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第3章
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「ここは…」
まず伊吹を連れていった店は品揃えのいい『MURANO』、小規模店ながら奥にはブライダルを扱うスペースもあって、結婚式の衣装やブーケなども相談できる。
「むらの、って言うんですね」
「知ってるの?」
「昨日、明の彼女のコンサート用のワンピースを見立てに来ました」
「コンサート用?」
「彼女、葉延七海さん、というんですが」
ああ、昨日の用事はそれだったのか、と安堵しつつ、京介はもう一つ気になったことを確かめる。
「……ひょっとして」
今度『ニット・キャンパス』のホールでハープ演奏をしてくれるアーティストだよね、そう続けると、伊吹は嬉しそうににっこり笑った。
「明ともうすぐ結婚します」
「いつ?」
「年明け……明が大学を出て就職したらすぐ」
応えた伊吹が一瞬『MURANO』の奥へ視線を投げた。何かを探すようなその仕草を追って、飾られていたウエディングドレスに気がつく。
シンプルな白、けれど伊吹が着れば誰より似合いそう、そう京介が思った矢先、
「いい、夫婦になると思います」
優しい切ない声音に胸が詰まった。
急に蘇ったのは、シュレッダーの前でゆっくり天井を見上げながら呟いた声。
『結婚……かあ』
掠れた柔らかな響き。
『息苦しいったらありゃしない』
今思えばいじっぱりな、無理やり何かを諦めるような。
『夢の、また、夢』
ぴちりと閉めた心の。
自分で自分を傷つけようとした、自分の能力が子どもに遺伝することを恐れて。
さっき伊吹は一緒に居よう、と言ってくれた。それを今の今まで結婚しようという意味だと思っていたけれど、奥のウエディングに投げた視線は叶わないものを望むように遠いものだった。
まさか、伊吹の一緒に居ようっていうのは、ただ本当に一緒に居るだけとか、そんなこと、ないよね?
いろんな誤解や喧嘩があっても、京介と一緒に生きていってくれるという意味ではなく、京介との関係を楽しむだけとか、そんなことは。
思わず振り向いたのは近付いてきた淡いグレイのツーピースの女性に伊吹が重なったからだ。
「いらっしゃいませ、真崎さま」
「こんばんは、響子さん」
「今日は何をお求めですか」
名前を呼び掛けてくる配慮、この店には顔がきくのだとそれとなく感じさせて客のプライドをたてる心配りは村野そっくりで、思わず苦笑する。
夫婦は似るんだなと考えて、違う、元夫婦だ、と思い直した。
たった一度のずれが、村野にこの女性を失わせた。
京介がそうならないと誰が言えるだろう。
「マフラーと……スーツを」
「マフラー?」
「僕が彼女のものを駄目にしてしまったんです」
今までにもいろいろなものを選んだことはあるが、京介の理由に響子はすぐに伊吹が特別な相手だと察したようだ。
「お好みの色がございますか」
「紺色がいい、伊吹さん?」
尋ねて振り返ると、伊吹が僅かに首を傾げて京介と響子を見ている。
「そう、ですね」
「何?」
「いいえ」
お知り合いですか、と問いかけてくる口調に少し不穏な気配を感じて、慌てて説明する。
「ああ、響子さんは、村野さんの」
「旧姓、村野響子、と申します。今は高上響子ですが」
すぱっと口を挟んだ口調に、村野とは別れました、そう応じたときの顔を思い出した。泣いていて、けれど揺らがない瞳のまっすぐな強さ。伊吹も響子みたいにまっすぐ見返していたんだろうか、大石を失ったと告げられたとき。
「旧姓、村野」
考え込んだ顔になった伊吹は、それ以上突っ込まなかった。
「紺でもいろいろな種類がございますよ」
響子は穏やかに伊吹を誘う。促されて出されたマフラーを覗き込んでいた伊吹が、似たような色を探している気配だと気付いて、京介はまた不安になった。
ひょっとして。
ひょっとして、あのマフラーも、大石からのプレゼントだとか。
同じ色を探している伊吹は、大石と会うからなおさら悩んでいるとか。
こっちは少し明るいですね、でもこっちだと暗いかな。
響子の差し出すマフラーを指で触れて選ぶ伊吹の横顔を覗く。
真剣そう。
大切に丁寧に見定めて。
側に居る京介を忘れたみたいに。
「……真崎さま」
「はい?」
急に呼び掛けられて顔を上げると、響子が苦笑しながら見下ろしている。
「あちらでコーヒーでもいかがですか」
このお嬢様のお相手は私がいたしますから。
「え、いや、でも」
伊吹さんがどんな色をどう選ぶのか見ていたいし。どんな色が好きなのか知りたいし。
無意識に伊吹を見遣って、ちらっと視線を上げられて動きを止める。
「……そんなに側に張り付いておられては、お困りになりますよ」
「あ」
響子に柔らかく嗜められて顔が熱くなった。急いで伊吹を見ると、なおも京介を見上げている相手は確かに困った表情にも見える。
「う、ん」
じゃあ、僕、コーヒーでも頂こうかな。頂いた方がいいんだよね。
まず伊吹を連れていった店は品揃えのいい『MURANO』、小規模店ながら奥にはブライダルを扱うスペースもあって、結婚式の衣装やブーケなども相談できる。
「むらの、って言うんですね」
「知ってるの?」
「昨日、明の彼女のコンサート用のワンピースを見立てに来ました」
「コンサート用?」
「彼女、葉延七海さん、というんですが」
ああ、昨日の用事はそれだったのか、と安堵しつつ、京介はもう一つ気になったことを確かめる。
「……ひょっとして」
今度『ニット・キャンパス』のホールでハープ演奏をしてくれるアーティストだよね、そう続けると、伊吹は嬉しそうににっこり笑った。
「明ともうすぐ結婚します」
「いつ?」
「年明け……明が大学を出て就職したらすぐ」
応えた伊吹が一瞬『MURANO』の奥へ視線を投げた。何かを探すようなその仕草を追って、飾られていたウエディングドレスに気がつく。
シンプルな白、けれど伊吹が着れば誰より似合いそう、そう京介が思った矢先、
「いい、夫婦になると思います」
優しい切ない声音に胸が詰まった。
急に蘇ったのは、シュレッダーの前でゆっくり天井を見上げながら呟いた声。
『結婚……かあ』
掠れた柔らかな響き。
『息苦しいったらありゃしない』
今思えばいじっぱりな、無理やり何かを諦めるような。
『夢の、また、夢』
ぴちりと閉めた心の。
自分で自分を傷つけようとした、自分の能力が子どもに遺伝することを恐れて。
さっき伊吹は一緒に居よう、と言ってくれた。それを今の今まで結婚しようという意味だと思っていたけれど、奥のウエディングに投げた視線は叶わないものを望むように遠いものだった。
まさか、伊吹の一緒に居ようっていうのは、ただ本当に一緒に居るだけとか、そんなこと、ないよね?
いろんな誤解や喧嘩があっても、京介と一緒に生きていってくれるという意味ではなく、京介との関係を楽しむだけとか、そんなことは。
思わず振り向いたのは近付いてきた淡いグレイのツーピースの女性に伊吹が重なったからだ。
「いらっしゃいませ、真崎さま」
「こんばんは、響子さん」
「今日は何をお求めですか」
名前を呼び掛けてくる配慮、この店には顔がきくのだとそれとなく感じさせて客のプライドをたてる心配りは村野そっくりで、思わず苦笑する。
夫婦は似るんだなと考えて、違う、元夫婦だ、と思い直した。
たった一度のずれが、村野にこの女性を失わせた。
京介がそうならないと誰が言えるだろう。
「マフラーと……スーツを」
「マフラー?」
「僕が彼女のものを駄目にしてしまったんです」
今までにもいろいろなものを選んだことはあるが、京介の理由に響子はすぐに伊吹が特別な相手だと察したようだ。
「お好みの色がございますか」
「紺色がいい、伊吹さん?」
尋ねて振り返ると、伊吹が僅かに首を傾げて京介と響子を見ている。
「そう、ですね」
「何?」
「いいえ」
お知り合いですか、と問いかけてくる口調に少し不穏な気配を感じて、慌てて説明する。
「ああ、響子さんは、村野さんの」
「旧姓、村野響子、と申します。今は高上響子ですが」
すぱっと口を挟んだ口調に、村野とは別れました、そう応じたときの顔を思い出した。泣いていて、けれど揺らがない瞳のまっすぐな強さ。伊吹も響子みたいにまっすぐ見返していたんだろうか、大石を失ったと告げられたとき。
「旧姓、村野」
考え込んだ顔になった伊吹は、それ以上突っ込まなかった。
「紺でもいろいろな種類がございますよ」
響子は穏やかに伊吹を誘う。促されて出されたマフラーを覗き込んでいた伊吹が、似たような色を探している気配だと気付いて、京介はまた不安になった。
ひょっとして。
ひょっとして、あのマフラーも、大石からのプレゼントだとか。
同じ色を探している伊吹は、大石と会うからなおさら悩んでいるとか。
こっちは少し明るいですね、でもこっちだと暗いかな。
響子の差し出すマフラーを指で触れて選ぶ伊吹の横顔を覗く。
真剣そう。
大切に丁寧に見定めて。
側に居る京介を忘れたみたいに。
「……真崎さま」
「はい?」
急に呼び掛けられて顔を上げると、響子が苦笑しながら見下ろしている。
「あちらでコーヒーでもいかがですか」
このお嬢様のお相手は私がいたしますから。
「え、いや、でも」
伊吹さんがどんな色をどう選ぶのか見ていたいし。どんな色が好きなのか知りたいし。
無意識に伊吹を見遣って、ちらっと視線を上げられて動きを止める。
「……そんなに側に張り付いておられては、お困りになりますよ」
「あ」
響子に柔らかく嗜められて顔が熱くなった。急いで伊吹を見ると、なおも京介を見上げている相手は確かに困った表情にも見える。
「う、ん」
じゃあ、僕、コーヒーでも頂こうかな。頂いた方がいいんだよね。
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