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6.運命(さだめ)に二人(1)
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仁は家に戻った。
汗と汚物で体中が腐っていきそうな気がして、シャワーを浴び、制服を着替える。
汚れ切った洗濯物は、少しためらった後ポリ袋に入れて口を固く縛り、ゴミバケツに放り込んだ。帰ってきた母親が騒ぎそうな気はしたが、今の仁には、もう一度登校するということさえ、夢で見た話のようにあやふやなものになっている。
濡れた髪の毛を拭きながら風呂場から出てくると、家の中は静まり返っていた。いつものように、何の変わりもなく、穏やかに。
豊が読みかけていたのだろうか、居間のテーブルの上に広げた新聞がのせられている。
仁はそのぽっかりと虚ろな光景にしばらくじっと目を据えていた。
職場から直接豊を迎えに行った母親は、豊が学校に向かったことを知るだろう。仁に会いに行ったのだと察して苛立ちはするだろうが、それなりに納得して家に戻ってくるだろう。息子と共に家で待っているだろう、再び家族として暮らせる夫の姿を期待して。
だが、浅葱豊は、再びいなくなってしまったのだ。
いや、家どころか、もうこの世界のどこにもいないのだ。
仁は醒めた頭でひんやりと考えながら、頭の穴のあたりをゆっくりと撫でた。
今はもうそこには痛みも不安も漂っていない。あえていえば、奇妙な開放感、そこだけ少し脳が広がってしまったような感覚があるだけだ。
さっきまでの出来事が夢でないことは、鼻の奥に残る異臭が教えてくれる。きっと永遠に忘れることなどできないだろう、人が消滅していく死の気配の感覚。
だが、仁の頭はそれよりももっと冷え冷えとしたものに包まれている。
それは、怒りだ。
自分の居場所を得るためだけに、他人の命を巻き添えにし、殺していくものへの怒り。
『夏越』への、豊への、あの少年への、そして、仁自身への怒り。
それらは、豊や少年の死の衝撃や悔恨を越えて、今ただ一つのことに仁を駆り立てる。
(内田を助ける)
そして、おそらくは、『夏越』の手に落ちているだろう、マイヤも。
彼らと同じように、ただ巻き込まれて逃げたくとも逃げられなくなっているものが他にいるなら、彼らも『夏越』から解放する。
豊が『夏越』を作り上げた。ならば、仁が『夏越』を葬り去るのは当然の事のように思えた。そうでなければ、仁がこの力を授かり、また、豊の死によってコントロールを得た意味がないように感じた。
白のTシャツに緑系のカッターシャツを羽織る。いつもぴしりとアイロンを当てられたベージュの綿パンに足を通し、財布をポケットに突っ込む。階段を駆け降り、玄関のバッシュを履く。
「!」
背後で突然電話が鳴りだし、仁はその瞬間だけ自分に戻った。
振り返り、鳴り続けている電話を見つめる。
現実の光景に重なるように、駅でいらいらと足を踏み変えながら携帯電話を耳にあてている母親の姿が何の苦労もなく見えた。
母親は誰も出ないのに舌打ちをして電話を切った。滑り込んで来た電車に気難しい顔をしたまま乗り込んでいく。もう数十分で帰ってくることだろう。
仁は眉をひそめて唇を噛み、振り切るように背中を向けた。
家の玄関の鍵を、いつもよりしっかりかけて、考えた末、鍵は玄関の鍵つきポストの中に滑り込ませていれておく。
(もうここには戻れない)
そう思った。
「だめ…ね」
マイヤは緊張を解いてこめかみをもんだ。
長時間の集中で頭全体が血液の循環を失ってしまったように喘いでいる。ずきずきした痛みが広がってなかなかおさまらない。
ゆっくりと両方のこめかみを摩りながら、閉じ込められた部屋の中を見回す。
見かけは簡素な応接室、といった感じだ。木目の壁にソファセット、木目のテーブル。
しかし、それらの家具は全て金具で床に固定されているし、窓は一つもなく、明かりは天井にはめ込まれていて、しかもその上から特殊なガラスで覆われている。壁も木目ではあるが、その実特別な合金で作られていて、マイヤ程度のテレパシーは跳ね返って外部には漏れない造りだ。
周囲を何とか探ろうと意識の触手を精一杯伸ばしてみたが通じなかった。
(超能力者用の部屋、なんだ)
『夏越』の仲間だった時には、こんな部屋があるとはまったく知らされていなかった。
「内田…」
マイヤはつぶやき、重い溜息をついた。
あの夜、押し込んで来たのは、『夏越』の配下の中でも荒っぽい仕事を主とする連中だった。マイヤが『夏越』の命を受けて呼び掛けた時、抵抗したり反抗したりした相手に差し向けられると聞いたことはあった。
だが、彼らが、人間数人を町中から騒がせもせずに連れ出していく手腕は、今回初めて知った。拳銃やナイフなどの武器は所持していなかったが、彼らそのものが武器だといってもよかった。影のようにするすると近寄ってきたとたん、内田が腹を押さえて昏倒し、マイヤも激しい一撃をみぞおちに受けて気を失った。
捕まって、離ればなれに閉じ込められて、もうかなりの時間が立っている。
マイヤには食事が与えられトイレも行かせてもらえたが、内田はどう扱われているのだろうか。
トイレに出たときに全方向にテレパシーを放ってみたが、内田の気配はどこにも感じ取れなかった。力が通じない相手とは言え、気配さえ感じ取れないというのがマイヤには恐ろしい。
『夏越』が、内田がもう抵抗さえできないように手を打ってしまったのだろうか。
その可能性を否定しようとしてしきれずに、マイヤは無駄だと知りながら感覚を繰り返し
周囲に放った。
(どこにも届かないの?)
ふと、初めて日本に来て不安のあまり周囲を探り回ったとき自分に呼び掛けてきた一つの声のことを、マイヤは思い出した。
今のようにあちこちに意識を飛ばしていたときのことだった。
『無駄だよ』
頭の中に響いた静かな声。
『今は君の声が聞こえるところに誰もいない』
話し掛けてきたのは柔らかそうな茶色の髪と茶色の目を持った少年だった。
(誰なの)
また狩られるのかという恐怖で身体を竦ませたマイヤを、彼はするすると近寄って彼女が怯む間もなくしっかりと抱き締めてくれた。
「君の力は強いね。テレパシストでなくても聞こえる。けれど、悲しそうだ、とても」
少年の声も外見通りに柔らかだった。マイヤの強ばった心をほぐし、揺れて乱れる気持ちを受け止めてくれた。
「僕はダリュー・シュック。サイコキノだよ。君はもう一人じゃない」
君はもう一人じゃない。
そうつぶやいた声に重なったダリューの不安を、苦しみをマイヤは読み取った。彼もまた、自分の国で生きられなくて、『夏越』に拾われてきたのだった。
マイヤとダリューがお互いの気持ちをつなげるまでに時間はかからなかった。孤独と不安と、悲しみと苦痛と。その全てを分かち合ってきた。
(仁、も似ている)
仁は普通の人間だったのに、なぜかその心は深く悲しみに沈んでいた。ダリューと似た淡いブルーグレイの心。生きるべき場所を見つけられず、心を委ねる仲間も持てず、時の狭間をすり抜け、どこか遠い世界からこの世界に落とされて来たような孤独感。
ただ一つ違うのは。
(仁には圧倒的な力がある。けれど、私にもダリューにはもう『夏越』様以外の所では生きられる術がない)
マイヤは両手をそっと広げた。
故郷では夕食の後、マイヤの弾くピアノにあわせて家族が歌った。教会の聖歌隊の伴奏者も務めたことがある。白い鍵盤を踊る白い自分の指、軽やかに走る影をマイヤは当然のものだと思っていた。
でも、今はもう、きっと二度とあんなに無邪気にピアノを弾くことはできないだろう。鍵盤を見ると、そこにマイヤが流した血の残像が見えるだろう。
ましてや、連れ戻されてここに閉じ込められたとき、マイヤは真竹から静かに告げられた彼女の振るまい一つでダリューの生死は決まるのだ、と。
(仁…)
あの時、内田を助けにどこからか飛んできたように、今度もまた仁がマイヤ達を助けてくれないだろうか。
マイヤはそんな儚い願いにすがりついている。
『夏越』に対抗できるとすれば、きっと豊の子どもである仁しかいない。
(でも、仁はあまりにも何も知らない)
もし、仁が力をうまくコントロールできたら。もし、さとるが仁を連れてきてくれたら。もし、仁がやってきて、内田を助け、マイヤを助け、そして、もし、もし叶うなら、ダリューも助けてくれたなら。
(もし、ばっかりね)
マイヤは苦く笑って首を振った。
力のコントロールは熟練者の指導が不可欠だ。それなしでは本人の心が先に潰れてしまう。ましてや、仁のあの巨大な力をコントロールするためには、よほど慣れた人間の、安定したサポートがいる。
心が壊れた人間が巨大な力を振り回した悲劇をマイヤは何度も見て来ている。何より仁があの力を破壊の方向に使うことしかできなかったら……そう考えるだけで身が竦む。
さとるは仁を恐れている。
それは『夏越』の本質と仁がそっくりな匂いを漂わせているからだ。力があり、自らの前に立ち塞がるものは何ものであろうと排除する、その意志力を感じているからだ。
もし、万が一、仁がやってきてくれたとしても、それはきっと内田を助けるためだ。ダリューどころか、マイヤを助ける理由さえ仁にはない。
マイヤは内田を襲った。仁を襲わなかったのは、ただ仁の方が強かったというだけだ。それも仁にはわかっているだろう。
ぽたり、とマイヤの目から大粒の涙がテーブルに落ちた。次々と数を増すそれをじっと見つめながら、マイヤはきつく唇を噛んだ。
「ぐ、あ!」
めき、と嫌な音がして、内田ははね飛ばされて壁際まで転がった。もうろうとする意識を奮って、薄目を開けてみると、右のふくらはぎあたりが妙な格好でねじ曲がっている。
(折られた、な)
確認はすぐに激痛に変わった。意識を派手に叩きつける暗黒のリズムだ。唇を噛んで痛みに耐えるが、ねっとりした脂汗が止まらない。それでなくても、殴られ続けた身体が重苦しくて、何だか肉屋の店先に並べられたグラム幾らのひき肉になったみたいだ。
ぐったりした内田を気を失っていると思ったのか、すぐ側で無遠慮な会話が始まる。
「これ以上続けると死にますが…どうします? 真竹さん」
内田を吹っ飛ばした男がばさばさの髪の毛を軽く払って、後ろを振り返った。
向こうの壁には一人のスーツ姿の男が奇妙な笑みを浮かべてこちらを凝視している。
「たいしたガキです、どう転んでも、こっちに味方するようなタマじゃありませんぜ」
「そうだろうな。『夏越』様もそうおっしゃってた」
「じゃあ、なぜ責めさせたんです?」
ばさばさ髪はうんざりしたような声で尋ねた。ひょろりとした身体に似合わず、まだ体力を残した動きで、肩をすくめて見せる。
「他のものへの恐怖というのは、具体的な形でないとな」
真竹が喉の奥で笑った。
「『夏越』様のお力ではぴんとこない奴も多いのだ。トリックだのマジックだのとくだらない理由だがな」
「そうですか。超能力とやらでちょいちょいとやってもらった方が楽なんですがね」
「こいつには力が効かないのだ」
「ははあ」
ばさばさ髪はことばのわりには感心したふうもない。
「秀人はいないんですか」
逆にむっつりした声になった。
「奴にぼかんとやらせて下さい。俺はどうも子どもは苦手だ」
「素人くさいことを言うな、城崎」
真竹がうっとうしそうに応じた。
「秀人は別口を受け持ってる。そっちは豊の息子だ。発現すれば、とてつもない力を出すかも知れん。そうなったら、お前には無理だからな」
「そうでしょうとも、俺は普通の人間用、ですからね」
城崎の皮肉を真竹は取り合わない。
「終わったら、シートにでもくるんどけ。後で運び出させる」
言い捨てて、部屋からさっさと出て行ってしまう。
「ちっ」
城崎は不快そうに舌打ちをした。
「こんなにぼろぼろでもお気に召さねえってか? 変態だな、あいつは」
城崎は内田を見下ろし何ごとか思案しているようだ。
(別口……仁、か?)
内田の霞んで行く意識の中で、ふっとそのことばが浮かび上がる。
(仁…)
内田にとって、その名前は守り札だ。もっとも仁は気づいてもいないだろうが。
汗と汚物で体中が腐っていきそうな気がして、シャワーを浴び、制服を着替える。
汚れ切った洗濯物は、少しためらった後ポリ袋に入れて口を固く縛り、ゴミバケツに放り込んだ。帰ってきた母親が騒ぎそうな気はしたが、今の仁には、もう一度登校するということさえ、夢で見た話のようにあやふやなものになっている。
濡れた髪の毛を拭きながら風呂場から出てくると、家の中は静まり返っていた。いつものように、何の変わりもなく、穏やかに。
豊が読みかけていたのだろうか、居間のテーブルの上に広げた新聞がのせられている。
仁はそのぽっかりと虚ろな光景にしばらくじっと目を据えていた。
職場から直接豊を迎えに行った母親は、豊が学校に向かったことを知るだろう。仁に会いに行ったのだと察して苛立ちはするだろうが、それなりに納得して家に戻ってくるだろう。息子と共に家で待っているだろう、再び家族として暮らせる夫の姿を期待して。
だが、浅葱豊は、再びいなくなってしまったのだ。
いや、家どころか、もうこの世界のどこにもいないのだ。
仁は醒めた頭でひんやりと考えながら、頭の穴のあたりをゆっくりと撫でた。
今はもうそこには痛みも不安も漂っていない。あえていえば、奇妙な開放感、そこだけ少し脳が広がってしまったような感覚があるだけだ。
さっきまでの出来事が夢でないことは、鼻の奥に残る異臭が教えてくれる。きっと永遠に忘れることなどできないだろう、人が消滅していく死の気配の感覚。
だが、仁の頭はそれよりももっと冷え冷えとしたものに包まれている。
それは、怒りだ。
自分の居場所を得るためだけに、他人の命を巻き添えにし、殺していくものへの怒り。
『夏越』への、豊への、あの少年への、そして、仁自身への怒り。
それらは、豊や少年の死の衝撃や悔恨を越えて、今ただ一つのことに仁を駆り立てる。
(内田を助ける)
そして、おそらくは、『夏越』の手に落ちているだろう、マイヤも。
彼らと同じように、ただ巻き込まれて逃げたくとも逃げられなくなっているものが他にいるなら、彼らも『夏越』から解放する。
豊が『夏越』を作り上げた。ならば、仁が『夏越』を葬り去るのは当然の事のように思えた。そうでなければ、仁がこの力を授かり、また、豊の死によってコントロールを得た意味がないように感じた。
白のTシャツに緑系のカッターシャツを羽織る。いつもぴしりとアイロンを当てられたベージュの綿パンに足を通し、財布をポケットに突っ込む。階段を駆け降り、玄関のバッシュを履く。
「!」
背後で突然電話が鳴りだし、仁はその瞬間だけ自分に戻った。
振り返り、鳴り続けている電話を見つめる。
現実の光景に重なるように、駅でいらいらと足を踏み変えながら携帯電話を耳にあてている母親の姿が何の苦労もなく見えた。
母親は誰も出ないのに舌打ちをして電話を切った。滑り込んで来た電車に気難しい顔をしたまま乗り込んでいく。もう数十分で帰ってくることだろう。
仁は眉をひそめて唇を噛み、振り切るように背中を向けた。
家の玄関の鍵を、いつもよりしっかりかけて、考えた末、鍵は玄関の鍵つきポストの中に滑り込ませていれておく。
(もうここには戻れない)
そう思った。
「だめ…ね」
マイヤは緊張を解いてこめかみをもんだ。
長時間の集中で頭全体が血液の循環を失ってしまったように喘いでいる。ずきずきした痛みが広がってなかなかおさまらない。
ゆっくりと両方のこめかみを摩りながら、閉じ込められた部屋の中を見回す。
見かけは簡素な応接室、といった感じだ。木目の壁にソファセット、木目のテーブル。
しかし、それらの家具は全て金具で床に固定されているし、窓は一つもなく、明かりは天井にはめ込まれていて、しかもその上から特殊なガラスで覆われている。壁も木目ではあるが、その実特別な合金で作られていて、マイヤ程度のテレパシーは跳ね返って外部には漏れない造りだ。
周囲を何とか探ろうと意識の触手を精一杯伸ばしてみたが通じなかった。
(超能力者用の部屋、なんだ)
『夏越』の仲間だった時には、こんな部屋があるとはまったく知らされていなかった。
「内田…」
マイヤはつぶやき、重い溜息をついた。
あの夜、押し込んで来たのは、『夏越』の配下の中でも荒っぽい仕事を主とする連中だった。マイヤが『夏越』の命を受けて呼び掛けた時、抵抗したり反抗したりした相手に差し向けられると聞いたことはあった。
だが、彼らが、人間数人を町中から騒がせもせずに連れ出していく手腕は、今回初めて知った。拳銃やナイフなどの武器は所持していなかったが、彼らそのものが武器だといってもよかった。影のようにするすると近寄ってきたとたん、内田が腹を押さえて昏倒し、マイヤも激しい一撃をみぞおちに受けて気を失った。
捕まって、離ればなれに閉じ込められて、もうかなりの時間が立っている。
マイヤには食事が与えられトイレも行かせてもらえたが、内田はどう扱われているのだろうか。
トイレに出たときに全方向にテレパシーを放ってみたが、内田の気配はどこにも感じ取れなかった。力が通じない相手とは言え、気配さえ感じ取れないというのがマイヤには恐ろしい。
『夏越』が、内田がもう抵抗さえできないように手を打ってしまったのだろうか。
その可能性を否定しようとしてしきれずに、マイヤは無駄だと知りながら感覚を繰り返し
周囲に放った。
(どこにも届かないの?)
ふと、初めて日本に来て不安のあまり周囲を探り回ったとき自分に呼び掛けてきた一つの声のことを、マイヤは思い出した。
今のようにあちこちに意識を飛ばしていたときのことだった。
『無駄だよ』
頭の中に響いた静かな声。
『今は君の声が聞こえるところに誰もいない』
話し掛けてきたのは柔らかそうな茶色の髪と茶色の目を持った少年だった。
(誰なの)
また狩られるのかという恐怖で身体を竦ませたマイヤを、彼はするすると近寄って彼女が怯む間もなくしっかりと抱き締めてくれた。
「君の力は強いね。テレパシストでなくても聞こえる。けれど、悲しそうだ、とても」
少年の声も外見通りに柔らかだった。マイヤの強ばった心をほぐし、揺れて乱れる気持ちを受け止めてくれた。
「僕はダリュー・シュック。サイコキノだよ。君はもう一人じゃない」
君はもう一人じゃない。
そうつぶやいた声に重なったダリューの不安を、苦しみをマイヤは読み取った。彼もまた、自分の国で生きられなくて、『夏越』に拾われてきたのだった。
マイヤとダリューがお互いの気持ちをつなげるまでに時間はかからなかった。孤独と不安と、悲しみと苦痛と。その全てを分かち合ってきた。
(仁、も似ている)
仁は普通の人間だったのに、なぜかその心は深く悲しみに沈んでいた。ダリューと似た淡いブルーグレイの心。生きるべき場所を見つけられず、心を委ねる仲間も持てず、時の狭間をすり抜け、どこか遠い世界からこの世界に落とされて来たような孤独感。
ただ一つ違うのは。
(仁には圧倒的な力がある。けれど、私にもダリューにはもう『夏越』様以外の所では生きられる術がない)
マイヤは両手をそっと広げた。
故郷では夕食の後、マイヤの弾くピアノにあわせて家族が歌った。教会の聖歌隊の伴奏者も務めたことがある。白い鍵盤を踊る白い自分の指、軽やかに走る影をマイヤは当然のものだと思っていた。
でも、今はもう、きっと二度とあんなに無邪気にピアノを弾くことはできないだろう。鍵盤を見ると、そこにマイヤが流した血の残像が見えるだろう。
ましてや、連れ戻されてここに閉じ込められたとき、マイヤは真竹から静かに告げられた彼女の振るまい一つでダリューの生死は決まるのだ、と。
(仁…)
あの時、内田を助けにどこからか飛んできたように、今度もまた仁がマイヤ達を助けてくれないだろうか。
マイヤはそんな儚い願いにすがりついている。
『夏越』に対抗できるとすれば、きっと豊の子どもである仁しかいない。
(でも、仁はあまりにも何も知らない)
もし、仁が力をうまくコントロールできたら。もし、さとるが仁を連れてきてくれたら。もし、仁がやってきて、内田を助け、マイヤを助け、そして、もし、もし叶うなら、ダリューも助けてくれたなら。
(もし、ばっかりね)
マイヤは苦く笑って首を振った。
力のコントロールは熟練者の指導が不可欠だ。それなしでは本人の心が先に潰れてしまう。ましてや、仁のあの巨大な力をコントロールするためには、よほど慣れた人間の、安定したサポートがいる。
心が壊れた人間が巨大な力を振り回した悲劇をマイヤは何度も見て来ている。何より仁があの力を破壊の方向に使うことしかできなかったら……そう考えるだけで身が竦む。
さとるは仁を恐れている。
それは『夏越』の本質と仁がそっくりな匂いを漂わせているからだ。力があり、自らの前に立ち塞がるものは何ものであろうと排除する、その意志力を感じているからだ。
もし、万が一、仁がやってきてくれたとしても、それはきっと内田を助けるためだ。ダリューどころか、マイヤを助ける理由さえ仁にはない。
マイヤは内田を襲った。仁を襲わなかったのは、ただ仁の方が強かったというだけだ。それも仁にはわかっているだろう。
ぽたり、とマイヤの目から大粒の涙がテーブルに落ちた。次々と数を増すそれをじっと見つめながら、マイヤはきつく唇を噛んだ。
「ぐ、あ!」
めき、と嫌な音がして、内田ははね飛ばされて壁際まで転がった。もうろうとする意識を奮って、薄目を開けてみると、右のふくらはぎあたりが妙な格好でねじ曲がっている。
(折られた、な)
確認はすぐに激痛に変わった。意識を派手に叩きつける暗黒のリズムだ。唇を噛んで痛みに耐えるが、ねっとりした脂汗が止まらない。それでなくても、殴られ続けた身体が重苦しくて、何だか肉屋の店先に並べられたグラム幾らのひき肉になったみたいだ。
ぐったりした内田を気を失っていると思ったのか、すぐ側で無遠慮な会話が始まる。
「これ以上続けると死にますが…どうします? 真竹さん」
内田を吹っ飛ばした男がばさばさの髪の毛を軽く払って、後ろを振り返った。
向こうの壁には一人のスーツ姿の男が奇妙な笑みを浮かべてこちらを凝視している。
「たいしたガキです、どう転んでも、こっちに味方するようなタマじゃありませんぜ」
「そうだろうな。『夏越』様もそうおっしゃってた」
「じゃあ、なぜ責めさせたんです?」
ばさばさ髪はうんざりしたような声で尋ねた。ひょろりとした身体に似合わず、まだ体力を残した動きで、肩をすくめて見せる。
「他のものへの恐怖というのは、具体的な形でないとな」
真竹が喉の奥で笑った。
「『夏越』様のお力ではぴんとこない奴も多いのだ。トリックだのマジックだのとくだらない理由だがな」
「そうですか。超能力とやらでちょいちょいとやってもらった方が楽なんですがね」
「こいつには力が効かないのだ」
「ははあ」
ばさばさ髪はことばのわりには感心したふうもない。
「秀人はいないんですか」
逆にむっつりした声になった。
「奴にぼかんとやらせて下さい。俺はどうも子どもは苦手だ」
「素人くさいことを言うな、城崎」
真竹がうっとうしそうに応じた。
「秀人は別口を受け持ってる。そっちは豊の息子だ。発現すれば、とてつもない力を出すかも知れん。そうなったら、お前には無理だからな」
「そうでしょうとも、俺は普通の人間用、ですからね」
城崎の皮肉を真竹は取り合わない。
「終わったら、シートにでもくるんどけ。後で運び出させる」
言い捨てて、部屋からさっさと出て行ってしまう。
「ちっ」
城崎は不快そうに舌打ちをした。
「こんなにぼろぼろでもお気に召さねえってか? 変態だな、あいつは」
城崎は内田を見下ろし何ごとか思案しているようだ。
(別口……仁、か?)
内田の霞んで行く意識の中で、ふっとそのことばが浮かび上がる。
(仁…)
内田にとって、その名前は守り札だ。もっとも仁は気づいてもいないだろうが。
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