『闇から見る眼』

segakiyui

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第2章

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「戻り、なさい?」
 響いた声を繰り返して、京介は身体を震わせた。
 見ている。
 伊吹がどこかで京介をじっと見ている。
 周囲を見回す。公園に他に人影はない。けれど、脳裏に蘇ったのは京介を凝視する伊吹の視線。
「あぁ…」
 見て、美並。
 吐息を零しながらうっとり笑う。
 僕を暴いて。
 蕩けながらのろのろと見上げた空は真っ暗なはずだったのに。
「っ」
 月が出ていた。
 薄い雲をすり抜けて、鮮やかに照る、秋の月。
 それが伊吹の視線のように感じて、呼吸を弾ませる。
 抱いて。
 全部、僕を暴いて、もっと。
 無意識に身体を揺らせて微笑んだ。指先から力が抜けた次の瞬間、がつっ、といきなり手首を掴まれて、一気に跳ね飛ばされる。
「あ、うっ」
「…っ、もう、何しやがるんだよ!」
 転がり落ちた京介を体を起こした明がむせ返りながらなじった。
「興奮するにもほどがあっだろ!」
「え…」
「涙拭けよ、中坊か、あんたは」
 明はなお咳き込みながらボールを取りに行く。その後ろ姿を茫然と見た京介に、ボールを拾って戻ってきた明が体中の埃を叩き落としながら顎をしゃくる。
「ほら、続けるぜ」
「は…?」
「……要らないのか、美並は」
「っ」
 じろりと睨まれて慌てて京介は立ち上がる。手足が細かく震えて一度転びかけた。
 何をしようとしていた?
 何をしていた? 
 伊吹の弟、に?
「もう一回、やろう」
 明がうっとうしそうにランニングを引っ張り直した。
「……俺には、わからない」
「…」
「あんたが抱えてるものとか、あんたが苦しんでることとか」
 タンタン、と鋭くボールをついて、その固さを確かめるように両手の間に押さえつけ、ふいと京介を振り返った。
「俺には、きっとわからない」
 投げられたボールを受け止める。ばしり、と掌で弾けた痛みに、曇っていた視界も霞んでいた感覚も一気に晴れる。
「ずっと、わからないだろうと思う」
 明はゆっくり遠ざかって何かを拾い上げ戻ってくる。
「ほら、眼鏡」
 ランニングの裾で乱暴に拭われたそれを受け取ろうとして手のボールに戸惑う京介に、投げろよ、と明が片手を上げた。
 おそるおそる投げたボールはくるりと翻った明の掌におさまる。
「あ」
 その動きが伊吹そっくりだ、と気付いた。
「たぶん、美並もそうだ」
「え…?」
 眼鏡を渡されて、それを掛けながら相手を見ると、明は複雑な顔で京介を見た。
「神様か何かだと思ってるのか」
「あ、いや」
「見えるかもしれないけど、見えない時もある。見えてもわからない時もある、見えても何もできないこともある、そう言ってた」
「……」
「でも、美並は、そのままでいるって」
 明はボールを自分の両手の間でゆっくり渡し合いながら、それを見つめた。
「………それも、俺にはわからない」
「明…くん」
「何度も死のうと思ったって」
 ふいに幼い声になって明が呟いた。
「俺が居ても、何度も死のうと思ったんだ、美並は」
 静かに京介を見返す。
「あんたは、そういう美並もわかるよね、きっと」
 相打ちにします。
 京介の脳裏に唐突に蘇ったのは、伊吹の静かで強い微笑み。
 助かることは期待しない、けれど、矜持を守るために闘い抜くことは諦めない。
 その、人としての最後を貫く誇り。
 ぞくりと身を竦ませる。
 ああ、どれほどそれを得たいと思ったか。
「俺がわからない美並を、あんたはわかるんだろうな」
 名前、真崎、京介、って言ったっけ?
「あ、うん」
「じゃあ、京介って呼ばせろ」
「は?」
「ほら、やろう」
 明がぷい、と顔を背けてボールをついて走り出す。誘われているんだ、と頭のどこかが信じられないままに呟いて、京介ものろのろと動き出す。
「遮れよ、美並がかかってるぜ」
「っく」
「……惜しいな………本気でやってたら、凄かっただろうな、あんた」
 京介のガードを軽々潜り抜けて、明がゴールへ駆け上がる。まるで背中に羽でも生えているような鮮やかなジャンプで舞い、見上げる京介の前であっさりとゴールを決めた。
「ああ、面白かった」
 満足した顔で明が落ちてきたボールをドリブルしながら立ち竦む京介の元に戻ってくる。
「こんなぎりぎり試したのは初めてだな」
 あんたは? 面白かった?
 ちょっと上目遣いに見上げられて、突然沸いた理解に京介は瞬く。
「それは、ひょっとして」
 思わず口を覆った。
 そんなこと、あるんだろうか。
「勝負は俺の勝ち」
 だろ? 
 明がにやにや笑う。
「おっさんにはきついよね」
 京介は幾つ?
「28…」
「にしては餓鬼っぽいよなあ、いい歳してんのに泥だらけになって」
「あの…明、くん」
「これからどうする? 腹減ったよね?」
「あの」
「あ、そうだ、飯の材料買って、姉ちゃんのところ、行こう」
「え、えっ」
 こんな凄い格好で。
 驚く京介に明がなお嬉しそうに笑う。
「汗塗れだし、それに」
「風呂あるよ、姉ちゃんのとこにも」
 知ってるんじゃないの?
 さらっと尋ねられて、京介は顔が熱くなる。
「何? あ…そっか、いつもあんたのところなんだ」
「は、いっ?」
「何声吹っ飛ばしてんの」
 ほら、ちゃんと持って。
 ベンチに放っていた背広とネクタイを掴んで投げてくる。受け止めながら、京介は気になって仕方ないことを必死に確認する。
「あの、明くん、それで僕は」
「姉ちゃんは夜一緒に過ごしたこともあるって言ってたけど?」
「あ、う」
「……おーい、何、その微妙な反応は」
「いや、その…」
 なんで伊吹さん?
 なんでそんなことまで弟に?
 ってか、そんなこと話すもんなの、普通??
 「じゃなくて」
「は?」
「僕は今負けたわけ、だよね、でも伊吹さんは諦めないよ、いいの?」
「ただの、ゲームだろ?」
 明が生真面目な表情になって、くるりと背中を向けた。
「これは、ただのゲームだ」
 自分に言い聞かせるように繰り返す。
「明くん」
「あんたのは、そうじゃない」
 そういうことだろ?
「なら、俺に異論はない」
 駅に向かって歩き出しながら、明が付け加える。
「あんなやばいことされて、反対できるわけないだろ」
「あ…」
 顔に一気に血が昇ったのがわかった。
「す、すまない」
「殺されちゃう~~とか思ったし」
「う」
「それに」
 肩越しに柔らかな視線を投げてきた明がふざけた口調を一転させる。
「……たぶん、あんなあんたを制御できるのは美並ぐらいだよ」
 他の女じゃだめだ。
 びくりと震えた京介に、明がにっと笑った。
「大丈夫だ」
「……」
「姉ちゃんは立派な猛獣使いだから」
「はい?」
 あんたは立派な変質者だけどね。
 あはは、と声を上げて笑う相手に、京介は引きつりながら笑い返した。
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