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「事情はよくわからないんですが、私がたまたま入っていったときに、岩見さんの弟さんがおられて……しばらく話されていたんですけどね。私が他の患者さんと話し始めた後、岩見さんがトイレに立たれた間に、引き出しから通帳を出されたんですよ。あれ、と思って振り返ったら、にこにこ笑って、『大事なものはこんなところに置いておくべきじゃない。自分が預かることになった』って言われて…。看護師は刑事じゃないし、ましてや岩見さん、身内のことをあれこれ言われるのが嫌いな患者さんだったでしょう。だからこっちも、弟さんを疑うようなことを話せなくて…そのせいで、北野さんに迷惑がかかってるなんて、知らなかったんです、すいません」
「ううん……そうなのか…」
北野は医師に付き添われて出て行った岩見夫人の姿を思い出した。そのよろめくような足取りと、今呼吸器をつけてベッドに一人横たわっている岩見のことを思った。
岩見の側には誰もいないのだ。
そう思うと、岩見のところへ行くと言い残して席を立った、師長の気持ちがわかるような気がした。
「疑いが晴れてよかったですね」
微笑する大原に北野も笑みを返したが、その瞬間、氷を浴びせかけられたような思いで時計に目をやった。
十一時二十五分。
「あ…あ、じゃ、じゃあね!」
お礼にもならないことばを吐いて、北野は部屋から走り出た。
『サボン』までは電車に乗って五分。その後数分歩けばいいだけ、手近なはずのその場所が、今日ははるかに遠く感じた。電車の時間が合わない。タクシーを捕まえ、話しかけてくる運転手にも生返事で応対し、バッグの中からネックレスを出してつけ、化粧の乱れを直す。髪をなでつけたころに『サボン』について、料金を払うのももどかしく店に駆け込んだ。
時間は十二時五分。
息を弾ませて、北野は店の中を見回した。
いつもの席にはいない。
他の席にも昭吾の姿はない。
北野は恨めしく時計を見た。
昭吾のことだから、早ければ十分前には来ていたはずだ。
信じたくなくて、店の中をゆっくり歩いて回る。顔を寄せるカップルや楽しそうに食事をする人々の間を歩いて行く北野の姿を、店の鏡がちらちらと映す。
サーモンピンクのワンピースはスカートにかなりしわが寄っていた。くたびれた顔には口紅が浮いてみえる。くしゃくしゃになった髪に襟元も乱れて、慌ててつけたせいだろうか、ネックレスのペンダントトップの飾りの一つがなくなっていた。
北野は二回店の中を歩いて、三回目をようやく思い止どまった。
昭吾は来なかったのかもしれない。
のろのろといつもの席に腰を下ろし、近づいて来たウェイトレスにコーヒーを頼む。すると、相手が控えめな口調で話しかけてきた。
「あの…お客様、北野様とおっしゃいますか? 北野、由紀子様」
「え…はい」
「小林さまからお預かりしております」
ウェイトレスは、コーヒーと一緒に小さな空色の紙包みをテーブルに置いた。
彼女が離れるのを待って、北野は包みを持ち上げた。隅の方にボールペンで何か書かれている。
『電話はいらない。さようなら』
北野は包みを開けた。
ビンに入った桜色の貝殻のイヤリング。
「昭吾…」
つぶやいて、北野はこぼれ落ちた涙を周囲に気づかれまいと、乱暴にコーヒーカップに唇をつけた。
「ううん……そうなのか…」
北野は医師に付き添われて出て行った岩見夫人の姿を思い出した。そのよろめくような足取りと、今呼吸器をつけてベッドに一人横たわっている岩見のことを思った。
岩見の側には誰もいないのだ。
そう思うと、岩見のところへ行くと言い残して席を立った、師長の気持ちがわかるような気がした。
「疑いが晴れてよかったですね」
微笑する大原に北野も笑みを返したが、その瞬間、氷を浴びせかけられたような思いで時計に目をやった。
十一時二十五分。
「あ…あ、じゃ、じゃあね!」
お礼にもならないことばを吐いて、北野は部屋から走り出た。
『サボン』までは電車に乗って五分。その後数分歩けばいいだけ、手近なはずのその場所が、今日ははるかに遠く感じた。電車の時間が合わない。タクシーを捕まえ、話しかけてくる運転手にも生返事で応対し、バッグの中からネックレスを出してつけ、化粧の乱れを直す。髪をなでつけたころに『サボン』について、料金を払うのももどかしく店に駆け込んだ。
時間は十二時五分。
息を弾ませて、北野は店の中を見回した。
いつもの席にはいない。
他の席にも昭吾の姿はない。
北野は恨めしく時計を見た。
昭吾のことだから、早ければ十分前には来ていたはずだ。
信じたくなくて、店の中をゆっくり歩いて回る。顔を寄せるカップルや楽しそうに食事をする人々の間を歩いて行く北野の姿を、店の鏡がちらちらと映す。
サーモンピンクのワンピースはスカートにかなりしわが寄っていた。くたびれた顔には口紅が浮いてみえる。くしゃくしゃになった髪に襟元も乱れて、慌ててつけたせいだろうか、ネックレスのペンダントトップの飾りの一つがなくなっていた。
北野は二回店の中を歩いて、三回目をようやく思い止どまった。
昭吾は来なかったのかもしれない。
のろのろといつもの席に腰を下ろし、近づいて来たウェイトレスにコーヒーを頼む。すると、相手が控えめな口調で話しかけてきた。
「あの…お客様、北野様とおっしゃいますか? 北野、由紀子様」
「え…はい」
「小林さまからお預かりしております」
ウェイトレスは、コーヒーと一緒に小さな空色の紙包みをテーブルに置いた。
彼女が離れるのを待って、北野は包みを持ち上げた。隅の方にボールペンで何か書かれている。
『電話はいらない。さようなら』
北野は包みを開けた。
ビンに入った桜色の貝殻のイヤリング。
「昭吾…」
つぶやいて、北野はこぼれ落ちた涙を周囲に気づかれまいと、乱暴にコーヒーカップに唇をつけた。
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