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第2章 『竜夢』
8.ラッキー・ガール 「幻は幻でいい」(2)
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「お前には、わからないよ」
「…は?」
「俺にお前の気持ちがわからないと同じように、お前に俺のことはわからない。お前は俺を知らない。住所や名前や経歴や、そんなものをほじくり返したところで、俺が今この世界で、どんなに」
いきなり溢れた感情に胸が詰まる。
「どんなに……嬉しいか、わからない」
いつ死ぬのだろうと思っていた。
いつか死ねるのだろうかと思っていた。
箪笥の奥で、床に這いながら、冷えた空気の中、乾き切った喉から出る血が甘いと思うほど。
罵倒であれ、失望であれ、喜ばしいものではなくとも、今世界は禄が居ることに反応してくれる。それこそ、目の前の男でさえ、禄がこの世界で生きて居ることの証でしかない。
禄の一番底の底の世界は、命のかけらがない世界だ。
だから、この芝居で終わろうが終わるまいがどうでもいい。
「俺にとって、役者は、命の世界への入り口だ。誰かに正しいとか正しくないとか言われて失うようなものじゃない。オウライカが幻なら、幻でいい。けれど、俺はもう、この入り口を見失わない」
声が掠れた。
「お前は、そんなものを持っているか?」
「…っ」
相手が体を引いた。
禄は一歩踏み出した。
禄の一歩だったが、胸の中からオウライカが迫り出してきて、唇は勝手にことばを紡いだ。
「この世界には、花が咲くんだ。知ってるか?」
「この世界の人は、笑うんだ。知ってるか?」
「お前は大丈夫かって聞いてくれるんだ。知ってるか?」
「いつ死ぬかわからないのに。いつ消えるかわからないのに。幻の俺の無事を祈る指があるんだ、知ってるか?」
「儚くて脆くて、自分達こそ、明日にはいなくなっているのかも知れないのに、大変だったねと背中を撫でてくれる、知ってるか?」
「俺のことなんてどうでもいい、俺の評価なんてどうでもいい、守れればいい、それだけしか望まない」
「おい…」
「どれだけ望んでも守っても、消えてしまうこの幻の世界を、俺がどれほど愛しているか、知ってるか?」
「おい…お前…」
おかしいぞ。
小さな囁きを零して、男は数歩後ずさる。禄は数歩前へ進む。
何かに呼ばれたような気がして、ふいに見上げた夜空に、影しか見えない、けれども大量の黒蝶が群れを成して流れるように羽ばたいているのがわかった。
「ああ…蝶だ」
すとりと落ちてくる黄金の光。
転生を繰り返す命の中で、時を定めて落とし込まれた約束の絆。
ライヤーが見ただろう、あの光景が、寸分違わず視界に入る。それはきっと、オウライカが見せたかったものだ。竜の贄になることを受け入れた理由。どれだけカザルを愛しいと思っても、それを含めて上回る愛しさに圧倒されてしまったから、いずれ必ず再会できると確信したから、その時に選択し損ねた後悔に唇を噤むつもりはなかったから、静かに世界を手放した。
「蝶が…飛んでいく」
「…ひっ」
指差したのは、同じ素晴らしい光景を見せたかったからだが、男は小さく悲鳴を上げた。この世ならぬものに出会ってしまったように、身を翻して駆け去っていく。
「……あれ…?」
いつの間にかぼろぼろ泣いていたのに気づいたのは、その後だ。
「…怖かっただろうなあ」
禄は呟いて、くすりと笑った。
「いきなり蝶とか言い出して、コンビニの弁当下げつつ、空を指差して泣く男、だもんなあ」
幕開けを待つ、胸の轟きは落ち着いていた。
「……全部、僕のものだ」
スーツの胸を押さえる。
「経験することみんな、僕のものだ」
極上の料理が供される。甘かったり苦かったり、辛かったり酸っぱかったり、優しかったり深かったり。
命が紡ぐ、感情という名のフルコース。
「十分、楽しもう」
「禄!」
声に振り返ると、ネクタイを閃かせて舜がやってくる。
「ぼちぼちミーティング!」
「わかった」
世界は美しい。
禄は舜の笑顔に目を細めた。
「…は?」
「俺にお前の気持ちがわからないと同じように、お前に俺のことはわからない。お前は俺を知らない。住所や名前や経歴や、そんなものをほじくり返したところで、俺が今この世界で、どんなに」
いきなり溢れた感情に胸が詰まる。
「どんなに……嬉しいか、わからない」
いつ死ぬのだろうと思っていた。
いつか死ねるのだろうかと思っていた。
箪笥の奥で、床に這いながら、冷えた空気の中、乾き切った喉から出る血が甘いと思うほど。
罵倒であれ、失望であれ、喜ばしいものではなくとも、今世界は禄が居ることに反応してくれる。それこそ、目の前の男でさえ、禄がこの世界で生きて居ることの証でしかない。
禄の一番底の底の世界は、命のかけらがない世界だ。
だから、この芝居で終わろうが終わるまいがどうでもいい。
「俺にとって、役者は、命の世界への入り口だ。誰かに正しいとか正しくないとか言われて失うようなものじゃない。オウライカが幻なら、幻でいい。けれど、俺はもう、この入り口を見失わない」
声が掠れた。
「お前は、そんなものを持っているか?」
「…っ」
相手が体を引いた。
禄は一歩踏み出した。
禄の一歩だったが、胸の中からオウライカが迫り出してきて、唇は勝手にことばを紡いだ。
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「いつ死ぬかわからないのに。いつ消えるかわからないのに。幻の俺の無事を祈る指があるんだ、知ってるか?」
「儚くて脆くて、自分達こそ、明日にはいなくなっているのかも知れないのに、大変だったねと背中を撫でてくれる、知ってるか?」
「俺のことなんてどうでもいい、俺の評価なんてどうでもいい、守れればいい、それだけしか望まない」
「おい…」
「どれだけ望んでも守っても、消えてしまうこの幻の世界を、俺がどれほど愛しているか、知ってるか?」
「おい…お前…」
おかしいぞ。
小さな囁きを零して、男は数歩後ずさる。禄は数歩前へ進む。
何かに呼ばれたような気がして、ふいに見上げた夜空に、影しか見えない、けれども大量の黒蝶が群れを成して流れるように羽ばたいているのがわかった。
「ああ…蝶だ」
すとりと落ちてくる黄金の光。
転生を繰り返す命の中で、時を定めて落とし込まれた約束の絆。
ライヤーが見ただろう、あの光景が、寸分違わず視界に入る。それはきっと、オウライカが見せたかったものだ。竜の贄になることを受け入れた理由。どれだけカザルを愛しいと思っても、それを含めて上回る愛しさに圧倒されてしまったから、いずれ必ず再会できると確信したから、その時に選択し損ねた後悔に唇を噤むつもりはなかったから、静かに世界を手放した。
「蝶が…飛んでいく」
「…ひっ」
指差したのは、同じ素晴らしい光景を見せたかったからだが、男は小さく悲鳴を上げた。この世ならぬものに出会ってしまったように、身を翻して駆け去っていく。
「……あれ…?」
いつの間にかぼろぼろ泣いていたのに気づいたのは、その後だ。
「…怖かっただろうなあ」
禄は呟いて、くすりと笑った。
「いきなり蝶とか言い出して、コンビニの弁当下げつつ、空を指差して泣く男、だもんなあ」
幕開けを待つ、胸の轟きは落ち着いていた。
「……全部、僕のものだ」
スーツの胸を押さえる。
「経験することみんな、僕のものだ」
極上の料理が供される。甘かったり苦かったり、辛かったり酸っぱかったり、優しかったり深かったり。
命が紡ぐ、感情という名のフルコース。
「十分、楽しもう」
「禄!」
声に振り返ると、ネクタイを閃かせて舜がやってくる。
「ぼちぼちミーティング!」
「わかった」
世界は美しい。
禄は舜の笑顔に目を細めた。
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