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幕間 2『扉』
『扉』(3)
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人生には色々な扉がある。
それを開くと新しい場所や世界に行けて、今までと違う人生が始まる扉。
けれどそれは、開いて見ないとわからない。
時に扉のようには見えないものもある。
運命を変えた扉は、と聞かれるなら、エレベーターの扉、と答えるかもな。
貢のマンションのエレベーターから降りながら、陸斗はふと思った。
カーペットを敷いた廊下、限られた数のドアしかない通路、あからさまに一般の人間が出入りできるようなレベルじゃないとわかる。始めは通るのにどこかびくびくして緊張していたが、慣れというのは恐ろしい。今では当たり前のように外から専用のカードキーを使って上がってきて、目当てのドアに辿り着く。
伊谷貢と言う男のどこに、陸斗に繋がるドアがあったのか、今となってはわからないが、ひょっとするとその扉は、あのオーディションの時に開いていたのかも知れない。自分では足りないと寺戸に判断されて、片思いしている舜の相手役を見つけるオーディションを横目にエレベーターから出てきたけれど、屋上から舜が落ちかけたと知ってとっさに飛び戻ったエレベーターの扉。
ずっと一人で生きていくつもりで、ずっと一人で居るしかないと覚悟を決めていたのに、考える間も無く扉の中に飛び込んで、気がつけば指先で触れても熱を持つような関係に溺れている。
「貢?」
珍しく部屋には誰もいなかった。人の気配もない。
カレンダーを見て、平日の昼間だと改めて気づく。
そうだ、少し前は陸斗だって、こんな時間に部屋でだらだらできるなんて、それだけで階層が違う人間だろうと決めてかかっていた。
窓に近寄り、遥か遠くまで眺められる光景に、ガラスにそっと掌を当てる。
ゆっくりと視線を下ろす。
流れていく車、道を歩く人の列、その中の一人、銀の盆を片手にして注文先へ急ぐ男と視線が合った気がする。
いつかあちら側へ行くことがあるんだろうか。
必死に毎日を働く日々に、一瞬考えて高層ビルを見上げたことがあった。
一生働いても手に入ることのない高級マンションの一室。
どれだけ望んでも学歴一つで弾かれそうな一流企業のオフィス。
奇跡のようなオーディションを潜り抜け眩いフラッシュの繰り返しで辿り着くステージ。
あり得ない。
あり得ない。
苦笑いとともに諦めて道を急いだあの頃の自分に、いつかお前は信じられないほどの資産を持つ、未来有望な青年に、焦がれるほどに愛し抜かれて、夜も日も明けないほどに求められて、暑さにうだることも寒さに凍えることもなく、望むままの衣服を纏い、好みの食べ物を取り寄せ、芝居のことだけ考えて暮らしていくことができると話したら、どんな顔をしただろう。
妄想だ。
幻覚だ。
頭のネジがイかれている。
「…そうだよな」
ガラスに映った自分が唇を噛み締める。
この暮らしが、どれほど危うい刃先の上のものなのか、いっときも忘れることはない。
人の心は移ろう。
この生活は貢の寵愛の元に成り立っている。
いつでも元の暮らしに戻らなくてはならないと覚悟するから、赤い炊飯器は置いているが、上品で高品質な部屋の中におかれたそれは、腐りかけたさくらんぼのように小さく縮こまっているようだ。
今日は大丈夫でも、明日は。
今年は無事でも、来年は。
今この時の陸斗は魅力的でも、数時間後、あるいは今夜のベッドの後では、陸斗の価値は無くなるのかも知れない。
だからこそ。
「……炊くか」
下げていたレジ袋から、2kgの米を取り出した。スーパーの一番安いコメだ。
綺麗に磨き上げられた流しに持ち込み、丁寧に洗って水を切る。しばらくしてから炊飯器にセットして炊き上げる。
今日貢は家に居るはずだった。陸斗は買い物に出ていて、役所に所用もあったから、この時間に戻ることはないはずだった。
急な外出や不在は必ず連絡してくれるのに、携帯には何も入っていなかった。
陸斗には言えない外出なのか、それとも連絡をすることもできないぐらいの急用か。
「ふりかけ買うの、久しぶりだな」
レジ袋から海苔と卵の入ったふりかけを取り出す。
炊き上がったら、茶碗に盛り付け、日差しの気持ちいい窓際で、ふりかけを振って食べてやろう。
いそいそとテーブルに箸を並べ、ペットボトルの茶を出し、その横に薄い紙を並べる。
炊き上がるまでに書こう。
ボールペンを取り出し、一文字一文字書き込んで行く。
一人分を書き上げ、日にかざして眺め、少し苦笑いした。
たったこれだけのことに、なぜ今まで引っかかっていたんだろう。
男を愛する自分が居て、大切で大事な相手が居て、ただそれだけのことなのに、なぜ世間はどう思うかとか、常識がどうとか生物学的にどうかとか、それこそ人としてどうかとか、そんなことまで考えてしまっていたんだろう。
自分の中の何が変わったとうまく説明できないが、一つの芝居を演じ終えて、自分の人生が全く違う光景に見えたのは初めてだろう。
ただの一人の男ってだけだ。
ただの一人の人間ってだけだ。
輝夜陸斗と言う人間がここに居るだけだ。
「………それ、婚姻届?」
「っっ?!」
耳元で囁かれて、ぞわっと身体中の毛が逆立った。
「伊谷…っ?」
「…誰に渡す気なの?」
「お前っ…どこに」
「寝室の……床」
「は?」
「寝てて落っこちたみたい。映像編集で疲れたのかも。そのまま寝てた」
ふわああと眠そうに欠伸をしながら一旦離れて、伊谷は自分の茶碗と箸を持ってきた。
「僕も食べるね…このふりかけ、なっつかしい」
そのまま、陸斗に聞くこともなく婚姻届に自分の名前を書き込む。
「…伊谷……」
「別姓でもいいけど、どうせならリクが嫁にきてよ」
唇を尖らせながら言う。
「そりゃあ、輝夜貢なんて……あ、そのままだ」
へらりと笑った。
「僕はあなたに一生貢ぎ続けますって?」
伊谷陸斗って、それこそヒーローものの役柄みたいじゃないか。
反論は合わせられた唇に飲まれる。
炊飯器の飯はもう少ししたら炊ける。
そうしたら、2人でふりかけをかけて飯を食おう。
微笑みながら、陸斗は婚姻届を大事に片付けた。
それを開くと新しい場所や世界に行けて、今までと違う人生が始まる扉。
けれどそれは、開いて見ないとわからない。
時に扉のようには見えないものもある。
運命を変えた扉は、と聞かれるなら、エレベーターの扉、と答えるかもな。
貢のマンションのエレベーターから降りながら、陸斗はふと思った。
カーペットを敷いた廊下、限られた数のドアしかない通路、あからさまに一般の人間が出入りできるようなレベルじゃないとわかる。始めは通るのにどこかびくびくして緊張していたが、慣れというのは恐ろしい。今では当たり前のように外から専用のカードキーを使って上がってきて、目当てのドアに辿り着く。
伊谷貢と言う男のどこに、陸斗に繋がるドアがあったのか、今となってはわからないが、ひょっとするとその扉は、あのオーディションの時に開いていたのかも知れない。自分では足りないと寺戸に判断されて、片思いしている舜の相手役を見つけるオーディションを横目にエレベーターから出てきたけれど、屋上から舜が落ちかけたと知ってとっさに飛び戻ったエレベーターの扉。
ずっと一人で生きていくつもりで、ずっと一人で居るしかないと覚悟を決めていたのに、考える間も無く扉の中に飛び込んで、気がつけば指先で触れても熱を持つような関係に溺れている。
「貢?」
珍しく部屋には誰もいなかった。人の気配もない。
カレンダーを見て、平日の昼間だと改めて気づく。
そうだ、少し前は陸斗だって、こんな時間に部屋でだらだらできるなんて、それだけで階層が違う人間だろうと決めてかかっていた。
窓に近寄り、遥か遠くまで眺められる光景に、ガラスにそっと掌を当てる。
ゆっくりと視線を下ろす。
流れていく車、道を歩く人の列、その中の一人、銀の盆を片手にして注文先へ急ぐ男と視線が合った気がする。
いつかあちら側へ行くことがあるんだろうか。
必死に毎日を働く日々に、一瞬考えて高層ビルを見上げたことがあった。
一生働いても手に入ることのない高級マンションの一室。
どれだけ望んでも学歴一つで弾かれそうな一流企業のオフィス。
奇跡のようなオーディションを潜り抜け眩いフラッシュの繰り返しで辿り着くステージ。
あり得ない。
あり得ない。
苦笑いとともに諦めて道を急いだあの頃の自分に、いつかお前は信じられないほどの資産を持つ、未来有望な青年に、焦がれるほどに愛し抜かれて、夜も日も明けないほどに求められて、暑さにうだることも寒さに凍えることもなく、望むままの衣服を纏い、好みの食べ物を取り寄せ、芝居のことだけ考えて暮らしていくことができると話したら、どんな顔をしただろう。
妄想だ。
幻覚だ。
頭のネジがイかれている。
「…そうだよな」
ガラスに映った自分が唇を噛み締める。
この暮らしが、どれほど危うい刃先の上のものなのか、いっときも忘れることはない。
人の心は移ろう。
この生活は貢の寵愛の元に成り立っている。
いつでも元の暮らしに戻らなくてはならないと覚悟するから、赤い炊飯器は置いているが、上品で高品質な部屋の中におかれたそれは、腐りかけたさくらんぼのように小さく縮こまっているようだ。
今日は大丈夫でも、明日は。
今年は無事でも、来年は。
今この時の陸斗は魅力的でも、数時間後、あるいは今夜のベッドの後では、陸斗の価値は無くなるのかも知れない。
だからこそ。
「……炊くか」
下げていたレジ袋から、2kgの米を取り出した。スーパーの一番安いコメだ。
綺麗に磨き上げられた流しに持ち込み、丁寧に洗って水を切る。しばらくしてから炊飯器にセットして炊き上げる。
今日貢は家に居るはずだった。陸斗は買い物に出ていて、役所に所用もあったから、この時間に戻ることはないはずだった。
急な外出や不在は必ず連絡してくれるのに、携帯には何も入っていなかった。
陸斗には言えない外出なのか、それとも連絡をすることもできないぐらいの急用か。
「ふりかけ買うの、久しぶりだな」
レジ袋から海苔と卵の入ったふりかけを取り出す。
炊き上がったら、茶碗に盛り付け、日差しの気持ちいい窓際で、ふりかけを振って食べてやろう。
いそいそとテーブルに箸を並べ、ペットボトルの茶を出し、その横に薄い紙を並べる。
炊き上がるまでに書こう。
ボールペンを取り出し、一文字一文字書き込んで行く。
一人分を書き上げ、日にかざして眺め、少し苦笑いした。
たったこれだけのことに、なぜ今まで引っかかっていたんだろう。
男を愛する自分が居て、大切で大事な相手が居て、ただそれだけのことなのに、なぜ世間はどう思うかとか、常識がどうとか生物学的にどうかとか、それこそ人としてどうかとか、そんなことまで考えてしまっていたんだろう。
自分の中の何が変わったとうまく説明できないが、一つの芝居を演じ終えて、自分の人生が全く違う光景に見えたのは初めてだろう。
ただの一人の男ってだけだ。
ただの一人の人間ってだけだ。
輝夜陸斗と言う人間がここに居るだけだ。
「………それ、婚姻届?」
「っっ?!」
耳元で囁かれて、ぞわっと身体中の毛が逆立った。
「伊谷…っ?」
「…誰に渡す気なの?」
「お前っ…どこに」
「寝室の……床」
「は?」
「寝てて落っこちたみたい。映像編集で疲れたのかも。そのまま寝てた」
ふわああと眠そうに欠伸をしながら一旦離れて、伊谷は自分の茶碗と箸を持ってきた。
「僕も食べるね…このふりかけ、なっつかしい」
そのまま、陸斗に聞くこともなく婚姻届に自分の名前を書き込む。
「…伊谷……」
「別姓でもいいけど、どうせならリクが嫁にきてよ」
唇を尖らせながら言う。
「そりゃあ、輝夜貢なんて……あ、そのままだ」
へらりと笑った。
「僕はあなたに一生貢ぎ続けますって?」
伊谷陸斗って、それこそヒーローものの役柄みたいじゃないか。
反論は合わせられた唇に飲まれる。
炊飯器の飯はもう少ししたら炊ける。
そうしたら、2人でふりかけをかけて飯を食おう。
微笑みながら、陸斗は婚姻届を大事に片付けた。
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