『朱の狩人』

segakiyui

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5.取り戻せないI LOVE YOU(1)

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「仁?」
 ドアの外から母親の呼ぶ声が響いた。机に向かってボールペンを動かしていた仁は、我に返って顔を上げた。
「もう7時半よ、起きてるの?」
 神経質な声が繰り返す。
「おかあさん、もう行かなくちゃならないからね」
 仁は立ち上がった。一瞬くら、と揺れた視界に目を閉じ、机の端を掴んで体を支える。
「仁、聞こえてるの」
 机を離れ、1枚の紙を手にして部屋の扉を開けた。外にいた母親がびくっと体を引く。
「なあに、起きてるなら返事しなさいよ、夏期講習、今日もあるんでしょ」
 仁は苦笑いして、そっと喉に手を当ててみせ、口を動かした。
『声、出ない』
「え?」
 戸惑ったような、困ったような表情が母親の顔を掠めた。
「風邪?」
 仁は頷いた。手にした紙を母親に見せる。
『昨日寝冷えしたのか、風邪引いたみたい。宮岸病院に行ってくる』
「またいい加減な格好して眠ってたんでしょう。どうするのよ、夏期講習、あんまり抜けると受験に響くでしょう」
 仁は微笑んだ。
「わかった、じゃあ、病院行って、おとなしくしてるのよ。これ、渡しておくから。じゃ」
 母親は手にしていたバッグから5000円札を1枚抜き出すと、慌ただしく仁の手に押しつけて、階段を降りた。後を追って玄関まで見送った仁を出がけにちらりと振り返り、一瞬眉をしかめる。
「煙草吸ってないわよね?」
 仁は目を見開いた。
『どうして?』
 口を動かすと、母親は不愉快そうに、
「そのシャツ、昨日のままでしょ。そこから臭うみたい。あんた、昨日参考書を探し歩いてたって言ったけど……内田くんとかと一緒だったんじゃないでしょうね」
 仁は首を振った。
(さすがに母親だな、鋭いや)
 胸の中で響いた口調がその内田そっくりだと気づいて、見えない場所がちり、と痛んだ。
「あの子はだめよ」
 母親はふいと口調を重くした。自分の内側を覗き込むような暗い目になって、仁から目を逸らしながら、
「あんたを困った立場に追い込むわ。そういう子よ」
 仁はじっと母親を見返し、ゆるやかに首を振った。
「いいえ、あんたがわかってないだけよ。あんたはまだ子どもだから、人間がよくわかってないのよ」
『時間、ないよ』
「……そうね。じゃあ、いってきます」
『いってらっしゃい』
(逆だ)
 父親、豊が今度は死んでしまってから、母親はより世の中に警戒し怒りをこもらせている。それがそびやかした肩に、きりきりとして運ぶ手足に現れている。
 戸口に立って見送りながら、仁は心の底でそっと繰り返した。
(逆だよ、母さん)
 玄関に差し込む射るような日射しに目を細め、仁は扉を閉めた。ふいに重くなった体をひきずるように二階に上がる。
(巻き込んで困らせているのは、僕だ)
 そんなことを、母親は絶対認めないだろうが。
 自室に入り、汗と埃とでねっとりしてきたシャツを脱ぎ捨てる。瞬間、確かに微かな煙草の香りが鼻先を掠めた。周囲で唯一煙草を吸う内田のラッキーストライク。夕べ内田のベッドに居たから、匂いがついたのかもしれない。
(僕には……話さない、と言った)
 城崎と会話していた内田の苛立った声が蘇る。
ー『敵』ダカラナ。
 夢の中の『夏越』の声が耳に澱む。
(マイヤのことも、紺野さんのことも)
 さとるが襲われ、紺野が襲われ、マイヤが襲われた。あの真珠色の球の中にいる少女、もう1人の仁が何を望んでいるにせよ、狙われている標的は確実に仁の身近にいる人間に絞られてきている。
(次は…ダリュー……それに)
 続きそうになる名前を必死に考えないようにする。
 できるなら仁は姿を消した方がいい。誰も知らないところ、あるいは永久に。
(でも、たぶん)
 仁はあの一瞬、少女の強い願いを感じた。
 誰かをずっと探している、そのためになら何でもする……他の人間の命など構わない。
 ひょっとしたら、無作為に能力者らしい人間を襲っていたのも、その『探している人間』をあぶり出そうとしてのことだったかもしれない。
(もし、そうだとしたら)
 仁が行方不明になったことで、再び同じようなことを始めるかもしれない。また関係のない人間が屠られ狙われるかもしれない。
(僕は消えるわけにはいかない…ここにいなければ……守れない…けど……)
 側に居れば、傷つける。
 ならばできる唯一のことは。
 仁は机の上のメモをまとめた。薄手の茶色のナップザックに突っ込み、新しいシャツを出して羽織る。ボタンを止めながら、傷一つない胸に苦笑する。
(ばれないわけが……なかったか)
 明け方内田の家からテレポーテーションし、バイクをショップに戻した。きりきりして家の台所で煮え詰まっていた母親には2階の部屋から何気なく降りてきて話しかけ、その一瞬に暗示をかけた。
 『仁は夕方参考書を探しに出かけた、そのままうんと遅くなって夜の10時にやっと帰ってきた』
 母親の中の『現実』はそうなっている。仁がその時間に心身ともに崖っぷちに追い詰められたことなど気づきようもない場所へ遠くそっと押しやられているが、死ぬまで気づかないのだろう。
(内田にも……使えればいいのに)
 一瞬に人の心の中に入り込み、その中をわずかに組み換える……この力はあのバイクショップで身につけたけれど、所詮内田には使えない。
(何もなかったことにできればいい……『夏越』のことも……僕がいたことも)
 そうすれば、元々生きる世界が違う人間だ、小学校での思い出などすぐに薄れてしまうだろう。
(命の危険に晒すこともない……)
 もっともそうなっていたら、仁はとうの昔に自分の力に食い尽くされて消えていたのだろうが。
 仁、と呟いた内田の顔が青ざめていた。電話を立ち聞きしていたと知った瞬間の顔……驚愕と不安と……それに、恐怖。
(あれが真実)
 たぶん、あの『夏越』の一件の後の約束は、危機的な状況を乗り越えた安堵から来たものだったのだろう。あるいは、仁の力がここまで不安定だとは予想しなかったせいなのだ。
(それでも…感謝している)
 仁の力はここ数週間で格段に伸びた。『夏越』との戦いの直後では確実ではなかった力も使えるようになっている。だから。
(だから、僕は……)
 仁は唇を噛みしめ、シャツのボタンをやはり上まできちんと止めた。それからナップザックを肩に静かに部屋を出ていった。

 ダリューは不安な気持ちを持て余しながら、マイヤの病室から出てきた。
 城崎が与えてくれた1室は、他の病室より離れている。マイヤの全面看護をダリューが申し出たゆえの特権、それでも襲われた衝撃と手術のストレスでマイヤは痛ましいほど憔悴していた。
『ごめんなさい……ダリュー』
 今は薬で眠っているが、マイヤはついさっきまでダリューに謝り続けていた。
『もっと早く話せばよかった』
(マイヤのせいじゃない)
 ダリューは唇を噛んで急ぎ足に病院表にある売店に向かっている。
(マイヤのせいじゃないんだ)
 じゃあ、誰のせいなんだ。
 問い返す声に耳を貸すまいと眉をしかめたが、遮るように涙まじりのマイヤの声が重なってくる。
『仁が捕まらないときに……話せばよかった』
(違う、違う、マイヤのせいじゃない!)
 特殊な力ゆえに国を追われ、仲間を失ってきた。ようやく『夏越』のところで落ち着いたかと思えば、相手はダリューやマイヤを道具としてしか認識していない奴だった。生きるか死ぬかの日々を2人で必死に生き抜いて、最後に仁に出逢った。仁が『夏越』を葬って、それで全ての傷みがようやく終わったのだと思っていた、なのに。
 茶色の髪と茶色の目、それでも明らかにモンゴロイドではないダリューの顔だちでも、この日本社会で孤立する。ましてやマイヤはプラチナブロンドに銀の目で、その孤立感はダリュー以上だったはずだ。
 けれど、マイヤは以前より十分落ち着いて幸せそうに見えた。
『私、仁に会って自分にも何かできると思ったの。ダリュー、あなたを守ることだってきっと』
 輝くような笑顔。異国の地で、どこまでいっても2人でしかないのだろうけど、それでもマイヤと2人で日々が穏やかに暮らせる、それがどれほどダリューにとって嬉しかったか。
(なのに……なのに! 仁、君は……!)
「!」
 売店でマイヤの好みの飲み物を手にレジに並んだとき、ダリューは今まさに病院の受付に向かっている仁に気がついた。
 あいかわらずぼうっとして緊張感のない姿、水色のコットンシャツに淡いベージュの綿パン、茶色のナップザックという出で立ちは、平凡な見かけの印象をなお薄めるような気配だ。あの『夏越』の居る地下に巨大な炎を走らせた同じ人間とはとても思えない。
 仁は風に乱れた髪もそのままに、受付を覗き込むようにしてナップザックから紙を取り出し、おっとりと微笑んだ。穏やかな微笑に、ダリューの内側の何かがぐいとよじれる。
 気がつけば、ダリューはレジから離れ品物を棚に戻して仁に走り寄っていた。
「仁!」
 びく、と体を強ばらせた仁が振り返る。半端に凍りついた笑みにダリューは一層苛立った。
「何をしにきたんだ」
 仁は眉をしかめ、ちょっと困ったように微笑んだ。受付にいた顔見知りの女性が、ダリューを見て気がついたように声をあげる。
「ああ、マイヤさんの御見舞? それなら……」
(見舞?)
 ダリューの中の苛立ちにより圧力が加わった。思わず仁の手首を握る。
「今は無理だよ、会えるわけがないだろう!」
(え?) 
 その一瞬、妙な違和感をダリューは感じた。握りしめた手首がひどく細い気がしたのだ。へたをすると握り潰してしまいそうな頼りなさだ、
(こいつ、内田と同じ歳、だったはずなのに)
 ダリューが動きを止めたのに、仁が眉を寄せてそっと首を振った。その表情が妙に切なげで辛そうで、それが再びダリューの胸の塊を押し潰す。
 それは、この件の説明をカンファレンスルームでしたときに胸を過った感情にとてもよく似ていた。
 あえて言えば、負い目、かもしれない。仁だって被害者なのだと思いながら、それでもダリューやマイヤが苦しんだ一端を担っていたのは紛れもなく仁の父親であるという事実。仁に向かって責めることなどできないとわかりながらも、体を揺さぶって誰のせいなのか、と叫びたくなる気持ち。
「……」
 仁が口を開いて何かを話しかけようとして、ダリューは我に返った。
「いいから来い!」
 乱暴に、ことさら乱暴に引きずるように相手を売店横にある喫茶室に連れ込む。そのまま、病棟が見えない窓際の席まで連れていって、押し込むように座らせた。やってきたウェイトレスにコーヒーを頼み、仁に目を向けたが相手がまだ困惑した顔でこちらを見ているので、仕方なしにもう1つコーヒーを注文する。
 コーヒーが来るまで、ダリューは久しぶりにじっくりと仁を観察した。
 初めて出逢ってからなら、もう2ヶ月になる。国ならこれぐらいの年齢の少年はもっとしっかりがっしりした体をしているはずなのに、日射しの中で困ったような顔でこちらを見ている仁は以前より儚げに見える。まるで、そこにいるのにふいと消える幻のように。
「一体どういうつもりなんだ」
 運ばれてきたコーヒーに口をつけた後に、とうとう我慢しきれずに吐き出した。
「マイヤを見舞ってどうしようって言うんだ。少し前ならまだましだ、けど、今、彼女は傷ついてる……とても、傷ついてるんだ」
 仁が目を細めて僅かに視線を逸らせた。それが、まるで自分には関係がない、と言ったようで、ダリューは喉元に競り上がった塊を必死に飲み下さなくてはならなかった。
「……どうして…応えてくれなかったんだ」
 言うまいと思っていたことば、マイヤも言わないでくれと言ったことばが、つい口を突く。
「マイヤは、君に助けを求めたんだぞ」
 仁の顔が強ばった。体の線を固くしてじっとダリューを見つめる目が疑うように揺れる。
「ああ、そうだ、だって、だって、マイヤを襲った奴は」
(ごめん、マイヤ)
 再びせりあがった塊に耐え切れずに吐き出した。
「仁を呼べ、って言ったんだからな」
 一瞬仁の目が広がったように見えた。けれど、それはほんの一瞬、今はもう、ダリューをまっすぐ見ている仁の目は無表情に動かない。
 それがなぜかひどく悔しくて、ダリューは繰り返した。
「仁を呼べ、仁が来たなら傷つけない、そう言ったんだ……君は、どこにいたんだ?」
 零れてしまった気持ちが止まらない。口調がどんどん厳しくなる。
「あの『夏越』のとき、僕達、いや、マイヤは君を助けに行った、自分のことを顧みないで。なのに、君は、マイヤが助けを求めても来てくれなかった……聞こえなかったのか?」
 仁の目が微かに潤んだようだった。だが、一言も言わない。無言のまま、そっと胸のあたりに手を当てた仁の仕草に、ダリューはより怒りをかきたてられた。
「わかってる、君は変化していっているんだろう。マイヤの声も聞こえにくくなってるんだろう、けど……けど」
 押さえようとした声が震えてじりじりと熱を帯びた。
「ああ、そうだ、そんな傷さえ消せるほどの力を持っていて。僕達よりうんと凄い力を持っていて。なのに、君は、自分1人しか守らないのか。そんな……そんな力なんて……意味がない!」
 仁は体を震わせた。凍りついた顔でダリューを見る、が、謝罪も弁解もしない。それがますますダリューを苛立たせる。
「僕がそれほどの力を持っていたら、絶対助けに行く……仲間ならなおさらだよ。マイヤは…マイヤは……」
 もう限界だった。
 目の前の少年はどこか虚ろな顔になったものの、ダリューの糾弾に応じようともしない。何か自分が巨大な壁に向かって小石を投げ続けている幼い子どもになったような気がする。
「マイヤは……僕の子どもを妊娠してたんだぞ!」
 仁の顔がようやく白くなった。それを見たとたん、意地悪い喜びが沸き上がってきて、ダリューはもう1度繰り返さずにはいられなかった。
「妊娠してた、けど、だめだった。だめになったんだ、襲われたショックで」
 仁が震えている。微かにけれどはっきりそれとわかるほど体を震わせている。そろそろと俯き、わずかに口を動かした。ごめん、とそう動いたように見えたが、ことばにはなっていない。
「手術はそれも平行したんだ。その君が、見舞なんて、来れると思うのかい?」
 仁の口が動く。
 ごめん。
 ごめんなさい。
 声は出ない。
 仁の表情は乱れ落ちた髪の毛が覆ってはっきり見えない。
(何を考えている、何を、仁!)
 ダリューはますます苛立った。できるだけ冷ややかにことばを継ぐ。
「謝ってすむ問題じゃない……もう命は戻ってこないんだ」
 仁が微かに頷いた気がした。さっきよりひと回りも小さくなってしまったように見える体はまだ小刻みに震えている。
「だから……今マイヤと君はコンタクト取れないんだろう。ちょうどいい、これ、会ったら渡そうと思っていたんだ」
 ダリューはポケットからプリペイド式の携帯を取り出した。
「城崎先生から、君は携帯を持ってないって聞いてたから。マイヤを使わないで、これで僕に連絡してくれ」
 仁は俯いたまま、応えない。
「もうマイヤにはコンタクトできない。無理だよ、わかるだろう」
 そうだ、無理なはずなんだ、とダリューは胸の中で繰り返す。
(なのに、マイヤはまだ君とコンタクトを取ろうとしている……あんな状態で!)
 ぎりぎりと腹の底がねじれてどす黒く濁っていく思いが広がった。
「……」
「仁、聞いてるのか」
 なおも沈黙を続ける相手に、ダリューは思わず相手の肩を掴んで起こした。
 何か応えてほしかった。黙ったままの仁の口から謝罪でも、弁解でも、哀訴でも、それこそ何でもいいから、マイヤの苦痛に、自分の苛立ちに応じて欲しかった。
 だが、顔を上げた仁にダリューは一瞬ことばを失った。
 まるで何も聞こえていない人間のようだ。表情が消えて、異常に静かな瞳がぼんやりとダリューを見返している。その瞳の奥には何もない。夏の明るい日射しを果てしなく吸い込む深い闇の色だ。
「……仁?」
 ダリューは不安になって呼び掛けた。自分の掌の下にある細い肩が少しでも力を抜くとざらざらとこぼれる砂になって崩れ落ちそうな気がした。
「どうした、仁?」
 仁は応えない。少し唇を開いたが何も声を出さないまま、じっとダリューを見返している。いや、ダリューを、でもないのかもしれない。焦点がずれて何かどこか遠くを見ている目だ。まだ細かく体を震わせながら、やがて、もっと違和感のある表情が浮かんだ。うっすらと広がってきたのは頼りなさそうではあるが、紛れもない微笑、その穏やかさにダリューは焼かれるような憎しみを感じた。
(なぜ、笑える? マイヤがあれほど、苦しんでるのに?)
「仁」
 呼び掛けると瞬きして、その微笑はすぐに消えた。後に残ったのはまるで何もかも拭い去ってしまったような淡々とした表情、テーブルに乗り出し声を荒げるダリューに怯えたふうもない。
「仁!」
(君にとって、僕達は、心配するだけの価値もない、ということか)
 仁の目がちらとテーブルの上の携帯に動いた。肩を掴むダリューに構わず、携帯を手に取る相手に、激しい勢いで手を振り払われたような気がして、ダリューは思わず仁の肩から手を離した。
 何か仁がふいにどうにも手の届かないところへ走り去ったような気がした。
「……何も言ってくれないんだな」
 やはり仁は応えない。
 手にした携帯をじっと眺めている。側にいるダリューに何の興味もなくなったように。
 ダリューは重苦しい疲れを感じた。のろのろと立ち上がりレシートを掴む。
「支払いは済ませておく……もう顔を出さないでくれ」
 吐き捨てるのが精一杯だった。
 まるで深海に引き込まれそうな足を引きずってダリューは仁を残し喫茶室を出て行った。
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