『BLUE RAIN』

segakiyui

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9.YELLOW SIGN

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  署は奇妙に静まり返っている。
 確かに今殺人事件の通報があったのだから、みんな一斉に出払った。しかし、ラルゴの護衛のルシアは残っているはずだし、署長は連絡統括でいるはずだ。
 俺は車にスープを残したまま、慣れた署内へそっと忍び入った。
 おかしい。どうも何かがおかし過ぎる。
 足音と気配を殺し、まるで犯人の立てこもる家の中を歩くように進んでいくと、前方に人影が動いた。
「ねえ、ほんとにいいの?」
 無遠慮であっけらかんとした声はジットのものだ。留置されてるはずなのに、どうしてこんなところで呑気な話し声がする? 
「後からやめたって言われても困るんだけど」
「……」
 相手の声はぼそぼそとしていてよく聞こえない。
「え、あ、そうなの、あんたが?」
 何?
「あんたが依頼主だったんだ?」
 何だって?
「いやー、それ、早く言ってくれればオレ、逃げなかったのに」
 ジットは露骨にほっとした声で笑った。
「で? どうするの? またやるの?」
「そうだな」
 相手の声がようやく聞こえて俺はぎょっとした。
「いつ?」
「ここを出たら」
「じゃあ、今すぐってことだね?」
「今夜大きな取り引きがある。そこに行け」
「わかった。んー、これね、はいはい、でもさ」
 ジットは物陰に隠れた俺に気づかず、前を通り過ぎる。
「あんた、見つかったらやばいんじゃない?」
 くるりとジットがいきなり振り返って驚いた。俺も驚いたが、ジットの方も驚いたらしい。
「あ、れ?」
 目が大きく丸く広がる。
「あんた、出てったんじゃ」
「ちっ」
 舌打ちして飛び出し、振り返ったが遅かった。目一杯強く殴られた頭がじんじん痺れて、温かなものが流れ落ちて視界を染める。
 その視界に、薄笑いを浮かべているラルゴの顔を確認して、俺は意識を失った。

 目が覚めると、俺はシーンに車の助手席に放置されていた。
 放置。その感覚が一番正しい。ポイントを押さえられ、また置き去りにされたのだ。
 もっとも、今回は自分で望んだ職場放棄だったが。
「う……」
 覚醒がかなり急激に引き起こされたせいで頭痛がした。なぜだろう、と情報を検索して、耳の奥を過った悲鳴に気づき、宇宙空間に放り出されたような気がした。
「シーン?」
 声がない。気配がない。姿もとっくにない。
 震える指先でシートベルトを外した。不安が募る、恐怖が募る。彼がいないことがこれほどまで身体を竦ませる。
 覚醒直後のふらつきと恐怖からくる震えを認識して解き放つ。怯えている場合じゃない。銃を構え、そろそろと署に戻る。玄関には人影はない。廊下にも部屋にも。人影も気配もない。
 どんより曇った空の湿気が署内も埋めている。角かどで銃を構え直す。
 やがて、留置所に続く通路の中央にべったりと広がった赤い染みを発見した。
 密度の高い血液。大きな血管から漏れた動脈血で、量は少ないが、かなり時間がたっている。十分な手当てがされていなければ、流出量は数倍になっているはずだ。触れてみる。感知システムを開き分析を開始。すぐによく知った遺伝子を確認する。
 シーンの血だ。観察すると血液中に髪の毛と皮膚片が見つかった。殴られたのは頭部。意識をすぐに失っただろう。引きずった跡が続いている。
 身体がどんどん冷えていくと同時に、頭痛が消え、思考が明瞭になった。感知システムも上限を突破しそうなぐらいよく働いている。おかげで、昔使っていたという地下留置所へ続く階段下で、囁くように響いた声に気づいた。
「……はどうした」
「いないみたいだ」
「なら、とりあえず早く」
「ああ」
 階段を駆け上がってくる気配に、物陰に潜む。最初に現われたのは先日シーンが掴まえたひったくり、ジット・ブルー。動揺しているらしく、何度も地下を振り返っている。
「なあ、大丈夫かなあ」
「大丈夫さ」
「あの人、やばいんじゃね?」
「刑事はタフだよ」
「オレ、人殺しはしたことねえし」
「お前が消えたら、すぐに手当てするさ」
「そう?」
 会話の相手も間もなく姿を見せた。ラルゴ・アルフラーレン。なるほど。意外ではあるが、無理ではない。おたふく風邪で休んでいると聞いたが、違ったようだ。
 急ぎ足に走り出ていくジットは放っておいた。ラルゴに照準を定める。すぐに撃ち倒したいと強烈に感じた。俺はかなり壊れてきているのかもしれない。
 シーンを殴ったのがこいつであればいい、そう思った。ジットは犯罪者でいつでも捕まえられる。けれどラルゴはへたに生かすとまたシーンを傷つけるかもしれない。それぐらいならここで始末してしまいたい。シーンが流した分の血ぐらいは取り戻したい。合理的ではない。かなりおかしい。
 本当に俺はかなりおかしい。
「ラルゴ」
「!」
 誘惑をこらえて、何とか呼び掛けた。ぎくっとした顔でラルゴが振り返る。俺を見て、にやりと笑った。
「なんだよ、スープ」
「両手を上げて壁に向け」
「おいおい、物騒だな、出かけなかったのか」
「両手を上げて壁に向け」
「なんだよ、一体」
 まるで単なる誤解だというように、ひょいと両手を上げて俺に背中を向ける。
「シーンをどうした?」
「何のことだ?」
「シーンをどうした?」
「シーンはお前と一緒に出たろ?」
「シーンは頭を殴られて地下に連れ込まれてる」
「……ほう?」
「それにお前はジットを逃がした」
「……見てたのか?」
「なぜだ?」
「どこから見てた?」
「なぜだ、と聞いてる」
「ROBOTのくせに」
 ラルゴはあざ笑いながら振り返った。俺の銃の筒先を面白そうに見ながら、
「撃てないんだろ? そうできてるんだろ?」
「……」
「ROBOTは人間を殺せない、そうだよな?」
 くすくす、真っ黒な口ひげの下の唇を歪めて笑った。
「むかつくんだよ、人間みたいに振舞いやがって」
「お前がDOLL殺しなのか?」
「は? そんな暇なことするわけがない。ま、DOLLも嫌いだけどな」
 ラルゴは肩を竦めてみせた。
「なあ? B.P.がなけりゃ、ぎこぎこばこばこヤられてるだけの機械のくせに。ちょっと人間らしく振舞えるからって、なあ、おい、人間に銃を向けるなんざ、100年早いんだよっ」
 ぺっ、と吐き捨てた唾が俺の頬にあたった。どろりと流れ落ちるのを無視して銃を構え続ける。
「けっ、ROBOTにはプライドもねえのか」
「悪いが」
「なに?」
「俺はROBOTじゃない」
「なんだと?」
「俺はDOLLだ」
 俺のことばがラルゴの頭にしみ込むまで、数秒かかった。動きの悪い頭だ。
「DOLL?」
「ああ」
「待て、ということは」
「ということは」
 震え出す声に解説を加えてやる。
「自由意志を持ち」
「……ROBOTの…」
「基本原則に縛られない」
 薄笑いを浮かべてやる。
「注文主の依頼によって制限が定められ、その制限以外の枷を受けない」
「ちょっと、待て」
「俺の注文主は『グランドファーム』だ」
 ひ、と息を引いたラルゴが、十分な知識を備えていることを確認する。
 こいつは『グランドファーム』が注文主のDOLLがどんな働きをしていて、どんな機能を備えているかを知っている。つまり、こいつの後ろにいるのは警察上層部の大物だということだ。
「誰だ?」
「え」
「お前の後ろにいるのは、誰だ?」
「そんなこと」
「俺は」
 目を細めた。
「人間を殺せるぞ?」
「く」
「スー…プ…?」
「!」
 弱々しい声が聞こえて、俺はぎょっとした。階段をよろめくようにあがってくる人影。疑似体液が沸騰する。
「シーン!」
「なに…を」
「馬鹿な!」
「へっ!」
 隙あり、と見たのか、ラルゴが身体を翻して外に逃げ出そうとした。だが、俺の方がわずかに反応が早い。
 当たり前だが。
 銃声とともに悲鳴をあげて転がったラルゴを振り返りもせず、俺は階段を駆け降りた。
「シーン!」
「今の……銃声…」
「なんて無茶を!」
 差し伸べた腕にシーンが崩れてくる。真っ赤に染まった髪の毛が固まって、右肩から下が紅一色だ。
「頼みますから!」
 とっさに抱き上げ、階段の上まで運んで横たえる。両足を打ち抜かれたラルゴが喚いていたのは蹴りをいれて黙らせた。
「こんな怪我のときに動かないで下さいよ、警察学校で習ったでしょう?」
 泣きそうになった。止血しようとしたハンカチがうまく結べない。
「落ち……つけ」
「落ち着いてます」
「そ…か」
「大丈夫です」
「泣き……そうだぞ?」
 ああ、もう、この人は。
「すみません、泣きそうです、パニックになってます、うろたえてて血の気が引いてます、頼むからしゃべらないで下さい」
「ROBOT……のくせに……」
 くす、と微かに笑われて、ふいにすとんと気持ちが落ち着いた。
「凄い」
「…ん?」
「あなたは凄いですね」
「……?」
「何か、俺、落ち着きました」
 これが『グランドファーム』が欲しがったこの人のDNAの能力の一部なんだろうか。そうつぶやく俺に、またくすりとシーンが笑う。
「大丈夫…だ」
「はい」
「俺は……タフ……だから」
「ええ、はい」
 安心はできない。止血できていない。ハンカチが見る見る真っ赤に染まる。俺はインカムで助けを呼びながら、シーンの血管を押さえた。
「シーン」
「…ん」
「どうして戻ってきたんです?」
 意識を保たせるためにことばをかけ続ける。
「……」
「どうしてここへ」
「……ジェシカが……」
 聞き慣れた名前だけれど、少し胸が苦しい。だが、次のことばに俺は聴覚を疑った。
「ジェシカが……お前の……中に……いる……」
「!」
「なぜだ……?」
 知っているはずがない。知らされるはずがない。
 一体この人はどこでこの結論を導きだしてきたのか。
「なぜ……死んだジェシカが……お前の中に……? ……それが……B.P.……か……?」
「シーン……」
 俺はことばを失った。
 今度こそ本当に、世界が壊れていく音が聞こえた。
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