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第3章
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「じゃあ、行ってきます」
朝の会議を済ませた京介は昼近くなって席を立った。
『ニット・キャンパス』の締め切りが11月10日、今日は7日だからぎりぎりのところを何とか押し込むつもりだ。
「いってらっしゃい」
声が二つ重なって、石塚はデータ入力でパソコンに目を据えたまま、伊吹がにこりと笑ってくれたのが嬉しくて、笑い返しながらついつい側に寄る。
「伊吹さん、メール便は?」
「もう少ししたら行きます」
「今行かない?」
「? 急ぎですか?」
きょとんと見上げてくる相手に思わず唇を尖らせた。
わかんないのかな、もう。誘ってるのに、と覗き込む。
「外、寒そうだし」
「そうですね」
今週に入って急に冷えてきましたよね、と伊吹は依然そっけない。
「もっと冷えるかもしれないし」
「大丈夫です、上着羽織っていきますから」
「そうじゃなくて」
二人でそこまで一緒に行こう、って言ってるのに、と続けそうになって危うく制した。
伊吹の家に泊まって、昨日はついに鍵までもらって、それがもう嬉しくて嬉しくて仕方がない。少しでも離れていたくなくて、少しでも一緒に居たいけれど、仕事は容赦なく押し詰まってくるし、会社でべったりするわけにもいかないし、そういう僕の気持ちなんか全くわかってないんだよね、この人は、と睨みつけても、伊吹は平然としたもの、この書類処理が終わってからまとめて行きたいんですよね、とさらっと流されてがっかりする。
そんなことないと思うけど。
思うけどさ、ひょっとしたら、それほど伊吹さんは僕のこと気にしてないのかな、とか思うよね。
最近気が弛んでかっこ悪いところばかり見せてるからかな、と京介が思わず暗くなりかけた矢先、
「あ」
「何?」
「課長こそ、それ一枚じゃ寒いですよ?」
「ああ」
スーツ姿の自分を振仰いで眉を寄せた伊吹にちょっとほっとする。
「すぐ車に乗るからいいよ」
「運転できたんですか?」
「一応ね」
免許は取ったけれど、車を持とうと思わなかったのは、このあたりでは電車の方が便利がよかったのと、今まで仕事以外にうろつくことなどなかったせいだ。
でも、と何かごそごそと俯いて鞄を探している伊吹を見下ろしながら考える。
伊吹さんを乗せてどこかへ行くのは楽しいかもしれない。
京介の頭の中に放置状態になっている通帳が浮かぶ。結婚のことも考えて、買えないことはないなと素早く計算する。
じゃあ伊吹さんと一緒に車を見に行こう。また楽しみなことが増えた。
「あれ? あれ?」
「何?」
「んー、持ってきてたと思ったんだけど」
「何を?」
「使い捨てカイロ」
僕のために探してくれたんだ、とほんわり嬉しくなって微笑むと、仕方ないな、と伊吹が顔を上げた。
「ありません。仕方ないから、はい」
「はい?」
出されたのは濃い紺のカシミヤマフラー。
「寒かったらこれ、どうぞ」
「でも、伊吹さんは?」
「そんなに遅くなります?」
「あ、いや、帰社時間には戻るけど」
「もし、遅くなったら」
伊吹がにこりと笑って小さな声で呟く。
家に持ってきてください?
「あ……うん」
それって、今日も行っていいってこと、だよね? ひょっとして、また泊まってもいい、とか。
ごくん、と思わず唾を呑み込んでしまって、慌ててマフラーを受け取る。
「あ、じゃあ、借りよう、かな」
「どうぞ」
「うん……」
ぎゅ、と握ると柔らかな甘い香りがする。それが側で眠る伊吹の体臭と同じだと気付いて、京介はなおさら相好を崩した。
「はい、流通、じゃなかった、開発管理課、石塚でございます」
背後で鳴り出した電話に出た石塚が声を改めた。
「申し訳ございません、真崎はただいま席を外しておりまして………あ、ええ、はい、そちらへ向かっている途中かと」
「あ」
気をきかせてくれたらしい石塚に慌てて振り向いた。誰、と口の形で聞くと、
「あ、はい、わかりました、申し伝えます、みなうち、さま、ですね」
軽く頷いて、ことさらはっきり相手の名前を発音してくれた。
「みなうち?」
漢字が思いつかない風の伊吹に笑って、『ニット・キャンパス』の協賛企業の一つだよ、と説明する。
「珍しい名前ですね?」
「源、内側の内、でみなうちって読むんだって。みなうち、よりき」
源内頼起、と書かれた名刺を見せる。抽象的な模様の入った名刺には『企画・イベント 晴』との文字もある。
「今回の『ニット・キャンパス』の発案は学生だけど、バックアップと企業側のまとめをやっているのがこの会社らしいよ」
「はれ?」
「はる」
有名なコンピューターの名前ですね、と伊吹が微笑んで、なるほど映画も伊吹の趣味の一つかと覚えておく。
じゃあ、映画にもまた一緒に出かけよう。
一つ一つこうして宝物みたいに伊吹が京介の中に満ちていく。
そうしていつか。
ずきりと傷んだ胸に思わず伊吹の手に触れた。問いかけるように見上げてくれた相手に京介は小さく笑う。
いつか。
苦しくて痛い過去も、伊吹の笑みや声や温もりにゆっくり埋められて消えていってくれるだろうか。
「課長?」
「………大丈夫」
引き寄せて、キスしたい。
ふらっと顔を寄せかけたとたん、背後から石塚の声が響いた。
「課長、みなうちさまが打ち合わせに少し遅れます、とのことです。わたぎさまという方が代行説明されるそうです」
「わかった、わたぎ、だね」
弾かれるように身体を起こす。
「ありがとう。じゃ、いってきます」
さすがにちろりと冷たい視線を石塚に流されて、京介は慌てて部屋を飛び出した。
朝の会議を済ませた京介は昼近くなって席を立った。
『ニット・キャンパス』の締め切りが11月10日、今日は7日だからぎりぎりのところを何とか押し込むつもりだ。
「いってらっしゃい」
声が二つ重なって、石塚はデータ入力でパソコンに目を据えたまま、伊吹がにこりと笑ってくれたのが嬉しくて、笑い返しながらついつい側に寄る。
「伊吹さん、メール便は?」
「もう少ししたら行きます」
「今行かない?」
「? 急ぎですか?」
きょとんと見上げてくる相手に思わず唇を尖らせた。
わかんないのかな、もう。誘ってるのに、と覗き込む。
「外、寒そうだし」
「そうですね」
今週に入って急に冷えてきましたよね、と伊吹は依然そっけない。
「もっと冷えるかもしれないし」
「大丈夫です、上着羽織っていきますから」
「そうじゃなくて」
二人でそこまで一緒に行こう、って言ってるのに、と続けそうになって危うく制した。
伊吹の家に泊まって、昨日はついに鍵までもらって、それがもう嬉しくて嬉しくて仕方がない。少しでも離れていたくなくて、少しでも一緒に居たいけれど、仕事は容赦なく押し詰まってくるし、会社でべったりするわけにもいかないし、そういう僕の気持ちなんか全くわかってないんだよね、この人は、と睨みつけても、伊吹は平然としたもの、この書類処理が終わってからまとめて行きたいんですよね、とさらっと流されてがっかりする。
そんなことないと思うけど。
思うけどさ、ひょっとしたら、それほど伊吹さんは僕のこと気にしてないのかな、とか思うよね。
最近気が弛んでかっこ悪いところばかり見せてるからかな、と京介が思わず暗くなりかけた矢先、
「あ」
「何?」
「課長こそ、それ一枚じゃ寒いですよ?」
「ああ」
スーツ姿の自分を振仰いで眉を寄せた伊吹にちょっとほっとする。
「すぐ車に乗るからいいよ」
「運転できたんですか?」
「一応ね」
免許は取ったけれど、車を持とうと思わなかったのは、このあたりでは電車の方が便利がよかったのと、今まで仕事以外にうろつくことなどなかったせいだ。
でも、と何かごそごそと俯いて鞄を探している伊吹を見下ろしながら考える。
伊吹さんを乗せてどこかへ行くのは楽しいかもしれない。
京介の頭の中に放置状態になっている通帳が浮かぶ。結婚のことも考えて、買えないことはないなと素早く計算する。
じゃあ伊吹さんと一緒に車を見に行こう。また楽しみなことが増えた。
「あれ? あれ?」
「何?」
「んー、持ってきてたと思ったんだけど」
「何を?」
「使い捨てカイロ」
僕のために探してくれたんだ、とほんわり嬉しくなって微笑むと、仕方ないな、と伊吹が顔を上げた。
「ありません。仕方ないから、はい」
「はい?」
出されたのは濃い紺のカシミヤマフラー。
「寒かったらこれ、どうぞ」
「でも、伊吹さんは?」
「そんなに遅くなります?」
「あ、いや、帰社時間には戻るけど」
「もし、遅くなったら」
伊吹がにこりと笑って小さな声で呟く。
家に持ってきてください?
「あ……うん」
それって、今日も行っていいってこと、だよね? ひょっとして、また泊まってもいい、とか。
ごくん、と思わず唾を呑み込んでしまって、慌ててマフラーを受け取る。
「あ、じゃあ、借りよう、かな」
「どうぞ」
「うん……」
ぎゅ、と握ると柔らかな甘い香りがする。それが側で眠る伊吹の体臭と同じだと気付いて、京介はなおさら相好を崩した。
「はい、流通、じゃなかった、開発管理課、石塚でございます」
背後で鳴り出した電話に出た石塚が声を改めた。
「申し訳ございません、真崎はただいま席を外しておりまして………あ、ええ、はい、そちらへ向かっている途中かと」
「あ」
気をきかせてくれたらしい石塚に慌てて振り向いた。誰、と口の形で聞くと、
「あ、はい、わかりました、申し伝えます、みなうち、さま、ですね」
軽く頷いて、ことさらはっきり相手の名前を発音してくれた。
「みなうち?」
漢字が思いつかない風の伊吹に笑って、『ニット・キャンパス』の協賛企業の一つだよ、と説明する。
「珍しい名前ですね?」
「源、内側の内、でみなうちって読むんだって。みなうち、よりき」
源内頼起、と書かれた名刺を見せる。抽象的な模様の入った名刺には『企画・イベント 晴』との文字もある。
「今回の『ニット・キャンパス』の発案は学生だけど、バックアップと企業側のまとめをやっているのがこの会社らしいよ」
「はれ?」
「はる」
有名なコンピューターの名前ですね、と伊吹が微笑んで、なるほど映画も伊吹の趣味の一つかと覚えておく。
じゃあ、映画にもまた一緒に出かけよう。
一つ一つこうして宝物みたいに伊吹が京介の中に満ちていく。
そうしていつか。
ずきりと傷んだ胸に思わず伊吹の手に触れた。問いかけるように見上げてくれた相手に京介は小さく笑う。
いつか。
苦しくて痛い過去も、伊吹の笑みや声や温もりにゆっくり埋められて消えていってくれるだろうか。
「課長?」
「………大丈夫」
引き寄せて、キスしたい。
ふらっと顔を寄せかけたとたん、背後から石塚の声が響いた。
「課長、みなうちさまが打ち合わせに少し遅れます、とのことです。わたぎさまという方が代行説明されるそうです」
「わかった、わたぎ、だね」
弾かれるように身体を起こす。
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さすがにちろりと冷たい視線を石塚に流されて、京介は慌てて部屋を飛び出した。
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