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翌日、北野は六時に目を覚ました。
カレンダーを見上げ、×印が消えていないのにため息をついた。顔を洗い、タオルや石鹸を手に一階の風呂場へ行く。
看護師寮の風呂場は、普通の寮とは違って、ほぼ二十四時間用意されている。準夜前に風呂に入っていくもの、深夜明けに疲れと汚れを落としていくものなどがいるからだ。
北野はできれば知った顔に会いたくなかった。だが、鉢合わせしたのはこともあろうに板垣だった。
「あら…早いのね」
「あ、おはようございます」
無難にあいさつして脱衣所の隅で服を脱ぎにかかる北野に、板垣がすうっと身を寄せてきた。
「ねえ、知ってる?」
「何をですか?」
板垣の持ち込んでくる話は正直いってろくなものではない。看護師の守秘義務をどこへ忘れてきたのかと思うほど、患者や医師のことをあれやこれやと触れ回っている。
なのに、経験が豊かで物分かりがいいと評判がいいのも板垣だった。
そっけなく答えた北野に、ますます板垣は身をすり寄せ、さも大切なことだと言わんばかりに続けた。
「岩見さんのことよ」
北野は黙って脱いだものをまとめた。その北野の体をじろじろ眺めながら、
「昨日の準夜に急変したの。今、呼吸器がついてるわよ」
「え?」
北野はさすがに板垣の顔を見た。板垣は得意そうに続けた。
「昨日の準夜にも発作を起こして、それでかなり広範囲に梗塞を起こしたらしいのよ。日勤の発作が悪かったわねえ」
北野は衣服をいれた棚に手を乗せたまま凍った。板垣が冷ややかにゆっくりとことばを継いでいく。
「確か、あなたが岩見さんの通帳を盗んだとか盗んでないとか……」
「盗ってません、私!」
北野はきっとして板垣を見た。くっくっと奇妙な笑い方をして、板垣は、
「やあねえ、私が言ってるんじゃないのよ。準夜の発作の前に、岩見さん、主治医に訴えてたらしいのよ、ここの看護婦は泥棒だって。ねえ、ほんとのこと言いなさいよ、盗んだの? 師長が一度話し合うって言ってたわよ」
「師長さんが…」
北野は愕然とした。
板垣はこれで十分だと思ったのだろう、相変わらず奇妙な笑いを浮かべたまま服を身につけ、立ちすくんでいる北野に、お先に、と声をかけて出ていった。
板垣が脱衣所のドアを閉める音で、ようやく北野は我に返った。
そろそろと風呂場に入っていく。
昭吾との最後のデートになるかもしれない。そう思ったからこそ、病棟のことを忘れてすっきりさせにきたのに、それどころではなくなってしまった。機械的に体を洗い、髪をすすぐ。部屋に戻ってくるまで、北野の頭の中は岩見のことで一杯だった。
ついつい考え込んで、気がつけば八時になっていた。十一時にはまだ間があるが、朝食を取ったり化粧をしていたりすれば、すぐに時間はなくなってしまう。思い直して、北野はパンを焼き、コーヒーをいれ、手早く食事を済ませた。
後片付けをしていると、突然電話が鳴った。昭吾の方で何か予定が変わったのだろうか。不安な思いで取り上げた北野の耳に、
『あ、北野さん? お休みのところ、ごめんなさいね』
「師長さん…」
『実はね、岩見さんのことで、ちょっと問題が起こって……病棟の方へ出てもらえないかしら』
どこかで予期していたような、そんなことばだった。昭吾の顔が、カレンダーの向こうにちらつく。その横にかけてある新しいワンピースも。
「今日、でないと……だめなんですか? 私…今日、どうしてもでかける用事があって…」
お休みだったんですよ、と続けそうになって、北野は口ごもった。看護婦不足の折り、休みが取りにくくなっているのはわかっている。けれど、今日だけは、何が何でも昭吾に会いたい。
その北野のためらいを断つように師長が命じた。
『どうしても、今日なのよ。今、岩見さんの奥さんが来られているのよ。この前、岩見さんと北野さんがもめたことで、はっきりさせたいことがある、って』
「え…」
熱いような冷たいようなものが、北野の頭の中を流れた。
カレンダーを見上げ、×印が消えていないのにため息をついた。顔を洗い、タオルや石鹸を手に一階の風呂場へ行く。
看護師寮の風呂場は、普通の寮とは違って、ほぼ二十四時間用意されている。準夜前に風呂に入っていくもの、深夜明けに疲れと汚れを落としていくものなどがいるからだ。
北野はできれば知った顔に会いたくなかった。だが、鉢合わせしたのはこともあろうに板垣だった。
「あら…早いのね」
「あ、おはようございます」
無難にあいさつして脱衣所の隅で服を脱ぎにかかる北野に、板垣がすうっと身を寄せてきた。
「ねえ、知ってる?」
「何をですか?」
板垣の持ち込んでくる話は正直いってろくなものではない。看護師の守秘義務をどこへ忘れてきたのかと思うほど、患者や医師のことをあれやこれやと触れ回っている。
なのに、経験が豊かで物分かりがいいと評判がいいのも板垣だった。
そっけなく答えた北野に、ますます板垣は身をすり寄せ、さも大切なことだと言わんばかりに続けた。
「岩見さんのことよ」
北野は黙って脱いだものをまとめた。その北野の体をじろじろ眺めながら、
「昨日の準夜に急変したの。今、呼吸器がついてるわよ」
「え?」
北野はさすがに板垣の顔を見た。板垣は得意そうに続けた。
「昨日の準夜にも発作を起こして、それでかなり広範囲に梗塞を起こしたらしいのよ。日勤の発作が悪かったわねえ」
北野は衣服をいれた棚に手を乗せたまま凍った。板垣が冷ややかにゆっくりとことばを継いでいく。
「確か、あなたが岩見さんの通帳を盗んだとか盗んでないとか……」
「盗ってません、私!」
北野はきっとして板垣を見た。くっくっと奇妙な笑い方をして、板垣は、
「やあねえ、私が言ってるんじゃないのよ。準夜の発作の前に、岩見さん、主治医に訴えてたらしいのよ、ここの看護婦は泥棒だって。ねえ、ほんとのこと言いなさいよ、盗んだの? 師長が一度話し合うって言ってたわよ」
「師長さんが…」
北野は愕然とした。
板垣はこれで十分だと思ったのだろう、相変わらず奇妙な笑いを浮かべたまま服を身につけ、立ちすくんでいる北野に、お先に、と声をかけて出ていった。
板垣が脱衣所のドアを閉める音で、ようやく北野は我に返った。
そろそろと風呂場に入っていく。
昭吾との最後のデートになるかもしれない。そう思ったからこそ、病棟のことを忘れてすっきりさせにきたのに、それどころではなくなってしまった。機械的に体を洗い、髪をすすぐ。部屋に戻ってくるまで、北野の頭の中は岩見のことで一杯だった。
ついつい考え込んで、気がつけば八時になっていた。十一時にはまだ間があるが、朝食を取ったり化粧をしていたりすれば、すぐに時間はなくなってしまう。思い直して、北野はパンを焼き、コーヒーをいれ、手早く食事を済ませた。
後片付けをしていると、突然電話が鳴った。昭吾の方で何か予定が変わったのだろうか。不安な思いで取り上げた北野の耳に、
『あ、北野さん? お休みのところ、ごめんなさいね』
「師長さん…」
『実はね、岩見さんのことで、ちょっと問題が起こって……病棟の方へ出てもらえないかしら』
どこかで予期していたような、そんなことばだった。昭吾の顔が、カレンダーの向こうにちらつく。その横にかけてある新しいワンピースも。
「今日、でないと……だめなんですか? 私…今日、どうしてもでかける用事があって…」
お休みだったんですよ、と続けそうになって、北野は口ごもった。看護婦不足の折り、休みが取りにくくなっているのはわかっている。けれど、今日だけは、何が何でも昭吾に会いたい。
その北野のためらいを断つように師長が命じた。
『どうしても、今日なのよ。今、岩見さんの奥さんが来られているのよ。この前、岩見さんと北野さんがもめたことで、はっきりさせたいことがある、って』
「え…」
熱いような冷たいようなものが、北野の頭の中を流れた。
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