『未来を負うもの』

segakiyui

文字の大きさ
上 下
8 / 18

5.再会の父(2)

しおりを挟む
 溜まり続けた問い、ため続けた不安と怒り、それらを解消する答えは戻らないと直感していた。だが、聞かずにはおられなかった、とても聞かないではすませられなかった。
 両手のこぶしを戦うように握りしめ、体にひきつけて仁はわめいた。
「父さんも、人殺しなのか!」
(僕を騙して。母さんを捨てて)
「『夏越』の下で、新しい世界とやらを作ってたのか!」
(自分の力を使いたいために。自分だけが楽になりたいために)
「どうして、今頃、戻って来たんだ!」
(どうして、今になって。力が現れた今、僕が『夏越』に敵対してしまっている、今になって)
「くっそおっ!」
(頭が痛い)
 頭が、とても痛い。
 ざう、と公園の周囲に植えられた木々が突然激しく葉を鳴らした。
 風は吹いていない。穏やかで静かな夕暮れ、なのに木々の真下から突風が天空に向かって吹き抜けていくように枝葉が煽られざわめく。
 ぎょっとした顔になった豊が周囲を見回し、ふいに仁の両肩をきつく掴んで叫んだ。
「だめだ、仁! やめなさい!」
(やめろ? 何を? 僕は何もしていない)
 仁はぼんやりと豊を見た。視界が揺らめき溶けている。
「落ち着け! 急に解放するんじゃない!」
 仁は首を振った。
 あっと短い悲鳴が上がって、豊が何かに弾かれたように仁の体から飛び離れる。すぐにもう一度、仁に触れようとしたようだが、触る寸前、まぶしい光を遮るように両手を挙げて何かを防ぐ格好で、後ずさった。
(頭が痛い………こんなに痛いのは初めてだ)
 呼吸が見る見る荒くなる。体が巨大な熱波に襲われ呑み込まれていくのを仁は感じた。
「仁!」 
 傷みに朦朧とした仁の耳に、豊の悲痛な声が響いた。
「そんな無茶をするな! 後戻りできなくなる、『夏越』のように化け物になるぞ!」
 『夏越』のように化け物になる。
 加熱していた仁の頭に、そのことばだけが鮮明な輪郭で飛び込んで来た。陽炎のようにくらんでいた視界がふいに晴れ、周囲の煽られ揺さぶられている木々、凄まじい何かの力で曲げられている枝々がはっきりと見えた。その一枝が、ついに堪えかねたようにみしみしと音をたてた。次の瞬間跳ね飛び、あわや仁を直撃するようなコースで吹っ飛んでくると、間一髪、激しい風で仁を打ちながら、すぐ側をすり抜けていった。
 仁の潤んだ視界の中で、その光景に、図書室で倒れていく本棚と巻き込まれて投げ飛ばされた生徒の姿がだぶる。
「じィん!」
 豊の悲鳴に、仁は唇を噛んだ。こぶしを握りしめ、体を屈ませ、力を内に引き寄せる。頭の中に開いている穴は力を垂れ流しにしている快感に酔っているのか、酒場でのびている酔漢の口のようにだらしなくゆるゆると開いていく一方だ。そこに少しでも制限を加えようとすれば、みるみる頭痛が増してくる。頭の隅々から鋭い金属片をかき集めて引きずってくるような傷みに、仁の額に脂汗が浮く。
(もう少し、もう、少し)
 マイヤの泣き顔が、さとるの小さな肩が、内田の不敵な笑みが閃く。
(僕は、ならない)
 仁は胸の中で吐いた。
(僕は、自分のために、人殺しになんか、ならない)
 枝葉のうなりがおさまってくる。
「そうだ、いいぞ……いいコントロールだ」
 豊の声が遠くから聞こえ、仁は顔を上げた。
 依然、青ざめてはいる。だが、少し前のうろたえた頼りない中年男の顔ではない。不安に恐れおののいている豊の表情の中に、遥か昔、土手の散歩道でいろんな話をしながら見上げて安心した父親の顔が戻ってきている。
「きついだろう、わかるよ、私もそうだった。この力をどうすればいいのか、ずっとずっとわからなかった。コントロールしていければ、よかったのだ、今はそう思う」
 豊の目に涙が浮かんでいた。苦し気な顔で、
「私の力は、発現、だったのだ」
 低い声が続いた。
「私は人に呼び掛けるのだ、無意識に、目覚めよ、と。人の心の奥に封じられた力を発現させるように働きかけてしまうのだ。その人に、用意ができていようといなかろうと」
(父さん?)
 仁はついつい痛みに早くなる呼吸を整えながら、必死に豊のことばに集中しようとした。気を抜けば、もう一度暴走する。けれど、そこへの集中では痛みに気持ちが引きちぎられそうになる。
 気を失ってしまえば大丈夫なのか、それとも気を失った後は、仁ではない何ものかが力を暴走させるのかはわからない。痛みに堪え力をせき止めずに流れを正す、その制御が苦しい。
「何度か、会社や、母さんとの間で難しいことが起こった。変わりたくない人、目覚めたくない人がいるのだ。だが、その人も、父さんと関わることで否応なく変化していく。させられていく。それに激しく抵抗してもがく人がいて…………家を出た前の日、父さんは知らされたんだよ、そういった人の一人が自殺した、と」
「!」
 仁は息を呑んだ。
 豊があの日、今にも消えそうに儚気に見えたのをありありと思い出していた。
「本当の理由は誰にもわからない。けどね、その人は、父さんの部下で、どうしても一緒にいなくてはいけなかった人で、逃げようがなかったのは事実なんだ……そんなとき、真竹という男がやってきた。私の力を、人々に被害のない形で扱えるようになりたくはないか、と」
 居場所を与える、そう真竹は言ったのだ。
 だが、その『居場所』が他の命で購われるものなのだとは、最近まで気づかなかったと豊は続けた。
「私は、真竹の用意した受精卵に呼び掛けた。力に目覚めよ、と。そうして、胎児になる前に呼び掛けて能力が現れるなら、その子ども達は最初からコントロールを身につけているかもしれない。幼い頃から訓練すれば、力は容易くコントロールできるようになるかもしれない。そう言われたのだ。それは、正しい力の使い方、に思えたんだよ。けれど、そこから、生まれたのは、『夏越』、だった。確かに力に目覚め、十分に力をコントロールはできる、けれど、その力は、他者の存在を許さない、と結論した……」
 木々のうなりはほとんどおさまっていた。静寂の中で、豊の声が一層苦し気に響いた。
「私は不安になった。私がずっと側にいた、無意識に呼び掛けていた子ども、お前はいったいどう生きているのだろう、と」
「ぼ……く………」
「そうだ」
 豊は仁を深い哀れみといたわりの目で見た。
「お前は普通の子どもだった。問題はないと思い込んでいた。けれど、それは本当なのか? 私は『夏越』に頼んだ、息子を確認させてほしいと。もし、息子がコントロールに苦しんでいるのなら力になりたいからと」
(僕の、ためだったのか)
 組織を離れる危険性はマイヤが指摘している。豊が、『夏越』に抱いた反発も気づかれていただろう、その中で、豊が案じたのは、彼が生み出したもう一つの命、仁のことだったというのだ。
 裏切られたと思っていた。仁と母親を置いて豊が姿を消したから、自分は捨てられるような存在なのだと思っていた。それほど価値のない命なのだ、と。
 豊のことばなどもう信じられない、そうも思っていたはずだった。だが、今、豊が話すことばの裏に満ちる、静かな強い祈りがひたひたとことばを越えて仁の心に打ち寄せてくるのが感じられた。
「本当は不審がられても苦しくても、お前の側にいるつもりだった。けれども、お前は父さんに深い信頼を寄せてくれていた。もし、私の力が『発現』なら、私はお前に望まない力を開花させてしまうかもしれない。離れるなら早いほうがいい。もし私が自分の力をコントロールできるようになったら、お前に苦しみを与えずにすむ、そのときに改めて戻ってくればいい、そうも思ったのだ。しかし、説明できることではなかった」
(僕のためだったのか。消えたのも、戻ってきたのも)
「僕は……」
 熱いものが胸に溢れて、ゆっくりとせりあがり、仁はことばを呑んだ。
(僕は、大事にされていたんだ、見えないところで、ずっと長い時間)
 幼いときの安堵感は幻ではなかったのだ。
(だから、僕は信じられた、自分が大丈夫なんだ、と)
 遠い日の父の声と今目の前の父のことばが、六年間のブランクを越えて、温かな絆で再び結びあわされるのを、仁は感じた。
「父さん、僕……」
「ぐ……」
 顔をほころばせて、豊に呼び掛けようとした仁は、ぎょっとした。豊がふいに顔を歪め、見悶えるように体をうねらせている。
「父さん?」
「やめ……仁が………見ている……のに」
 途切れ途切れにことばを吐いた豊が、体を二つに折って苦しみだした。しかめた眉の下から、仁には見えない何ものかの姿を求めて、険しい視線で周囲を探る。
 公園の木々が再び不吉なざわめきに揺れ始め、嵐の気配が満ちていく。
「父さん……何……何が………」
 仁は何が起こっているのかわからなくなって、おろおろと周囲を見回した。
「ぐ……が……がはっ」
 その間にも、豊は体を抱え込むようにうずくまり、何か体の内側から吹き出そうとしているものを押さえ込もうとするように、身もがきながら激しく咳き込んだ。
 口を押さえかけた豊の手に紅の飛沫が散る。それがまるで、自分の体から吹き出したもののように、仁は血の気が引くのを感じた。
「父さん!」
「来るな……っ……じ……!!」
 駆け寄ろうとした仁の目の前、豊の口から聞くに耐えない絶叫が響き渡った。思わず足を止めて仁が身動きできなくなった、その次の瞬間。
 弾け飛んだ。
 豊の体が。
 まるで、限界まで膨れ上がった風船に、なおも無理に空気を入れたように。
 びしゃ。びちゃびちゃびちゃびちゃ。
「!」
 濡れた音をたてて四散したものが、木々に、地面に、滑り台に、そして竦んだ仁の体に跳ね飛んでくる。
 沈黙。
 風がゆっくりと吹いた。
 荒々しい生臭いにおいが仁を打った。
 仁は目を見開いたまま、のろのろと、頬に飛んで来た塊を指先で拭って、眺めた。
 真紅のスライム。白っぽい紐のようなものが混じっていて、それがぬるりと指先から手首の方へ滑っていく。
(これ、父さんの……?)
「う!」
 仁は口を押さえる間もなく吐いた。うつむき咳き込み吐き続ける。
「がっ……あっあっ……」
 すぐに胃の中は空っぽになったのに、吐き気が止まらない。吐くことだけが唯一自分を正気に保っているような、こちらの世界にとどめているような、それだけで全てが終わっていくような感覚。
(父さんの、父さんの、父さんの……)
 やっと出会えた、わかりあえた、父さんの。
 顔も体も涙だか汗だか何だかで、何もかもぐじゃぐじゃになって、くるりと皮一枚残して全てを吐ききり、そのまま自分が消えていくような。
「ねえ?」
 ふいに、その場に全くそぐわない、明るい声が響いて、仁の背中を電流が走った。
 喉を鳴らしながら泣きながら目を上げると、目の前に中学生ぐらいの少年が立っていた。
 仁が気づいたのに満足そうに微笑むと、腕を組みながらゆっくりと仁に近づいてくる。周囲に広がる地獄絵図を気にした様子もない。
「どう? ショック?」
 少年は笑った。
「なかなかいいよね? 現実に起こる光景にしてはインパクトあってさ。ゲームでもなかなかここまでの画面はないよ。衝撃的、だったろ? 僕がやったんだ。何かさ、力を目覚めさせるインパクトって、強い方がいいんだってさ。強ければ強いほど、凄い力が手に入るんだって。あんたが目覚めたら、僕に感謝するべきだよな、これだけの演出、他の奴にはできないぜ。」
(僕がやった?) 
 仁は瞬きもできなかった。少年のことばがうまく理解できない。
「でも、残念、あんたさ、それほど力はないみたいだね。ゲーゲー吐くだけだもんな。ノーマルの方がリキあるんじゃない? 僕に飛びかかってくるとかするし。捕まりゃしないけど」
 自慢げに少年は続けた。不快そうに眉をしかめて、
「ひでえ臭い。こっちがきついな。現実はクソだよ。『夏越』様に報告しとく、あんたは無害だって。豊の遺伝なんて考えすぎさ」
「『夏越』……」
 ふつ、と仁の中で何かが切れた。
 豊の笑みが揺れる。
 お前は大丈夫だ。
(たぶん大丈夫なんかじゃないんだ、父さん)
 『夏越』がこの少年の後ろにいる。『夏越』が豊を殺した。いらないものを気軽に置き去るようにではなく、わざわざ踏みつぶし、あたり周辺に蹴散らすようにして。
 内田達がその『夏越』の所にいるかも知れない。息子の前で父親を殺して平気な奴らの手の中に。
(力を持つってことは、きっと『大丈夫』じゃなくなることなんだね、父さん)
 だから、仁は、今、きっと、力を十分に使い切れる。
 さっきまでうっすらと感じていた頭の痛みが、みるみる薄れていくのを仁は感じた。
「『夏越』……はどこにいる」
 仁は口元を拭い、立ち上がった。
「何だ、あんた、しゃべるリキあんのかあ」
 嬉しそうに少年は言った。
「僕が出るほどじゃないと思ったけど、結構タフじゃん」
「『夏越』……どこだ?」
「ちょ……ちょっと」
 少年の笑みがふいに崩れた。ぼそりとつぶやいた仁の凝視に体を強ばらせ、奇妙にうろたえた顔でくるくると周囲を見回す。
「何すんだよ……待ってよ……何さ、これ」
 仁には何も見えなかった。少年の周りをどうやら目に見えない壁がぐるりと取り囲んでいるらしい。彼はひどく慌てた様子で、壁に沿うようにだろうか、その場で小さな円を描いてくるりと歩いた。だが、円はその間にも縮まっていくらしく、やがて身動きできないほど狭まったようだ。少年はやがてもがきながら奇妙な直立姿勢で立ち竦んだ。
「何すんだよ、そんなことすると……」
 少年の目が一瞬猛々しい色に染まった。
「!」 
 激痛が走って、仁は左腕を押さえた。掌の下で皮膚がむくむくと膨れ上がり、いきなり内から外に向かって弾けた。表皮が千切れ裂けて血が流れる。駆け上がった痛みとともに、仁は豊に何が起こったのかを突然理解した。
(こうして、殺したんだ)
「何……どうしてきかないんだ」
 少年が愕然とした顔でつぶやく。
「『夏越』はどこだ!」
 傷の痛みも加わって、仁の心が一瞬にして激烈な感情に潰れた。
 こんなふうに、ゲームのように、お互いに傷つけあわせて殺しあわせる。『夏越』が作り上げていく新世界が、どれほど理想と希望に満ちたイメージだろうとも、そんなものはきっとまやかしだ。
(きっと、こいつだって、本当は何にもわかってなくて)
 マイヤのように。さとるのように。豊のように。ただ生きる場所を求めただけで。
(潰してやる、そんな世界なんか潰してやる)
「知らないよ、教えない、こんなことぐらいで僕が言うとでも……」
 少年がもがく。
 仁は円を縮めた。いつかの、水がするすると流れていくような爽快感が広がってくる。力を堪えずに使うというのは気持ちいい。圧倒的な力を感じるのはとても気持ちがいいことだ。
「答えなくてもイイよ」
 仁は静かにつぶやいた。
「わかるから。『夏越』の居る場所……君は知ってるものね? 僕は、尋ねればいいだけだ、君が拒んでも…………関係ない」
 少年がぎくりと体を強ばらせて息を引いた。恐怖がその目に満ちる。
「や、やだ……やめろ………やめ!」
 追い詰められた少年はまともに思考できなかったのだろう。自分の渾身の力を集めて、仁に向かって攻撃する。だが、それは見えない壁に遮られて仁の体に届く前に跳ね返った。
 文字どおり、跳ねて、返ったのだ。
 ぶしゅっ。
 張り切ったトマトを押しつぶす音。
 少年の体が上下に飛び散る。円筒形の肉塊となって、原色のおぞましいぬらつきに蠢きながらじりじりと壁の中で沈んでいく。
 それを仁は凝視した。
(これを望んだのは、僕なんだ)
 冷えた心がそうつぶやく。
(僕も、きっと、『夏越』と変わらない。マイヤやさとるが恐れる悪魔と)
 仁は意識を集中した。公園に散っていた肉片が、目の前の少年の死骸が一気に不思議な紫の炎に燃え上がる。胃の腑を持ち上げる胸の悪くなる臭いが一瞬満ち、すぐに吹き渡っていく風が遥か高空へその臭いもろとも細かな塵になった灰を運び去っていく。
 数分、かからなかっただろう。
 公園に入り込んで来た老人が、わずかに眉をひそめて、思い出を手繰るように目を閉じた程度の気配しか残らなかった。
 仁は集中を解いた。と、同時に、自分がとん、と落とされた気がした、足先に鈍い痛みがあって少しよろめく。どうやら、僅かに空中に浮いてしまっていたらしい。
(一つ使い方を理解して使い切ると、また違う力が使えるようになる、のか?)
 問うように空を見上げたが、答えてくれるはずの人はもうどこにもいない。
 今仁の頭の中には、少年が死の寸前、助けを求めて思い出した『夏越』の居場所がくっきり見えている。
(殺すつもりなんか、なかったんだ。助けを求めれば『夏越』の居場所を思うなんて、考えてなかった。けど、潰してやるとは思った。『夏越』の望みを、父さんみたいに、この手で潰してやる、とは)
 仁は自分の両手を見た。 
 何もない、汚れてもいないきれいで無害そうな手。
 けれど、たった今、二人の人間の死体を消してしまった自分の両手を。
「…」
 向きを変えて歩き出し、ベンチに向かう老人とすれ違った。老人が気掛かりそうに自分を見ているのに、そっと頬に手の甲を当てる。その手にも、零れた涙がとめどなく伝わっていく。
 押し潰された少年の、名前も仁は知らなかった。
しおりを挟む

処理中です...