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第2章 『竜夢』
4.ラスボス登場 「命が欲しいならどうぞ、僕には無用のものなので」(3)
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荒破須賀屋。
その名前はこの辺りの小劇団の間じゃ、十分な脅威だ。
潤沢な資金と好機を逃さない宣伝力、名前の売り込み方のえげつなさと旨さは類を見ないし、何よりも他の劇団に対して嫉妬深い。
あれほどの興行成績を収め、あれほどの人材を掻き集めても満足せず、周囲のどんな小さな成功でさえ手に入れようと忍び寄って来る、けれども絶対自分の手は汚さない、影のような不吉の代名詞。
今もそうだ、椅子に座って開いた足の間に陸斗を侍らせている伊谷は、自分の手駒の一つでしかないはずなのに、どうだ、あの仄暗い怒りを湛えた目は。
『灰皿、あります?』
カークの寝室兼執務室を単独で訪れたライヤーは、カークが吸っていた煙草を口にして誘いをかける。誘いに乗ったカークはライヤーのベルトを外して開いた体の臍の横に、鮮やかに彫り込まれた蝶を見つけて我を失いすがりつく。短くなった煙草をどうするかと考えたライヤーとの、甘くて艶めかしいやりとりだ。
見えない煙草を支えた伊谷の鼻先で、陸斗は指先で『それ』を弾く。小技でも、支えている場所や弾く位置がずれているとお笑い種にしかならない動きだが、伊谷とは何度も上手く合わせられる。弾いた瞬間に、伊谷の指が軽くぶれるのも見事なもので、これほどの芝居ができる男を斥候にしか使えないとなると、荒破の才能は本当に劇団経営にしかないのかも知れない。
『駄目ですよ、そんなもの舐めちゃ』
灰を落とした掌を舐めようと舌を出して遮られる。見下ろした伊谷の瞳が潤んでいるのに嬉しくなる。横から眺める荒破の視線が、不思議に気にならない、と言うかむしろ。
ごく。
溢れそうになった唾を飲み込んでしまった。
『なぜ……駄目だ?』
尋ねた自分の声は読み合わせの時とも立ち稽古の時とも違って、掠れて熱っぽかった。
『なぜって……死んじゃいますよ?』
ライヤーはカークを堕としに来たはずなのに、どうしてだろう、この台詞には怯えがある。ふと、伊谷の中に、荒破へ流れる意識と視線を感じ取った。
どういうつもりだろう。何をする気だろう。禄は全く芝居を変えて来たけれど、こちらの2人が変えられなかったら失敗する。芝居のバランス、熱量の差、それらの未熟さをもし見抜かれでもして奪われてしまったら。
思わず陸斗は苦笑する。
何を今更、奪う気で入り込んで来たスパイの癖に、ここでたじろいでどうする気だ。
命が欲しいなら持っていけばいい、私には無用のものだ。今ここに居る瞬間しか伊谷の演じるライヤーが存在しないなら、応じるカークも今この瞬間しか存在しない。
『もう、死んでる』
『え』
『もう、死んでるんだから、どれだけ殺してもいい』
伊谷の体に自分を押し付けて這い上がりながら、その素肌と衣服の感触に皮膚が粟立った。
いずれは消えるこの人格だ。そうとも今荒破に暴かれ覗かれ寸分違わず複製されたとしても、繰り返しまた演じるたびに生まれて来るだろう、伊谷の演じるライヤーに呼ばれ、陸斗の知らぬ新しいカークがきっと。
『だから、殺してくれ………もっと、ちゃんと殺してくれ』
『カークさん……』
『そんなものじゃ、私は死なない……っ』
違うだろう、伊谷。そこでそんなに一杯一杯になるような育ち方をライヤーはしていない。愛しい相手があたり憚らずに自分を誘って乱れて見せても、冷笑しながら眺められるからこそ、ライヤーはオウライカの『影』が出来た。生まれ故郷へ、全くの別人の仮面を被り、破壊するための最終兵器として潜り込めた。
『もっと、ちゃんとっ』
『わけが、わからなくなるまでっ』
『何も、考えられなく、なるまでっ』
『あなたを、思い出せなく……なるまでっっ』
叫びながら、ふいに溢れた涙の中で陸斗は理解する。
なんと傲岸なことだろう、役者の命は道具でしかない。
貴重で愛しまれ守られるものではなく、限界を試し狂気を具現化し自分の領域をどう越えるのかという難題の壁に、数限りなく頭を打ち付ける苦行の器でしかない。
一番恐ろしいのは観客ではない。
人であることさえも演じることの前では意味をなくしてしまうような、この魂の在り方だ。
そうしてこの魂は、衣装をつけ台詞を口にすることで、恰も魔術師のように自分の命を素材にして、全く別の存在を作り出すことに没頭する。
『も…っと……っんん、っっ』
降りて来た伊谷の唇は芝居ではなくまともに陸斗の息を奪った。
心を込めた、情愛深い、そうしてライヤーが与えるとは思えぬ、甘くて熱い口付け。
目を閉じて受け取り、けれど陸斗は静かに目を開け、ライヤーの睫毛を眺め、静かに視線を荒破に流す。
こんな場面はない。
この場面ではカークはライヤーの愛撫に酔い痴れている。
なのに陸斗は流した目で荒破を掴み、相手の目が食い入るように自分を覗き込んでいるのを確認した上で、ゆっくり目を細めた。
荒破の顔が僅かに紅潮するのを、横目で見ながら微笑んだ。
その名前はこの辺りの小劇団の間じゃ、十分な脅威だ。
潤沢な資金と好機を逃さない宣伝力、名前の売り込み方のえげつなさと旨さは類を見ないし、何よりも他の劇団に対して嫉妬深い。
あれほどの興行成績を収め、あれほどの人材を掻き集めても満足せず、周囲のどんな小さな成功でさえ手に入れようと忍び寄って来る、けれども絶対自分の手は汚さない、影のような不吉の代名詞。
今もそうだ、椅子に座って開いた足の間に陸斗を侍らせている伊谷は、自分の手駒の一つでしかないはずなのに、どうだ、あの仄暗い怒りを湛えた目は。
『灰皿、あります?』
カークの寝室兼執務室を単独で訪れたライヤーは、カークが吸っていた煙草を口にして誘いをかける。誘いに乗ったカークはライヤーのベルトを外して開いた体の臍の横に、鮮やかに彫り込まれた蝶を見つけて我を失いすがりつく。短くなった煙草をどうするかと考えたライヤーとの、甘くて艶めかしいやりとりだ。
見えない煙草を支えた伊谷の鼻先で、陸斗は指先で『それ』を弾く。小技でも、支えている場所や弾く位置がずれているとお笑い種にしかならない動きだが、伊谷とは何度も上手く合わせられる。弾いた瞬間に、伊谷の指が軽くぶれるのも見事なもので、これほどの芝居ができる男を斥候にしか使えないとなると、荒破の才能は本当に劇団経営にしかないのかも知れない。
『駄目ですよ、そんなもの舐めちゃ』
灰を落とした掌を舐めようと舌を出して遮られる。見下ろした伊谷の瞳が潤んでいるのに嬉しくなる。横から眺める荒破の視線が、不思議に気にならない、と言うかむしろ。
ごく。
溢れそうになった唾を飲み込んでしまった。
『なぜ……駄目だ?』
尋ねた自分の声は読み合わせの時とも立ち稽古の時とも違って、掠れて熱っぽかった。
『なぜって……死んじゃいますよ?』
ライヤーはカークを堕としに来たはずなのに、どうしてだろう、この台詞には怯えがある。ふと、伊谷の中に、荒破へ流れる意識と視線を感じ取った。
どういうつもりだろう。何をする気だろう。禄は全く芝居を変えて来たけれど、こちらの2人が変えられなかったら失敗する。芝居のバランス、熱量の差、それらの未熟さをもし見抜かれでもして奪われてしまったら。
思わず陸斗は苦笑する。
何を今更、奪う気で入り込んで来たスパイの癖に、ここでたじろいでどうする気だ。
命が欲しいなら持っていけばいい、私には無用のものだ。今ここに居る瞬間しか伊谷の演じるライヤーが存在しないなら、応じるカークも今この瞬間しか存在しない。
『もう、死んでる』
『え』
『もう、死んでるんだから、どれだけ殺してもいい』
伊谷の体に自分を押し付けて這い上がりながら、その素肌と衣服の感触に皮膚が粟立った。
いずれは消えるこの人格だ。そうとも今荒破に暴かれ覗かれ寸分違わず複製されたとしても、繰り返しまた演じるたびに生まれて来るだろう、伊谷の演じるライヤーに呼ばれ、陸斗の知らぬ新しいカークがきっと。
『だから、殺してくれ………もっと、ちゃんと殺してくれ』
『カークさん……』
『そんなものじゃ、私は死なない……っ』
違うだろう、伊谷。そこでそんなに一杯一杯になるような育ち方をライヤーはしていない。愛しい相手があたり憚らずに自分を誘って乱れて見せても、冷笑しながら眺められるからこそ、ライヤーはオウライカの『影』が出来た。生まれ故郷へ、全くの別人の仮面を被り、破壊するための最終兵器として潜り込めた。
『もっと、ちゃんとっ』
『わけが、わからなくなるまでっ』
『何も、考えられなく、なるまでっ』
『あなたを、思い出せなく……なるまでっっ』
叫びながら、ふいに溢れた涙の中で陸斗は理解する。
なんと傲岸なことだろう、役者の命は道具でしかない。
貴重で愛しまれ守られるものではなく、限界を試し狂気を具現化し自分の領域をどう越えるのかという難題の壁に、数限りなく頭を打ち付ける苦行の器でしかない。
一番恐ろしいのは観客ではない。
人であることさえも演じることの前では意味をなくしてしまうような、この魂の在り方だ。
そうしてこの魂は、衣装をつけ台詞を口にすることで、恰も魔術師のように自分の命を素材にして、全く別の存在を作り出すことに没頭する。
『も…っと……っんん、っっ』
降りて来た伊谷の唇は芝居ではなくまともに陸斗の息を奪った。
心を込めた、情愛深い、そうしてライヤーが与えるとは思えぬ、甘くて熱い口付け。
目を閉じて受け取り、けれど陸斗は静かに目を開け、ライヤーの睫毛を眺め、静かに視線を荒破に流す。
こんな場面はない。
この場面ではカークはライヤーの愛撫に酔い痴れている。
なのに陸斗は流した目で荒破を掴み、相手の目が食い入るように自分を覗き込んでいるのを確認した上で、ゆっくり目を細めた。
荒破の顔が僅かに紅潮するのを、横目で見ながら微笑んだ。
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