『ハートレイト』

segakiyui

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 激しい口調に北野はことばを失った。いつもにこやかにうなずいて、北野の話を聞いてくれていた昭吾の顔がゆらゆら揺れて目の奥から流れ出していく。
 やがて、昭吾は気を取り直したようにぽつりと言った。
『ごめん』
「…ううん…」
『いきなり……こんなふうに言うつもりじゃなかったんだ。ただ…僕、最近、北野についていけなくて……北野の話すこととかよくわからないし……一々聞いてたら話にならないし。でも、何か、会うのがだんだん面倒になってきて…』
 北野の脳裏にまたもう一つの顔が過った。
 緊急に対処が必要な患者をどうして救ったのかと話したときの昭吾の顔だ。どこかあやふやな戸惑いが浮かんだ顔。
 あのとき、北野はなぜ昭吾がいつもより多く煙草を手にしたのか不思議だった。あまつさえ、健康に悪いからととがめもした。その北野に、なおも妙な表情で笑い、昭吾はコーヒーの追加を頼んだ…。
 それでも、自分と昭吾の間に空いていた距離を考えたくなくて、北野はなじった。
「なら、どうして言ってくれなかったの? そしたら、私、それなりに…」
『それなりに、考えたっていうのか? 僕用に、わかりやすく話したって? それこそばかにしてるよ。それに……この前の僕の誕生日、お祝いをしようって言ったのは北野だったけど、緊急が入って行けないって言ったのも北野だった。付き合っている男の誕生日さえ自由にならない奴に、何が頼めると思う?』
「だって……あれは…」
 北野は小さくつぶやいて口を閉じた。
 あの日、北野は休みのはずだった。前から休暇願いを出していたもので、昭吾と二人で誕生日を祝おうと、密かにプレゼントも用意したし、特別なデートコースも考えた。お気に入りの服もクリーニングに出して、準備万端整っていたはずだった。
 だが、直前になって、同僚が二人食中毒で倒れた。患者は緊急を要する者がいたし、とてもではないが、残ったメンバーでは対応しきれなかった。北野は婦長に請われて日勤に入ったのだ。
 前日かけた電話で、昭吾は事情を納得してくれたはずだった。仕事だからな、と言ってくれたのだから。
 けれど、本当の気持ちは違っていたのだ。
「看護婦…だもの……わかってくれてると思って…」
『わかってる、わかってるつもりだったよ。でも、あの日、僕は友達に話してたんだ。彼女と誕生パーティをするんだって。なのに…外へ出たら、友達と会って…彼女はどうしたんだって聞かれた。そのとき、僕に付き合ってくれた子がいて…』
 北野は体の力が抜けていくような気がした。それだけのことで、北野の存在は昭吾の中から消えてしまったのか、と思った。
「その子と…海に行ったの?」
 北野はそっと尋ねた。
『ああ』
 同じぐらい微かな声で昭吾が答えた。
「イヤリング……も彼女が見たの?」
 北野の声はもっとかすれた。
 もし、そうなら滑稽だ。気持ちが離れていく相手に、新しい彼女と贈り物を選ぶ昭吾も残酷だ。北野は胸の中でそう責めた。
 だが、昭吾はふいと声を和らげた。
『いや、これは違うんだ。土産物の店にピンクの貝殻のイヤリングが置いてあって…ぼら、付き合い始めたころに「サボン」で見たことがあっただろ?』
 昭吾は二人がよく入った喫茶店の一階にあったアクセサリー店の名をあげた。
『同じようなのがあって、確か欲しがってたよね? それ、思い出して…』
「ああ…」
 北野も思い出した。
 『サボン』に置いてあったのは、銀色の貝殻に真珠を組み合わせたもので、思ったよりも高価だった。買うのをためらった北野に、いつか誕生日に買ってあげるよと昭吾は笑った。
「覚えててくれたんだね」
 北野はささやいた。
『「サボン」を通るたびに気になってたんだ。学校の都合でアルバイトもやめてたし…』
 昭吾の答えに、北野はもう一つの約束も思い出していた。
 同じ日の帰り道、『グラシア』というネクタイ専門店があって、その前を通りながら昭吾が言った。「社会人になるんだから、そろそろきちんとしたネクタイが欲しいな」。北野は昭吾が『サボン』で見せたように苦笑しながら、答えたのだ。じゃあ、ボーナスでたら、プレゼントするね、と。
 忘れていたのは北野の方だった。
「明日……会える?」
『勤務は?』
 昭吾の声に、見えるはずがないのに首を振った。そして、慌てて答えた。
「大丈夫。休み、もらえたから。『サボン』の上で…」
『「プリモ・ローズ」ね。いいよ、何時?』
「…十一時……お昼一緒に食べようよ」
『わかった。それじゃ』
 昭吾はそれ以上言わずに電話を切った。
 北野は受話器を握ったまま、片手で頬をこすった。涙はもう乾いていたが。胸の底に痛みが広がってきていた。
 やがて、北野はそっと受話器を置いた。それから立ち上がり、白いカレンダーの明日の日付にていねいに×をつけた。
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