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第1章 『竜は街に居る』
9.どこかへ行きたい 「優しい声が欲しい」(5)
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夢の世界だった。物語の、舞台の上の、幻の。
戻れないかも知れないと不安になったが、やっぱり陸斗の『現実』は圧倒的だった。
冷え切った部屋、使われなかった炊飯器。放り出されたカフェエプロンは洗濯しなくちゃならないし、着て戻ったスーツはクリーニングしなくちゃならないが、一体どれほどかかるんだろう、そもそも普通のクリーニング店に出していいものかと悩む自分が居て。
着替えて、いつもの服でクリーニング店に着く頃には、すっかり伊谷の世界は夢のように遠くなっていた。
確かにあれが伊谷の『現実』、カークの過ごす世界なんだろう。ひょっとしたら『人心売買』に繋がる場所で、或いは陸斗の『現実』が育った未来なのかも知れない。
けれども陸斗が今居る場所じゃない。
見極めると落ち着いた。
落ち着いたところへ、女性達の襲来だ。
正直、怒りが溜まっている。
この女性達にとっては、こんなカフェなどお遊びにしか過ぎず、マスターの苛立ちも陸斗の不快感もイヤリング1つの価値もないのだろう。
それでもこの『現実』は陸斗が大切に紡いできた世界だ。
どこかへ行きたいと願いながら、堪えて日々の貯金を加えた。優しい声が欲しいと祈りながら、1人で飯を炊き料理をし、掃除をし、洗濯して暮らしてきた。
誰も願いを叶えてくれず、どんな祈りも届かなかったから、1つ1つ自分の中で折り合いを付け、諦めたり歯噛みしたり、それでも腐らずいじけず、時間を丁寧に積み上げてきた。
誰かと比べると、いろいろ足りないのだろうし、未熟なのだろうし、不完全なのだろうが、それでも矜持というものはある。
「頼む」
「はい」
マスターが揃えてくれたオーダーをテーブルに運ぶ。足を引っ掛けられるか、メニューを広げて邪魔されるか、知らぬ顔でテーブルに顔を寄せ合い妨害されるかと思ったが、どれも起こらなかった。
ひんやりと座る女性達の前に、それぞれオーダーを置き、
「ごゆっくりどうぞ」
一礼した時にはさすがにホッとして緊張が抜けていた、その矢先。
バシャ。
「っっ」「陸斗っ」
無言で頭から被った水に、マスターが声を上げた。
「あんたら一体何を!」
「手が滑ったのよ」
水を滴らせながら、顔を上げると、微笑みながら空のコップを持ち上げているピンク色の唇の女性と目が合った。
「見えなかったんでしょ、あなた」
「違うだろ、あんた……っ」
背後から声を荒げるマスターを、不思議なことに無意識に片手で制していた。
「大丈夫です」
「陸斗…っ」
「……お洋服は濡れませんでしたか」
「…え」
じっと見つめた相手は目を見開いている。
巻き上げてマスカラを施した睫毛、コンタクトで大きく見せた瞳、淡く輝く肌に薄い上品なチーク、それらを1つ1つ眺めながら、口は勝手に動いていた。
「おしぼりをお持ちいたします。少しお待ち下さい」
怒る必要はない。
胸の中で静かな声が囁く。
この状況を使えばいいだけのこと、自分に有利に、誰のどのような目から見ても、自分の正義が揺らがぬように。そうやって手に入れてきたではないか、この『塔京』を。
ああ、そうだ。
『現実』は容易く書き換えられる、被害者は加害者に、悪夢は理想に、惨劇は栄光に。そうして世界は変貌する、この指先1本で。
陸斗は微笑んで、濡れたままカウンターへ戻ろうとした。
次の瞬間。
ビシャシャ!
「きゃあっ」「いやっ」「何っ」
「おしぼりなんか要らない」
冷えた声が店内に響いた。
「……伊谷…」
いつの間にコップを掴んだのか、両手で中身を一気に3人にぶちまけた伊谷が、淡々と続ける。
「彼女達はすぐに帰る、そうして2度と戻らない、この店には入らない。そうだね?」
「は、はい…」「っ」
青ざめた女性達が慌てて席を立ち、店を駆け出して行く。
「…陸斗」
伊谷は周囲の目も構わず、コップを置いて両手を広げて近づいてきた。
「ごめん。まず僕に拭かせて」
「え…あ」
たじろぐ陸斗を抱え込むように包み、自分のスーツやシャツが濡れるのを気にした様子もなく、声を張り上げた。
「申し訳ありません。僕の知り合いが馬鹿な振る舞いをしました。改めて謝罪に参ります。今1時間ほど彼を借りていいでしょうか」
「へ…あ……まあ……その、はあ、構いません…」
押し切られたマスターがあやふやに同意するのに陸斗は狼狽える。バイト代やら今後の仕事や、そしてようやく今の自分の状況が頭を駆け巡った。
「待って、伊谷、私は、その、仕事中でっ」
「静かに、リク」
「ひっ」
ちゅ、と誰が聞いてもキスとわかる音が耳元で弾け、一気に体が熱くなった。
何が起こっているのかわからないが、今体を起こして伊谷の抱擁から逃れても、まずい状況は全く変わらないどころか、悪化すると察しがついて諦める。
「……あの、マスター、すみません、あの」
「あ、ああー、あの今日はもういいよ、陸斗……いや、輝夜」
背後の声が弱々しく笑った。
「少しお休み、取るかい?」
戻れないかも知れないと不安になったが、やっぱり陸斗の『現実』は圧倒的だった。
冷え切った部屋、使われなかった炊飯器。放り出されたカフェエプロンは洗濯しなくちゃならないし、着て戻ったスーツはクリーニングしなくちゃならないが、一体どれほどかかるんだろう、そもそも普通のクリーニング店に出していいものかと悩む自分が居て。
着替えて、いつもの服でクリーニング店に着く頃には、すっかり伊谷の世界は夢のように遠くなっていた。
確かにあれが伊谷の『現実』、カークの過ごす世界なんだろう。ひょっとしたら『人心売買』に繋がる場所で、或いは陸斗の『現実』が育った未来なのかも知れない。
けれども陸斗が今居る場所じゃない。
見極めると落ち着いた。
落ち着いたところへ、女性達の襲来だ。
正直、怒りが溜まっている。
この女性達にとっては、こんなカフェなどお遊びにしか過ぎず、マスターの苛立ちも陸斗の不快感もイヤリング1つの価値もないのだろう。
それでもこの『現実』は陸斗が大切に紡いできた世界だ。
どこかへ行きたいと願いながら、堪えて日々の貯金を加えた。優しい声が欲しいと祈りながら、1人で飯を炊き料理をし、掃除をし、洗濯して暮らしてきた。
誰も願いを叶えてくれず、どんな祈りも届かなかったから、1つ1つ自分の中で折り合いを付け、諦めたり歯噛みしたり、それでも腐らずいじけず、時間を丁寧に積み上げてきた。
誰かと比べると、いろいろ足りないのだろうし、未熟なのだろうし、不完全なのだろうが、それでも矜持というものはある。
「頼む」
「はい」
マスターが揃えてくれたオーダーをテーブルに運ぶ。足を引っ掛けられるか、メニューを広げて邪魔されるか、知らぬ顔でテーブルに顔を寄せ合い妨害されるかと思ったが、どれも起こらなかった。
ひんやりと座る女性達の前に、それぞれオーダーを置き、
「ごゆっくりどうぞ」
一礼した時にはさすがにホッとして緊張が抜けていた、その矢先。
バシャ。
「っっ」「陸斗っ」
無言で頭から被った水に、マスターが声を上げた。
「あんたら一体何を!」
「手が滑ったのよ」
水を滴らせながら、顔を上げると、微笑みながら空のコップを持ち上げているピンク色の唇の女性と目が合った。
「見えなかったんでしょ、あなた」
「違うだろ、あんた……っ」
背後から声を荒げるマスターを、不思議なことに無意識に片手で制していた。
「大丈夫です」
「陸斗…っ」
「……お洋服は濡れませんでしたか」
「…え」
じっと見つめた相手は目を見開いている。
巻き上げてマスカラを施した睫毛、コンタクトで大きく見せた瞳、淡く輝く肌に薄い上品なチーク、それらを1つ1つ眺めながら、口は勝手に動いていた。
「おしぼりをお持ちいたします。少しお待ち下さい」
怒る必要はない。
胸の中で静かな声が囁く。
この状況を使えばいいだけのこと、自分に有利に、誰のどのような目から見ても、自分の正義が揺らがぬように。そうやって手に入れてきたではないか、この『塔京』を。
ああ、そうだ。
『現実』は容易く書き換えられる、被害者は加害者に、悪夢は理想に、惨劇は栄光に。そうして世界は変貌する、この指先1本で。
陸斗は微笑んで、濡れたままカウンターへ戻ろうとした。
次の瞬間。
ビシャシャ!
「きゃあっ」「いやっ」「何っ」
「おしぼりなんか要らない」
冷えた声が店内に響いた。
「……伊谷…」
いつの間にコップを掴んだのか、両手で中身を一気に3人にぶちまけた伊谷が、淡々と続ける。
「彼女達はすぐに帰る、そうして2度と戻らない、この店には入らない。そうだね?」
「は、はい…」「っ」
青ざめた女性達が慌てて席を立ち、店を駆け出して行く。
「…陸斗」
伊谷は周囲の目も構わず、コップを置いて両手を広げて近づいてきた。
「ごめん。まず僕に拭かせて」
「え…あ」
たじろぐ陸斗を抱え込むように包み、自分のスーツやシャツが濡れるのを気にした様子もなく、声を張り上げた。
「申し訳ありません。僕の知り合いが馬鹿な振る舞いをしました。改めて謝罪に参ります。今1時間ほど彼を借りていいでしょうか」
「へ…あ……まあ……その、はあ、構いません…」
押し切られたマスターがあやふやに同意するのに陸斗は狼狽える。バイト代やら今後の仕事や、そしてようやく今の自分の状況が頭を駆け巡った。
「待って、伊谷、私は、その、仕事中でっ」
「静かに、リク」
「ひっ」
ちゅ、と誰が聞いてもキスとわかる音が耳元で弾け、一気に体が熱くなった。
何が起こっているのかわからないが、今体を起こして伊谷の抱擁から逃れても、まずい状況は全く変わらないどころか、悪化すると察しがついて諦める。
「……あの、マスター、すみません、あの」
「あ、ああー、あの今日はもういいよ、陸斗……いや、輝夜」
背後の声が弱々しく笑った。
「少しお休み、取るかい?」
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