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「通帳、のことですか」
『ええ……岩見さん、今日明日のことらしいの。ドクターが一応説明されたらしいんだけど、それなら、と話が出たのね』
「でも…」
繰り返し疲れたことばを北野は口に乗せた。
「私、本当に、盗んでなんかいません」
『でも、岩見さんが納得されないの』
納得していないのは師長さんもではないんですか。
危うく言いそうになったのを制して、別のことばを絞り出す。
「わかりました……二十分ぐらいで行けると思います」
『二十分ね、待ってます。ドクターのカンファレンス・ルームでね』
「はい」
カンファレンス・ルームとは、患者の病気について医師同士が相談したり、患者と治療方針について話し合ったりする部屋で、予定が入らない限り、めったに人は来ない。そういう場所が選ばれたこと自体が、『はっきりさせる』ということばの内容を暗示しているようで、北野は重い気分になった。
受話器を置いて時計を見る。
どのような話し合いになるにせよ、当の岩見の状態が悪くては、夫人も落ち着いて話せないだろう。ましてや、岩見抜きでは話が二重三重にこじれることになりかねない。
もし、万が一時間がかかれば、ここへ帰って来て着替えることもできないかもしれないし、最悪、昭吾と会えなくなってしまうかもしれない。
北野は受話器を手にした。『サボン』へ電話して昭吾への伝言を頼もうとして、やめた。
いつかの誕生日と同じことを繰り返してしまうのではないか。昭吾に、また患者のことを優先したと責められるだけでなく、伝言を聞いたとたんに昭吾は帰ってしまうかもしれない。
北野は立ち上がって、新しいワンピースをハンガーから外した。
華やかなサーモンピンク。デザインはすっきりしているが、これから出向く場所には派手過ぎる。だが、昭吾とはもう会えないかもしれない。それならそれで、せめて着飾って会いたかった。
北野は気持ちを決めて、ワンピースを身につけ化粧を終えた。ただネックレスだけはハンドバッグにいれて、つけないでおいた。
部屋を出て病棟に向かう。
カンファレンス・ルームに着くまでに、何度かいぶかしげな顔をされた。北野の姿を白衣でしか見たことのない人間が多い。患者はもとより、医師でさえ不思議な顔をしてこちらを見た後、「北野さん? へえ、見違えた」と言われた。
詰め所の前を通り過ぎる。今日も深夜勤務だったのか、大原がまだ居残って働いていたが、ちらりと北野を見て複雑な表情になった。
その大原に軽くうなずき、北野はカンファレンス・ルームに入る。
「失礼します」
「待ってたのよ……ああ…北野さん」
北野の格好に、師長が一瞬戸惑った顔になった。
部屋には岩見の主治医、大塚と、地味だが仕立てのいいグレイのスーツを着た女性が座っている。女性は北野を見ると、露骨に嫌悪の表情を作った。
ワンピースのせいだ、と北野は気づいた。
仮にも、盗みの疑いをかけられている人間のする格好じゃない、そう思われたのだろう。が、いまさらどうなるものでもない。
「こちら、岩見様の奥様…」
師長がその場の雰囲気を繕うように紹介した。
「はじめまして。主人がお世話になっております」
軽く腰を浮かせた、岩見夫人の物馴れた挨拶が皮肉っぽく響いた。
「じゃあ、話を始めましょう」
言いにくそうな主治医の顔に、師長が切り出した。
すすめられた椅子に腰を下ろして、北野は師長を見た。
「一つずつ確認をさせて頂きます。まず、岩見様は、北野さんが岩見様の通帳を持ち出した、とおっしゃられています。そんなことはあり得ないとお伝えしましたが、ご納得頂けませんでした……問題があいまいに終わるのなら、訴訟も考えるとおっしゃっています」
北野は驚いて、改めて岩見夫人を見た。その視線を真っ向から受け止めて、怯む様子もなく相手は言った。
「そう、残念ですけど、そう考えていますの。……主人は財産を持っております」
ん、ん、と主治医が小さく咳払いして、岩見夫人は挑戦的な態度を少しだけ和らげた。
「もちろん、何が何でも訴えたい、というのではありません。主人の通帳が無事に戻されれば、訴訟についても考えるつもりをしていますし、何よりも私、本当のことを知りたいのです」
『ええ……岩見さん、今日明日のことらしいの。ドクターが一応説明されたらしいんだけど、それなら、と話が出たのね』
「でも…」
繰り返し疲れたことばを北野は口に乗せた。
「私、本当に、盗んでなんかいません」
『でも、岩見さんが納得されないの』
納得していないのは師長さんもではないんですか。
危うく言いそうになったのを制して、別のことばを絞り出す。
「わかりました……二十分ぐらいで行けると思います」
『二十分ね、待ってます。ドクターのカンファレンス・ルームでね』
「はい」
カンファレンス・ルームとは、患者の病気について医師同士が相談したり、患者と治療方針について話し合ったりする部屋で、予定が入らない限り、めったに人は来ない。そういう場所が選ばれたこと自体が、『はっきりさせる』ということばの内容を暗示しているようで、北野は重い気分になった。
受話器を置いて時計を見る。
どのような話し合いになるにせよ、当の岩見の状態が悪くては、夫人も落ち着いて話せないだろう。ましてや、岩見抜きでは話が二重三重にこじれることになりかねない。
もし、万が一時間がかかれば、ここへ帰って来て着替えることもできないかもしれないし、最悪、昭吾と会えなくなってしまうかもしれない。
北野は受話器を手にした。『サボン』へ電話して昭吾への伝言を頼もうとして、やめた。
いつかの誕生日と同じことを繰り返してしまうのではないか。昭吾に、また患者のことを優先したと責められるだけでなく、伝言を聞いたとたんに昭吾は帰ってしまうかもしれない。
北野は立ち上がって、新しいワンピースをハンガーから外した。
華やかなサーモンピンク。デザインはすっきりしているが、これから出向く場所には派手過ぎる。だが、昭吾とはもう会えないかもしれない。それならそれで、せめて着飾って会いたかった。
北野は気持ちを決めて、ワンピースを身につけ化粧を終えた。ただネックレスだけはハンドバッグにいれて、つけないでおいた。
部屋を出て病棟に向かう。
カンファレンス・ルームに着くまでに、何度かいぶかしげな顔をされた。北野の姿を白衣でしか見たことのない人間が多い。患者はもとより、医師でさえ不思議な顔をしてこちらを見た後、「北野さん? へえ、見違えた」と言われた。
詰め所の前を通り過ぎる。今日も深夜勤務だったのか、大原がまだ居残って働いていたが、ちらりと北野を見て複雑な表情になった。
その大原に軽くうなずき、北野はカンファレンス・ルームに入る。
「失礼します」
「待ってたのよ……ああ…北野さん」
北野の格好に、師長が一瞬戸惑った顔になった。
部屋には岩見の主治医、大塚と、地味だが仕立てのいいグレイのスーツを着た女性が座っている。女性は北野を見ると、露骨に嫌悪の表情を作った。
ワンピースのせいだ、と北野は気づいた。
仮にも、盗みの疑いをかけられている人間のする格好じゃない、そう思われたのだろう。が、いまさらどうなるものでもない。
「こちら、岩見様の奥様…」
師長がその場の雰囲気を繕うように紹介した。
「はじめまして。主人がお世話になっております」
軽く腰を浮かせた、岩見夫人の物馴れた挨拶が皮肉っぽく響いた。
「じゃあ、話を始めましょう」
言いにくそうな主治医の顔に、師長が切り出した。
すすめられた椅子に腰を下ろして、北野は師長を見た。
「一つずつ確認をさせて頂きます。まず、岩見様は、北野さんが岩見様の通帳を持ち出した、とおっしゃられています。そんなことはあり得ないとお伝えしましたが、ご納得頂けませんでした……問題があいまいに終わるのなら、訴訟も考えるとおっしゃっています」
北野は驚いて、改めて岩見夫人を見た。その視線を真っ向から受け止めて、怯む様子もなく相手は言った。
「そう、残念ですけど、そう考えていますの。……主人は財産を持っております」
ん、ん、と主治医が小さく咳払いして、岩見夫人は挑戦的な態度を少しだけ和らげた。
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