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朝一番の騒ぎでケチがついたのか、その日はミスが続いた。
必要な薬の指示を間違えていて投与する寸前に気がついたり、ガーゼ交換を忘れたり、頭を洗ってあげると患者を待たせていて検査に遅れそうになったりした。
どれも事故には至らなかったが、何かひとつズレていたら、取り返しのつかないことになったかもしれない。そう思うとぞっとした。
寮に帰って、くたびれた体をようよう部屋に引きずり込み、しばらくぼんやりする。なんだか少し、誰かに慰め励ましてもらいたい。
ためらって、それからゆっくりと受話器を取り上げる。昭吾の番号を押しながら、迷惑だろうかとも考えた。数回の呼び出し音に続いて、久しぶりに聞く昭吾の声が明るく響いた。
『はい、小林です』
「あ、あの…北野です」
『え……あ、ああ』
ふ、と昭吾の声が陰った。
『北野かあ、久しぶり……』
その瞬間、北野は電話をかけなければよかったと思った。昭吾の声の明るさが、北野の電話を待っていたものではなかったと感じたからだ。
「ごめんなさい。今、忙しかった?」
『いいや。でも、どうしたの。勤務は?』
強いて優しくふるまうように、昭吾は尋ねた。
「今、日勤が終わったの……久しぶりだから…元気にしてるかな、と思って」
『ああ、まあね。今なら終わったなら、遅かったんだね、もう七時だよ』
「うん…ちょっとトラブルがあって……」
北野は思わず涙ぐみそうになった。
一所懸命勤めてきているつもりなのに、いつ岩見に疑われるようなことがあったのだろう。あの後、主任も婦長も何も言わなかったが、一つミスを重ねるごとに疑いが濃くなるようで、自分の手足が見えない網にからめ捕られていくような気がした。
『ふうん…あ、お土産があるんだ、友達が海に行ったんで……』
昭吾はふいに話を逸らせた。
『可愛いイヤリング。貝細工だって。北野に似合うかも知れないって……』
北野は黙った。昭吾が何を言いたいのかわからなかった。北野が追い詰められているのに、どうして海の話などするのだろう。北野が行けなかった海の話を。
「……昭吾も海に行ってたんだよね」
『え…』
今度は昭吾が黙り込んだ。
その沈黙の向こうに、遠い潮騒を聞いたような気がした。北野はその音を消すように話し始めた。
「私、知らなかったよ。友達って、誰?」
『……急だったんだ。一週間前に日野から電話があって…ダブルデートしないかって誘われてさ……北野、今週ずっと勤務だったろ? 休みも急に取れないし…だから…』
「だから、他の女の子と行ったの?」
責めるつもりなどなかったのに、気がつくとそう口走っていた。
「私、昭吾のおかあさんに、聞いてなかったのかって言われたよ?」
こんなことを言ってはいけない、とどこかで声がした。でも、止められなかった。
「私、今日、トラブルがあった、って言ったんだよ? どうした、って聞いてくれてもいいじゃない。私…」
『僕だって』
なおも続けようとする北野のことばを、昭吾が唐突に遮った。
『僕だって、いつもいつも、物分かりのいい優しい男じゃない。会えば、いつも患者の話だ。あの人が死んだ、この人が退院した、そんなこと、僕に関係ないだろ? 僕だって、話を聞いてほしいときもあるんだ』
必要な薬の指示を間違えていて投与する寸前に気がついたり、ガーゼ交換を忘れたり、頭を洗ってあげると患者を待たせていて検査に遅れそうになったりした。
どれも事故には至らなかったが、何かひとつズレていたら、取り返しのつかないことになったかもしれない。そう思うとぞっとした。
寮に帰って、くたびれた体をようよう部屋に引きずり込み、しばらくぼんやりする。なんだか少し、誰かに慰め励ましてもらいたい。
ためらって、それからゆっくりと受話器を取り上げる。昭吾の番号を押しながら、迷惑だろうかとも考えた。数回の呼び出し音に続いて、久しぶりに聞く昭吾の声が明るく響いた。
『はい、小林です』
「あ、あの…北野です」
『え……あ、ああ』
ふ、と昭吾の声が陰った。
『北野かあ、久しぶり……』
その瞬間、北野は電話をかけなければよかったと思った。昭吾の声の明るさが、北野の電話を待っていたものではなかったと感じたからだ。
「ごめんなさい。今、忙しかった?」
『いいや。でも、どうしたの。勤務は?』
強いて優しくふるまうように、昭吾は尋ねた。
「今、日勤が終わったの……久しぶりだから…元気にしてるかな、と思って」
『ああ、まあね。今なら終わったなら、遅かったんだね、もう七時だよ』
「うん…ちょっとトラブルがあって……」
北野は思わず涙ぐみそうになった。
一所懸命勤めてきているつもりなのに、いつ岩見に疑われるようなことがあったのだろう。あの後、主任も婦長も何も言わなかったが、一つミスを重ねるごとに疑いが濃くなるようで、自分の手足が見えない網にからめ捕られていくような気がした。
『ふうん…あ、お土産があるんだ、友達が海に行ったんで……』
昭吾はふいに話を逸らせた。
『可愛いイヤリング。貝細工だって。北野に似合うかも知れないって……』
北野は黙った。昭吾が何を言いたいのかわからなかった。北野が追い詰められているのに、どうして海の話などするのだろう。北野が行けなかった海の話を。
「……昭吾も海に行ってたんだよね」
『え…』
今度は昭吾が黙り込んだ。
その沈黙の向こうに、遠い潮騒を聞いたような気がした。北野はその音を消すように話し始めた。
「私、知らなかったよ。友達って、誰?」
『……急だったんだ。一週間前に日野から電話があって…ダブルデートしないかって誘われてさ……北野、今週ずっと勤務だったろ? 休みも急に取れないし…だから…』
「だから、他の女の子と行ったの?」
責めるつもりなどなかったのに、気がつくとそう口走っていた。
「私、昭吾のおかあさんに、聞いてなかったのかって言われたよ?」
こんなことを言ってはいけない、とどこかで声がした。でも、止められなかった。
「私、今日、トラブルがあった、って言ったんだよ? どうした、って聞いてくれてもいいじゃない。私…」
『僕だって』
なおも続けようとする北野のことばを、昭吾が唐突に遮った。
『僕だって、いつもいつも、物分かりのいい優しい男じゃない。会えば、いつも患者の話だ。あの人が死んだ、この人が退院した、そんなこと、僕に関係ないだろ? 僕だって、話を聞いてほしいときもあるんだ』
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