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3.事件(1)
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「そうかー、お前さんも一緒に来たのかー」
畳の上に爪を立てることもなく、ちょこんと前足を揃えて座っていたルトを脇を支えて抱き上げる。場所が場所だけに猫を家に上げるなんてと眉を潜められるかと思ったが、朝倉家の威信はこんな場所でも健在で、誰も何も文句を言わない。珍しく大人しくだらあんと下半身をぶらつかせて、ルトはにゃあん、と鳴いた。金色の目を細め、細い線となった瞳孔が俺を見つめる。
「こんなとこ来てもいいことないぞー」
池に落とされたり転がされたり突き飛ばされたりなあ、とぼやいてみせるが、再びにゃあん、とお行儀良く、普通の猫のように鳴いてみせるだけだ。
えい、この猫かぶり……って、猫の場合も猫かぶりでいいのか?
「けどなあ」
ルトとのにらめっこを止めて、もう一匹、じゃない、もう一人の猫かぶりの方を見やる。開け放った障子の向こう、縁側で甘い薄闇に暮れた景色を背景に、白い着物姿で立っている相手を振り向く。
「ここの仕事だなんて、一言も言わなかっただろーが?」
縁側は延々と続く窓ガラスで外界と隔てられていた。部屋の中の灯に、曇り一つなく磨き上げられたガラスに映った顔が、一瞬世にも照れくさそうな困った顔に引き攣り、それをまじまじと確認する前にくるりと周一郎は振り返った。
「たまたま予定が早まったんです」
そっけなく突き放した言い方、見下ろす視線も冷ややかだ。
ああほんと、こいつに似合わないものってないんだな。
ふいに、いささかいじけながら感嘆した。
一緒に池に引っ張り込んじまったおかげで、上から下までぐっしょり濡れた周一郎は、うろたえ慌てる久から丁重に対応され、風呂を仕立てられスーツをクリーニングに出され、今は謹んで提供された白い着物を来ている。年齢から言えば、やや細身で小柄な体が和装で一層引き締まり、一分の隙なく整った出で立ちは屋敷の気配にすっかり溶け込んでいた。昔で言うなら、大名とかでかい屋敷の勉学好きな跡取り息子、という感じだ。
「…どうせこっちはその日暮らしの平民だよ、悪かったな」
「何をぶつぶつ言ってるんですか?」
不審そうに首を傾げながら、周一郎は裾さばきも鮮やかに部屋に戻ってくる。足音一つたてないままで、少し離れたところに何の不自由もなく正座した。
「………とことん人のコンプレックスを刺激する奴だよな」
「?」
「こっちの話。けど、どうしてルトまで連れて来た? 商談だけだろ?」
しかもルト以外の付き添いなしなんて、周一郎の外出にしては珍し過ぎる。
「それは…」
普通に話し出した周一郎は突然口を噤んだ。
「ん?」
「…その、別に、意味はありません。明日にでも帰るつもりですし……」
何を憶い出したのかむっつりした顔でことばを続け、妙な間を置いて周一郎は顔を上げた。
「滝さんは」
「うん?」
サングラスをかけていない目で真正面から見つめてくる。これも本当に珍しい。相変わらず人の目を釘付けにする黒い瞳、一切の感情が読み取れない。
「滝さんはどうするんですか」
「何を」
「ここを継ぐ、かどうかです」
「ああ…そうか…そうだっけな」
溜め息をついてルトを降ろした。毛並みが乱れたんだぞ、と言いたげに毛繕いを始める相手を見て、もう一度溜め息をつき、ごろりとひっくり返って手足を伸ばす。
「滝さん?」
乗り出すような周一郎の顔を見づらくなって、天井を睨みつけた。
さくや鈴音、それに久、双子の子ども。
楽しい家族かと言われればかなり厳しいが、何だろう、泥沼のようなものに足を吸い込まれていくようで、どんどん身動き取れなくなってくる気がする。
朝倉家に俺が何が何でも必要かと言われれば、そういうことではないだろう。生活を放り捨ててまでやりたい勉強があるわけでもない。二度とここから出られないわけでもないだろうし、身内一人もいないんだから、確かに安定して住める場所が有る方がいいに違いない。
冷静に考えれば、この話を蹴る理由がない。
「周一郎」
「はい」
ことんとした、硬い声が応じた。
「俺、帰れないかもしれない」
びくりと周一郎が震えた気がして、振り向いた。だが周一郎はさっきと同じように端然と座っているだけ、俺をじっと見ていた瞳を緩やかに伏せて、
「そうですか」
静かに続けた。
「滝さんがそうすると言うのなら、僕にどうこう言う権利はないし…」
またまた、本当に珍しく、周一郎がためらった口調を途中で消した。
「周一郎? お前…」
どうした?
けれど、その問いは、響き渡った物音に口の中で消えた。
がっしゃんっっ!!
「、ルトっ?」
閃光の素早さでルトが部屋を飛び出していく。俺が跳ね起きると同時に腰を浮かせた周一郎が、音が響いた方向とは別方向に視線を投げた。
視線を追って、庭の一角で縺れ合っている人影を見つける。一つの影は小柄でおそらく子ども、その腕を掴んで引きずり上げているのががっしりした体つきの男。
そこまで見取ったと同時に、子どもが甲高い声で何かを叫び、男がぐっと体を膨らませたかと思うと、いきなり片手を振り上げ振り下ろした。
ぱんっぱんっぱんっぱんっ!
「ちょっ!」
激しい平手打ちの音が響くのに慌てて窓を引き開ける。物音に振り向いた男は久、腕を掴まれているのは双子のどちらかで、ぐったりとした様子でようよう立っている。
「何だよあんた!」
思わず庭に飛び降りた。
「子どもに何してんだ!」
久はぎろりと俺を睨みつけたが、ふん、と鼻を鳴らして手を離し、ぐずぐず座り込む子どもを振り返りもせず母屋の方へ戻っていく。
「おい!」
後を追おうとして蹴り飛ばしたらしい下駄に気づいた。追うのを諦め、下駄を突っかけて座り込んだ子どもに近寄る。
「大丈夫か?」
子どもは膝を抱えて丸くなったまま、顔を俯せてうんともすんとも応じない。少しすると弱々しくしゃくりあげ始めた。
「えーと…亘君、か?」
ひ、と声を止めて子どもが俺を見上げた。
ヤマ勘が当たったらしい。
亘は怯えた顔で俺を見ている。両頬が既に腫れ上がり赤くなりつつあった。唇の端に血が滲んでいる。口の中を切ったのかもしれない。
「あ、と、ちょっと待て、えーと……あ」
ハンカチを出そうとしてジーパンのポケットに入れたままだったのを思い出す。今頃は……やめよう。亡霊に火葬場じゃ、もろに怪奇映画だ。
「ひええっ!」
体を竦めた途端、視界の端から白いものが突き出されて飛び退いた。
「どうしたんですか?」
周一郎がきょとんとした顔で、差し出したハンカチと俺を見比べている。
「いつ降りてきた!」
「今です」
「おっ、音ぐらいさせろよな! ほんっとに心臓に悪いぞ! もし今止まったままだったらどうするん…」
くすくすと小さな笑い声が聞こえて口を噤んだ。視線を降ろした先、亘が涙に濡れた頬に笑みを浮かべている。どうやら俺の『台詞』が受けたらしい。
とにかく泣き止んでくれてほっとした。周一郎のハンカチを受け取って亘に渡してやる。
おずおずと手を伸ばした亘はハンカチを掴むのかと思いきや、俺の手に掴まってのろのろと立ち上がった。と同時に、無言で自分を見つめている周一郎にぎくりと体を強張らせ、不安げな顔になって俺と周一郎を見比べる。
亘の視線を感じ取ったのだろう、周一郎はどこか寂しそうな笑みを一瞬滲ませ、すぐに向きを変えた。
「では、おやすみなさい、滝さん」
「あ、ああ」
後ろ姿が気になって見送っていると、くいくいと袖を引っ張られ振り返る。
「うん? 何だ?」
「あの…あの、ね」
話すと痛そうに顔をしかめるあたり、やっぱり口の中を切っているのだろう。
「かあさまが」
「かあさま?」
鈴音が?
「…来て下さいって」
「は?」
亘のことばがよくわからないまま、瞬きする。
「こんや、二の門の外にいます、って。11時にって」
とぎれとぎれに確かめるように亘は伝える。真剣な目の色で俺を見上げ、
「おじちゃん…約束…」
「え、あ…その…」
返事に困った。
今夜11時、二の門の外? まるでアイビキみたいじゃないか。いや、これはまさにアイビキだろう。豚と牛が適度に混じった方が牛だけより美味しいとも言うよな、実際……いや、違う、違うぞ、うん、うろたえるな俺。
「おじちゃん」
ちょっと別世界へ逃避しかけた思考を亘が引き戻す。
「ああ、うん…まあ、その、はい、行きます」
「うん、あのね」
どんな用かわからないが、一所懸命に伝えて答えをもらおうとする亘に、冗談じゃねえ、何言ってんだ、不倫かそれは、などとは応えられない。それに、そういうことではなくて、家族の耳のないところで、何か頼み事があるのかもしれない。
亘はにっこりと世にも嬉しそうに微笑んだ。真っ赤な頬が痛々しくて、必死に笑った顔がいじらしくて、続いて何かを言おうとした亘を覗き込む。
「うん、それで?」
次の瞬間、
「亘っ!」
もう一つ、甲高い声が響いた。全身を跳ねさせて亘が振り返る先に、いつの間にか皖が立っている。同じ顔なのに、これほど違うものになるのかと思うほど、きつくて険しい表情で、大股に亘に近づくとぐいと俺の側から引っぱり寄せた。
「皖ちゃん、だって」
「違う。おじちゃん」
訝しそうに反論しようとした亘を皖は一言で押さえつけた。俺に向き直り、ぎらぎら輝く熱に浮かされたような目で睨みつける。
「母さまは来ないでくれって言ったんだ」
「へ?」
「皖ちゃん!」
「黙ってろ亘!」
鋭く大人びた声音で、振り向きもせずに皖は亘を制した。俺を見つめたまま、もう一度、一言一言区切るように繰り返す。
「おじちゃん。母さまは、来ないでくれって、言ったんだ」
「皖…」
呼ばれたのを無視して、弱々しく首を振る亘の手首を掴む。
「行こう、亘!」
そのまま引きずるように皖は亘を連れ去っていく。
「え?」
来てくれ。
「え?」
来ないでくれ。
「え、え、え?」
どっちが正しいんだ? それともどっちも違うのか?
置き去られて立ち竦んだまま、途方に暮れた。
畳の上に爪を立てることもなく、ちょこんと前足を揃えて座っていたルトを脇を支えて抱き上げる。場所が場所だけに猫を家に上げるなんてと眉を潜められるかと思ったが、朝倉家の威信はこんな場所でも健在で、誰も何も文句を言わない。珍しく大人しくだらあんと下半身をぶらつかせて、ルトはにゃあん、と鳴いた。金色の目を細め、細い線となった瞳孔が俺を見つめる。
「こんなとこ来てもいいことないぞー」
池に落とされたり転がされたり突き飛ばされたりなあ、とぼやいてみせるが、再びにゃあん、とお行儀良く、普通の猫のように鳴いてみせるだけだ。
えい、この猫かぶり……って、猫の場合も猫かぶりでいいのか?
「けどなあ」
ルトとのにらめっこを止めて、もう一匹、じゃない、もう一人の猫かぶりの方を見やる。開け放った障子の向こう、縁側で甘い薄闇に暮れた景色を背景に、白い着物姿で立っている相手を振り向く。
「ここの仕事だなんて、一言も言わなかっただろーが?」
縁側は延々と続く窓ガラスで外界と隔てられていた。部屋の中の灯に、曇り一つなく磨き上げられたガラスに映った顔が、一瞬世にも照れくさそうな困った顔に引き攣り、それをまじまじと確認する前にくるりと周一郎は振り返った。
「たまたま予定が早まったんです」
そっけなく突き放した言い方、見下ろす視線も冷ややかだ。
ああほんと、こいつに似合わないものってないんだな。
ふいに、いささかいじけながら感嘆した。
一緒に池に引っ張り込んじまったおかげで、上から下までぐっしょり濡れた周一郎は、うろたえ慌てる久から丁重に対応され、風呂を仕立てられスーツをクリーニングに出され、今は謹んで提供された白い着物を来ている。年齢から言えば、やや細身で小柄な体が和装で一層引き締まり、一分の隙なく整った出で立ちは屋敷の気配にすっかり溶け込んでいた。昔で言うなら、大名とかでかい屋敷の勉学好きな跡取り息子、という感じだ。
「…どうせこっちはその日暮らしの平民だよ、悪かったな」
「何をぶつぶつ言ってるんですか?」
不審そうに首を傾げながら、周一郎は裾さばきも鮮やかに部屋に戻ってくる。足音一つたてないままで、少し離れたところに何の不自由もなく正座した。
「………とことん人のコンプレックスを刺激する奴だよな」
「?」
「こっちの話。けど、どうしてルトまで連れて来た? 商談だけだろ?」
しかもルト以外の付き添いなしなんて、周一郎の外出にしては珍し過ぎる。
「それは…」
普通に話し出した周一郎は突然口を噤んだ。
「ん?」
「…その、別に、意味はありません。明日にでも帰るつもりですし……」
何を憶い出したのかむっつりした顔でことばを続け、妙な間を置いて周一郎は顔を上げた。
「滝さんは」
「うん?」
サングラスをかけていない目で真正面から見つめてくる。これも本当に珍しい。相変わらず人の目を釘付けにする黒い瞳、一切の感情が読み取れない。
「滝さんはどうするんですか」
「何を」
「ここを継ぐ、かどうかです」
「ああ…そうか…そうだっけな」
溜め息をついてルトを降ろした。毛並みが乱れたんだぞ、と言いたげに毛繕いを始める相手を見て、もう一度溜め息をつき、ごろりとひっくり返って手足を伸ばす。
「滝さん?」
乗り出すような周一郎の顔を見づらくなって、天井を睨みつけた。
さくや鈴音、それに久、双子の子ども。
楽しい家族かと言われればかなり厳しいが、何だろう、泥沼のようなものに足を吸い込まれていくようで、どんどん身動き取れなくなってくる気がする。
朝倉家に俺が何が何でも必要かと言われれば、そういうことではないだろう。生活を放り捨ててまでやりたい勉強があるわけでもない。二度とここから出られないわけでもないだろうし、身内一人もいないんだから、確かに安定して住める場所が有る方がいいに違いない。
冷静に考えれば、この話を蹴る理由がない。
「周一郎」
「はい」
ことんとした、硬い声が応じた。
「俺、帰れないかもしれない」
びくりと周一郎が震えた気がして、振り向いた。だが周一郎はさっきと同じように端然と座っているだけ、俺をじっと見ていた瞳を緩やかに伏せて、
「そうですか」
静かに続けた。
「滝さんがそうすると言うのなら、僕にどうこう言う権利はないし…」
またまた、本当に珍しく、周一郎がためらった口調を途中で消した。
「周一郎? お前…」
どうした?
けれど、その問いは、響き渡った物音に口の中で消えた。
がっしゃんっっ!!
「、ルトっ?」
閃光の素早さでルトが部屋を飛び出していく。俺が跳ね起きると同時に腰を浮かせた周一郎が、音が響いた方向とは別方向に視線を投げた。
視線を追って、庭の一角で縺れ合っている人影を見つける。一つの影は小柄でおそらく子ども、その腕を掴んで引きずり上げているのががっしりした体つきの男。
そこまで見取ったと同時に、子どもが甲高い声で何かを叫び、男がぐっと体を膨らませたかと思うと、いきなり片手を振り上げ振り下ろした。
ぱんっぱんっぱんっぱんっ!
「ちょっ!」
激しい平手打ちの音が響くのに慌てて窓を引き開ける。物音に振り向いた男は久、腕を掴まれているのは双子のどちらかで、ぐったりとした様子でようよう立っている。
「何だよあんた!」
思わず庭に飛び降りた。
「子どもに何してんだ!」
久はぎろりと俺を睨みつけたが、ふん、と鼻を鳴らして手を離し、ぐずぐず座り込む子どもを振り返りもせず母屋の方へ戻っていく。
「おい!」
後を追おうとして蹴り飛ばしたらしい下駄に気づいた。追うのを諦め、下駄を突っかけて座り込んだ子どもに近寄る。
「大丈夫か?」
子どもは膝を抱えて丸くなったまま、顔を俯せてうんともすんとも応じない。少しすると弱々しくしゃくりあげ始めた。
「えーと…亘君、か?」
ひ、と声を止めて子どもが俺を見上げた。
ヤマ勘が当たったらしい。
亘は怯えた顔で俺を見ている。両頬が既に腫れ上がり赤くなりつつあった。唇の端に血が滲んでいる。口の中を切ったのかもしれない。
「あ、と、ちょっと待て、えーと……あ」
ハンカチを出そうとしてジーパンのポケットに入れたままだったのを思い出す。今頃は……やめよう。亡霊に火葬場じゃ、もろに怪奇映画だ。
「ひええっ!」
体を竦めた途端、視界の端から白いものが突き出されて飛び退いた。
「どうしたんですか?」
周一郎がきょとんとした顔で、差し出したハンカチと俺を見比べている。
「いつ降りてきた!」
「今です」
「おっ、音ぐらいさせろよな! ほんっとに心臓に悪いぞ! もし今止まったままだったらどうするん…」
くすくすと小さな笑い声が聞こえて口を噤んだ。視線を降ろした先、亘が涙に濡れた頬に笑みを浮かべている。どうやら俺の『台詞』が受けたらしい。
とにかく泣き止んでくれてほっとした。周一郎のハンカチを受け取って亘に渡してやる。
おずおずと手を伸ばした亘はハンカチを掴むのかと思いきや、俺の手に掴まってのろのろと立ち上がった。と同時に、無言で自分を見つめている周一郎にぎくりと体を強張らせ、不安げな顔になって俺と周一郎を見比べる。
亘の視線を感じ取ったのだろう、周一郎はどこか寂しそうな笑みを一瞬滲ませ、すぐに向きを変えた。
「では、おやすみなさい、滝さん」
「あ、ああ」
後ろ姿が気になって見送っていると、くいくいと袖を引っ張られ振り返る。
「うん? 何だ?」
「あの…あの、ね」
話すと痛そうに顔をしかめるあたり、やっぱり口の中を切っているのだろう。
「かあさまが」
「かあさま?」
鈴音が?
「…来て下さいって」
「は?」
亘のことばがよくわからないまま、瞬きする。
「こんや、二の門の外にいます、って。11時にって」
とぎれとぎれに確かめるように亘は伝える。真剣な目の色で俺を見上げ、
「おじちゃん…約束…」
「え、あ…その…」
返事に困った。
今夜11時、二の門の外? まるでアイビキみたいじゃないか。いや、これはまさにアイビキだろう。豚と牛が適度に混じった方が牛だけより美味しいとも言うよな、実際……いや、違う、違うぞ、うん、うろたえるな俺。
「おじちゃん」
ちょっと別世界へ逃避しかけた思考を亘が引き戻す。
「ああ、うん…まあ、その、はい、行きます」
「うん、あのね」
どんな用かわからないが、一所懸命に伝えて答えをもらおうとする亘に、冗談じゃねえ、何言ってんだ、不倫かそれは、などとは応えられない。それに、そういうことではなくて、家族の耳のないところで、何か頼み事があるのかもしれない。
亘はにっこりと世にも嬉しそうに微笑んだ。真っ赤な頬が痛々しくて、必死に笑った顔がいじらしくて、続いて何かを言おうとした亘を覗き込む。
「うん、それで?」
次の瞬間、
「亘っ!」
もう一つ、甲高い声が響いた。全身を跳ねさせて亘が振り返る先に、いつの間にか皖が立っている。同じ顔なのに、これほど違うものになるのかと思うほど、きつくて険しい表情で、大股に亘に近づくとぐいと俺の側から引っぱり寄せた。
「皖ちゃん、だって」
「違う。おじちゃん」
訝しそうに反論しようとした亘を皖は一言で押さえつけた。俺に向き直り、ぎらぎら輝く熱に浮かされたような目で睨みつける。
「母さまは来ないでくれって言ったんだ」
「へ?」
「皖ちゃん!」
「黙ってろ亘!」
鋭く大人びた声音で、振り向きもせずに皖は亘を制した。俺を見つめたまま、もう一度、一言一言区切るように繰り返す。
「おじちゃん。母さまは、来ないでくれって、言ったんだ」
「皖…」
呼ばれたのを無視して、弱々しく首を振る亘の手首を掴む。
「行こう、亘!」
そのまま引きずるように皖は亘を連れ去っていく。
「え?」
来てくれ。
「え?」
来ないでくれ。
「え、え、え?」
どっちが正しいんだ? それともどっちも違うのか?
置き去られて立ち竦んだまま、途方に暮れた。
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