『ハートレイト』

segakiyui

文字の大きさ
8 / 17

8

しおりを挟む
 翌日、北野は六時に目を覚ました。
 カレンダーを見上げ、×印が消えていないのにため息をついた。顔を洗い、タオルや石鹸を手に一階の風呂場へ行く。
 看護師寮の風呂場は、普通の寮とは違って、ほぼ二十四時間用意されている。準夜前に風呂に入っていくもの、深夜明けに疲れと汚れを落としていくものなどがいるからだ。
 北野はできれば知った顔に会いたくなかった。だが、鉢合わせしたのはこともあろうに板垣だった。
「あら…早いのね」
「あ、おはようございます」
 無難にあいさつして脱衣所の隅で服を脱ぎにかかる北野に、板垣がすうっと身を寄せてきた。
「ねえ、知ってる?」
「何をですか?」
 板垣の持ち込んでくる話は正直いってろくなものではない。看護師の守秘義務をどこへ忘れてきたのかと思うほど、患者や医師のことをあれやこれやと触れ回っている。
 なのに、経験が豊かで物分かりがいいと評判がいいのも板垣だった。
 そっけなく答えた北野に、ますます板垣は身をすり寄せ、さも大切なことだと言わんばかりに続けた。
「岩見さんのことよ」
 北野は黙って脱いだものをまとめた。その北野の体をじろじろ眺めながら、
「昨日の準夜に急変したの。今、呼吸器がついてるわよ」
「え?」
 北野はさすがに板垣の顔を見た。板垣は得意そうに続けた。
「昨日の準夜にも発作を起こして、それでかなり広範囲に梗塞を起こしたらしいのよ。日勤の発作が悪かったわねえ」 
 北野は衣服をいれた棚に手を乗せたまま凍った。板垣が冷ややかにゆっくりとことばを継いでいく。
「確か、あなたが岩見さんの通帳を盗んだとか盗んでないとか……」
「盗ってません、私!」
 北野はきっとして板垣を見た。くっくっと奇妙な笑い方をして、板垣は、
「やあねえ、私が言ってるんじゃないのよ。準夜の発作の前に、岩見さん、主治医に訴えてたらしいのよ、ここの看護婦は泥棒だって。ねえ、ほんとのこと言いなさいよ、盗んだの? 師長が一度話し合うって言ってたわよ」
「師長さんが…」
 北野は愕然とした。
 板垣はこれで十分だと思ったのだろう、相変わらず奇妙な笑いを浮かべたまま服を身につけ、立ちすくんでいる北野に、お先に、と声をかけて出ていった。
 板垣が脱衣所のドアを閉める音で、ようやく北野は我に返った。
 そろそろと風呂場に入っていく。
 昭吾との最後のデートになるかもしれない。そう思ったからこそ、病棟のことを忘れてすっきりさせにきたのに、それどころではなくなってしまった。機械的に体を洗い、髪をすすぐ。部屋に戻ってくるまで、北野の頭の中は岩見のことで一杯だった。
 ついつい考え込んで、気がつけば八時になっていた。十一時にはまだ間があるが、朝食を取ったり化粧をしていたりすれば、すぐに時間はなくなってしまう。思い直して、北野はパンを焼き、コーヒーをいれ、手早く食事を済ませた。
 後片付けをしていると、突然電話が鳴った。昭吾の方で何か予定が変わったのだろうか。不安な思いで取り上げた北野の耳に、
『あ、北野さん? お休みのところ、ごめんなさいね』
「師長さん…」
『実はね、岩見さんのことで、ちょっと問題が起こって……病棟の方へ出てもらえないかしら』
 どこかで予期していたような、そんなことばだった。昭吾の顔が、カレンダーの向こうにちらつく。その横にかけてある新しいワンピースも。
「今日、でないと……だめなんですか? 私…今日、どうしてもでかける用事があって…」
 お休みだったんですよ、と続けそうになって、北野は口ごもった。看護婦不足の折り、休みが取りにくくなっているのはわかっている。けれど、今日だけは、何が何でも昭吾に会いたい。
 その北野のためらいを断つように師長が命じた。
『どうしても、今日なのよ。今、岩見さんの奥さんが来られているのよ。この前、岩見さんと北野さんがもめたことで、はっきりさせたいことがある、って』
「え…」
 熱いような冷たいようなものが、北野の頭の中を流れた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。  源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。  長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。  そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。  明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。 〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

処理中です...