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第2章
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コーヒーの香りに誘われるように起きてきた伊吹は、明と京介が話し込んでいるのに嬉しそうに笑った。
「いろいろ気になる部分はあるけど」
いいです、課長が楽しそうだから。
微笑まれて、胸が痛い。
トーストでも焼きましょうか、そう尋ねられたのを断って、一旦戻るからと明より先に部屋を出る京介を、伊吹は見送りに出てくれた。
早朝のことで、廊下には誰もまだ出ていない。
ぱたり、と閉まったドアから明は心得たように顔を出さない。別れの挨拶は一言、「京介、姉ちゃんの手を放すな」。
「間に合いますか?」
シャツの替えぐらい、こっちにも必要かもしれないですね。
薄汚れた京介の格好を気にしてくれた伊吹と、そのことばの意味に微笑む。
これからも泊まりに来ていいってことだよね?
「うん、大丈夫」
時間に焦りながら、聞きたかったことを確認した。
「ねえ、伊吹さん」
「はい?」
きょとんと見上げてくる瞳をじっと覗き込みながら、どんな変化も見逃すまいとことばを続ける。
「あの、くま」
「え?」
「大石からプレゼントされた、くま」
「……明ですね」
眉を寄せた伊吹に、無理に聞いたんだよ、彼を怒らないでね、と付け加えながら尋ねた。
「部屋になかったけど?」
「えーと、はい」
伊吹が一瞬照れたように視線を逸らせた。
「大事に押し入れに隠してある?」
配慮はしてくれた、けれどやっぱりあれは大事なものなんでしょう。
少し拗ねてみたのは、ひょっとしてひょっとしたら、伊吹美並という人間に、自分がうんと釣り合わないのではないかと考えてしまったせい。
「捨てました」
「……は?」
一瞬、ぽかんとしてしまった。
「……なんて顔してるんですか」
「や、今なんて…」
「くまでしょう?」
「うん」
「捨てました」
「捨てた…?」
だって、あれは。
君が一番厳しい状況にも一緒に居たもので、君がそれを越えて頑張ろうとした象徴で。
口ごもりながら慌てて続けると、
「明はどこまで話したんだ」
むっとしたように唇を尖らせた。
可愛い。
今の状況にも思考にも感情にも一切無縁で思ってしまった自分に呆れ返りながら、京介はなおも尋ねる。
「それはいいから、くま、捨てたの?」
「はい」
「……どうして」
答えはきっとわかっている、けれど直接伊吹のことばで聞きたくて、京介はあえて首を傾げてみせる。
「わかってるんじゃないですか」
「わかってないよ」
「想像通りですよ」
「想像なんかしてない」
「課長なら推測できるでしょう」
「推測なんかじゃ、いやだ」
答えながら、自分の声が甘くなるのに気付いている。
「教えて」
「あのね」
「教えて、美並」
体が勝手に伊吹を抱き寄せる。朝交わせなかったキスをそっと仕掛けて、眼を伏せて受け止めてくれる相手に有頂天になる。
「僕のため?」
「……」
「ねえ、僕のため?」
「……そうですよ」
ちゅ、と小さくキスを返された。同じ強さを伊吹の唇に返す。
もっと深くていいから、もう一度。
声にならない誘いは弾んだ息が伝えてくれる。
一瞬戸惑った顔で伊吹は京介を見上げて、両手で頬を挟んで近付けてくれる。
「京介が、悲しむから、捨てました」
「ん…っ」
口を開いて忍び込んでくる舌を受け入れたとたん、ごん、と衝撃が響いて目を開けると、あたた、と伊吹が後頭部を押さえて俯いていた。その向こうにうっすら赤くなった明の引きつり顔がドアの向こうから覗いている。
「もう終わったかと思ったんだよ」
ふて腐れた声に京介は苦笑した。
「いろいろ気になる部分はあるけど」
いいです、課長が楽しそうだから。
微笑まれて、胸が痛い。
トーストでも焼きましょうか、そう尋ねられたのを断って、一旦戻るからと明より先に部屋を出る京介を、伊吹は見送りに出てくれた。
早朝のことで、廊下には誰もまだ出ていない。
ぱたり、と閉まったドアから明は心得たように顔を出さない。別れの挨拶は一言、「京介、姉ちゃんの手を放すな」。
「間に合いますか?」
シャツの替えぐらい、こっちにも必要かもしれないですね。
薄汚れた京介の格好を気にしてくれた伊吹と、そのことばの意味に微笑む。
これからも泊まりに来ていいってことだよね?
「うん、大丈夫」
時間に焦りながら、聞きたかったことを確認した。
「ねえ、伊吹さん」
「はい?」
きょとんと見上げてくる瞳をじっと覗き込みながら、どんな変化も見逃すまいとことばを続ける。
「あの、くま」
「え?」
「大石からプレゼントされた、くま」
「……明ですね」
眉を寄せた伊吹に、無理に聞いたんだよ、彼を怒らないでね、と付け加えながら尋ねた。
「部屋になかったけど?」
「えーと、はい」
伊吹が一瞬照れたように視線を逸らせた。
「大事に押し入れに隠してある?」
配慮はしてくれた、けれどやっぱりあれは大事なものなんでしょう。
少し拗ねてみたのは、ひょっとしてひょっとしたら、伊吹美並という人間に、自分がうんと釣り合わないのではないかと考えてしまったせい。
「捨てました」
「……は?」
一瞬、ぽかんとしてしまった。
「……なんて顔してるんですか」
「や、今なんて…」
「くまでしょう?」
「うん」
「捨てました」
「捨てた…?」
だって、あれは。
君が一番厳しい状況にも一緒に居たもので、君がそれを越えて頑張ろうとした象徴で。
口ごもりながら慌てて続けると、
「明はどこまで話したんだ」
むっとしたように唇を尖らせた。
可愛い。
今の状況にも思考にも感情にも一切無縁で思ってしまった自分に呆れ返りながら、京介はなおも尋ねる。
「それはいいから、くま、捨てたの?」
「はい」
「……どうして」
答えはきっとわかっている、けれど直接伊吹のことばで聞きたくて、京介はあえて首を傾げてみせる。
「わかってるんじゃないですか」
「わかってないよ」
「想像通りですよ」
「想像なんかしてない」
「課長なら推測できるでしょう」
「推測なんかじゃ、いやだ」
答えながら、自分の声が甘くなるのに気付いている。
「教えて」
「あのね」
「教えて、美並」
体が勝手に伊吹を抱き寄せる。朝交わせなかったキスをそっと仕掛けて、眼を伏せて受け止めてくれる相手に有頂天になる。
「僕のため?」
「……」
「ねえ、僕のため?」
「……そうですよ」
ちゅ、と小さくキスを返された。同じ強さを伊吹の唇に返す。
もっと深くていいから、もう一度。
声にならない誘いは弾んだ息が伝えてくれる。
一瞬戸惑った顔で伊吹は京介を見上げて、両手で頬を挟んで近付けてくれる。
「京介が、悲しむから、捨てました」
「ん…っ」
口を開いて忍び込んでくる舌を受け入れたとたん、ごん、と衝撃が響いて目を開けると、あたた、と伊吹が後頭部を押さえて俯いていた。その向こうにうっすら赤くなった明の引きつり顔がドアの向こうから覗いている。
「もう終わったかと思ったんだよ」
ふて腐れた声に京介は苦笑した。
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