『ハートレイト』

segakiyui

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「そうすると」
 主治医が口を挟んだ。
「通帳がなくなっているのは本当ですね」
「はい」
 岩見夫人は師長と北野を等分に見て言った。
「もっとも……こちらも、通帳などを病院に置いていたという落ち度はありますけど。でも、だからといって、盗んでもいいということではないでしょう」
「おことばですが、本当に盗まれたのですか」
 岩見夫人の傍若無人な言い方に、さすがにむっとしたらしい師長が返した。きりきりと目をつりあげて、夫人が言い返す。
「失礼ですわよ、あなた。こちらに非があったんですから、素直に考えて下さいな」
「……でも…」
 北野はようやく声を出せた。
「私、盗ってません」
「主人が! 主人がはっきり見ております。夜中の巡回のときに、北野さんですか、あなたが引き出しをごそごそしているのを見た、と。その後、通帳がなくなっていた、と」
「え…それじゃあ」
 主治医が眉を寄せて言った。
「直接、彼女が持っているところを見たわけじゃないんですか? あなたはそう僕におっしゃったが…」
「でも」
 岩見夫人は北野が盗まなかった可能性などまるで考えていなかったと言うように、少し顔を赤らめた。
「でも、それでしたら、どうして夜中に患者の引き出しを探ったりするんですか。巡回の時には、患者の引き出しも見るようにと指導されているんですか」
「待って…待って下さい。事実を話しましょう」
 師長がことさら柔らかく口調を丸めた。
「岩見様は、夜中に北野さんが引き出しをごそごそしているのを見た、とおっしゃったんですね? その後、通帳がなくなった、と」
「ええ、そのとおりです」
 夫人は投げ捨てるように言った。
「病院の中では、患者は無防備なものですわ。プライバシーもありませんし。主人は、確かに、少しは余計なものを持ってきていたでしょうし、つい、それを誰彼となく話したかもしれませんわ。……お若い人には誘惑的だったでしょうけど」
「…でも、私、本当に、盗んでなんか、いません」
 北野は訴えた。
 岩見夫人はなかなか納得してくれない。このままでは、昭吾との約束に遅れてしまう。
 ちらりと腕時計に目をやった北野に、岩見夫人が噛みついた。
「ああ、お忙しいのね。デートでもあるのかしら。でもね、主人は生死の境にいるのよ。その主人が気に病んでいることを、どうして真剣に考えて下さらないの。あなた、それでも看護師なの。患者の苦しみより、自分の都合の方が大事なのね」
「岩見さん」
 師長が遮った。冷え冷えとした声音に、岩見夫人が口をつぐむ。
「私達は精一杯看護しております。私の下にいる看護師は、一人として盗みなどする者はおりません」
 看護師になって二十年を過ぎた師長の目はきらきらと光った。
「社会で、何の根拠もなく人を泥棒呼ばわりすれば、名誉棄損で訴えられるのではありませんか。看護師ならば患者の苦痛を救うために犠牲になって当然だとおっしゃいますが、私達は患者の『犠牲』になるべきだとは考えておりません。私達は患者のために『全力を尽くす』べきだと考えているのです。だからこそ、あなたの訴えや岩見さんのことを考え、北野さんにも休みをつぶして出てきてもらいました。こうして、話し合いの場を作りました。それなのに、一方的に泥棒扱いしたあげく、看護師としての働きを疑うようなことをおっしゃる」
「……それこそ、当然でしょう」
 しばらくは師長のことばに飲まれていた岩見夫人は、傲然と胸を張った。
「看護師ならば看護師らしく患者のために働くのが当然でしょう。患者は病気なんです。苦しいんです、つらいんです。その苦痛に、なおも疑いを重ねさせるようなことを、看護師がしていいはずはないでしょう」
「では、あなたは家族として何かなさいましたか」
 腹に据えかねたように師長は続けた。
「岩見さんの二カ月の入院の間、寝間着の替えを欲しがっていらっしゃる、とお伝えしてもいらっしゃらない。一度ぐらいはお見舞いに来て頂くと療養生活に張りが出ます、とお誘いしてもいらっしゃらない。来られたのは、弟さんお一人、一度きり、それも私達と顔を合わせることを避けるようにすぐにお帰りになったようですね。それほど、お忙しかったのですか。今は、通帳を盗まれたことで、これほどお時間を頂けるのに?」
 ぐ、と岩見夫人がことばを詰まらせた。そばから主治医が、
「一度、病状説明を求めに来られましたよね?」
 かばうような口調だった。
「私…私にも、私の生活があります! 患者は弱い立場なんですよ! どうして、私を責めるんです! 病院っていうのは、病人を見てくれるところでしょう! そのために、高い医療費を払っているんでしょう! 人の家のことは放っておいて下さいな!」
 岩見夫人は叫んだ。こぶしを握り締めて師長をにらみつけ、ぶるぶる体を震わせている。
「あなた方に何がわかるって言うんです。私は、主人が入院してから、ずっと家のことを切り盛りしなくちゃいけなかったんですよ。弟だって仕事が思わしくなくて、ええ、そりゃあ、あなた方にはわからない色々な事情があるんです! 私ばかり責めないで下さい!」
 師長は無言で岩見夫人を見返した。
 再び主治医が控えめに口を挟んだ。
「話がずれてますよ。僕もそれほど、患者の側から離れているわけにはいかない。岩見さんは、どうすれば納得して頂けるんですか」
「…盗んだことを認めて、返して下さい。あれは必要なお金なんです。それに」
 凍ったような顔で、岩見夫人は言った。
「そうでないというなら、夜中に何をごそごそしていたのか、知りたいわ」
 言われる間でもなく、北野もそれについては考えていた。
 岩見は確かに困った患者ではあったが、いいかげんなことや嘘は言わない患者だ。夜中に北野が引き出しを触っていたのを見て、その後通帳がなくなっていたから北野が盗んだ、と本気で考えているのだろう。
 しかし、それなら、北野は何をしていたのだろう。患者の私物が入っている引き出しを触ることなど、まずないことなのに。
 ふと、北野の頭を一枚の写真がかすめた。
 三歳ぐらいの男の子と岩見が写っているもの。頑固で強情な岩見がこぼれそうな笑みを浮かべていた写真。
 突然、北野は思い出した。
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