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4.2人の軍師(6)
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柔らかな風が頬に触れている。
額と頬、目元からこめかみ、耳元から首筋と、まるで誰かの吐息のように優しく。
体が暖かい。
風に探られた耳から甘い波が生まれて、ゆっくりユーノの心を覆っていく。
微かに目を開いた気がする。一瞬、穏やかな真昼の光を目にした気もする。
けれどもそれは、そうと感じる前に切ないような吐息に呑み込まれてしまった。唇を開く。無意識に一人の名前を読んでいた、アシャ…と。
だめだよ。
(!)
不意に声が割り込んできて、ユーノは体を震わせた。
誰を待ってる? 誰を重ねてる? 剣を持てる娘がどうして守ってくれる人を探さなくてはならない? 十分一人で生きていけるのに?
(そう…だね)
ユーノは微笑んだ。
(そうだ……私……一人で生きて……いけるもの)
違う、とまたどこかで声がした。一人で生きてはいけても、行き場のない心は傷つけられ、救いを求めては諦め、諦めてはなお救いを求めて疲れ切ることがある。仮初めにでもいい、休める場所が欲しい、そんな切なさだけが心に波打ち、ただがむしゃらに戦いの中を走る夜が。
(うん…)
それでも、ユーノ、『星の剣士』(ニスフェル)よ。
『ラズーン』の運命を、セレドの未来を、『泉の狩人』(オーミノ)の宿命を負う娘よ。そなたが戦わぬなら、一体幾つの命が消え失せる?
闇の中に、レアナの、レスファートの、ラフィンニの、リディノの、今まで巡り逢った多くの人々の顔が浮かぶ。その背後から白い顔、ギヌア・ラズーン率いる『運命(リマイン)』の暗黒の魔手の鋭く冷たい爪が今にも引き裂きそうに迫る。
(嫌だ…失いたくない)
ゆらりと無意識にユーノは立ち上がった。
勝てるとは思わない、あのアシャでさええ手こずった相手、ユーノ如きに屈するとは思えない。
背負えるとは思わない、絡み合った人の生、入り組んだ運命の糸をどこまで手繰れるのかもわからない。
待つのはたった一人、暗闇に屍を晒す死、か?
(何もできない…)
それでも、ユーノ、『星の剣士』(ニスフェル)よ。
いつしかユーノは一人、草原に立っていた。
押し寄せる緑の草波、揺れる葉先、耳に届くひそやかな草のざわめき、静まり返った周囲に物音一つ、人の気配どころか生き物の気配一つしない草の原………それは遠い日々、セレド郊外に広がっていた草原のようであった。ソクーラの渺々たる草(テップ)の海のようであった。スォーガの赤茶けた草原さえ思わせた。そして、それはまた、今一人、ユーノがそこに立つ長丈草(ディグリス)の原のようでもあった。
頭上に星々が広がる。地を這う人間を憐れむように、見守るように。
良かろう、と声が呟くのが聞こえた。
良かろう。
たとえ一人ぼっちの死が待つにせよ、この地で生きて行こう、と。
私はそれしか術を知らない。ただ一所懸命に生きていくしか、己の哀しさを耐える術を知らない。
望んでも望んでも報われぬ愛だろう。望んでも、なお望んでも、ただの一瞬の夢にも満たされることのない想いだろう。
だが、私はあまりにも私で……運命を捻じ曲げるのさえ潔しとしないほど、どうしようもなく私で、その哀しさは私が私として生きる限りなくなりはしないのだから。
良かろう、ならば受け入れよう。
この地で一人、果てていけばいい。
流してきた血に報いるだけの血を流して倒れればいい。
そして……一人還ろう、夜の闇に。数限りなく駆け抜けてきた、あの闇に。
(……)
ふと、蹄の音を聞いた気がして、振り返った。
夜闇に白く、淡い光を身に纏って、草原を馬が駆け抜けていく。馬上には白い短衣に華奢な鎧、一目で武人ではないとわかる少女、それでも瞳は真っ直ぐに前方を見据え、ほんの少しのためらいもなく草原を駆けていく。
(『灰色塔の姫君』…)
ユーノは、少女の凛凛しい表情とは裏腹に、口元に不思議に優しい笑みが漂っているのを認め、理解した。
『彼女』にはいささかの悲壮感もなかったのだ。どれほど酷い死が待っていようと、どれほど切ない別れが待っていようと、全て自分の生き様の果て、『彼女』はそうして戦いに身を投じることを良し、としたのだ。それこそが自分にできる最上のことだと悟っていたのだ。
(死ぬつもりで走ったんじゃない)
たとえ水晶球で未来を知っていたにせよ。
(生きようとして走ったんだ)
愛する人を命かけて守る、それが唯一の生き様だとして。
だからこそ、長丈草(ディグリス)は『灰色塔の姫君』の前に道を開き、死してはその躰を静かに抱き止め飲み込んだ。
(生きよ…と言うんだね……?)
ユーノは幻のように駆け去った馬の後をじっと見送りながら呟いた。
(生きよ、と……心が示す通りに……全力を尽くして生きよ…と……あの伝説の意味は、本当はそうなんだね……?)
風が長丈草(ディグリス)を波立たせた。
生きていけ、と声なき声が命じる。
この世界に生を受けた、その意味を見失うな、と。
深く息を吸い込む。風が、清冽な生命の息吹となって体の中心に吸い込まれ、しん、と深く澄み渡る。
当たり前のことなのだ。人は誰も死ぬために生きるのではない。生きようとして、運命の中で己の生き様を貫こうとして生きるのだ。
(愛して……いるよ…)
ユーノは闇の草原に声を投げた。
(あなたたち、すべてを愛している)
ならばたじろぐまい。怯むまい。己を育んだ『何か』にかけて、ただの一瞬たりとも
額と頬、目元からこめかみ、耳元から首筋と、まるで誰かの吐息のように優しく。
体が暖かい。
風に探られた耳から甘い波が生まれて、ゆっくりユーノの心を覆っていく。
微かに目を開いた気がする。一瞬、穏やかな真昼の光を目にした気もする。
けれどもそれは、そうと感じる前に切ないような吐息に呑み込まれてしまった。唇を開く。無意識に一人の名前を読んでいた、アシャ…と。
だめだよ。
(!)
不意に声が割り込んできて、ユーノは体を震わせた。
誰を待ってる? 誰を重ねてる? 剣を持てる娘がどうして守ってくれる人を探さなくてはならない? 十分一人で生きていけるのに?
(そう…だね)
ユーノは微笑んだ。
(そうだ……私……一人で生きて……いけるもの)
違う、とまたどこかで声がした。一人で生きてはいけても、行き場のない心は傷つけられ、救いを求めては諦め、諦めてはなお救いを求めて疲れ切ることがある。仮初めにでもいい、休める場所が欲しい、そんな切なさだけが心に波打ち、ただがむしゃらに戦いの中を走る夜が。
(うん…)
それでも、ユーノ、『星の剣士』(ニスフェル)よ。
『ラズーン』の運命を、セレドの未来を、『泉の狩人』(オーミノ)の宿命を負う娘よ。そなたが戦わぬなら、一体幾つの命が消え失せる?
闇の中に、レアナの、レスファートの、ラフィンニの、リディノの、今まで巡り逢った多くの人々の顔が浮かぶ。その背後から白い顔、ギヌア・ラズーン率いる『運命(リマイン)』の暗黒の魔手の鋭く冷たい爪が今にも引き裂きそうに迫る。
(嫌だ…失いたくない)
ゆらりと無意識にユーノは立ち上がった。
勝てるとは思わない、あのアシャでさええ手こずった相手、ユーノ如きに屈するとは思えない。
背負えるとは思わない、絡み合った人の生、入り組んだ運命の糸をどこまで手繰れるのかもわからない。
待つのはたった一人、暗闇に屍を晒す死、か?
(何もできない…)
それでも、ユーノ、『星の剣士』(ニスフェル)よ。
いつしかユーノは一人、草原に立っていた。
押し寄せる緑の草波、揺れる葉先、耳に届くひそやかな草のざわめき、静まり返った周囲に物音一つ、人の気配どころか生き物の気配一つしない草の原………それは遠い日々、セレド郊外に広がっていた草原のようであった。ソクーラの渺々たる草(テップ)の海のようであった。スォーガの赤茶けた草原さえ思わせた。そして、それはまた、今一人、ユーノがそこに立つ長丈草(ディグリス)の原のようでもあった。
頭上に星々が広がる。地を這う人間を憐れむように、見守るように。
良かろう、と声が呟くのが聞こえた。
良かろう。
たとえ一人ぼっちの死が待つにせよ、この地で生きて行こう、と。
私はそれしか術を知らない。ただ一所懸命に生きていくしか、己の哀しさを耐える術を知らない。
望んでも望んでも報われぬ愛だろう。望んでも、なお望んでも、ただの一瞬の夢にも満たされることのない想いだろう。
だが、私はあまりにも私で……運命を捻じ曲げるのさえ潔しとしないほど、どうしようもなく私で、その哀しさは私が私として生きる限りなくなりはしないのだから。
良かろう、ならば受け入れよう。
この地で一人、果てていけばいい。
流してきた血に報いるだけの血を流して倒れればいい。
そして……一人還ろう、夜の闇に。数限りなく駆け抜けてきた、あの闇に。
(……)
ふと、蹄の音を聞いた気がして、振り返った。
夜闇に白く、淡い光を身に纏って、草原を馬が駆け抜けていく。馬上には白い短衣に華奢な鎧、一目で武人ではないとわかる少女、それでも瞳は真っ直ぐに前方を見据え、ほんの少しのためらいもなく草原を駆けていく。
(『灰色塔の姫君』…)
ユーノは、少女の凛凛しい表情とは裏腹に、口元に不思議に優しい笑みが漂っているのを認め、理解した。
『彼女』にはいささかの悲壮感もなかったのだ。どれほど酷い死が待っていようと、どれほど切ない別れが待っていようと、全て自分の生き様の果て、『彼女』はそうして戦いに身を投じることを良し、としたのだ。それこそが自分にできる最上のことだと悟っていたのだ。
(死ぬつもりで走ったんじゃない)
たとえ水晶球で未来を知っていたにせよ。
(生きようとして走ったんだ)
愛する人を命かけて守る、それが唯一の生き様だとして。
だからこそ、長丈草(ディグリス)は『灰色塔の姫君』の前に道を開き、死してはその躰を静かに抱き止め飲み込んだ。
(生きよ…と言うんだね……?)
ユーノは幻のように駆け去った馬の後をじっと見送りながら呟いた。
(生きよ、と……心が示す通りに……全力を尽くして生きよ…と……あの伝説の意味は、本当はそうなんだね……?)
風が長丈草(ディグリス)を波立たせた。
生きていけ、と声なき声が命じる。
この世界に生を受けた、その意味を見失うな、と。
深く息を吸い込む。風が、清冽な生命の息吹となって体の中心に吸い込まれ、しん、と深く澄み渡る。
当たり前のことなのだ。人は誰も死ぬために生きるのではない。生きようとして、運命の中で己の生き様を貫こうとして生きるのだ。
(愛して……いるよ…)
ユーノは闇の草原に声を投げた。
(あなたたち、すべてを愛している)
ならばたじろぐまい。怯むまい。己を育んだ『何か』にかけて、ただの一瞬たりとも
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