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第1章 『竜は街に居る』

7.どおおん「これ、本当のことなの?」(7)

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 『Murano』で新作の布地で陸斗にオーダースーツを作った。56万は引き止めるプレゼントには安すぎると思ったが、ダイヤモンドのタイピンも断られてしまったから仕方がない。受け取れるものには限界があって、貢の存在はまだそこまで届かないということだろう。
 今夜は抱かせてくれないけど、明日ならいいと言われたから、時間を決めて迎えに行く約束をした。家に送り届け、部屋に戻り、久しぶりに『人心売買』に顔を出す。 
「…」
 入り口から見学者のような顔をして入ると、荒破は目線だけで奥へ入れと命じた。微笑みながら、それはおかしいでしょう、と首を振る。
「こんにちは、お電話したものですが」
 受付のバイトに笑みを送る。
「見学させてもらってもいいでしょうか」
「え? あ、あの」
「聞いている」
 荒破がぼそりと唸った。
「だそうです」
「失礼しました! どうぞこちらへ」
「ありがとう」
 微笑を返しながら、勧められたスリッパを履いて稽古場へ通る。
 街中駅前、周囲にコンビニも飲食店も呑み屋も充実したこの『La Festa』は、家賃だけでも相当なものだ。半分近くを団員からの参加費で、残りの半分を公演収益で、もう半分を貢が出しているが、それで今まで礼を言われたことも、感謝されたこともない。広々とした稽古場、あらゆる照明と音響が試せるシステム、片方全面鏡張り、床はいつも磨き抜かれてチリ一つ落ちていない。専門のクリーニングスタッフが入っている。ついでに、公演はいつもこの反対側にあるホールで行っている。
「『楽しい出来事』なんてよく言ったもんだ」
「え?」
「いえ、素晴らしい名前だな、と思って。イタリア語ですよね、ラ・フェスタ」
「ええそうなんです」
 女の子は嬉しそうに笑った。
「休日とか祭日とか言う意味です」
 みんな、お休みの日を持ち寄って練習するからです、と笑う彼女が、いかにも可愛らしげににっこりして、同じように形だけのにっこりを返す。
「どうぞ、こちらで」
「ありがとう」
 明らかにデザイナーものとわかる椅子を勧められ、稽古場の隅に静かに腰を下ろし、入り口で渡されたパンフレットを興味ありげに開いていると、貢の顔を知らない団員がちらちらと視線を投げてくる。時に羨望、時に苛立ち、そうして誰もが考えている、もしあいつが入団したら、一体誰が配役を失うんだろうと。
「…そこ、もう一度」
 今しも気がそれた1人が台詞を止められ凍りついた。
「今のは何のつもりだ? 声も聞き取りにくいぞ」
「は、はいっ、すみませんっ」
 帝王荒破、その意志に逆らうものなどいやしない。
『おお、そこで我は願うのだ、究極の破壊と真実の愛を!』
『お待ち下さい、賢者様。お許し下さい、私にはその言葉を受け取る器がございません』
『そんなことは至極承知だ、その上でそなたに施してやろう、正義と悪夢の秤を』
『有難きご決断、ならば私は人生最大の刻苦を耐え忍び、新たな運命に歩み出すと致しましょう』
 何だろうな、これは。
 貢は笑顔の下で密やかに溜息をつく。
 台詞も陳腐だが、大真面目に激怒するフリ、悲嘆のフリが重なると笑顔を保つのも修行に近い。このうちの何人が台詞の意味を体に捉えて、自分のことばで吐けているのか。
 荒破は納得しているのか譲歩しているのか、トレードマークのもさもさアフロの下からじっと芝居を見ているだけだ。止めないのだから良いのかもしれない。
『私には………もう……あなたを望む資格がない……』
 ふいと耳の奥に読み稽古の時の陸斗の声が蘇った。
 『竜は街に居る』は舞台で演じて、それを画像配信することになっている。全4ステージ、その1ステージの半ばあたり、カークがオウライカへの罪悪感に苦しんでいる最中に、ライヤーの接近に気持ちを奪われてしまう場面の台詞だ。ここまでのカークと言えば、淫魔も裸足で逃げ出すほどの爛れ具合なのに、この台詞だけは清冽な気配を漂わせなくてはならないあたり、冷酷無比な魔王が盟友の苦境に胸を痛める表現をせよと言われる難しさがある。
 それは今目の前で繰り広げられている大仰なやりとりと酷似したニュアンスながら、陸斗の台詞はただひたすらに静かだった。
 私には、と丁寧にことばを置く。その背後に、他の誰かは許されるだろうが、と響かせる。もう、と呟き、それでも過去には望んだことがあったのだと知らせる。あなたを望む資格がない、と言い切る口調はひんやりと静謐、虚ろで優しかった。人を想うのに『資格』が必要なはずはない。自分の気持ちと心の問題だ。それでも『資格』と口にするから、そこには欲情ではなく敬意が透ける。けれど浴室での自慰行為の最中だから背徳感が呼び起こされ、否応なく扇情的な感覚が広がる。
 カークの真髄はそこにあるのだろうと思う。
 冷徹で理性的で仕事のためなら気持ちを一切切り捨てる人間が、愛撫に溺れ追い詰められることを望み、体も心もぐずぐずに崩されることを受け入れる、その危うさ。
 咽び泣きながら訴える、快楽。
「…」
 自分の顔から一瞬笑顔が消えた。
 これは本当のことか?
 伊谷貢は『人心売買』にやってきた見学者で、稽古風景や素晴らしい施設に感嘆し、羨望を呟き、都合がつけばぜひ入りたい、と荒破に伝えて去って行くだけの人間と設定されている。簡単で楽で意味のない芝居だ。
 なのに今、頭の中に浮かぶのは、中途半端でうんざりする脚本や大げさなだけで感情ひとつも乗っていない台詞の応酬でさえなく、ベッドに倒れこむように眠っている陸斗の張り詰めた下腹や舌先で震える細い指、貢の蹂躙を受け入れる口ばかりだ。
 演技ができない。
 今すぐ陸斗を抱きたくて、今夜も一緒に眠りたくてたまらない。
 グシャ。
「…」
 貢はじっと、握り潰してしまったパンフレットを眺める。
 今まで陸斗は何人に抱かれたことがあるのだろう。
 どれだけの男に気持ち良すぎて無理、と啼いたのだろう。
 カークならまだいい、あれは計算尽くだし、快感を餌にしている自分も意識している。
 けれど陸斗は本当に、気持ちを添えて抱かれた男を眩しそうに振り返るのかもしれない、『Murano』で貢を見たように。
 どおん。
 何かに胸を大きく殴打された。
 こんなことをしている場合じゃない。
「…あの」
 気づくとさっきの受付の女の子が不安そうに貢の手元を見つめている。
「どうか、されましたか…?」
「ああ…いえ」
 貢は笑って立ち上がった。
「あまりにも皆さんが素晴らしいので、僕なんかじゃまだまだダメだなって思って」
「そんな…荒破さんとお話しして行かれませんか?」
「いや、また今度にします」
 残念がる相手を放置して稽古場から出て行く。絡みつくような荒破の視線が報告をしろと迫っているのはわかったが、携帯を取り出し、後で、とメールした。
「…明日の準備をしよう」
 自分に言い聞かせる。
「明日で終わりとか言われないようにしなくちゃ」
 『人心売買』を追われても、『竜夢』から罵倒されて追い出されても、陸斗との付き合いを奪われるのだけは考えられない、論外だ。
 全てが終わるその前に、陸斗との関係を強く結んでおかなくては。
「…あ、もしもし。伊谷です……ええ、すみません、ロイヤルスイートを明日。……ああ、じゃあ、その方には別のホテルへ。全額僕もちで構いませんから。よろしくお願いします」
 ホテルの支配人の悩んだ声を笑顔で切った。
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