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『白い朝』
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「どうかなさいましたか、お客さま?」
柔らかな声に瞬きする。
「何か問題でも?」
「ああ、いえ、別に、全然」
急いで応えて、声の方向に慌ただしく手を振って見せた。
「大丈夫です、ありがとう」
中途失明だったから、見えていた時の仕草は急に消えやしない。ましてや、今みたいに見えなくなった視野に広がるものを凝視してしまうと、つい『外側』からも何かを見ているような雰囲気になるんだろう。
「では、コーヒーはいかがでしょう?」
「あ、じゃあもう一杯」
「ここですよ」
柔らかな声の彼女は、僕の手を取り、指先をソーサーに触れさせてくれた。
「ありがとう」
粉のように頬に触れる日差しを感じる。太陽の光で全てが眩く色を飛ばせているような光景だろうな、と思い、脳裏にそれを描いた。
立ち去る彼女の甘いパウダーの匂いをかぎながら、微かな衣擦れを響かせる後ろ姿を想像する。
このホテルのラウンジに勤め出してどれぐらいになるのだろう。あまり長くはないに違いない、今も一瞬どちらへ行こうかと迷うように靴音が止まった。年齢を越えた心遣いは、彼女のもともとの性格というよりは、前の仕事のせいだろう。
白衣の天使。
手を取る時にぴたりと指先が動脈にあたること、僕を席に誘導する慣れた応対、何よりさっき、いきなり倒れた婦人への的確な判断と小さく呟かれた医学用語。
看護師を辞めて、ホテルラウンジのウェイトレス、何があったのかはこの視界に広がる紅の海のせいだろう。亡くなったのは親しい人か、それともしてはならない最大のミスの犠牲者か。
傷みに満ちた記憶のはず、それでも聞いてみたくなるのは、僕のほんと悪い癖で。
「あの」
「…はい」
片手を上げるとすぐに、ふわりとした羽根枕を思わせる香りが近寄ってきた。
ああ、ほんと今朝の光は彼女にぴったりだ。甘やかで実体感のある温もり。
「もう少し、側に」
「え?」
ねだるように聴こえただろうか? それでも彼女は距離を縮めてくれた。体温を感じて嬉しくなり、上機嫌で疑問を口にする。
「さっき、どうしてあの人を見殺しにしようとしたんです?」
「…」
耳元で小さく息を呑む気配があった。
「あなたならすぐに対処できたでしょうに。なぜ一瞬バイタルに問題はなさそう、と?」
もちろん、すぐに否定されて、心臓マッサージを始められていたようですが。
「……」
「僕、耳がいいんですよ」
「………」
「それにあなたのお顔もわからないし、いざとなったら、あなたは僕を、どうにでも始末できますしね、いろいろ不自由な人間なんで」
大丈夫ですよ。
そちらに向かって目を閉じたままにっこり笑うと、彼女は静かに吐息をついた。
「不愉快な話ですよ」
「聞きたいな」
「彼女は私のかつての上司でした」
私の夫に横恋慕して、私から彼を奪うために濡れ衣を着せて追い出した。けれど、それに気づいた夫が自分の罪もあるからと自殺して。
「今日が夫の命日です」
「そんな日に、わざわざ助けなくても」
「……職業病、ですね」
応じた声音が濡れてかすかに震えていて、僕は申し訳なくなった。
「ありがとうございました。お礼に、ここで一番高い飲み物を注文しますよ」
「……それなら」
彼女はくす、と笑い声を漏らした。
違和感。けれどありえなくもない。
「夜においでくださいませ、お客さま」
ばさりと開いた天使の羽根。
そして、それは漆黒の闇を背負ってなお白く。
「あのですね」
「はい」
「僕は夜が怖いんですよ」
そこに開く人の魔性が。
「それに僕は自分の闇で手一杯で」
あなたのお相手まではとてもとても手が回らないと思います。
「…失礼いたしました」
正直に告白したのに、彼女は僕の手の甲に軽く爪をたてて去っていった。
おわり
柔らかな声に瞬きする。
「何か問題でも?」
「ああ、いえ、別に、全然」
急いで応えて、声の方向に慌ただしく手を振って見せた。
「大丈夫です、ありがとう」
中途失明だったから、見えていた時の仕草は急に消えやしない。ましてや、今みたいに見えなくなった視野に広がるものを凝視してしまうと、つい『外側』からも何かを見ているような雰囲気になるんだろう。
「では、コーヒーはいかがでしょう?」
「あ、じゃあもう一杯」
「ここですよ」
柔らかな声の彼女は、僕の手を取り、指先をソーサーに触れさせてくれた。
「ありがとう」
粉のように頬に触れる日差しを感じる。太陽の光で全てが眩く色を飛ばせているような光景だろうな、と思い、脳裏にそれを描いた。
立ち去る彼女の甘いパウダーの匂いをかぎながら、微かな衣擦れを響かせる後ろ姿を想像する。
このホテルのラウンジに勤め出してどれぐらいになるのだろう。あまり長くはないに違いない、今も一瞬どちらへ行こうかと迷うように靴音が止まった。年齢を越えた心遣いは、彼女のもともとの性格というよりは、前の仕事のせいだろう。
白衣の天使。
手を取る時にぴたりと指先が動脈にあたること、僕を席に誘導する慣れた応対、何よりさっき、いきなり倒れた婦人への的確な判断と小さく呟かれた医学用語。
看護師を辞めて、ホテルラウンジのウェイトレス、何があったのかはこの視界に広がる紅の海のせいだろう。亡くなったのは親しい人か、それともしてはならない最大のミスの犠牲者か。
傷みに満ちた記憶のはず、それでも聞いてみたくなるのは、僕のほんと悪い癖で。
「あの」
「…はい」
片手を上げるとすぐに、ふわりとした羽根枕を思わせる香りが近寄ってきた。
ああ、ほんと今朝の光は彼女にぴったりだ。甘やかで実体感のある温もり。
「もう少し、側に」
「え?」
ねだるように聴こえただろうか? それでも彼女は距離を縮めてくれた。体温を感じて嬉しくなり、上機嫌で疑問を口にする。
「さっき、どうしてあの人を見殺しにしようとしたんです?」
「…」
耳元で小さく息を呑む気配があった。
「あなたならすぐに対処できたでしょうに。なぜ一瞬バイタルに問題はなさそう、と?」
もちろん、すぐに否定されて、心臓マッサージを始められていたようですが。
「……」
「僕、耳がいいんですよ」
「………」
「それにあなたのお顔もわからないし、いざとなったら、あなたは僕を、どうにでも始末できますしね、いろいろ不自由な人間なんで」
大丈夫ですよ。
そちらに向かって目を閉じたままにっこり笑うと、彼女は静かに吐息をついた。
「不愉快な話ですよ」
「聞きたいな」
「彼女は私のかつての上司でした」
私の夫に横恋慕して、私から彼を奪うために濡れ衣を着せて追い出した。けれど、それに気づいた夫が自分の罪もあるからと自殺して。
「今日が夫の命日です」
「そんな日に、わざわざ助けなくても」
「……職業病、ですね」
応じた声音が濡れてかすかに震えていて、僕は申し訳なくなった。
「ありがとうございました。お礼に、ここで一番高い飲み物を注文しますよ」
「……それなら」
彼女はくす、と笑い声を漏らした。
違和感。けれどありえなくもない。
「夜においでくださいませ、お客さま」
ばさりと開いた天使の羽根。
そして、それは漆黒の闇を背負ってなお白く。
「あのですね」
「はい」
「僕は夜が怖いんですよ」
そこに開く人の魔性が。
「それに僕は自分の闇で手一杯で」
あなたのお相手まではとてもとても手が回らないと思います。
「…失礼いたしました」
正直に告白したのに、彼女は僕の手の甲に軽く爪をたてて去っていった。
おわり
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