『朱の狩人』

segakiyui

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 喫茶店のドアがひどく重く感じられた。がららん、とうるさいカウベルが頭上で鳴るのに眉をしかめ、内田は頭を店に突っ込んだ。
 急に降り出した雨のせいか、店の中は混み合っている。冷房をフル回転させているのに湿った粘りつくような暑さがなくならないと苛立ったような数人が入り口を振り返ったが、びしょ濡れでばたばたと水を滴らせている内田にまずいものを見たように急いで顔を背けた。
 その中でたった1人、はっとしたようにレシートを掴んで席を立ち上がった者がいる。柔らかくウェーブをかけた華やかな顔だちの、紺野と同年代ぐらいの女性だ。
「内田……くん? そうでしょ?」
「あんたが、荒木尾真奈美さん?」
 問いかけると相手は頷き、精算を済ませると内田を扉の外に押しやるように店を出た。
「あたしのマンション、この近くなの。いくら夏でもそのままじゃだめよ、いらっしゃい」
「いいのか?」
「子どもは余計な心配しないで」
 真奈美は目を細めて笑った。
「侘しい1人暮らしよ、気にする人なんかいないって」
 真奈美のマンションは確かに近かった。
 心身ともに疲れ切った内田がずるずる脚とバイクを引きずりながら歩いても、5分もかからなかった。
 マンションの1階にある真奈美のガレージの横にバイクを置き、促されるままに4階にある部屋に招き入れられる。
「シャワー浴びなさい。何だかひどく……疲れてるわね?」
「ああ……いろいろとあって……」
 答えるのが億劫だった。『印怒羅』とやりあった疲れももちろんだが、仁が最後まで内田を拒んで消えたことが予想以上に堪えている。
「そこで止まって。濡れた服はマットの上に脱いでおいてくれたら、ざっと洗って乾かすから」
「下着もか?」
「いやでしょうけど、濡れてるのを履いてるよりいいでしょ。そこにガウンあるから」
「……女くせえなあ」
「贅沢いわないの」
 内田は真奈美が奥へ引っ込むとのろのろと服を脱ぎ捨てた。
(治るから……大丈夫だからって……そんなわけ、ねえだろうに)
 ガウンを掴み、示された浴室へ入り込む。ピンクの湯舟、ピンク系の風呂桶と椅子を隅に蹴り飛ばし、頭から熱めのシャワーを浴びる。汚れを洗い落とし体を温めるためというよりは、肌を焼き尽くし身内を焦がす怒りを相殺させようとする。激しい水流に頭を叩かれながら、内田は唇を噛んだ。
「そんなわけ、ねえんだ」
 あの廃虚で倒れた『印怒羅』の側で膝をついて見上げた唇から零れた血、弾き飛ばされて鉄棒に体を射し抜かれて声のない悲鳴をあげた顔、繰り返し体を治してはまた傷つくために身を晒すような動き、腕の中で体を抱えて震えていた仁の姿、それらがぐるぐる頭の中で回っている。
(だめだ、このままじゃ、確実にあいつは死んじまう)
 いったいどうして内田の居場所を、『印怒羅』の動きを仁は察したのだろう。ひょっとして、その鋭すぎる知覚の一部で感じ取ったのだろうか。そして、自分1人が引き受けるつもりで、あの場所に密かに飛び込んできたのだろうか。
(お前はいつもそうだ)
 誰も気づかない場所で、誰も気づかない責任を背負って、1人で必死に耐えている。
 今回だって、もし内田が気がつかなければ、ずっと見えない場所で戦い続けていたに違いない。
(ずたずたになって……今だって、きっと)
 内田や城崎が掴みきれないものをその感覚で感じ取って、誰より早く『狩人』に迫るだろう。どれほどの危険があっても、いや、危険であればあるほど、自分の命をかけて相手を屠る気でいるのは間違いない。
(なのに、俺にはあいつを止められない……側にも居られない)
「どうしたら……いいんだ……っ!」
 ごん、と壁を殴って内田が呻いたのと前後して、浴室のドアがほとほと叩かれた。
「内田くん……大丈夫?」
「……ああ、今出るから」
「コーヒー飲むでしょ、ガウン着たらリビングに来てね」
「わかった」
 内田は溜息をついた。シャワーを止め、浴室のドアを開ける。すぐ側にあった洗濯機が内田の服を回していた。用意されていたバスタオルで荒っぽく体を拭い、ガウンを羽織る。とりあえず買ってきてくれたのか、新品のトランクスが用意されていたので、ありがたく身に着け、リビングを覗き込んだ。
「迷惑かけてすみません」
「あら」
 真奈美は白いブラウスに淡い色のフレアスカートという出で立ちで内田を迎えて、おかしそうに唇を綻ばせた。
「ずいぶん大人しいのね? 聖美はもっと荒っぽい性格みたいに話してたけど」
「荒っぽいですよ、わけわかんない奴には」
 内田は肩を竦め、進められるままにリビングのソファに腰を落とした。中途半端に開く前を手でおさえて脚を組みながら、
「けれど、あんたは今貴重な情報源だから。紺野さんとは知り合いなんですか?」
「学生時代からね。あたし、今、真駒中学の保健室に居るのよ」
 真奈美はどこか不安定な笑みを浮かべて、コーヒーカップを取り上げた。
「けど……もう限界かもしれない。何だかこのままだと、とんでもないことをしてしまいそうで」
「どういうことです?」
 内田もコーヒーカップに口をつけた。熱い液体が香ばしい匂いとともに喉を流れ落ちていく。シャワーで外側から熱くなった体が、今度は内側から温められる。それでようやく、自分がどれほど冷えきった気持ちでいたのか、改めて気がついた。
「夏休み前に、妙な事件が起こってね」
 真奈美は沈んだ声で話し出した。
「ちょうど真駒朱乃が転校してきた直後だったんだけど」
「真駒……朱乃……?」
「そう、真駒家の一人娘……」

 真駒中学に少女が転入してきたのは、もう1週間ほどで夏休みに入ろうとする頃だった。
 名前は真駒朱乃、12年前に事件のあった例の旧家に住んでいた若夫婦の娘だ。
 あの事件以後、若夫婦は旧家を去り、家は長い間無人になっていた。だが、引っ越し先で夫が死亡し、多額の借金を抱え込んだ妻子は家を売り払い、この街に戻ってきたのだ。
 真駒朱乃は黒めがちの大きな瞳が印象的な美少女だった。長い黒髪に白い肌、日本人形を思わせる顔だちは年齢にしてはどこか艶かしいほどで、その美貌は真駒中学にいる不良グループにすぐに目をつけられることになった。不良グループの名称は『印怒羅』と言う。

「『印怒羅』?」
「そう。知ってるの、内田くん」
「ええ、まあ」
 内田は苦笑いしながら肩をすくめた。知ってるも何も今一戦交えてきたばかりだ。
「そういえば、内田くんもバイク乗るのね……ひょっとして……」
「俺はツルまないから。けど、『印怒羅』ってこの辺りにいたんですか?」
「……詳しくは知らないわ」
 真奈美は首を傾げた。
「けど、かなり広範囲の大きな集団なんだって。真駒中学にも数人いたみたいね」
「ふうん」
(じゃあ、さしずめ、あの短気なガキはそうかもしれねえな)
 内田のことばに一々突っかかってきていた顔を思い出す。
「で?」
「朱乃はほとんど相手にしなかったから……余計に向こうを煽ったのかもしれないわね」

 ある放課後、朱乃は帰り間際を『印怒羅』に捕まった。いつものように無視して帰ろうとしたのだが、その日は『印怒羅』側も引く気はなかったみたいで、押し問答になった。やがてしびれをきらした相手が力づくで連れていこうとしたときに、『それ』は起こったらしい。

「あたしは保健室に居たのよ。残って生徒達の健康記録を整理していたとき、物凄い音が響き渡って驚いた。たくさんのガラスが一斉に割れたみたいな音だったわ。慌てて廊下に飛び出してみると、少し離れた1年生の教室で叫び声みたいな悲鳴みたいな声が聞こえた。とっさに、ひょっとして誰かが襲ってきたのかって思ったのよ、いつかあった事件みたいに」

 真奈美は別方向から走ってくる教師の姿を認めて走り出した。「何だ?」「いえ、わかりません!」呼び交しながら走っていくと、その教室の手前の部屋がふっと目に入った。
 鮮やかな夕焼けだった。目にしみるようなオレンジ色の光の中で、誰もいない教室にぽつんと朱乃が座っているのが見えた。
 朱乃は今しがた響いた凄まじい音に気づいてもいないように、何かを夢中になってやっていた。夕焼けの中でもなお、手元で明るく輝いているように見えたのは青色のサマーセーター、彼女はそれをとても楽しそうに編み続けていたのだ。
 その光景を一瞬目に止めて、真奈美の胸に広がったのはとてつもない不安感と不快感だった。いつかどこかで、とてもよく似た何かを感じたことがある。そんな気がした。だが、その気持ちは、先に飛び込んだ教師の切羽詰まった叫びに吹っ飛んでしまった。
「きゅ、救急車、救急車だ!」
 喚いた教師がすぐにまた教室を飛び出していく。
「先生?!……・ああっ」
 急いで飛び込んだ真奈美は黄金の風に押し倒されたような気がした。
 凶暴なほどに正面から飛び込んでくる巨大な夕日。光に満ちあふれた教室内が無数の星で埋まっている。星? そうだ、まばゆいほどにきらきら、きらきらと夕日を跳ねている輝きがそこらじゅうに散っている。窓が異様に大きく開いているような感覚に襲われてよく見ると、窓枠にガラスがなかった。いや、あるにはあるのだが、刺々しく砕かれた欠片がざくざくと窓枠に刺さっているだけだ。そして、星と見えたのはその割れ砕けたガラス片で、それが夕日を浴びて光っているのだ。
「い……てえよぉ……」
「う……ああ」
 呻き声が響いて真奈美は我に返った。夕日が見る見る山の端に転がり落ちて暗さを増す教室内に、明かりをつけて息を呑む。
 そこは修羅場と化していた。
 教室のそこここに散ったガラス片、数人の男子生徒が倒れて呻いている。確かしょっちゅう保健室に頭が痛いの腹が痛いのといってやってくるうちの何人かで、あまり素行がよくないと噂がある生徒だ。だが、彼らのほとんどは顔と言わず手と言わず、およそ肌身のでていないところで傷ついていないところはないと言ってもいいぐらいに無数の傷を負っていた。夏の開襟シャツも薄手のグレイのズボンも血まみれ、目のあたりを押さえてうなっている者、だらだらと流れる血にパニックになって転がり回っている者、脚を抱えて泣きわめいている者、泣き声と呻き声で教室が唸っているようだ。
 その中で一人、蒼白な顔をして痙攣を起こしたようにがたがた震えている生徒がいるのを見つけた真奈美は、急いで窓際に寄っていった。救急処置がいるかもしれないと思ったのだが、それさえも生易しい思考だったとすぐに気づいた。

 ぶる、と真奈美は体を震わせた。
「ごめんなさい……ちょっと」
 ふいに立ち上がってリビングの棚から小さな黒いガラス瓶を出した。中身を同じ棚に並べてあった透明なショットグラスに注いで一息に飲み干す。
「……気付け、ってやつ?」
「……」
 真奈美は背中を向けたまま首を振った。
「違うの、ずっとやめてたの、やめられてたのよ、でももうだめ、もうだめだわ」
 もう一度グラスに濃い琥珀色のとろっとした酒をこぼれるほどに満たしてまた一気に煽った。
「だから、聖美に連絡したの、潰れる前に、どうにかなってしまう前に」
 内田は無言で目を細めた。部屋の中に強烈な酒の匂いが満ちていく。
「ごめんね、話すわ」
 真奈美はふう、と重い吐息をつくと、ソファに戻ってきた。手にはまだ瓶とショットグラスを持っている。そのままテーブルにお守りのように置くと、続きを話し始めた。

 その生徒は真奈美が近づくのにがたがた全身を震わせながらこちらを見上げた。泣き笑いするような表情で「せんせぇ……」
 掠れた声で呼びかけた。金髪に近いほど脱色した髪よりも白い顔色に唇を震わせながら、
「俺の腕……おかしいんだ……おかしいだろ……・おかしいよな……?」
「腕……!」
 一瞬、頭を鋼鉄のハンマーか何かで殴られたような気がした。足下の力が一気に抜け、がくん、とそのまま床にめり込んでいきそうだ。
「おかしい……おかしいよ……こんなこと……・ないよな……? ……ありえないよな……?」
 相手はへへ、へへと引きつった笑いを零しながら繰り返している。
「だからさ……おかしいのは……俺の腕じゃなくて……俺の目なんだよな……? それとも……頭なのかな……せんせぇには……見えねぇよな……? ……俺がおかしいだけだよな……?……」
 だが、それは確かに真奈美にも見えていた。
 その生徒は腕を窓の外に突き出していた。だが、ガラスが割れ砕けた間から、とかその上から、というのではない。まるで手品の一場面のように、ガラスに自分の腕をなかほどまで突き立てていたのだ。そして、透明なガラス1枚を挟んで、向こうには先に続いているはずの腕がなかった。10cmほど離れた場所に張られた金網があるだけ、そこにはただの空間があるだけ。
 真奈美はよろめきながら近寄った。脚も体もがくがくと震えていたが、頭のどこかがひどく冷たく、壊れてしまったように冷静で、何がどうなっているのか確かめたかった。
 のろのろと窓枠に近づき、向こうを覗き込む。金網と校舎の間にはほとんどガラスが落ちていない。ということは、この教室のガラスを粉々にした『何か』は窓の外からやってきたことになる。それも10cmも離れた金網を貫き通して。そして、この、窓ガラスの向こうの空間に突っ込んでいるような生徒の腕は……。
 覗き込みかけたとき、真奈美の耳にすぐ隣の教室から聞こえてくる微かなハミングが届いた。脳裏に青いセーターを嬉しそうに楽しそうに編み続けていた朱乃の姿が閃光のように走る。視線を移して隣を見ようとした矢先、空気を切り裂くような悲鳴が上がった。凄まじい物音に運動場の方から駆け寄ってきた生徒達が、真奈美より先に金網ごしに教室を覗き込み、ついでに見てしまったのだ、男子生徒の腕の先を。
 悲鳴を上げながら逃げ出しかけて運動場に這いつくばり、吐き出したものがいる。そのままへたんと座り込んでいるものがいる。真奈美はそろそろと振り返って、見た。
 断面図。
 ガラス標本にされた原色図鑑。
 腕は窓ガラスを境に切り落とされてそのままガラスと融合している。
 がこん、がこん、と異質な音がした。自分の腕を見て次々と悲鳴を上げる生徒達に男子生徒が必死に両腕を窓から取り返そうと手前にひっぱりながらもがいている、その動きが窓を窓枠に打ちつけている音だ。
 動く、骨と肉と血管の、断面。
 ふ、と真奈美の視界が暗くなりかけたとき、間近で低い囁き声が聞こえた。
「体のほうがよかったわね」
 ざくっと巨大な包丁で体を刻まれた気がした。背後から山崩れが迫っていると言われても、これほど早くは動けなかっただろう。振り返った真奈美をいつの間にか、隣の教室の境目の窓に寄り添った朱乃が見ている。濡れ濡れとした黒髪を一筋唇にくわえて、そっと微笑んで繰り返した。
「生物の授業に使えたでしょう?」
 がしゃ、と真奈美の中で封じていた何かが壊れて、中身が零れ出した。気を失って倒れながら、真奈美は朗らかな明るい朱乃の笑い声を聞いた。

「あなたは普通の人だから……信じてもらえないけれど……」
 真奈美はまたたて続けに酒を煽った。かたかたと震える体をぎゅっと自分で抱き締めて、上目遣いに内田を見た。
「あたしね……あたし……あの子に会ったの初めてじゃなかった。それがあのとき……わかった、わかったのよ」
 一旦ことばを切って血の気の失せた唇を噛む。それから必死に声を絞り出した。
「ずっと忘れたふりをしてた……ずっとないことにしてた……でも、思い出した、すっかり思い出したの」
「大丈夫か?」
 内田は眉をしかめた。それほど酒は呑まないが、それでも真奈美が自分に注ぎ込んでいる酒の量がなまじなものではないのはわかる。
「今日は……よそうか?」
「いいえ、いいえ!」
 真奈美は突然ソファを滑り落ちるようにおりると、内田の脚にすがりついた。真っ赤に染まった目元に涙をにじませながら、
「もう壊れちゃうかもしれない、けど、あの子だけは許せない、放っておけないの、あたしが、ほんとはあたしが殺したい、だけど、だけど、怖くて、あたしが、あたしが……あたしがお姉ちゃんを殺したようなもんなんだ!」
「お姉ちゃん?」
「誰よりも綺麗で、誰よりも優しくて、誰よりも幸せになったはずなのに! あたしがネックレスなんて欲しがったからだ、あたしがゲーム欲しがったからだ、けど、けど、お姉ちゃんが死ぬことなんて、望んでなかった、望んでなかったよう!」
 熱く震えながら泣きじゃくる真奈美の体を抱きかかえながら、内田は困惑していた。これほど大人の女がこれほど容易く我を失うことには慣れていなかったし、事情がさっぱり掴めないままなのでどうしてやったらいいのかもわからない。
「落着けよ、な、まず落ち着けって」 
 ぽんぽんと背中を叩いてやりながら、低く声をかける。
(今夜はここで夜明かしだな)
 吐息をついて、もう一人、深い傷を抱えたまま彷徨っている人間のことを想った。
(仁……どこにいる……?)
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