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3.マイヤ・プロセツカヤ(1)
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「うわあああ……」
内田は叫んだ。うなりを上げて注ぐ草の葉が、顔に腕に身体中に突き刺さるのを、両腕を上げて防ごうとする。
「さよなら、内田」
マイヤはつぶやいて、向きを変えた。
「無駄よ。さとるはテレポーターなの。そんなことじゃ防げない。お望みなら、服の中でも傷つけられるわ」
「ふふっ、そりゃいいや」
幼い声が響いて、背後に突然さとるが空中から出現した。小学校マークつきの黄色帽子の陰で悪戯っぽい笑みを浮かべると、ポケットに両手を突っ込んだまま、軽く息をとめるようにして目を閉じる。
「つあっ」
内田が悲鳴を上げて跳ね上がる。無理もない。鋭い無数のカッターの刃のように変わった雑草の葉が、服の下で跳ね回り、胸と言わず腹と言わず容赦なく切り裂いていくのだから。
「く、おっ」
内田は刃の動きをとめようとするように転げ回った。
「どうする、空中へでも飛ばしてやろうか」
得意そうなさとるの声がからかうように響いた。それを耳にしたマイヤの胸に重苦しい疲労感がにじんでくる。
(内田だって、同じ力を持った仲間なのに)
マイヤは内田を殺すしかない。そして、さとるはいつの間にか、仲間以外の力を持ったものは屠るのだと当たり前のように思っている。
(まだ、ほんの子どもなのに)
いつものように、本当にこれでいいのかというためらいがマイヤを疲れさせる。だからといって、これ以外にどうやって生きていけばいいのかはわからないのだが。
マイヤは軽く頭を振って、胸を押さえつける考えを振り払った。
「駄目。内田に直接攻撃はできないの。精神の力が作用しない、私達の力をどこかで消してしまう、それが彼の力なの。ダリューがしても駄目だったのよ」
「あの時ははなれすぎてたんだ。きっとここなら」
さとるは目を閉じ、自分の中を見つめるように集中した。だが、すぐに困ったような顔で目を開け、マイヤを見上げる。
「だめだ、効かないや」
「でしょう?」
マイヤは相手の無邪気な困惑に微笑んだ。
「だから、さとる、バイクを動かして。数メートル持ち上げれば十分よ、それを内田の上に落とすの」
750ccのオートバイは200数十キロある。そんなものを人間の身体の上に落とせば、よくて骨折と内臓破損、当たり所が悪ければ死ぬ。
だがそれはあまりにも不自然な死に方だ。当局の無用の注意を促すはめになるのはまずいだろうか?
次の瞬間、そう考えた自分の冷静さに気づいて、マイヤはぞっとした。
(私も、いつの間にか人間の命を奪うのに慣れてしまっている)
「ああ、できるよ、すぐに終わる。先行ってて、マイヤ」
さとるには、自分が人を殺そうとしているという感覚はないらしい。ちょっとした忘れ物を取りに行くだけのような気軽さで応じた。
(いいわ、何かあっても真竹が何とかするでしょうから)
「さっさと済ませてね、さとる」
(どんどん、私も人ではなくなっていくみたい………『夏越』様のように)
マイヤはどろどろとした不快感が這い上ってくるのを振り切るように、転がり回る動きがだんだん鈍くなる内田から目を逸らせた。
(もう、仲間が死ぬのなんか見たくない、見たくないのに)
胸の奥の小さなつぶやきを無視して背中を向ける。
だが、そのとたん、奇妙な声が響いてマイヤは動きを止めた。
「さとる?」
振り返って思わず息を呑む。
「内田! 内田!」
いつ、どうやって、その場に現れたというのだろう。地面に寝そべっている内田に覆いかぶさるようにして、一人の少年が内田を揺さぶっている。
(誰?)
マイヤは瞬きして必死に少年に意識を集中しようとした。だが、掴めない。妙な靄がマイヤを遮る。
マイヤ達に無防備に背中を向けた少年の姿はどう見ても内田ぐらい、いや、もっと幼く見える。
「う、う」
さとるがじりじりと後ずさりを始めた。
「マイヤ……こいつもテレポーター……だ」
少年を睨みつけるさとるの顔は、どんどん青くなっている。
「テレポーター? いえ、だって」
マイヤは混乱した。感じるイメージがさとるとは別物だ。どちらかと言うと、自分に近い色を感じる。
「この波動は……テレパシストのはずよ……でも、でも」
答えながらますます混乱してくる。
「でも、どうして、彼はここにいるの? どうして、そうよ、どうして彼はこの事を『知って』るの?」
マイヤの心に打ち寄せてくる少年の心は乱れている。入り交じる音と光、内田の危険が彼を不安に陥れている。
だが、彼がどうしてここに辿り着いたのか、マイヤに掴めない。
(もっと奥なの? この子のイメージはまだ表層でしかないの?)
まるで迷宮に誘い込まれて行くようだ。
マイヤが思った瞬間、さとるが喉が詰まったような悲鳴を上げて、見えない何かから自分を守るように両腕で体を抱え込んで身を引いた。
「わかんない……でも、ああ、だめだ」
続いた声の頼りなさにぎょっとしてマイヤはさとるを見た。さとるが助けを求めるようなうろたえた顔でマイヤを見る。
「こいつ……ぼくを……捕まえて、る」
絞り出すようにさとるがうめいた。恐怖感からか、薄い唇が細かく震えている。
「マイヤ……引きずり……こまれる……!」
「さとる? さとる!」
マイヤが心の手を差し伸べる間はなかった。
さとるは大きく目を見開いて体を強ばらせたか思うと、糸が切れた人形のようにいきなりくたりとその場に崩れた。
「さとる!」
声を上げて慌ててさとるの側にしゃがみ込むマイヤに、そこで初めて気づいたのだろうか、内田に屈み込んでいた少年がゆっくりと振り返る。
マイヤもつられて相手を見返す。
「あ、あ、あ……っ!」
その瞬間。
マイヤは押さえようとしても押さえられない悲鳴が口をつくのを感じた。
どこと言って特徴のない平凡な顔だち、その不安定に動く瞳がマイヤを捕らえた途端、何か目に見えない巨大な網、どれだけ走り回ろうと逃げられないほど素早く広がる網がマイヤの視界を覆い尽くしていくように感じたのだ。
網の末端は細く狭まり、漏斗のようになって少年の目に吸い込まれていく。そう、マイヤを見つめる少年の目の奥に。そして、そこには、とてつもなく暗くて深い、巨大な闇があった。
闇の濃さは今まで見たどんなものより濃密で重い。加えてその闇は少年の瞳におさまらずに、マイヤを包んだ網を伝って流れ寄り、ずるずるとこちらへ侵食してきてマイヤの体を浸し、細胞膜をすり抜け、マイヤの体の内側へ、そして、もっと内側の心の中まで侵していく。
「いや、やめて……」
マイヤは自分の懇願を聞いた。それが既に遮断されたドアの向こうでの叫びのように遠く、マイヤは凍りつきそうだった。
「お願い、お願いよ」
(逃げられない、逃げようがない、この圧迫感のただ中に放り込まれたら)
このままでは、マイヤが侵され呑み尽くされる。
(いや、いやよ!)
悲鳴を上げる声が生き延びようと必死に相手の心を探る。攻撃して逃げ出すための、小さなほころびを求めて。
しかし、少年の心の闇は信じられないほど深くてどんな隙も見当たらない。
(こんな子どもが? さとるより暗い闇、人殺しの私さえ呑み込む闇を持ってる?)
「君?」
相手がマイヤのパニックに気づいたように問いかけた、その一瞬、淡い微かなきらめきが闇の色をした蜘蛛の巣のような網を伝わってきて、マイヤは相手の名前を知った。
(仁)
その名前は閃光のようにマイヤを打ちのめした。
(仁? これが、豊の子ども?)
体が凍る。何か、今感じているものとは全く別の、知的な理解に伴う絶対的な力がマイヤを押さえつけたような気がする。
「やめて、やめてよ………仁!」
マイヤが名前を叫んだのは偶然だった。逃げ出したかった、ただそれだけの叫び。
だが、それは信じられないほどの効果を生んだ。一気に圧迫感が消えたのだ。
「君は誰? どうして僕の名前を知ってる?」
仁は戸惑った顔でつぶやいた。
「内田をどうしたんだ? 何が起こってる?」
「そんなに……叫ばないで」
マイヤは懇願した。
もちろん、仁が使っているのはマイヤに伝えようとしてのテレパシーではなく、広場のまっただなかで誰かを探すような叫びでしかないから、そんなことを頼んでも意味がない。ただ、頭蓋の内側から鳴り響く鐘のような仁のイメージは強烈すぎて、とてもじっとしていられないのだ。眉をしかめて、瀑布のようになだれ込んで来る情報を必死に受け止める。
「そう……あなたはテレパシストなのね、テレポートを使ったのは初めてで………内田とは長い友達、ああ、待って、急がないで、お願いよ」
「あの……ごめん」
仁はおどおどした様子でつぶやいた。それとなく、自分の背後にうめいて起き上がろうとする内田を庇うように手を広げて、マイヤの視界から内田を隠そうとする。
「何を言ってるのか、わからないんだけど。何が起こったんだ? 僕はどうして轢かれてないのかな………内田はどうしてこんなことに……君は誰なんだ? そこにいる子は………ううん、それより、どうして、僕はここにいるんだ?」
「仁?」
マイヤは呆然とした。
「あなた、何も知らないの?」
溢れ出す力、荒れ狂う無制限の能力をマイヤに向かって噴射しているのに、仁自体はそれを負担とさえ感じていない、いや、感じてもいないのだ。
(そんなことって、ありえるの? 人に、人間に、可能なの?)
そう思ったとたん、マイヤの全身から力が抜けた。
「あの………?」
へたへたと座り込んだマイヤを仁があっけに取られた顔で見ている。もし、仁にマイヤを葬ろうとする意志があれば、瞬時に彼女を消せるほどの力、それにも仁はやっぱり全く気づいていない。
「ひどい………ひどいわ」
マイヤは泣き出していた。体が震える。さとるを襲った恐怖がマイヤの全身を震わせる。
こんな力の前でいったい自分に何ができるのだろう。
「こんな能力者が……何にも知らないなんて…………何にも知らないのに、私達を殺せるなんて……」
マイヤは自分の体を抱き締めるように泣き崩れた。
数十分後、仁達4人は『ケーニッヒ』の片隅で向かい合って座っていた。
さとるは意識を取り戻したものの、ぼんやりとした顔で黙り込んでいる。泣き腫らした目のマイヤは警戒心を満たして仁を見ている。内田は腕や顔の傷を撫でながら眉をしかめている。ときどき鋭く顔を歪めるのは、体に散った掠り傷が痛むからだろう。
仁は困惑していた。
道路に飛び出し転んだはず、だった。車が突っ込んで来て轢かれたはず、だった。
だが、転がって暗転した視界の次にいきなり広がったのは、あの金属音が響いたときに見た光景だった。
内田が傷だらけになって地面に転がっている。白いワンピースの女と黄色帽子の小学生が立っている。何かその小学生から広がる妙な気配が内田を押しつぶそうとする。
内田がわずかに身動きして、彼がまだ生きているとわかったとたん、仁はその光景に飛び込んでいた。
中途半端に揺れていた感覚が透明感を増した気がした。頭の中で加熱するだけで行き場のなかった奔流のようなものが、出口を見つけて轟音をたてて流れ出した。
状況が掴めなかったので、女にも子どもにも敵意は感じなかった。ただ、内田を護りたい、と願った。孤独な日々の中で、いつも変わらずにつき合い続けてくれた友人を、ただ守りたかっただけなのだ。
だが、仁が女を見つめた途端、彼女は悲鳴を上げ、子どもは倒れてしまった。名前を呼ばれるまで、自分が何かをしているとは思わなかった。
泣き出してしまった女と、ぼんやりと体を起こした子ども、それからわけもわからずに立ちすくんでいる仁を『ケーニッヒ』に連れてきたのは、息を切らせながらも舌打ちして起き上がった内田だ。
4人のおかしな気配に、マスターはさりげなく奥へ引っ込んだ。
「ってて……まだあちこちチクチクする」
内田が不服そうにうなって、服を払う。一旦脱いでばたばたやったのだが、既に細かく刺さっている葉はそうそう取れなかったのだ。
「本当に、何も、知らないの?」
掠れた声で、マイヤがテーブルに置かれたコーヒーを見たままつぶやくように尋ねた。
「何って」
仁はためらった。困って内田を見る。
「俺にもわけがわからねえよ」
ふん、と鼻を鳴らした内田は、マイヤに向かって冷たい口調で続けた。
「俺がいったい何をした? あんたに迷惑かけたことがあったか? 事と次第によっちゃ、それ相当のお返しはさせてもらうぜ」
「何をしたか、ではなくて、何か、しそうだから………」
マイヤは口ごもって、内田を上目遣いに見た。相手の険のある目つきに、すぐに目を伏せる。急に子どものように幼くなった目の色だった。
「で? 俺が『何か』すると、まずいのか?」
皮肉っぽく内田が尋ねる。マイヤはためらったが、やがて、覚悟を決めたように、
「『夏越』様、と呼ばれる人がいるの。私達より、遥かに大きな力を持った超能力者よ」
「ちょっと待った」
内田が遮った。煙草に手を伸ばし、やや慌て気味に唇にくわえ、火をつけ煙を吸い込む。
「よおし、いいぜ。超能力だろーと、イタコだろーと、じゃんじゃん話を進めてくれ」
内田のおどけた仕草に気持ちがほぐれたのか、さとるが淡く笑った。その顔が年相応に幼く見えて、仁はほっとした。
その仁につられたようにマイヤが微かに笑う。深い溜息をついて、マイヤが話し出した。
「『夏越』様はめったに人前に姿を見せない」
内田は叫んだ。うなりを上げて注ぐ草の葉が、顔に腕に身体中に突き刺さるのを、両腕を上げて防ごうとする。
「さよなら、内田」
マイヤはつぶやいて、向きを変えた。
「無駄よ。さとるはテレポーターなの。そんなことじゃ防げない。お望みなら、服の中でも傷つけられるわ」
「ふふっ、そりゃいいや」
幼い声が響いて、背後に突然さとるが空中から出現した。小学校マークつきの黄色帽子の陰で悪戯っぽい笑みを浮かべると、ポケットに両手を突っ込んだまま、軽く息をとめるようにして目を閉じる。
「つあっ」
内田が悲鳴を上げて跳ね上がる。無理もない。鋭い無数のカッターの刃のように変わった雑草の葉が、服の下で跳ね回り、胸と言わず腹と言わず容赦なく切り裂いていくのだから。
「く、おっ」
内田は刃の動きをとめようとするように転げ回った。
「どうする、空中へでも飛ばしてやろうか」
得意そうなさとるの声がからかうように響いた。それを耳にしたマイヤの胸に重苦しい疲労感がにじんでくる。
(内田だって、同じ力を持った仲間なのに)
マイヤは内田を殺すしかない。そして、さとるはいつの間にか、仲間以外の力を持ったものは屠るのだと当たり前のように思っている。
(まだ、ほんの子どもなのに)
いつものように、本当にこれでいいのかというためらいがマイヤを疲れさせる。だからといって、これ以外にどうやって生きていけばいいのかはわからないのだが。
マイヤは軽く頭を振って、胸を押さえつける考えを振り払った。
「駄目。内田に直接攻撃はできないの。精神の力が作用しない、私達の力をどこかで消してしまう、それが彼の力なの。ダリューがしても駄目だったのよ」
「あの時ははなれすぎてたんだ。きっとここなら」
さとるは目を閉じ、自分の中を見つめるように集中した。だが、すぐに困ったような顔で目を開け、マイヤを見上げる。
「だめだ、効かないや」
「でしょう?」
マイヤは相手の無邪気な困惑に微笑んだ。
「だから、さとる、バイクを動かして。数メートル持ち上げれば十分よ、それを内田の上に落とすの」
750ccのオートバイは200数十キロある。そんなものを人間の身体の上に落とせば、よくて骨折と内臓破損、当たり所が悪ければ死ぬ。
だがそれはあまりにも不自然な死に方だ。当局の無用の注意を促すはめになるのはまずいだろうか?
次の瞬間、そう考えた自分の冷静さに気づいて、マイヤはぞっとした。
(私も、いつの間にか人間の命を奪うのに慣れてしまっている)
「ああ、できるよ、すぐに終わる。先行ってて、マイヤ」
さとるには、自分が人を殺そうとしているという感覚はないらしい。ちょっとした忘れ物を取りに行くだけのような気軽さで応じた。
(いいわ、何かあっても真竹が何とかするでしょうから)
「さっさと済ませてね、さとる」
(どんどん、私も人ではなくなっていくみたい………『夏越』様のように)
マイヤはどろどろとした不快感が這い上ってくるのを振り切るように、転がり回る動きがだんだん鈍くなる内田から目を逸らせた。
(もう、仲間が死ぬのなんか見たくない、見たくないのに)
胸の奥の小さなつぶやきを無視して背中を向ける。
だが、そのとたん、奇妙な声が響いてマイヤは動きを止めた。
「さとる?」
振り返って思わず息を呑む。
「内田! 内田!」
いつ、どうやって、その場に現れたというのだろう。地面に寝そべっている内田に覆いかぶさるようにして、一人の少年が内田を揺さぶっている。
(誰?)
マイヤは瞬きして必死に少年に意識を集中しようとした。だが、掴めない。妙な靄がマイヤを遮る。
マイヤ達に無防備に背中を向けた少年の姿はどう見ても内田ぐらい、いや、もっと幼く見える。
「う、う」
さとるがじりじりと後ずさりを始めた。
「マイヤ……こいつもテレポーター……だ」
少年を睨みつけるさとるの顔は、どんどん青くなっている。
「テレポーター? いえ、だって」
マイヤは混乱した。感じるイメージがさとるとは別物だ。どちらかと言うと、自分に近い色を感じる。
「この波動は……テレパシストのはずよ……でも、でも」
答えながらますます混乱してくる。
「でも、どうして、彼はここにいるの? どうして、そうよ、どうして彼はこの事を『知って』るの?」
マイヤの心に打ち寄せてくる少年の心は乱れている。入り交じる音と光、内田の危険が彼を不安に陥れている。
だが、彼がどうしてここに辿り着いたのか、マイヤに掴めない。
(もっと奥なの? この子のイメージはまだ表層でしかないの?)
まるで迷宮に誘い込まれて行くようだ。
マイヤが思った瞬間、さとるが喉が詰まったような悲鳴を上げて、見えない何かから自分を守るように両腕で体を抱え込んで身を引いた。
「わかんない……でも、ああ、だめだ」
続いた声の頼りなさにぎょっとしてマイヤはさとるを見た。さとるが助けを求めるようなうろたえた顔でマイヤを見る。
「こいつ……ぼくを……捕まえて、る」
絞り出すようにさとるがうめいた。恐怖感からか、薄い唇が細かく震えている。
「マイヤ……引きずり……こまれる……!」
「さとる? さとる!」
マイヤが心の手を差し伸べる間はなかった。
さとるは大きく目を見開いて体を強ばらせたか思うと、糸が切れた人形のようにいきなりくたりとその場に崩れた。
「さとる!」
声を上げて慌ててさとるの側にしゃがみ込むマイヤに、そこで初めて気づいたのだろうか、内田に屈み込んでいた少年がゆっくりと振り返る。
マイヤもつられて相手を見返す。
「あ、あ、あ……っ!」
その瞬間。
マイヤは押さえようとしても押さえられない悲鳴が口をつくのを感じた。
どこと言って特徴のない平凡な顔だち、その不安定に動く瞳がマイヤを捕らえた途端、何か目に見えない巨大な網、どれだけ走り回ろうと逃げられないほど素早く広がる網がマイヤの視界を覆い尽くしていくように感じたのだ。
網の末端は細く狭まり、漏斗のようになって少年の目に吸い込まれていく。そう、マイヤを見つめる少年の目の奥に。そして、そこには、とてつもなく暗くて深い、巨大な闇があった。
闇の濃さは今まで見たどんなものより濃密で重い。加えてその闇は少年の瞳におさまらずに、マイヤを包んだ網を伝って流れ寄り、ずるずるとこちらへ侵食してきてマイヤの体を浸し、細胞膜をすり抜け、マイヤの体の内側へ、そして、もっと内側の心の中まで侵していく。
「いや、やめて……」
マイヤは自分の懇願を聞いた。それが既に遮断されたドアの向こうでの叫びのように遠く、マイヤは凍りつきそうだった。
「お願い、お願いよ」
(逃げられない、逃げようがない、この圧迫感のただ中に放り込まれたら)
このままでは、マイヤが侵され呑み尽くされる。
(いや、いやよ!)
悲鳴を上げる声が生き延びようと必死に相手の心を探る。攻撃して逃げ出すための、小さなほころびを求めて。
しかし、少年の心の闇は信じられないほど深くてどんな隙も見当たらない。
(こんな子どもが? さとるより暗い闇、人殺しの私さえ呑み込む闇を持ってる?)
「君?」
相手がマイヤのパニックに気づいたように問いかけた、その一瞬、淡い微かなきらめきが闇の色をした蜘蛛の巣のような網を伝わってきて、マイヤは相手の名前を知った。
(仁)
その名前は閃光のようにマイヤを打ちのめした。
(仁? これが、豊の子ども?)
体が凍る。何か、今感じているものとは全く別の、知的な理解に伴う絶対的な力がマイヤを押さえつけたような気がする。
「やめて、やめてよ………仁!」
マイヤが名前を叫んだのは偶然だった。逃げ出したかった、ただそれだけの叫び。
だが、それは信じられないほどの効果を生んだ。一気に圧迫感が消えたのだ。
「君は誰? どうして僕の名前を知ってる?」
仁は戸惑った顔でつぶやいた。
「内田をどうしたんだ? 何が起こってる?」
「そんなに……叫ばないで」
マイヤは懇願した。
もちろん、仁が使っているのはマイヤに伝えようとしてのテレパシーではなく、広場のまっただなかで誰かを探すような叫びでしかないから、そんなことを頼んでも意味がない。ただ、頭蓋の内側から鳴り響く鐘のような仁のイメージは強烈すぎて、とてもじっとしていられないのだ。眉をしかめて、瀑布のようになだれ込んで来る情報を必死に受け止める。
「そう……あなたはテレパシストなのね、テレポートを使ったのは初めてで………内田とは長い友達、ああ、待って、急がないで、お願いよ」
「あの……ごめん」
仁はおどおどした様子でつぶやいた。それとなく、自分の背後にうめいて起き上がろうとする内田を庇うように手を広げて、マイヤの視界から内田を隠そうとする。
「何を言ってるのか、わからないんだけど。何が起こったんだ? 僕はどうして轢かれてないのかな………内田はどうしてこんなことに……君は誰なんだ? そこにいる子は………ううん、それより、どうして、僕はここにいるんだ?」
「仁?」
マイヤは呆然とした。
「あなた、何も知らないの?」
溢れ出す力、荒れ狂う無制限の能力をマイヤに向かって噴射しているのに、仁自体はそれを負担とさえ感じていない、いや、感じてもいないのだ。
(そんなことって、ありえるの? 人に、人間に、可能なの?)
そう思ったとたん、マイヤの全身から力が抜けた。
「あの………?」
へたへたと座り込んだマイヤを仁があっけに取られた顔で見ている。もし、仁にマイヤを葬ろうとする意志があれば、瞬時に彼女を消せるほどの力、それにも仁はやっぱり全く気づいていない。
「ひどい………ひどいわ」
マイヤは泣き出していた。体が震える。さとるを襲った恐怖がマイヤの全身を震わせる。
こんな力の前でいったい自分に何ができるのだろう。
「こんな能力者が……何にも知らないなんて…………何にも知らないのに、私達を殺せるなんて……」
マイヤは自分の体を抱き締めるように泣き崩れた。
数十分後、仁達4人は『ケーニッヒ』の片隅で向かい合って座っていた。
さとるは意識を取り戻したものの、ぼんやりとした顔で黙り込んでいる。泣き腫らした目のマイヤは警戒心を満たして仁を見ている。内田は腕や顔の傷を撫でながら眉をしかめている。ときどき鋭く顔を歪めるのは、体に散った掠り傷が痛むからだろう。
仁は困惑していた。
道路に飛び出し転んだはず、だった。車が突っ込んで来て轢かれたはず、だった。
だが、転がって暗転した視界の次にいきなり広がったのは、あの金属音が響いたときに見た光景だった。
内田が傷だらけになって地面に転がっている。白いワンピースの女と黄色帽子の小学生が立っている。何かその小学生から広がる妙な気配が内田を押しつぶそうとする。
内田がわずかに身動きして、彼がまだ生きているとわかったとたん、仁はその光景に飛び込んでいた。
中途半端に揺れていた感覚が透明感を増した気がした。頭の中で加熱するだけで行き場のなかった奔流のようなものが、出口を見つけて轟音をたてて流れ出した。
状況が掴めなかったので、女にも子どもにも敵意は感じなかった。ただ、内田を護りたい、と願った。孤独な日々の中で、いつも変わらずにつき合い続けてくれた友人を、ただ守りたかっただけなのだ。
だが、仁が女を見つめた途端、彼女は悲鳴を上げ、子どもは倒れてしまった。名前を呼ばれるまで、自分が何かをしているとは思わなかった。
泣き出してしまった女と、ぼんやりと体を起こした子ども、それからわけもわからずに立ちすくんでいる仁を『ケーニッヒ』に連れてきたのは、息を切らせながらも舌打ちして起き上がった内田だ。
4人のおかしな気配に、マスターはさりげなく奥へ引っ込んだ。
「ってて……まだあちこちチクチクする」
内田が不服そうにうなって、服を払う。一旦脱いでばたばたやったのだが、既に細かく刺さっている葉はそうそう取れなかったのだ。
「本当に、何も、知らないの?」
掠れた声で、マイヤがテーブルに置かれたコーヒーを見たままつぶやくように尋ねた。
「何って」
仁はためらった。困って内田を見る。
「俺にもわけがわからねえよ」
ふん、と鼻を鳴らした内田は、マイヤに向かって冷たい口調で続けた。
「俺がいったい何をした? あんたに迷惑かけたことがあったか? 事と次第によっちゃ、それ相当のお返しはさせてもらうぜ」
「何をしたか、ではなくて、何か、しそうだから………」
マイヤは口ごもって、内田を上目遣いに見た。相手の険のある目つきに、すぐに目を伏せる。急に子どものように幼くなった目の色だった。
「で? 俺が『何か』すると、まずいのか?」
皮肉っぽく内田が尋ねる。マイヤはためらったが、やがて、覚悟を決めたように、
「『夏越』様、と呼ばれる人がいるの。私達より、遥かに大きな力を持った超能力者よ」
「ちょっと待った」
内田が遮った。煙草に手を伸ばし、やや慌て気味に唇にくわえ、火をつけ煙を吸い込む。
「よおし、いいぜ。超能力だろーと、イタコだろーと、じゃんじゃん話を進めてくれ」
内田のおどけた仕草に気持ちがほぐれたのか、さとるが淡く笑った。その顔が年相応に幼く見えて、仁はほっとした。
その仁につられたようにマイヤが微かに笑う。深い溜息をついて、マイヤが話し出した。
「『夏越』様はめったに人前に姿を見せない」
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表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
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