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第2章 『竜夢』
9.螺旋細工 「大きく息して、私のために」(2)
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芝居が変わる。
同じ台詞、同じ立ち位置、同じ照明、同じ音楽、同じ出入りのはずなのに。
ほんの数秒の台詞の遅れ、わずかに高まった口調、一瞬空いた間合い、客席からの咳払い一つで空間が狂い、気配がずれる。
「ごっふん、ごほん!」
生理的な現象は止めようがない、例えどこからかの妨害によるとしても証明しようがない、大事なのは咳が響こうともくしゃみが続こうとも急にトイレに立ち上がる客が数人現れようとも、芝居を緩ませない気力と機転。
そうか、現実込みなんだ。
腑に落ちた気がした。
芝居は生きた人間が演じている。人間だから日々体調も違い予想外のことも起きる。起きて当然、けれども舞台は「あらかじめ設定し作り上げられた世界」で成り立っている。その世界を崩さぬように、役者は死力を尽くすけれど。
がたっ!がたたっ!
客席で何かが転げ落ちる音がした。小さな声、大丈夫、うんごめんね。それだけの会話で舞台は脅かされてしまう。何もなかったフリをして進めれば、客はこの舞台は「作り物」だと思わせて夢から覚めていってしまう。
だからここは。
禄は鋭く観客席を振り向く。ピリッとした緊張感が周囲に漲るのを確認してから、ゆっくりと部屋の隅々まで注意を向けたと言う顔で、舜に向き直る。舜も心得たものだ、『オウライカ』が周囲を意識するのと同じように視線を揺らせ、再び禄と視線を合わせてから、少し微笑む。
『大丈夫だよ』
これはアドリブ、だが、秘密の会話が周囲に漏れ聞こえなかったかと言うオウライカの警戒に応じてのことばと聞こえる。そうしてまた、カザルの行く末を案じるオウライカへの慰めとも響くはずだ。現実のアクシデントは舞台に組み込まれ、舞台の完成度を上げていく。役柄に自分を持ち込んで作り上げ、その役柄を演じて自分の人生を深めていくように。
『大きく息してて。俺のために』
萎縮しかけた観客を飲み込み、舞台を支配するのは舜の十八番芸だ。オウライカに語りかけつつ、観客にも呼びかける。間違いなんてないよ、あなたもまた、この舞台を作っている一人だから、どうぞそのまま、そこに居て。
『まさか、お前……伽京の竜を』
だから禄も観客を舞台に呼び戻す。キスで封じられるはずの台詞をはっきり口にする。
にっ、と舜が笑う。オウライカに向き合っている場面は、オウライカが半分背中を観客に向けているから、舜の正面に居た客は、憎たらしいほど魅力的な、したたかで可愛い笑顔を満喫できたはずだ。昨日の客は見られなかった、今日の客しか味わえなかった、僥倖。
『じゃ、行きます』
禄と舜のパートは終わる。緑のコートを翻して舞台袖へ歩いていく舜を、禄は見つめ続ける、無言のまま、少し浮きかけた手をゆっくり下ろし、机の上で握り締めて。
舞台の中に現実を練り込み、現実の中に舞台の意味を響かせ、二重螺旋の構造が仕上がっていく。
これこそが、舞台が人の世に存在する意味なのだろう。
禄の人生を大きく変えた芝居が、今終わっていく。
ここで終わりたくない。
口の中で響いた予定外の台詞の甘さを、禄は静かに味わった。
同じ台詞、同じ立ち位置、同じ照明、同じ音楽、同じ出入りのはずなのに。
ほんの数秒の台詞の遅れ、わずかに高まった口調、一瞬空いた間合い、客席からの咳払い一つで空間が狂い、気配がずれる。
「ごっふん、ごほん!」
生理的な現象は止めようがない、例えどこからかの妨害によるとしても証明しようがない、大事なのは咳が響こうともくしゃみが続こうとも急にトイレに立ち上がる客が数人現れようとも、芝居を緩ませない気力と機転。
そうか、現実込みなんだ。
腑に落ちた気がした。
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がたっ!がたたっ!
客席で何かが転げ落ちる音がした。小さな声、大丈夫、うんごめんね。それだけの会話で舞台は脅かされてしまう。何もなかったフリをして進めれば、客はこの舞台は「作り物」だと思わせて夢から覚めていってしまう。
だからここは。
禄は鋭く観客席を振り向く。ピリッとした緊張感が周囲に漲るのを確認してから、ゆっくりと部屋の隅々まで注意を向けたと言う顔で、舜に向き直る。舜も心得たものだ、『オウライカ』が周囲を意識するのと同じように視線を揺らせ、再び禄と視線を合わせてから、少し微笑む。
『大丈夫だよ』
これはアドリブ、だが、秘密の会話が周囲に漏れ聞こえなかったかと言うオウライカの警戒に応じてのことばと聞こえる。そうしてまた、カザルの行く末を案じるオウライカへの慰めとも響くはずだ。現実のアクシデントは舞台に組み込まれ、舞台の完成度を上げていく。役柄に自分を持ち込んで作り上げ、その役柄を演じて自分の人生を深めていくように。
『大きく息してて。俺のために』
萎縮しかけた観客を飲み込み、舞台を支配するのは舜の十八番芸だ。オウライカに語りかけつつ、観客にも呼びかける。間違いなんてないよ、あなたもまた、この舞台を作っている一人だから、どうぞそのまま、そこに居て。
『まさか、お前……伽京の竜を』
だから禄も観客を舞台に呼び戻す。キスで封じられるはずの台詞をはっきり口にする。
にっ、と舜が笑う。オウライカに向き合っている場面は、オウライカが半分背中を観客に向けているから、舜の正面に居た客は、憎たらしいほど魅力的な、したたかで可愛い笑顔を満喫できたはずだ。昨日の客は見られなかった、今日の客しか味わえなかった、僥倖。
『じゃ、行きます』
禄と舜のパートは終わる。緑のコートを翻して舞台袖へ歩いていく舜を、禄は見つめ続ける、無言のまま、少し浮きかけた手をゆっくり下ろし、机の上で握り締めて。
舞台の中に現実を練り込み、現実の中に舞台の意味を響かせ、二重螺旋の構造が仕上がっていく。
これこそが、舞台が人の世に存在する意味なのだろう。
禄の人生を大きく変えた芝居が、今終わっていく。
ここで終わりたくない。
口の中で響いた予定外の台詞の甘さを、禄は静かに味わった。
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