑える薬を飲ませても問題ないだろうと判断する。
「発作かもしれません。薬はまだありますね」
 そう言って、岩見の枕元に手を伸ばした。と、ふいに、
「そうやって、またわしの物を盗る気だな!」
 北野は凍りついた。
「前の時計はどうしたんだ!」
 これほどまで岩見が疑っているとは思わなかった。
「何を言ってるんです!」
 北野の心の中で何かが弾けとんだ。
「わたし、時計なんか盗ってません! 今はそれどころじゃ…」
「そう言って、何度も何度も盗っていくんじゃろう! 今度で三度目じゃ!」
「三度目?」
 北野は混乱した。
 岩見ともめたのはこれで二度目のはずだ。なのに、三度目とはどういうことだろう?
 モニタ-がふいに鋭い音をたてた。
 我に返ってモニターを振り仰ぐと、心臓の不規則な動きを示す波形が現れていた。しかも、それは次第に数を増してくる。
 岩見は自覚がないのか、それとも怒りに我を忘れているのか、顔をますますしかめて言い募った。
[そうじゃ! 初めてここに入ったときにも引き出しから通帳を持っていったじゃろう! わしぁ、ちゃあん
と見てたんじゃ!」
「そんなこと……!」
「北野さん!」
 反論しかけた北野の声を、詰め所から走ってきたらしい主任が遮った。その場の状況をすばやく見て取り、ぴしりと一言で岩見も黙らせる。
「発作です! 処置します!」
 持ってきた心電図モニターを手早く岩見の胸につけながら、主任は北野に尋ねた。
「ニトロは?」
「まだです、私が……」
 人の命を左右するときに、どうして盗むことなど考えるだろう。看護婦がどうして患者の物を盗めるだろう。それに、どうして、北野はこの緊急時に冷静に対処できなかったのだろう。
 情けなさと悔しさが胸にあふれて、ことばが続かなかった北野に主任はうなずいた。すぐに岩見に、
「薬を使います。ここですね。出します、見てください」
「何を偉そうに…」
「はい、口を開けて」
 なおも言い返そうとしたのを制し、主任は薬を出して岩見の口にいれた。振り返りざまに、小声で北野に命じる。
「詰め所に戻って。もう一人、発作を起こしてるの。ここは私がやります」
「…はい、すみません」
 北野は振り切るように、岩見に背中を向けて部屋を出た。
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