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第2章 『竜夢』
3.乱暴な嫁 「お日様が当たるとほっとしない?」(1)
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「お日様が当たるとほっとしない?」
「…」
コンビニを出たところで、突然話しかけられて禄は立ち止まった。
「ね?」
隣に立って、やや上目遣いで小首を傾げて眺めてくる女性。年の頃は禄と同じぐらいか、やや下。黒くて長い艶のある髪、体にぴったりしたニットにふわふわのジャケットを羽織って、ピンク色のハンドバッグを持っている。
『竜夢』に向かうところだった。今日は舜がバイト先の『三日月書店』からどうしてもと頼まれての出勤日、夕方過ぎるぐらいには駆け込めるからと聞いていた。『あいおい』は休みだったから、それなら『竜夢』に出かけて行けば、誰か居るかも知れないし、次の脚本ができてきているかも知れないし、誰もいなくても何もなくても、一人でオウライカの振る舞いを考えてみるのもいいし。
「あの…」
「はい」
「あなたは…」
誰でしょうか、と聞くのはあんまりだろうか。知り合いにいないのは確かで、『あいおい』のバイトでも見たことがなくて、舜の友人連中とも違う感じがする。
「あなたはログ・オウライカさん」
「……へ」
繰り返すように言われて、なお戸惑った。
『竜夢』や自宅以外で、その名前を、しかも自分を示しながら言われたのは初めてだ。
「ネットで見ました」
「え…あ…ああ」
かろうじて理解が追いついた。
そうか、そういうことか。
確かに『竜は街に居る』は、少し前からオープニングだけを流している。あの4人が同じ場所で別々の振る舞いをしながら映っているものだ。けれど、詳細な配役とか、いつ公開するとか明示していなかったし、第一、ネットの海と言われるほどの膨大な情報量の中で、あのたった数分のオープニングを見る人に出くわし、しかも正確に役柄を言い当てられるほど禄の顔を覚えてくれているなんて、ゴビ砂漠でビー玉を拾い上げるぐらい希少な出来事ではないだろうか。
嬉しい、とか恥ずかしい、とかより先に警戒心が募ったのは、生い立ちのせいばかりでなく、役者として訓練する中で育った観察眼のせいかも知れない。
ビー玉。
まさにいい得ている、この女性の瞳には感情がない。
「…ありがとうございます」
こういう時の対応は舜が教えてくれていた。
ネットで流し始めると、いろんな人間が寄ってくる。お客様かも知れないし、からかいかも知れないから、当たらず障らずの対応を覚えておく方がいいよ。
舜の声を思い出しながら、生真面目な顔で少し会釈する。
「よろしくお願いします」
「正直、無理じゃないかなあ」
ばさりと女性が言い切った。
「…」
「あなたにオウライカは無理。舜ならまだしも」
「…そうですか」
反論が起きなかったのは、そもそも禄自身もそう思っていたのは確かで。自分がなぜオウライカを演ることになったのか、稽古が進めば進むほど、不思議でならない。能力は足りないし知識もない。経験値は圧倒的に少ない、と言うかないし、そもそも『普通の生活』の経験値さえない。
「あなたさあ、オウライカのこと、わかってないでしょ。彼が何を背負っているのかとか、そもそもオウライカって何なのかとか」
「…」
「わかってないのに、よく演る気になったわよねえ。私なら無理無理。既に困ってるんじゃない、色々と。役者経験もほとんどないのに、なのに主役なんてさあ」
選んだのは禄ではなく寺戸だが、望んだのは禄だった。足りないと言う自覚はあるから努力はしている。けれどこの女性の言うように根本的に無理ならば、明日、いやひょっとしたら今日にでもお役御免の話が出されるのかも知れない。
けれど。
「…主役降ろされても、いいですが」
「はあ?」
「寺戸さんが言うのなら」
「何、それ」
ぎらりと女性が目を光らせた。
「余裕のつもり」
「いえ、余裕というのではなくて」
ふと、例えば舜の演るオウライカも見てみたいと思った。陸斗や貢も演じることができるのだろう。禄が演じるオウライカとは全く違うのかも知れない。どこがどんな風に違うのか。胸がとくりと鳴る。純粋に興味が湧く。
「そんなことになったら、あなた『竜夢』に要らなくなってしまうのよ、わかってるの?」
「あ、えーと」
女性のことばを真剣に考えてみて、首を振る。
「それは無理じゃないかと思います」
「は?」
「『竜夢』はずっと人手不足なので」
禄がオウライカを降ろされるなら、他の誰かがなるのだろう。当然、他の誰かのしていた仕事が回らなくなる。かといって、素人の禄がカークやカザルやライヤーなんてできるわけがないから、誰かが役者になるのだろう。残る仕事は大道具とか衣装とか照明とか、まあとにかく仕事は山ほど残っているので、『竜夢』の事情をわかっているスタッフがすぐに見つからない限り、舞台間近のこの時期に禄を放逐したりする暇はないだろう。
それに。
脳裏を掠めたのは舜と暮らす暖かな家。
「何笑ってるのよ」
「いえ、ふと思ったんですが」
禄は微笑みながら答えた。
「ぼくにはまだそこまで、役者がかけがえのないものにはなっていないんだなと思って」
「…はああ?」
一番何もない日々を思い返せば、今は色々溢れて持ち余るほどだ。今オウライカが引き抜かれても、オウライカを得るために重ねた時間や方法は消えない。『竜夢』の中での役割も役者にこだわる必要もない。
「ぼくの中にライオンは居なかった」
「何の話?」
「でもようやくライオンって何かがわかって、そこへの手段が役者だったけど、ひょっとしたら他の方法でもライオンになれるのかなと思ってしまったから」
あ、そうか。
禄は不意に思い出した。
「大事なものなんて何もない、君以外にはって、そう言う意味なのか」
「…あなたねえ」
女性が冷ややかに目を細める。
「プライドってないの?」
「そんなもの」
禄は同じように目を細めた。
「親がとっくに磨り潰してますよ」
「…」
コンビニを出たところで、突然話しかけられて禄は立ち止まった。
「ね?」
隣に立って、やや上目遣いで小首を傾げて眺めてくる女性。年の頃は禄と同じぐらいか、やや下。黒くて長い艶のある髪、体にぴったりしたニットにふわふわのジャケットを羽織って、ピンク色のハンドバッグを持っている。
『竜夢』に向かうところだった。今日は舜がバイト先の『三日月書店』からどうしてもと頼まれての出勤日、夕方過ぎるぐらいには駆け込めるからと聞いていた。『あいおい』は休みだったから、それなら『竜夢』に出かけて行けば、誰か居るかも知れないし、次の脚本ができてきているかも知れないし、誰もいなくても何もなくても、一人でオウライカの振る舞いを考えてみるのもいいし。
「あの…」
「はい」
「あなたは…」
誰でしょうか、と聞くのはあんまりだろうか。知り合いにいないのは確かで、『あいおい』のバイトでも見たことがなくて、舜の友人連中とも違う感じがする。
「あなたはログ・オウライカさん」
「……へ」
繰り返すように言われて、なお戸惑った。
『竜夢』や自宅以外で、その名前を、しかも自分を示しながら言われたのは初めてだ。
「ネットで見ました」
「え…あ…ああ」
かろうじて理解が追いついた。
そうか、そういうことか。
確かに『竜は街に居る』は、少し前からオープニングだけを流している。あの4人が同じ場所で別々の振る舞いをしながら映っているものだ。けれど、詳細な配役とか、いつ公開するとか明示していなかったし、第一、ネットの海と言われるほどの膨大な情報量の中で、あのたった数分のオープニングを見る人に出くわし、しかも正確に役柄を言い当てられるほど禄の顔を覚えてくれているなんて、ゴビ砂漠でビー玉を拾い上げるぐらい希少な出来事ではないだろうか。
嬉しい、とか恥ずかしい、とかより先に警戒心が募ったのは、生い立ちのせいばかりでなく、役者として訓練する中で育った観察眼のせいかも知れない。
ビー玉。
まさにいい得ている、この女性の瞳には感情がない。
「…ありがとうございます」
こういう時の対応は舜が教えてくれていた。
ネットで流し始めると、いろんな人間が寄ってくる。お客様かも知れないし、からかいかも知れないから、当たらず障らずの対応を覚えておく方がいいよ。
舜の声を思い出しながら、生真面目な顔で少し会釈する。
「よろしくお願いします」
「正直、無理じゃないかなあ」
ばさりと女性が言い切った。
「…」
「あなたにオウライカは無理。舜ならまだしも」
「…そうですか」
反論が起きなかったのは、そもそも禄自身もそう思っていたのは確かで。自分がなぜオウライカを演ることになったのか、稽古が進めば進むほど、不思議でならない。能力は足りないし知識もない。経験値は圧倒的に少ない、と言うかないし、そもそも『普通の生活』の経験値さえない。
「あなたさあ、オウライカのこと、わかってないでしょ。彼が何を背負っているのかとか、そもそもオウライカって何なのかとか」
「…」
「わかってないのに、よく演る気になったわよねえ。私なら無理無理。既に困ってるんじゃない、色々と。役者経験もほとんどないのに、なのに主役なんてさあ」
選んだのは禄ではなく寺戸だが、望んだのは禄だった。足りないと言う自覚はあるから努力はしている。けれどこの女性の言うように根本的に無理ならば、明日、いやひょっとしたら今日にでもお役御免の話が出されるのかも知れない。
けれど。
「…主役降ろされても、いいですが」
「はあ?」
「寺戸さんが言うのなら」
「何、それ」
ぎらりと女性が目を光らせた。
「余裕のつもり」
「いえ、余裕というのではなくて」
ふと、例えば舜の演るオウライカも見てみたいと思った。陸斗や貢も演じることができるのだろう。禄が演じるオウライカとは全く違うのかも知れない。どこがどんな風に違うのか。胸がとくりと鳴る。純粋に興味が湧く。
「そんなことになったら、あなた『竜夢』に要らなくなってしまうのよ、わかってるの?」
「あ、えーと」
女性のことばを真剣に考えてみて、首を振る。
「それは無理じゃないかと思います」
「は?」
「『竜夢』はずっと人手不足なので」
禄がオウライカを降ろされるなら、他の誰かがなるのだろう。当然、他の誰かのしていた仕事が回らなくなる。かといって、素人の禄がカークやカザルやライヤーなんてできるわけがないから、誰かが役者になるのだろう。残る仕事は大道具とか衣装とか照明とか、まあとにかく仕事は山ほど残っているので、『竜夢』の事情をわかっているスタッフがすぐに見つからない限り、舞台間近のこの時期に禄を放逐したりする暇はないだろう。
それに。
脳裏を掠めたのは舜と暮らす暖かな家。
「何笑ってるのよ」
「いえ、ふと思ったんですが」
禄は微笑みながら答えた。
「ぼくにはまだそこまで、役者がかけがえのないものにはなっていないんだなと思って」
「…はああ?」
一番何もない日々を思い返せば、今は色々溢れて持ち余るほどだ。今オウライカが引き抜かれても、オウライカを得るために重ねた時間や方法は消えない。『竜夢』の中での役割も役者にこだわる必要もない。
「ぼくの中にライオンは居なかった」
「何の話?」
「でもようやくライオンって何かがわかって、そこへの手段が役者だったけど、ひょっとしたら他の方法でもライオンになれるのかなと思ってしまったから」
あ、そうか。
禄は不意に思い出した。
「大事なものなんて何もない、君以外にはって、そう言う意味なのか」
「…あなたねえ」
女性が冷ややかに目を細める。
「プライドってないの?」
「そんなもの」
禄は同じように目を細めた。
「親がとっくに磨り潰してますよ」
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