『遺産相続人』〜『猫たちの時間』7〜

segakiyui

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5.亡霊(1)

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 結局、お由宇はなぜ鈴音を疑っているのか、話さなかった。
 そろそろ昼近い日差しの中を、ぼんやり歩きながら俺は考えている。
(何か理由があるんだろうが)
 もともとお由宇の考えていることはよくわからないし、考えても無駄かもしれない。
「だよなあ、まあ今はとにかく」
 俺は俺なりに、そう、例えば着物の裾を踏んづけてこけなくなっただけ、進歩したことを喜んで…。
「わーい…あ!」
 どすん、と背後から突き当られてバランスを崩す。慌てて踏み直した右足がいつかのように宙を踏む。
「へ?」
「滝様!」
 鈴音の声が背後で流れた。
「おじちゃん!」
「どあっ!」
 バシャン、と勢いよく池に飛び込んで、慌てて跳ね起きた。そりゃあこれだけ何回も突っ込めば動きも速くなるだろう。
「ふふふ俺だってなあ学習効果というものがだなあ」
 胸元に突っ込んでびちびち跳ね回る鯉を暗く笑いながら引っ張り出す。
「おじちゃあん……大丈夫?」
 すぐ側にペタンと座り込んだ皖だか亘だかわからん子どもが、口調だけは心配そうに覗き込んできた。
「亘! もう、なんてことを!」
 慌てて駆け寄ってくる鈴音に着物を絞りながら池から出る。
「申し訳ありません! すぐにお着替えをお持ちしますね」
「びしょ濡れだね!」
 嬉しそうな亘をじろりと睨んだが、相手は堪えた様子もない。無邪気ににこにこされていると、何となく仕方ないなという気になってきて、溜め息混じりに尋ねた。
「一体何してたんだ?」
「鬼ごっこ! かあさまが鬼なの!」
「亘! いけません、先にお謝りなさい」
「はい、かあさま」
 亘はちょっと舌を出してぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
「本当に申し訳ありません、早くこちらへ」
 鈴音の白い指先が腕にかかってどきりとする。
「どうぞ」
「はあ…」
  引っ張られていきながら、視界の端に白いものが見えてギクリとした。そうっとそちらへ視線だけ動かすと、木立の陰に小さな人影が立ち竦んでいる。側ではしゃいでいるのとそっくりな、とするとこちらは皖なのだろう。
 どうしてそんなところに隠れてる、と首を捻りかけて相手の表情に気づく。寂しそうに不安そうに唇を嚙んで眉をひそめ、それでも諦めようとして諦めきれない何かを追うように、目を見開いて、こちらを見つめている。
「?」
 ついそちらを向いてしまうと、はっとしたように相手はなお身を竦めた。怯えたような目になって、一、二歩後ろへ下がったかと思うと、くるりと身を翻し、引き止める間もなく姿を消す。
「滝さん?」
「あ、はいはい」
 鈴音の促しに急いで足を踏み出したが、俺はその時の皖の表情が妙に心に引っかかった。

「あれ?」
「や」
 俺の部屋には、厚木警部がどこかのんびりとした様子で座っているだけだった。
「お由宇は?」
 ぽんぽんぽんぽんとやたらめたらとポケットを叩きまくった相手は、例のごとく、内ポケットからハイライトを取り出して咥え、火を点けた。
「ちょっと調べ物だそうでね」
「はぁ」
「ひどい目にあうね」
「あ…はぁ」
 てやんでえ、池に落ちることが『ひどい目』なら、俺はとっくに悲劇のヒーローとして名が挙がってるはずだ、と心の中でぼやきかけて、ふと厚木警部の言葉を反芻した。
『ひどい目にあうね』
「あうね?」
「由宇子から聞いとらんのか?」
 相手はきょとんととした顔で尋ねてきた。
「例の連続幼児誘拐殺人事件の犯人、どうやら『この辺り』に絞れそうだということだが」
「知らん! 知らん! 知らん!」
「ふうん」
「ふうん、じゃありませんよ! それでなくても、『この辺り』で殺人事件が起こってるってのに!」
 思わずぞわぞわと身を竦める。
「あ、その殺人事件、妙なことになった」
 また妙なことを持ち込んで来たんじゃないだろうな。
 まあ座りたまえ、と厚木警部が勧めるのに、どすんと腰を下ろして上目遣いで煙を吹き上げる相手を睨む。
「さくが殺されたのはあの部屋だが、実はあの部屋、意外に周囲からよく見える所でね。事件のあった日、障子も襖も開け放してあって、丸見えの状態だったそうだ。さくが殺される三十分前に庭師があの近くを通っていて、そう証言した」
「庭師?」
「忘れ物をして取りに行ったそうだ。知っていると思うが、お抱えの石三さんだ」
「はぁ」
「さくが殺されたのは、十一時二十分頃。庭師が通ったのは十時五十分頃、ま、それはいいとして…」
 厚木警部は顔をしかめた。
「問題は残りの証言だ。母屋の方にいた池内さんに始まる使用人達が、さくは十一時十五分までは少なくともその部屋にはいなかったはずだと言ってるんだ。そのうえ、さくの部屋に繋がる唯一の廊下も、誰もその時間には通っていないと言う証言まである」
「それはどうして?」
「前の方は、さくの部屋は開けっ放しだったから、人が居れば見えないはずはない、と言うんだ。少なくとも十一時十五分までその部屋に人影は見えなかった、と皆んなが口を揃えて言っている」
「後の方は?」
「それまた、厄介でね」
 厚木警部は二本目の煙草に火を点け、続けた。
「ちょうどその頃、鈴音の姿が見えないと言って、久が屋敷中を探させていたそうだ。さくの部屋へ繋がる廊下にも常時誰かが居たし、そこを通った者はない、と。ま、その『大捜索』のおかげで、死後数分も立たないうちに、死体が発見されたんだが」
 俺がごくりと唾を飲んだ。
「あの…つかぬ事をお聞きしますが」
「ん?」
「その時に鈴音さんが居なかった、と言うのは、彼女に不利になってるんですか?」
「ああ、かなりね。どう言う手段かは知らないが、彼女には時間も動機もあったわけだし」
「動機?」
 鈴音にさくを殺す動機があるって?
 訝しい顔になった俺に、厚木警部が苦笑いした。
「ああ……やれやれ、由宇子は全く君に何にも話しとらんらしいな」
 続いたことばに、俺は愕然とした。
「鈴音は嫁いできてから、さくにいびられ通しだった。それどころか、元々鈴音が久のところに嫁いだのも、久があまりにも鈴音を欲しがったもんだから、さくが我が子可愛さのあまり、鈴音の家に圧力をかけて誘拐さながらに攫い、久に与えたらしいんだ。つまり、鈴音は略奪された花嫁、悪い言い方をすれば、館様の為の『生け贄』だったと言う訳さ」
「…幾つだったんですか」
「十五歳」
 ふいに背中から暗く重いものがのしかかってきたような気がした。
 たった十五歳。
 その頃、久は何歳だろう。おそらく四十代の中年男だ。しかも、さくの溺愛の結果、久は世界は自分のために回っていると考えかねないような男に育っていた。
 無理やり攫われてきた十五歳の少女が、自分のことしか考えない男の妻になり、十年間さくの監視の下で堪えていた。確かにそれは動機になるだろう。さくを殺したいと思うほど憎んだ事もあったはずだ。
 だが、あの鈴音の儚げな風情を思い出すと、どう考えてもそんな事ができる女性には思えなかった。
 それに、だ。
「でも、その時間に、彼女はさくを殺せませんよ」
「ん?」
「だって、俺と一緒だったから」
「何ぃっ!」
 厚木警部はがばりと身を起こした。俺に食いつかんばかりに迫るのに、しどろもどろで昨日のことを話し終えると、じっとりと俺をねめつけた。
「……君がそこまで入り組んだ嘘をつけるとは思わんが……」
 未練がましく唸る。
「例えば、その前にさくを殺しておくことも…」
「でも十一時十五分まで、あの部屋には誰も居なかったんでしょう?」
「それは……そうだが……」
「犯人は十一時十五分から二十分、いやもうちょっと多く見積もっても、二十五分ぐらいまでの間には、何らかの方法でさくを殺したんだ」
「しかしだね」
 厚木警部は難しい顔になった。
「他の人間には、それなりのアリバイが…」
「俺じゃ、アリバイにはならないってんですか?」
「う~~ん……」
 口惜しげに唸る。
「じゃあ一体さくはどうして……」
「自殺したとか」
「………」
 厚木警部はたっぷり一分間は俺を見つめ、やがて皮肉っぽく尋ねた。
「随分と手間のかかるやり方だな。で、動機は?」
「動機ってのは……えーと……例えば世界の行く末を悲観して、とか……」
 くすくす…と笑い声が響いて、俺と厚木警部は同時に廊下を振り返った。
 細身にすらりと着物を着こなした周一郎が嘲笑う表情で立っている。
「なんだよ」
「いえ…なかなか考えつかないことだな、と思って」
「どうせお前は天才だよ」
 いじけると、作り物的な笑みを浮かべ、周一郎は厚木警部に向き直った。
「警部さん、あの部屋の中、外から全部は見えませんよ」
「何?」
「一緒に来てください」

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