『京都舞扇』〜『猫たちの時間』2〜

segakiyui

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5.帰れぬ世界

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 その日の夜。
「……おにいちゃんの持ってた手帳に」
 清の家で、真っ青になっている京子と清、それに腕組みをしている廻元と俺達は、重苦しい空気の中で向かい合っていた。
 京子の話してくれていた「父親の仕事先の人」というのが清だったというあたり、それを知らされた瞬間、周一郎は真っ白な顔になって俺を見た。
 滝さん、僕は。
 掠れた声で呟いたのを恥じるように、その後は一言も口を開かなくなってしまったが。
「『朝倉周一郎氏注文、特別誂えの扇』てメモがあったそうです」
 滲みかけた涙をこらえるように一旦口を噤み、京子は周一郎を睨みつけた。
「警察の人が、おにいちゃんは……覚醒剤の密輸に関わってて、こっそり持ち込もうとしたのを空港で見つかりかけて、慌てて逃げようとして逃げ切れなくて、飛び下り自殺したって」
「……」
 周一郎は無表情に京子を見返した。
「今少しずつ調べています、言うてはったけど」
 京子はきゅ、と唇を引き締めた。
「うち、ここでどうしても聞いときたい。おにいちゃんに『特別誂えの扇』をフランスから運んでくるように指示したの、周一郎さんなんですか」
「え、いや」
「滝さん」
 それは違うぞ、こいつはむしろ巻き込まれた方で、と言いかけて、寸前で周一郎に制された。
「や、だって」
「黙っててくれませんか」
 冷ややかに封じられて振り向き、相手の瞳が一瞬ちらりと清に動いたのにはっとした。
 そうか。
 周一郎をここへ呼びつけたのも、扇の受け取りを命じたのも、綾野啓一だ。当たり前に考えれば、啓一が密輸に関わった可能性の方が高い。
 だが、その啓一は清の実の息子でもある。周一郎が大事に守ろうとしている優しい乳母の大切な子供、だ。
 清が京子を大事にしているのは一目瞭然、真実と誠実を守って生きているのも歴然、けれどその子供の綾野啓一は周一郎の居場所を虎視眈々と狙っている。
 そのことについて清が何もこだわりがなかったのか、俺は今まで気にしていなかったけれど、周一郎は意識していただろう。だからこそ、京都へ来ることが罠かもしれないとわかっていても、自分を大切にしてくれていた乳母が変心していないか、確認に来ずにはいられなかったのだ。
 清は変わらず周一郎を迎えた。周一郎は自分の好きなものが整えられた食卓や清の応対に安堵した。
 安堵していた、のだ。
 けれど、この、展開。
 告げるな、と周一郎は言っているのだ。自分の息子が、自分が大切に育てた相手を追い落とすようなことをしているのだと知らせるな、と。
 それは清の中にある誠実を崩壊させる。自分が手塩にかけた子供達がそれぞれに社会の裏に生きていたと言うことを知らないままに生きている、この穏やかな人の世界を突き崩してしまう。
「けど」
「あなたに関係ないことでしょう」
 殺されても構わない、そこまでの信頼を傾けた相手だからこそ、知らせたくないものもある。
 確かに、そうだが。
 でも、だって。
 それじゃお前はどうなるんだ。
 口を尖らせた俺から突き放すように視線を外して、周一郎は再び京子に向き直った。
「もし、そうだとしたら?」
「うち………」
 くしゃくしゃと顔を歪めて京子が俯く。
「周一郎さんを許せへんかもしれへん」
「坊っちゃん」
 さっきから思い詰めた顔でじっと体を固めていた清が、堪えかねたようにぽつりと言った。
「何か、隠してはることおへんか」
 微かに周一郎の体が揺れる。
「ないよ」
「ほんまに?」
「……ああ」
 周一郎の表情は動かない。まるで他人事のように静かな応対、それに京子が苛立ったように顔を上げる。
「ほな、なんでおにいちゃんの手帳に周一郎さんの名前があったん? おにいちゃんがフランスで、啓一さんとこで働いてるなんて知らんかったけど、それでも元気でやってるて………」
 う、と堪えかねたようにぼろぼろと京子が涙を落とす。
「何か知ってんのやったら教えて。おにいちゃん、覚醒剤の密輸なんか、する人やない、もん。きっと何か理由があって、何か間違ってて…………おにいちゃん知らんかって巻き込まれたんや」
「…………良紀さんも京子ちゃんも、いい子ですのんえ」
 清が辛そうにつぶやいた。じっと周一郎を見つめる目が潤んでいる。
「こんな年寄りのこと、いつも気にかけてくれたはって……」
 一途な視線は息子を疑わない。良紀を疑わない。
 自分の世界の清廉さを疑わない。
 けれど、それは同時に悲劇の原因を他に求めることでもある。
「……」
 続く清のことばを察したように、周一郎は黙っている。
「坊っちゃん。何か知ったはるんやないですか?」
「………」
「なんで、良紀さんの手帳に坊っちゃんの名前がありましたん? 啓一は坊っちゃんが扇を注文しはった、言うてましたえ。フランスで新しいデザインを考えたのを見てもらうことになった、言うて…………ひょっとして、その扇て、まっとうなもんやなかったんどすか?」
「………」
「坊っちゃんは何をしたはったんどす」
 思い詰めた声が響いた。
「道子のことかて…」
 言いかけて口を閉じた清に、周一郎が緩やかに目を伏せる。
「あの子、優しい子でした……確かに坊っちゃんのことはようお世話せえへんかったけど」
 道子、というのは前妻、啓一の妹か。
「坊っちゃんにかて非があったん違いますの」
 おい。
 思わず呆気に取られる。
 なんだよ、それは。
「……坊っちゃんのこと、血が繋がってへんけど大事にしてました。そやけど坊っちゃんは打ち解けてくれへんかった、人を見下したように見るばかり、妙な子供で気持ち悪い、母親の私にはそう言うてくれましたけど、坊っちゃんにはちゃんと、そういうことは見せへんかったはずです」
 大事に。
 それを大事にしていた、と言うのか?
 そんなもの、周一郎には筒抜けだったはずだ。
「清…さん」
「なんですの」
 まっすぐに見返す老女の目に揺らぎや不安はこれっぽっちもない。自分が今どれほど酷いことを口にしたのか、一切わかっていない顔。自分の信じている世界こそが真実であると疑わない目。
 その目の一途さにことばが出なくなる。
 気づかない、ということはこういうことなのか?
 あの屋敷の中でずたずたに傷ついていた周一郎の傷みも苦しみも、清にはちゃんと見えていなかった。その中でどれほど周一郎が清を求めてすがっていたか、全く気づいていなかったということになる。
 そして、その「まっとうな世界」の仕組みから見れば、今回のことも周一郎が『特別誂えの扇』を求めたのに啓一が応じて、それを届けに来たのが三条良紀、しかもその扇は覚醒剤の密輸に使われてたってことになるのか?
「それ、って」
「……」
 ぎら、と殺気を浮かべて周一郎が俺を睨んだ。
 浮かんだ絶望に俺は胸が苦しくなる。
「『SENS』というらしい」
 廻元が苦々しい声で口を挟んだ。
「ヨーロッパの若者に急速に広まった薬の一つで、日本経由で広がっていると監視されていたらしいぞ。大体、その『SENS』という呼び名も日本の『扇』が密輸の際に使われているという符丁だということでな」
「ふちょう?」
 きょとんとする俺に、
「売買の暗号だ。扇が見たい、そう言えば注文したことになるらしい」
 廻元は重苦しい溜め息を吐いた。
「金を払うと扇が届けられる。その扇に描かれた絵の塗料に『SENS』が含まれてて、破いて燃やすと簡易に吸入用ドラッグとして作用するらしい。向こうでは手軽でしゃれた薬と評判だったそうだ」
「坊っちゃん」
 清が滲んだ涙をそっと押さえて俯いた。
「お仕事のことはようわかりまへん。そやけど……」
 切なく震えた声が訴える。
「小さいころの坊っちゃんは、こんなことに手を染めるようなお子やあらへんどしたやろ?……」
 よせ。
「啓一はようおす、けど、京子ちゃんや良紀さんまで巻き込んで、それほどお商売が大事どすか」
 もうやめろ。
 あんたはそうやって『正しい世界』から、こいつの世界を踏みにじっているんだぞ。
「清っ」
 思わず腰を浮かせてしまった。
「さっきからなんですのん!」
 俯いた清が聞いたことのないきつい声で遮った。
「悲しい、言うてますのんや、私が大事にお育てした坊っちゃんが、人の情とか真実とか、そんなもん気にもせえへんで、お商売のことばっかり考えるような人になってしもたのが、悲しい言うてますのん!」
「ちが…」
「何が違いますのん! 娘のことかて子供がなかったから坊っちゃんを引き取らはったのやと我慢したんどっせ! きっといつか娘の気持ちも伝わって、坊っちゃんもなじんでくれはるやろうて! どんなねじ曲がった子供でも精一杯尽くせば通じるはず、おてんとさんは見たはるさかい、て、言うて聞かせましたんやで!」
「きよ…」
 ちょっと待ってくれ。
 今あんたはとんでもないことを言ってるんだぞ?
 あの家の中で、誰も信じられなかった周一郎が間違っていたって。それは周一郎が『ねじ曲がっていた』せいで、周囲の人間に落ち度はない、つまりは周一郎こそが厄介の元凶だったって。
 けれど、こいつは。
 あんたを、信じて。
 世界でたった一人、あんたを信じて、ここまできて。
 あんただけは大丈夫だと、今の今までそう思ってたはずで。
「いいんですよ、滝さん」
 穏やかな声が響いて周一郎を振り返りぎょっとする。
 笑っていた。
 微かだが、明らかに笑みとわかる形に唇を釣り上げたまま、周一郎がすっと席を立つ。
「馬鹿馬鹿しい」
 嘲笑。
 おそらくは、清を信じた自分への。
「……何がおかしいん」
 その笑みを見とがめた京子が噛みつく。
「人一人死んだのに、何がおかしいんや!」
「今何を言っても信じないでしょう? ………僕には関係ないことだ」
 冷ややかに吐き捨てて周一郎は向きを変えた。背中越しに冷え冷えとした声が響く。
「誰が死のうと生きようと」
「…坊っちゃん!」
 清が悲鳴のように叫んだ。
「情けのおすえ! 昔のお優しい坊っちゃんはどこに行ってしまわはったん!!」
 そのまま立ち去ろうとした周一郎がぴくりと動きを止める。
「そんなにお金が大事どすか! そんなにお商売が大切どすか! 人の命はどうでもええんどすか!」
「………僕がどこに行ったかって?」
 僅かに見せた横顔が歪む。
「ずっと、ここに居ますよ」
 振り返って凍りついた顔で繰り返した。
「あなたの望む形じゃないだけだ」
 動かない表情、けれどその背後に真っ暗な穴のような孤独。
 ルトを連れてこなかった。
 ふいにその意味に気づいた。
 ひょっとして。
 お前はひょっとして、騙されたままでいるつもりで。
 ルトが居れば、この清の気持ちの裏側は筒抜けになっていたはずだ、もっと早く、もっとはっきり。
 けれどそれを見ないつもりで。
 なのに、こんな形で。
「周一郎…」
「ちょっと休んできます。連絡があったら呼んで下さい」
「坊っちゃん!」
 くるりと身を翻して、周一郎は部屋を出ていった。

 『信じていた坊っちゃん』に裏切られたと嘆く清と、『好きになりかけた男』が肉親を死に追いやったと落ち込む京子を廻元に任せて、俺は二階へ上がった。
 見せられている世界と、見えてくる世界のギャップが大きすぎて、かなりきつい。
 俺でさえそうなら、俺より鋭いあいつの胸に刺さったものは、どれほど太い杭だろう。
「周一郎?」
「何ですか」
 やっぱり、休むつもりなんてなかったのか。
 携帯とノートパソコンを忙しく操作している相手を痛々しく見下ろした。いつもより固く強ばった表情は下で見せたほど冷たく見えない。むしろ、追い詰められて必死に道を探そうとしているようだ。
 当たり前だよな。
 あんなに大事にしていた相手にあっさり切られて。それを弁解もできなくて。その迷いさえ見せられなくて。
 ことばも気持ちも何もかも封じられて。
 こいつに今一体何が残ってる?
 何を信じることができる?
 まるで全身切り刻まれて、それでも無理に走っているようだ。
 押し入れを引き開けてさっさと布団を敷き延べる。一段落ついたあたりで振り返って声をかけた。
「周一郎」
「だから、何です」
「布団敷けたぞ」
「だから?」
「休むんだろ、寝ろ」
「……」
 あなたは馬鹿ですか、とこれはことばに出されなくても呆れ顔でよくわかった。
「何かわかったのか?」
「……いえ」
 瞳を伏せて苛立たしそうに別の番号を当たる。だが状況は芳しくないらしい。疲れた顔で通話を切る。
「良紀さんが死んだのは確かですね。状況も京子さんが言った通りだ」
「そんなところから確認したのか?」
「いろいろと伝手がありますから……それに公的発表というのは操作しやすい」
 嘲笑するような冷ややかな瞳で見返した。
 だが、俺の凝視にすぐに視線を逸らせて、
「『SENS』の情報も確かだ……けれど、わからない、いつこっちのルートを利用されていた……?」
 独り言のようにつぶやく顔は険しい。すぐ再びパソコンに向き直り、素早く指を走らせて画面を開いていく。どれほどガキんちょに見えようと、こいつが事実上朝倉財閥のトップなのは揺るぎない事実、それを見せつけるように次々と手配を進めていく。
「日常交易じゃない、だが確かに『SENS』のルートには僕の名前が流れている……『トップ・トランス』のチェックには引っ掛かっていない……フランス側で細工されたか?」
 低いつぶやきに、珍しく苛立った気配があった。
 『トップ・トランス』は周一郎が動かしてる貿易会社の一つだったはずだ。高野は今回はそこがメインで啓一とやりとりしていると聞いた。周一郎のことだ、自分や朝倉家に対する備えは十分にしてきているだろう。だが、今回のように、まさか啓一が自分の身内を使って仕掛けてくるとは思っていなかったのかもしれない。
 普段の周一郎からすれば十分に甘い備え。
 きっと清、ゆえに。
「……なあ」
「はい」
「お前は本当に関わってないんだな?」
 きっとした気配で周一郎は振り返った。
「『SENS』に手を出すなら、僕ならもっとちゃんと手を打ちます」
「そういう問題じゃないだろ」
 おかしな文句を言った相手に苦笑し、ちょっと覇気が戻った気配にほっとした。
 こういうところが微妙にずれてんだよな、こいつは。
「………僕は薬には手を出しませんよ」
 ふ、と気を抜いたような息をついて、周一郎がつぶやいた。うっとうしそうに肩を竦めながら、
「確かに効果的な集金システムではありますが、リスクが大きすぎる」
 さらりと言い放った。
「薬剤依存というのは、考えられてるより簡単に人間を壊すんです。始めは売り捌くだけに関わっていても、遅かれ早かれ末端の人間が侵される…………人間は弱い生き物だから、苦痛をすぐに取り除いてくれるものが間近にあって手を出さないのは至難の技だ」
 サングラスの向こうの目は感情が読めない。
 連絡が戻ってきたのだろう、かかってきた携帯に応じ、パソコンで確認し、次の連絡先にあたり、指示を与え、小さく溜め息をついて話を続ける。
「そうやって薬に侵された人間が組織に益になるか? とんでもない、害にしかなりませんよ。どんな些細なストレスにも薬に手を出すようになって、しかも回復に時間がかかる。切り捨てても薬のためなら平気で裏切るし何でもやる……どれだけ叩き潰してもどこからか噛みついてくる」
 十八にしてはひやりとした冷たい目で俺を見返した。
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 掠れた声でつぶやいた。
 ふいに机に向かって正座しながらパソコンを操る姿が、ひどく小さく脆く見えた。
 こいつは俺の知らないことをいっぱい知ってて、俺の見てないものをいっぱい見てて、そうやって理解した世界ってのはきっと、さっきみたいに追い詰められて身動き取れなくなるようなものばかりだったんだろう。
 そういう世界で生きてきたのに、今さら人の感情なんて求められても、そんなものどこにも持ってない。なのに、それが欠けてるとまた責められて。
 一体どう生きればいい?
 ことばにならないものが、周一郎の中に吹き荒れている。
「すまん」
「……え?」
「わからなくて、すまん」
 振り返った周一郎が不安そうに瞬きする。
「なぜ……」
「うん?」
「なぜ、あなたが謝るんです?」
「いや、何だか……お前がわかってほしかったろうに、わからなくて悪かったなあ、と」
「っ」
 ふいに周一郎が見る見る赤くなって、今度はこっちが呆気に取られた。
「別に、わかってほしかったわけじゃない」
「あ、うん」
「僕はわかってほしかったわけじゃない」
「そうか」
「別にあなたにわかってほしかったわけじゃないんです」
「う、うん」
 おい、何をむきになって。
「あなたがわかろうとわかるまいと」
「あ、あのな、もう十分わかったから」
「何をわかったって言うんだ」
「いや、だから、お前が別にわかってほしかったわけじゃないってよくわかったから」
「わかってない」
「いや、だからお前はわかってほしくないってわかったって」
「わかってほしくないってわかってもらっても、そんなの全然わかってな……っ」
「は?」
 ふいに周一郎が一気に真っ赤になって口を噤んだ。
 あれ?
 何か今、ニュアンス変じゃなかったか?
「なあ、周一郎?」
「ちっ」
 おお、珍しい、舌打ちなんかしやがったぞ、こいつ。
「とにかく……あなたには関係ないことです」
 むっとしたように眉をしかめてパソコンに向き直る。
「僕は忙しいんですから、黙ってて下さい」
「………清、にも?」
「………そう、です」
 こちらを向かないままぼそりとつぶやく。
「……あのままじゃ、誤解されたままだぞ?」
「……構いません……それに」
 く、と低い笑い声を漏らした。
「今さら信じてもらおうなんて思ってやしません。っていうか、信じてもらってもいなかったようですが」
 冷笑。
 僕もずいぶん甘かった。
 吐き捨てるようにつぶやいた。
「だから、こんなところに突っ込まれる。事実、僕が関わってたかもしれないんだし」
「けど」
 けど、お前が清に向けてた気持ちはどうなるんだよ。
「肝心のことはしゃべらねえのな」
「話しても無駄です」
「そうやって何も話さない気かよ」
「僕に無駄な時間は必要ありません」
「俺と話してんのも?」
「………」
「………そんなことしてたら、回りに誰もいなくなっちまうぞ?」
 びく、と周一郎が動きを止めた。パソコンから視線を上げて俺を見返す。
「………どうぞ」
 低い声で静かにつぶやいた。
「出て行きたいなら勝手に出て行って下さい。僕にあなたを、止める権利は、ない」
「いや、権利とかじゃなくて」
「何です」
「俺が出ていったら、お前は悲しいか?」
「……」
「寂しかったりするか?」
「………悲しいわけも、寂しいわけも、ないでしょう」
 周一郎はのろのろとパソコンの操作を再開した。
「元から、いなかったと………思えばいい」
 一瞬唇を噛む仕草が幼くて、その脳裏に誰が過ったのか透けて見えた気がした。
 なんだ、やっぱり。
 やっぱり、清に信用されてなかったのが辛かったんじゃないか。
「………ああ」
 ふい、と何かを思い出すように、視線を上げた。
「出て行くときにはバイト料の精算をさせますから、ちゃんと早めに伝えて下さい。今日言われて明日というのも困ります、最低でも一週間前とか…………一ヶ月前とか…………」
 そのまま少しぼんやりした顔で遠くを見ている。
「………滝さん」
「ん?」
「……………もう、出て行きますか」
 静かな柔らかな声で尋ねてきた。こちらを見ずに明後日の方向を向いたまま、
「………今聞いておけば、京都から戻ればすぐに出ていけますよ?」
「あのな」
 それほど人を追い出したいのかよ、と続けかけて、相手がじっと答えを待っているのに気づいた。パソコンに触れた指が止まっている。
「まだ………出ていかねえ」
 何だかその沈黙に気持ちを呑み込まれたような気がして、思わずつぶやいた。
 そうだ出ていくわけにはいかない。
 満身創痍のこいつを放り出せるわけがない。
 今俺にも少し見えている、こいつが生きている世界が。
 唐突に思い出したのは廻元に尋ねられた岩の話だ。
 俺は今きっと崩れた欠片を積んで、ようやく岩の向こうを覗いてみたところなんだろう。
 そうして見えた世界は実のところこちらの世界と全く違っているように見えたのに、よく見ると鏡映しのようにいろんなものがそっくりに置かれている。花園があり、泉があり、美しい建物がある。
 けれどその花園はこちらの世界で見るように「花がある」というのではなく、その茎や葉や、そこに居る羽虫や幼虫も見える。泉は湧き出してくる場所で砂が舞い上がっているとか、その上を泳ぎ過ぎる魚が流れに巻き込まれてうろたえるのも見える。建物は施された細工がどのように作られたのか、その作業がわかる、職人が仕事をしているからだ。
 いろいろなものがその現在だけではなく過去と未来をそこに凝縮させていて、確かに美しい、けれどあまりの情報量に頭も感覚もついていかない。
 ただ一つわかっているのは、その光景が何だと断じられないことで。
 咲いている花を蝕む昆虫、どちらも命だ。吹き出す水に叩きつけられて傷つく魚、どちらも正しい。建物はどれもまだ未完成だが職人の生き甲斐を提供しているとも言える。
 意味は一つじゃない。
 片方だけしか見えなければ選択にも責任にも怯まなくて済むが、その両方の世界を突きつけられるということは。
 二つの世界を同時に抱えるということは。
 周一郎が沈黙するしかないのがわかる。
 だからこいつはその狭間で否応なしに引き裂かれてて、自分を閉じるしか身を守る術がない。
 けれど、それではもう堪えきれないほど、傷ついていて。
 部屋で額に載せてやったタオル。
 あれはこっちの世界を封じるってことだったんだなあ。
 いや『羞明』そのものが、かけているサングラスが、周一郎を世界から少し隔てて守っているってことか。 
 じゃあ、俺の役割は?
 俺は何ができるんだろう?
 坂を造って、二つの世界を行き来できるようにさせてやると、どうなるんだろう?
 額に載せてやったタオルみたいに、片方の世界を閉じてしまっても生きていける、そう教えてやることだろうか。
 ならば周一郎はそのとき、どちらの世界を閉じるんだろう。
 二つ抱え切れないとしたら、俺ならどちらの世界を選ぶんだろう。
「滝さん…?」
 促すようにやっぱりこちらを向かないまま、尋ねてきた声に我に返った。 
 そうだとにかく今は。
「行くとこもないし」
「そう、ですね」
 まるで壊れた人形が唐突に直ったように、周一郎はまた忙しく指を動かし始め、小さく吐息をついた。
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