『朱の狩人』

segakiyui

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8.桜、吹雪く(1)

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「ふっ!」
 飛び出した空間の目測はわずかに狂っていた。イメージした場所より数十cm上に出現してしまい、仁はバランスを崩しかけてかろうじてアスファルトに足を踏ん張り体を支えた。
(つう!) 
 前屈みに支えた腹のあたりに鋭い痛みが走って、思わず体を抱きかかえて蹲る。吐き戻したばかりの胃から熱い塊が込み上げ、必死にたえる努力も虚しく喉から口に広がった。苦くて生臭い鉄の味、引き締めた口元を内側からこじ開けるように溢れてとろとろと顎を伝う。
 続く吐き気をこらえ、仁は道路の端に身を寄せ、手の甲で口の端を拭った。呼吸が乱れてすぐに動けない。しばらくそうして壁によりかかっていると、眩んでいた視界が少しずつ明暗を取り戻し始めた。街はずれの薄暗い街灯の下、道路に点々と血が落ちている。
(やっぱり……)
 能力は制御できているが、確実に体が負担に耐えかねて傷ついている。
(時間が…ないな)
 仁は荒い呼吸を繰り返しながら、そっと顔を上げた。
 夜の10時を越えた住宅街に人影はない。斜め前に堂々とした古めかしい和風平屋建築があって、門には『真駒』の木の表札がかかっている。
(あそこに朱乃がいる)
 微かに体が震えた。押し隠すように唇を噛みしめ、体を起こす。今にもよろめいて倒れそうなのを気力で支えて、一歩また一歩と閉ざされた門の前に近づいていく。
 ようやく前に立ったとき、仁の訪れを待ち構えていたように、木の扉がゆっくりと内に開かれた。誰もいない空間の奥、数mの石畳が伸び、前方にがっしりとした木製の引き戸の入り口、家の中は暗いが玄関灯が古風な木枠に光っている。
 仁は苦い唾液を呑み込んで、足を踏み出した。
 扉は侵入を拒む気配はない。石畳には水が打たれ、生温い夏の夜に清冽な空気を漂わせている。奥に灯った明かりは包み込むようで、ぴりぴりした内側の感覚さえなければ、ここへ招かれて訪ねてきた客、そんな錯覚さえ感じさせる。
(招かれて来たのは間違いない)
 仁は顔を歪めて笑いながら歩を進めた。
 扉をくぐり抜け、ゆっくりと玄関に近づこうとした矢先、背後の空気が乱れて門扉が激しい音をたてて閉まる。
 ばあん!
「!」 
 びくっと体を竦めて振り返るが、やはり誰もいない。おまけにこれだけの音が響いたのに、家の中から人が出てくる様子もなければ、周囲の家で騒ぐ気配もない。
(へたなお化け屋敷だな)
 仁が考えたことを読み取ったのか、苛立つように左側から強い風が吹き寄せた。夏の嵐、そう感じた仁の目にありえないものが風に巻き込まれて散っていくのが映る。
(桜……?)
 仁の体を巻き込もうとするような風は桜の花弁を巻いているのだ。
 思わずつられて左に顔を向ければ、暗い、星もほとんど見えない夜空を背景に、白々と、いやまばゆいほどに艶やかに、一本の桜の大樹が立っていた。
(真夏に……桜……)
 引き寄せられるように仁はそちらへ足を踏み出した。
 木の塀と建物に囲まれたこじんまりとした庭だった。
 昔はそれなりに手入れがされていたのだろう、ところどころに竹の柵、ツツジの植え込み、枯れ山水を思わせるように配置された大石小石、中央には池まであり、細く崩れそうにあやうげなコンクリートの橋が渡してある。池の水は夜のせいか、それとも漂う闇の気配のせいなのか、どろりと濁って生き物は見えない。
 遮っていた枝折り戸を押し開いて入ると、コンクリートの橋は誘うように庭の中央に広がる池をまたいでこちらからあちらへ続いている。この世とあの世をつないでいる橋のような、そんな不安定さ、落ちたところでせいぜい膝までが濡れる程度だろうに、なぜか意識に感じる池はそれよりもっと深々と、仁の行く先を呑み込むほどのものに見える。
 また誘うように風が鳴り、桜の花弁が渦巻いて仁に吹き寄せた。
 橋を渡る。腹を片手でかばいながら、一歩ずつ、辺りに警戒を向けながら。
 静かだ。
 とても静かだ。
 いくら街はずれにあるとはいえ、ここが住宅地にあるとは思えないほどの静けさだ。
 暗闇に白い桜が舞っている。
 舞っている。
 待っている。
(何を?)
 獲物を。贄を。命の糧を。
(ばかな) 
 仁は目を閉じて立ち止まり首を振った。どんどん視界が狭くなっていって、池の向こうに枝を花びらで埋めている桜しか見えなくなってきたのだ。
 再び目を開けたときに、ふっと視界の右隅に人の姿を見た気がして、仁は顔を振り向けた。
 庭に面した建物の縁側、窓がすべて開け放たれ、そこに誰かが座っている。座布団の上にちんまりと、まるで山の村に鎮座まします地蔵のように。
 薄暗がりに目が慣れるに従って、灯もつけずに座っているその人の姿形が見えてくる。べったりと座り、両手を左右に垂れている。そう、なんだかとてもべったりと、まるで張りつくように座っている。
「あの……っ!」
 人がいる、それも朱乃の気配ではないと気がついてわずかにほっとし、声をかけかけた仁は息を呑んだ。
 仁の母親より少しは若い見知らぬ女性、その女性の手首から先と折り曲げた膝より下の脚は、艶やかに磨き抜かれた縁側の床にめり込んでいるのだ。
「あ……ああ」「!」
 掠れた声が相手から漏れ、仁の背中を悪寒が走り上がった。
 女性は泣いている。だらだらと顔を濡らしているのは汗にさえ見えるほどの涙とよだれ、頬を濡らし虚しく開け閉めされる口元を濡らし顎を濡らして、床に溶け込み一体化した足にぼたぼたと滴っている。髪の毛はかなり白髪が混じって乱れていた。虚ろな目が仁を見つけたせいだろうか、ふいにきょろりと剥き出されてぐるぐると忙しく動く。
「だれ……か……だれ……かぁ……」
(まだ……生きてる……!)
 仁は見ていられずに唇を噛み、目を逸らせた。胃にしこった冷たい塊、頭の芯にも氷塊が生じて背骨もろとも凍らせる。
(朱乃……なんてことを!)
「だあってさ」
 ふいに背後で幼い声が響いて、仁は雷に打たれたように振り返った。
「もう一緒に暮らせないって言うんだもん」
 桜の樹の下、いつのまにそこにいたのだろう、それとも最初からいたのに桜の気配に隠れていたのか、長い黒髪と白い夏のワンピースを風に翻らせて、真駒朱乃が立っていた。細い指先に巻きつけ唇にあてていた一筋の髪を苛立つように少し噛む。艶やかな紅の唇の間から覗いた白い歯が、真珠の妖しさで眼を奪う。
「ずっと、ずっと、側にいて」
 朱乃は細い眉をゆるやかに上げた。大きな黒めがちの瞳を細めて可愛らしく笑ってみせる。
「いつだって、それしか望んでいないのに。おとうさんだって、おかあさんだって、いつもどこかへ逃げようとするんだから」
「だから……?」
「だから」
 仁の干涸びた声に重ねて朱乃は優しく繰り返した。
「ここにいるしかないようにしたの。ここから、どこへも行かないように。でもね、逃げるの、どうしてかしら、犬も猫も、抱いてくれるお姉さんも、あたしから逃げるのよ。だからね、動けないようにしたの。あたしが居てほしい場所にずっと居てくれるように。意外と難しいのよ、人体の構成を変えて、それでもちゃんと死なないように組み換えるのって」
 仁は唾を呑み込んだ。
 朱乃の力は『夏越』のように、たぶん産まれ落ちたときから『発動』していたのだろう。そして、無邪気な実験を繰り返しつつ、能力の遣い方に習熟していった。
 おそらくは、他の人間の能力と同様、それが何なのか、どう使えばいいものなのかを、慈愛によって教え導かれていたならば、ここまで破滅的な状況を引き起こさなかったのだろうけど。
(僕よりうんとコントロールできて……確実で安定した能力……)
 誰にも何も教えられなくても、ここまで自在に力を操る朱乃の才能。
 その制御能力は仁を遥かに上回る。それは朱乃の側にコントロールを司るような人間が誰1人いなくても、彼女が力の暴走に襲われることもなく、暮してこれたということでもわかる。
(内田……がいなくても)
 ふいに仁の胸に内田の驚きの顔が過った。
 夕暮れの約束。夜中の電話。仁には話さない。よぎった恐怖。城崎に医学を学ぶ進路。
 あの廃虚で仁を抱えた内田を確認できずに危うく巻き込み怪我をさせるところだった…。
(僕は……内田まで失った……のに)
 ちり、と今まで感じたことのない気持ちが仁の胸に動いた。
「ふ、ふふ」
 朱乃がふいに嗤い出して仁はぎくりとした。
「ふうん、そうなの、仁、今1人なんだ?」
 楽しそうに体を折り曲げ、口元に手を当てて笑い続ける。
「これだけ近いとよくわかる、仁の心。ふうん、ふうん、そうなんだ、仁……化け物だって思われてるんだ、『みんな』に」
「!」
 仁は硬直した。くすくすと笑い続ける朱乃を見ているうちに、体の奥が捩じれるように痛んでくる。
「そうかあ……無理もないわよねえ……そんなこと、あたしは始めっからわかってたけど、うふふふ、今さらわかるなんてねえ」
「やめ……ろ」
 壁に溶け込んだ目覚まし時計。傷つき放り出される内田のビジョン。引き裂かれた空き缶。跳ね起きて警戒したさとる。
「無理なのよ、はなっから。違うの、全然。だから一緒にはいられない、一緒にいても、ねえ、仁、あたしやあなたに何ができるっていうの? 『みんな』を殺す以外にさあ」
 朱乃はふんわりとした唇からはすっぱな嘲りを紡ぎ続けた。
「やめろ……」
 引き裂かれた身体。襲われた紺野。失われたマイヤの子ども。ダリューの罵倒。
 オマエハ、ドコニ、イタンダ!
「おまえの……せいじゃないか……」
 仁は呻いた。体が冷えていく気配に震える。力が不安定に波打って、頭が痛くなってくる。
「おまえが……襲ってきたから……」
 雨の中で内田が微笑む、不安そうに、見たことのない優しい顔で。
 どこか荒々しい神の機嫌をとるように。
「あたしが? 違うわよ、仁」
 ふわ、と朱乃はワンピースを翻して空を飛んだ。バレリーナを思わせる美しいポーズでするすると虚空を滑り寄り、仁の間近に来てぴたりと止まった。そのまま空間に浮きながら、
「わかってるでしょ、仁、あたしがなぜあいつらを襲ったのか」
 諭すように柔らかな声で小首を傾げて問いかけた。桜を散らせ続けている風に黒髪が舞う。朱乃の背後に広がる暗黒の後光のように。
「……わからない」
 仁は声を絞り出した。がたがたと膝が揺れている。寒いわけではない、寒いわけではないのだ。
「わかってるはずよ」
 朱乃はなだめるように繰り返した。
「わからない」
 仁は頑固に応じた。
「言えないの?」
 朱乃が笑う。
「わからない!」
 落ち込む深淵を見せられた気がして声を荒げる。うっすらと目を細めて傲然と見下ろしながら、朱乃は低い声で囁いた。
「……言ってあげましょうか」
「言わなくていい!」
 がうん! 
 激しい衝撃が仁の体から広がった。コンクリートの華奢な橋が押し潰されるように砕け落ち、池の水が橋よりももっと巨大なものが落とし込まれたように飛沫をあげて吹き上がり、飛び散る。
「きゃう、こわい!」
 朱乃がくすくすと笑いながらひょいと高度を上げ、水しぶきを避けた。
「そんなに苛立たなくてもいいじゃない、子どもみたいよ、仁」
 吹き上がった水がなだれ落ちるその中、仁はずぶぬれになって空中に浮いていた。コンクリートの橋はないが、まるで橋があるかのようにうなだれて池の上の空間に立っている。
「ふううん、空間保持もできるんだ。仁の取り柄って、覚えのよさよねー」
 仁は唇を噛んで、割れ砕けたコンクリートの破片がざくざくと池にこぼれ突き刺さっているのを見つめた。
「……どうして……」
「え?」
 後ろに手を組んだ姿勢で朱乃はふわふわと仁の元へ降りてくる。仁が漏らした微かな呟きを聞き取ろうとするように、髪を片耳にかけて首を傾げた。
「……それだけの……コントロールを持ってて……どうして……」
 呻く声に、くふん、と鼻を鳴らして嗤った。
「どうして? やっぱり聞きたいんだ?」
 仁は首を振った。
(もし、僕がそれほどのコントロールを持っていたら、力を封じる……できないにしても、仲間を巻き込むことはせずにすむ……そうすれば普通に暮らせる、当たり前に、知らぬ顔で)
「あのねえ、仁」
 朱乃が呆れた口調で続けた。
「いいかげんに自分をごまかすのをやめなさいよ」
 生真面目な口調に切り替える。
「力は望んだから存在するの。あなたが力を持っているなら、それはあなたが望んだからよ。あなたがほしいと望んだの」
「……嘘だ」
 仁は首を振った。顔を上げ、朱乃を睨みつける。
「こんな力なんか、僕は望んでない」
「じゃあ、『どんな力』がほしかったの?」
 思いもかけない問いかけに、仁はことばに詰まった。朱乃がにっこりと艶やかに微笑む。
「どんな力なら、『内田』に勝てると思ったの?」
「……え……?」
 仁は呆然として空に浮く朱乃の真っ赤な唇を見つめた。
(今……何を……?)
「へえ、わからないんだ」
 朱乃は驚いたように瞬きし、やがてにんまりと初めて妖しい、まるで数百年生きてきた老人を思わせる底が見えない笑みを浮かべた。
「ああ、そうか、それで、それだけ不安定なのね」
「なに……?」
「見つめたら気づくものね。そんなの耐えられないんでしょ、自分がそんな狡い人間だなんて思いたくないもんだから。そこに近づくと爆発して、暴走して……なあるほどねえ、賢いわよ、仁、暴走すれば内田を手に入れられるものねえ……・ずっと支配下におけるじゃない」
「内田を……手に入れられる……?」
「ねえ。ねえねえ。冗談じゃないわよ」
 朱乃は眉をしかめた。
「ほんとに気づいてないの? どうして自分が力を制御できないのか、ほんとにわかってないの?」
「何だって……?」
「んもう、仕方ないなあ」
 朱乃は唇を尖らせた。
「見せてあげるわ、全部!」
 ひら、と朱乃の手が舞った。まだ風に煽られ降るような桜の花びらに紛れて、一瞬相手の行方を仁が見失ったとき、ひやりとした感触が首にあたった。
「あ……!」
 眼の奥、脳髄の中心あたりに光が弾け……仁は意識を失う。

 わあ、と声が上がった。
(え?)
 仁は突然地面にまともに顔をぶつけた。今まで友達と一緒に運動場へ向かって走っていたのに、何が起こったのかよくわからなくて、痛みより先に戸惑いが立ち、瞬きしながら両手をついて起き上がる。そこへ、ばしゃ、と何かが降りかかった。つん、ときつい臭いが鼻を打つ。
「うわあ、あさぎ、おしっこかかった!」
「きったねえやつがきったねえやつにこかされた!」
「きったねえやつにきったねえやつのおしっこかかった!」
「きったねえ親のきったねえ子どもだからだ!」
 ついさっきまで隣を走っていた友達がふいに回りを取り囲み、騒ぎ始めた。地面に這いつくばって顔を上げた仁の正面に、半泣きになって体を震わせながら、それでも仁に向かって放尿を続けている『きしん』の姿があった。それまで一番の仲間だと信じていた、数軒隣の家の同級生だ。
「きしん……」
「お、おまえが、おまえが」
 きしんは真っ白になった顔に目を大きく見開いていた。
「おまえが、わるい、わるい、わるいんだ」
「きしん……」
 仁は何が起こっているのかわけがわからずに、呆然と繰り返した。
「はでにころんでやがるの!」
「おしっこだらけ!」
「きったねえ仁!」
「きったねえおやじのきったねえ仁!」
 きしんの後ろで数人が笑い転げながらはやしたてている。そのことばが耳に入ってきて、仁の体の中にかっとした炎が燃え上がった。
(きったねえおやじ)
 仁の父親は失踪している。理由はわからない、仁にも仁の母親にも。けれど、周囲は勝手にあれこれ決めつけていて、その中の一番声高に囁かれている噂というのが、仁の父親はあちらこちらに女を作り、会社の鐘を持ち逃げしてその女達と遊んでいるというものだ。もっとひどいものになると、父親がそんなふうになったのは、仁の母親に魅力がなくヒステリックで困った無能な妻であるせいで、子どもの仁もそういう家に育っているので性格が歪んでいびつであり、成績がいいのはカンニング、おとなしそうに黙っているけどその裏では世間を恨んでいつか仕返しをしようとしているからだ、と言うのまであった。
「おまえがわるいから、おまえが変だから、だから、おれがこんな目にあうんだ!」
「……きしん……」
「こんなとこでこんなこと、させられて!」
 きしんは小さい頃からの友人、のはずだった。仁の父親がいなくなっても、仁とことばを交わしてくれた数少ない1人、のはずだった。そのせいで、仁をうっとうしがり敬遠しているクラスメートに目をつけられつつある、というのも知っていた。
(でも、まさか、きしん……)
「おまえが……・おまえのせいだ!」
 きしんはぼろぼろと泣き出しながらもがくようにズボンのチャックを上げ、声を振り絞るように叫んだ。
「おまえのせいだ、おまえのせいだ、おまえが、おまえが弱いから!」
 オレヲマモッテクレナカッタカラ。
(え?)
 その『声』がどこから聞こえたのかわからなかった。だが、何が起こったのか必死に理解しようとしている仁の頭の中に、突然それは現実に聞こえている声に重なって響き渡った。
「おまえが何にもわかってないから!」
 オレガドレダケコマッテイタカ。
「おまえがわるいんだ、みんなに何にも言わないから!」
 オレニモホントノコトヲウチアケテクレナカッタ。
「1人でかっこつけやがって!」
 オレハトモダチデイタカッタノニ。
「いつだって、かっこばかりつけて、ほんとは大嫌いだったんだ!」
 オマエガナニモハナシテクレナイカラ、オレハフアンニナッタンダ。
「もう、うんざりだ、うざい、嫌いだ!」
 ソンナオレハイヤダッタ。
「おまえなんか、どっかに消えろ!」
 オレハオレヲキライニナリタクナイ。
「消えちまえよ!」
 キエロ、メノマエカライナクナレ!
「きし……ん……」
 現実の声と響く声が二重奏のように自分の体の中でぴったりと合わさるのを感じた。
(そう……なのか……)
 一瞬に全てがすとんと胸に落ちる。
(そう……なんだな)
 仁の状況を理解しようとしてできなかったきしん。その不安と苛立ちに、友達に何もしてやれないという怒りと恐怖に揺さぶられていたきしん。
 そのきしんに、周囲がつけ込んでくる。仁とどうして付き合ってる、あいつはきたねえやつなんだぞ、お前もきたねえやつなのか、と。
 苦しくてつらくて……それに耐え切れなくなって。
 全ての源は仁にある。仁さえいなくなれば、不安も苛立ちも恐怖も怒りも感じずにすむ。調子良く楽しく、気のいい自分でいられる。けれど、仁がいるから、きしんはついこの間まで仲のよかった友人を転がし尿を浴びせるなどというひどいことをしなくてはならなくなったわけで。
 仁がいなければ。
「きしん……」
 仁は笑った。情けないのか、哀しいのか、どうにもわからなくなって、ただきしんの気持ちもわかる、自分の話すに話せない状況も動かせない、そのことがどうにもできなくなって。
 その笑みが、きしんの最後の部分を潰したようだった。
 が!
「あ!」
「仁のバカやろう!」
 きしんは思いっきり仁の顔を蹴り上げた。ばちっと火花が散った気がして倒れた仁を、きしんが容赦なく蹴り続けようとした気配が漂った、その矢先、
「ざけんじゃねえ!」
 どがっ、と数段重い音が響いて、仁は薄目を開けた。目の前には着古したジーパンの脚が仁王立ちになって震えている。裾に赤い染みがついている。
(血……?)
 ぼんやりと思った仁の視界に、転がり鼻からだらだらと血を流して泣き喚いているきしんが入ってきた。
「人に小便かけた上で蹴り倒しといて、ただですむと思ってやがったのか!」
 びりびりと空気を裂くような怒気を孕んだ声が上から降ってくる。見上げると浅黒いきつい横顔に爆発寸前の怒りを滾らせた内田の姿があった。
「てめえがいじめられないために仁を身替わりにしやがったな!」
(内田……事情なんて……わかってないのに……)
 思ったとたんに視界がぼやぼやと霞んだ。
「てめえこそさっさと消えろ、2度と仁に手ぇ出すな!」
(内田は……すごいな……)
 仁はそう思った。
(内田ほど……強かったら……きしんを守れた……?)
 そうも思った。
(僕はいなくなれないし……おとうさんは帰ってこないし……なら……内田ほど力があったら……きしんも苦しまなかった……?)
 内田ほど……強ければ。
 仁は泣き出した。
 自分の受けた傷の痛みにではなく、友人1人の心も守れなかった、自分の力の弱さに。
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