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第2章 『竜夢』
8.ラッキー・ガール 「幻は幻でいい」(1)
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どこで禄の顔を知り、経歴を知ったのだろう。
いや、ネット社会だから、どこでも何としてでも、情報なんて手に入るか。
『いいよな、実力者のペットだと、素人でも色々便宜が図ってもらえてさ』
本番の数時間前、早く来すぎた舞台袖と控え室をついうろうろしてしまって、直前のミーティングにはまだ時間がある、それでも公演する会館の前にはちらほらと人が集まって来ていて、手に『竜夢』のチラシやパンフレットを持っていて、あの人達が自分を観る、『竜は街に居る』の予告編をネットで見たり人から聞いたりして、確かに期待に値するものか確認するんだと思って、胸がどんどん打ち鳴らされて行くのを感じながら。
禄は昨夜の男のことばを思い出していた。
舜が家を出ると言ってきた。2日間の公演、それが済むまで、実家に戻ると。
実家に戻る。
そう聞いて、胸が強く締まって痛くなった。
そんな選択肢は禄にはない。
禄には『竜夢』が全てだし、この先のこともわからない。本当のところ、公演が終わった後も舜と暮らし続けられるのか、それとも再び小さくて狭い何処かの部屋で、幻のように過ぎていったこの公演のことを思い出しながら、『あいおい』で働き続けて朽ちて行くのか、それさえもわからないし、あり得る。
自分が役者としての才能があると思わない。いくら望んでも願っても、手に入らないものが世の中にはいくつもあることを、知り過ぎるほど知っている。
戻れる場所はない。
今この世界、この舞台、オウライカだけが、禄の居場所だ。
演じ終わった後に何が残るのか、それとも何も残らないのか。
そんなことを思いながら、冷えた家を出て、コンビニで弁当を買って戻ってきた、その矢先、家の前に街灯を背中に1人の男が立ちはだかって、言い放った。
「いいよな、実力者のペットだと、素人でも色々便宜が図ってもらえてさ」
「…誰だ」
「ずっと努力してきてさ、何年もその場所を望んでさ、頑張って頑張って、ようやくそこに立った人間もいるわけよ。で、お前は何なの、ずぶの素人でさ、学んだわけでもしごかれたわけでもなくてさ、たまたまオーディションに受かってさ、周りにあちこち整えてもらってさ、ちやほやされてちょっとその気になっちゃって、ネットでカッコつけて見たりさ、実力ないってわかってんのに恥ずかしくないの、よくそんなので役者やってるよね、ほんと」
「……」
名乗る気はなさそうなので問うのはやめた。禄が黙ったのを押さえたと思ったのか、相手は大きく息をついて、肩を竦めて見せる。
「正直言ってさ、俺らが恥ずかしいわけよ、おんなじ役者を名乗ってもらうと。明らかに違うでしょ、才能とか技術とか見かけとか経験とか。しかも主役? ふざけんじゃねえよ、覚悟も能力もない奴が、何を偉そうに舞台に上がってくれちゃってるの。芝居やるのに必死こいたことないだろ、もがいたり足掻いたり歯ぁ食いしばったり、いろんなものを犠牲にして代償払って、自分ズタズタにしてさ。そういうものを積み重ねもくぐり抜けもしていない奴が、イッパシの顔して役者ですなんて名乗って欲しくないわけ。わかる? 聞こえてる? 俺の言ってること、理解してる?」
役者としてどうかは知らないが、生きていることだけでずっと死に物狂いだった。死なないために必死だった。そんなこんなを話しても、この男には響かないしわからないだろうと感じた。世の中の誰もが、自分ほどの傷みや苦痛を味わったことがないと思っている人間は、いつも同じだ。笑顔で人を突き刺しても、正義のためだから仕方がなかったと平然と嘯ける。
舜がいれば、激怒し男に飛びかかっただろう。陸斗がいれば、行こうと腕を取っただろう。伊谷がいれば、男の正しさを突き崩す理論で嘲笑って撃退し、寺戸は男など存在しないようにするりと家に戻っただろう。
けれど禄は。
「…幻だなんてわかっているよ」
「は?」
「僕の存在が、真実だなんて思っちゃいない」
「偉そうに。何様なんだよ、じゃあさっさと降りろよお、その分不相応な場所から。御免なさい、俺じゃあ力不足でしたって泣いて詫びろよ、役者を真剣にやっている全ての人間に土下座しろ。自分が大したものじゃないなんて思ってる奴に主役張られたら、他の人間に迷惑だ、ああきっとそうだぜ、お前と一緒に舞台に上がってる奴はみんなそう思ってる、保証してやる。そりゃあ大人だからさ、正面切ってお前を責める奴なんていない、けどこの舞台は失敗だ、つまんない仕事になった、どうしようもない場所だってがっかりさせてんだ、そういう自覚もねえだろ、お前は」
「だから、そう言われるのを聞くことにするよ」
「…は?」
「俺は幻だ。幻は幻でいい。幻に関わったみんなには済まないと思うけど、舞台が終わった後、存分にがっかりして嘆いて残念がってくれればいい。俺の不出来さに呆れて、明後日の舞台で降板されるなら、俺はそれも受け入れる」
きっと辛いだろう、情けないだろう、自分の頑張りも意味がなかったと心底落ち込むことだろう、舜が出て行った、あの空っぽで暗い部屋に、コンビニで買った弁当ひとつ持ち帰り、ぼそぼそと食べ始めるように惨めだろう。
けれど。
禄は薄く笑った。
いや、ネット社会だから、どこでも何としてでも、情報なんて手に入るか。
『いいよな、実力者のペットだと、素人でも色々便宜が図ってもらえてさ』
本番の数時間前、早く来すぎた舞台袖と控え室をついうろうろしてしまって、直前のミーティングにはまだ時間がある、それでも公演する会館の前にはちらほらと人が集まって来ていて、手に『竜夢』のチラシやパンフレットを持っていて、あの人達が自分を観る、『竜は街に居る』の予告編をネットで見たり人から聞いたりして、確かに期待に値するものか確認するんだと思って、胸がどんどん打ち鳴らされて行くのを感じながら。
禄は昨夜の男のことばを思い出していた。
舜が家を出ると言ってきた。2日間の公演、それが済むまで、実家に戻ると。
実家に戻る。
そう聞いて、胸が強く締まって痛くなった。
そんな選択肢は禄にはない。
禄には『竜夢』が全てだし、この先のこともわからない。本当のところ、公演が終わった後も舜と暮らし続けられるのか、それとも再び小さくて狭い何処かの部屋で、幻のように過ぎていったこの公演のことを思い出しながら、『あいおい』で働き続けて朽ちて行くのか、それさえもわからないし、あり得る。
自分が役者としての才能があると思わない。いくら望んでも願っても、手に入らないものが世の中にはいくつもあることを、知り過ぎるほど知っている。
戻れる場所はない。
今この世界、この舞台、オウライカだけが、禄の居場所だ。
演じ終わった後に何が残るのか、それとも何も残らないのか。
そんなことを思いながら、冷えた家を出て、コンビニで弁当を買って戻ってきた、その矢先、家の前に街灯を背中に1人の男が立ちはだかって、言い放った。
「いいよな、実力者のペットだと、素人でも色々便宜が図ってもらえてさ」
「…誰だ」
「ずっと努力してきてさ、何年もその場所を望んでさ、頑張って頑張って、ようやくそこに立った人間もいるわけよ。で、お前は何なの、ずぶの素人でさ、学んだわけでもしごかれたわけでもなくてさ、たまたまオーディションに受かってさ、周りにあちこち整えてもらってさ、ちやほやされてちょっとその気になっちゃって、ネットでカッコつけて見たりさ、実力ないってわかってんのに恥ずかしくないの、よくそんなので役者やってるよね、ほんと」
「……」
名乗る気はなさそうなので問うのはやめた。禄が黙ったのを押さえたと思ったのか、相手は大きく息をついて、肩を竦めて見せる。
「正直言ってさ、俺らが恥ずかしいわけよ、おんなじ役者を名乗ってもらうと。明らかに違うでしょ、才能とか技術とか見かけとか経験とか。しかも主役? ふざけんじゃねえよ、覚悟も能力もない奴が、何を偉そうに舞台に上がってくれちゃってるの。芝居やるのに必死こいたことないだろ、もがいたり足掻いたり歯ぁ食いしばったり、いろんなものを犠牲にして代償払って、自分ズタズタにしてさ。そういうものを積み重ねもくぐり抜けもしていない奴が、イッパシの顔して役者ですなんて名乗って欲しくないわけ。わかる? 聞こえてる? 俺の言ってること、理解してる?」
役者としてどうかは知らないが、生きていることだけでずっと死に物狂いだった。死なないために必死だった。そんなこんなを話しても、この男には響かないしわからないだろうと感じた。世の中の誰もが、自分ほどの傷みや苦痛を味わったことがないと思っている人間は、いつも同じだ。笑顔で人を突き刺しても、正義のためだから仕方がなかったと平然と嘯ける。
舜がいれば、激怒し男に飛びかかっただろう。陸斗がいれば、行こうと腕を取っただろう。伊谷がいれば、男の正しさを突き崩す理論で嘲笑って撃退し、寺戸は男など存在しないようにするりと家に戻っただろう。
けれど禄は。
「…幻だなんてわかっているよ」
「は?」
「僕の存在が、真実だなんて思っちゃいない」
「偉そうに。何様なんだよ、じゃあさっさと降りろよお、その分不相応な場所から。御免なさい、俺じゃあ力不足でしたって泣いて詫びろよ、役者を真剣にやっている全ての人間に土下座しろ。自分が大したものじゃないなんて思ってる奴に主役張られたら、他の人間に迷惑だ、ああきっとそうだぜ、お前と一緒に舞台に上がってる奴はみんなそう思ってる、保証してやる。そりゃあ大人だからさ、正面切ってお前を責める奴なんていない、けどこの舞台は失敗だ、つまんない仕事になった、どうしようもない場所だってがっかりさせてんだ、そういう自覚もねえだろ、お前は」
「だから、そう言われるのを聞くことにするよ」
「…は?」
「俺は幻だ。幻は幻でいい。幻に関わったみんなには済まないと思うけど、舞台が終わった後、存分にがっかりして嘆いて残念がってくれればいい。俺の不出来さに呆れて、明後日の舞台で降板されるなら、俺はそれも受け入れる」
きっと辛いだろう、情けないだろう、自分の頑張りも意味がなかったと心底落ち込むことだろう、舜が出て行った、あの空っぽで暗い部屋に、コンビニで買った弁当ひとつ持ち帰り、ぼそぼそと食べ始めるように惨めだろう。
けれど。
禄は薄く笑った。
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