『segakiyui短編集』

segakiyui

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『滅びの素因』

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「さあ、皆さん。目を閉じて、輪になって、手を繋ぎましょう」
 アケミの静かな声が、ほの明るい部屋の中に響いて広がっていった。
 よく手入れされた芝生を思わせる、深く美しい緑のカーペットに、思い思いの格好で直接腰をおろした十数人の男女が、緊張したように姿勢を正し、互いの位置を決める。
「さあ、どうぞ。皆、地球の仲間です」
 アケミが再度促して、各々はにかんだ笑みを交わしながら、手を伸ばして握り合った。
 会社でも、いや、家でさえも、こんなに和やかな顔で手を握り合ったことなどない人々。
 孤独で寂しい現代人。
 彼らの体から緩やかに力が抜けていくのを見ながら、イサムも目を閉じた。
 自分の内側へ意識を落としていくと、通い慣れた酒場のように居心地のいい空間が見つかる。
 ここまで来るのは大変だった。
 イサム自身も世界各地を回って、いろいろな師をを求め捜し、また自分でもこれと思う行を積み重ねてきた。
 最近の精神世界ブームのおかげで、こうして環境のいいホテルも借りられる。セッションの形態をとったカルト教団の儀式ではないかと疑われて、一時はホテルを追い出されかけたが、そこは外国の友人達の尽力があって、会を重ねられた。
 だいたい、今の世の中はおかしいのだ。
 限られた資源を湯水のように使い、何が大事なのか考えられないまま、世界のどこかで毎日多くの人命が失われていく。
 このままでいいはずはない。人類はいつかひどいしっぺ返しを受けるだろう。
 だからこそ、イサムのような者達が必要なのだ。地球の未来について深く考え、在るべき姿、するべきこと、人類の責任について行動を起こしていくものが。
 イサムは次第に高揚して来る気持ちに、つい、目を開けた。
 部屋の隅から微かな芳香が漂って来る。鎮静とリラクゼーション効果をうたった『D7』と呼ばれるものだ。
 だが、連日これを使っていると、時々激しい興奮が訪れて来ることがあるのに、イサムは気づいていた。
 そう、今日のように。
 イサムは目を閉じ、再び心の中の部屋に辿り着こうとしたが、諦めた。
 そっと立ち上がる。自分の中にあるものを探し求めて目を閉じている男女は皆、真面目で幸福そうな顔に見えた。その沈黙を壊さぬように、ゆっくりと動いて、薄いレースのカーテンが掛かっている窓際へ寄る。
◆ 窓の外は眩い日差しで満ちていた。
 遥か下にうねうねと波打つような道路があり、溢れんばかりの自動車が走っている。
 あの道路の周辺には、排気ガスが充満しているのだろう。街並みを歩いている者達は、ガスを胸の奥まで吸い込んで、意識することなく穢れに侵されていく。
 忙しげにバスに乗り、電車に乗り、歩き、走り、携帯電話で会話し、立ち食いそばを掻き込み、汗まみれでどこかへ急いでいく。
 彼らは気づいていないのだ、自分達が何を望んで、何をしようとしているのか。自分達のしていることの一つ一つが、どんな結果をもたらしているのか。
 だが、イサムは違う。イサムとイサムの仲間、少なくとも、この部屋に集まっている若者達は違う。
 その考えが、『D7』に触発された高揚感のせいではないかという疑いが、一瞬イサムの心を掠めた。だが、それでもいいではないか、とイサムは思い直した。
 地球は人類という種を抱え込み、病んで疲れ切っているのだ。その傷みを癒す必要がある。そのために、真剣に考え、新しい世界についてのビジョンを得る者がいるのだ。
 それは正しい行いなのだ。
 だから、その正しい行いのために、必要とされる手段は全て正しいはずだ。
「はい、目を開けて下さい」
 背後でアケミの甘いハスキーボイスが命じた。
「受け取ったビジョンについて、お互いに話し合って見ましょう。私達がどう在るべきかについて、考えましょう。ビジョンを受け取らなかった人は、心を開いて話を聞いて下さい。より高度な導きを受けるためにはどうすればいいのか、学びが得られると思います」
 イサムは振り返った。
 手を繋ぎ合った男女が、名残惜しげに手を離した。
「わたし、思うんです……わたし達って、愚かだわ」
 何度か出席している、四十過ぎの女性が話し出した。
「こうしてここに来ると、よくわかります。よく『閃く』ようになるんです。でも、普段は無理でしょう? これは、周りの人々の理解が足りないせいだと思います」
 数人は頷いている。アケミは曖昧な微笑を浮かべて聞いている。
「わたし達、世界を『変えて』いかなくては」
「いいですか、私は未来を見ました」
 遮るようにがっしりした男性が口を挟んだ。
「勿論、周囲の無理解が大きいんです。素晴らしい未来が待っているのに実現しないのは、きっと他の考え方が理解できない奴らのせいだ。もっと運動を広げなくては」
 部屋の温度が僅かに上がったようだった。
 集まった男女は、イサムのセッションを高く評価している。イサムは満足した。
 その時、アケミが薄紅の長い衣を閃かせてこちらへやってきた。
 艶やかに波打ち流れる黒い髪は額で左右に分けられている。滑らかな顔に大きな両目が、興奮に潤んで輝いている。穏やかな声音、人を魅きつける神秘性、何もかもがイサムの巫女としてふさわしい存在だった。
 だが、その目は今、何かを言いたげに、イサムを鋭く見つめている。アケミの手が、下腹部を庇うように当てられているのに、イサムはうんざりして目を背けた。
「イサム」
「今はセッション中だ」
「皆、自分達のビジョンに夢中になっているわ。それに、セッションが終わると、あなたはすぐに何処かへ行ってしまう」
「忙しいんだ。俺は地球全体のことを考えなくちゃならない」
「産みたいの」
 イサムはアケミを振り返った。
「話は終わったはずだ」
「終わってなんかいないわ。今日、赤ん坊が動いたの。もう、堕ろすのは無理よ」
「もっと早くに処置できたはずだ」
「命よ」
 アケミは一瞬、どこか哀れむようにイサムを見た。
「これもまた、地球の、命よ」
「俺には、もっと多くの命の責任がかかっている」
「一つの命を守れない人間が、地球を救えるなんて思えない。産むわ、私。あなたが認めようと、認めまいと」
 イサムはアケミから離れた。
 再び、地上を見下ろす。
 箱庭の中を、細い道路が菌糸のように這っている。その中で連なった、車の群れ。あの車の中には人間がぎゅうぎゅう詰め込まれ、その車が道路に詰め込まれ、その道路が世界中に詰め込まれていく。
 機械まみれのソーセージ。
 イサムは吐き気がしてきた。
 地球の未来を背負っている彼に、妻と子どもがいる? あの腸詰めの中に詰め込まれている奴らのように、おとうさん、になれ?
「いいか、アケミ」
 イサムは眉を顰めて振り向いた。
 真後ろに立っていたアケミの、意志の強そうな真っ黒な目と、ぷっくりとした赤い唇が、ひどく禍々しいものに見えた。
 そう、救世主を誘惑する、魔性のもの。
「地球あっての、生命なのだ。命は正しい行いに使われるものなのだ」
「あれは、愛ではない、と言うのね。正しい行いではない、と言うのね。あなたがしたことは…」
「…俺の修行に必要だった」
「では、この子は、私の修行に必要よ。そうでしょう? 命を与えたのはあなたではないわ。関わっただけよ」
 アケミが言い放った時、激しいノックが響いた。
「イサム! イサム!」
 近くにいたメンバーが立ち上がり、ドアを開くと、紅の衣を着たカズトが転がり込んで来た。
 自分の衣の裾に絡まれてたたらを踏み、上半身を無様に泳がせながら、カズトは半分泣き出しそうになっている。
「どうした?」
「イサム、今、あの、あの」
 口を押さえた次の瞬間、耐えきれないと言った顔で叫んだ。
「核のボタンが押されたって、アメリカのラルフから、イサム、助けて、助けてくれ!」
 カズトの悲鳴が部屋の空気に染み込む前、人々が自分の運命に気がつく前に、世界は白く光を放ち、溶けていた。
 そして、長い冬が来た。

「まだ、止まないんだな」
 イサムは瓦礫の間に寝そべったまま、灰色ののっぺりした空に向かって呟いた。
 その空からは、ぱらぱらした粉雪が、透き通るような白さで降り続けている。まるで、地上の汚れを全て覆い隠してしまおうとでもするように。
 息を吸い込んだ拍子に激しく咳き込み、イサムは体を折り曲げ呻いた。切れた唇がそれ以上裂けないように当てた手に、粘っこい塊が飛び出して当たる。喉の奥から胃の底までビリビリとした痛みが走って、溢れた塊が見る見る真紅の液体に変わった。
 温かな流れは急速に冷えて雪の上に散る。イサムの命も冷えていく。
「俺も、長く、ないか」
 確かめるように、イサムは呟いてみた。
 雪は答えない。
 セッションの最中、いつも心の内側から響いて来ていた声も、そうだ、とも、まだだ、とも応じない。イサムが自ら決めるのを待ってでもいるように。
 イサムはそっと両手を上げた。
 赤黒いまだらな皮膚に、ボロ切れのようなものが巻きついている。軍手をはめていた手を火の中に入れて、表面の布をペロリと剥いた、そんな感じだ。指に絡まるような肉切れの間に、顔から剥がれた皮膚も混じっているはずだ。
 イサムはそのボロ切れをゆっくりと引っ張った。突っ張った皮膚が捻れて裂かれていくのに、なぜか痛みを感じない。痛みは体の内側に籠っている。表面の火傷や傷の痛みは感じないのに、内臓の痛みは感じるのだ。
 だが、それもぼつぼつ薄れつつある。感覚は吐血の痛みと渇きに限られつつあった。空腹なはずだが、それはもう、感じない。
「人間て、タフ、だよなあ」
 イサムはぼんやりと、手近に積もった雪を固まった手でスコップのように掬い、口へ落とし込んだ。
 舌を刺す辛味、飲み下すに従って体の中を引き毟っていくような苦味。それらにも慣れた。渇きに耐えかねて初めて雪を口にした時は吐き戻したが、もう、世界にはこれしかない。
 穢されきった白い雪。
 その中には悪夢のような汚染物質が蓄えられている。イサムの体で再び貯められ濃縮される。雪は己を介して、地球の傷みを人間に返していくのだ。
「アケミぃ…」
 イサムは首を動かして、離れて来た場所を振り返った。
 幾つもの瓦礫の向こうに、あのセッションを行っていた場所がある。
 閃光と衝撃に包まれて崩れ落ちたビルの中で、ほとんどの仲間は死んだ。緑のカーペットは血と汚物で埋まり、飛び散った肉片はすぐに腐り始めた。
 その中で目覚めたイサムは、自分がどこにいるのか、何をしていたのか、全く思い出せなかった。膝を抱えて座り込んでいた日が幾日続いたのかも覚えていない。
 激しい飢えと渇きに手に触れた肉を口に運んで呑み下した瞬間、薄紅の衣がひらひらと瓦礫の間に風に舞った。
 嘔吐が襲った。
 悲鳴を上げた。
 叫び声に、口が、喉が、体の中が裂ける。血を吹き出しながら、イサムは泣いた。
 涙が出なくなり、おうおうと吠えるだけになったイサムの頭に、繰り返し響いていたのは祖母の声だった。
 昔、赤ん坊を宿したまま死んでしまった女を墓に埋めたところ、しばらくして赤ん坊が産まれたのだよ。土の温気のせいだろうかねえ。それとも、女の業だろうか。宿したからには、子どもを産まずに死に切れない。それとも、命は親などいらぬものかも知れん。自分でこうと決めたら、この世に産まれて来るのかも知れないよ。
 祖母は口をすぼめてほほ、と笑った。その目が細く、妖しかった。
 血の塊に遮られてついに叫べなくなった後、イサムはそろそろと薄紅の衣に擦り寄った。
 アケミの体が瓦礫に潰されていた。手と足と髪の毛だけが、瓦礫の外にはみ出ている。薄紅の衣が赤みを増して瓦礫を抱くように包み込み、まがい物の火葬のようだった。
「アケミ…産めよ……産んでみろよ」
 イサムは呟いた。
「産んでもいいよ。もう、産んでもいい」
 だが、静かに降り出した雪が全てを覆っていった。
 イサムは随分そこに居た。
 どこからも、何の音も響かない世界に背中を向けて、じっとアケミの薄紅の衣を握っていた。
 自分が、アケミの中へ入りたかった。
 アケミの子宮の中で、微かに聞こえる鼓動と温もりを味わっていたかった。
 だが、ある日、体の傷みが薄れてきたのに気がついた。
 自分の体が使い物にならなくなるってこと、わかるんだよな。今日明日には死ぬって時、不思議と体が楽になる。何だか、神経を一つずつ切り離していくみたいにさ、感じたくないものから消えていくんだ。そうなったら、もう後戻りはできない。どんなに医者が大丈夫だって言ったって、無理なんだ。ぼちぼちと本当の終わりがやってくる。
 イサムが精神世界に関わり、入り込んでいくきっかけを作った友人のことばだった。
 進行性の病気で、ベッドの上でにこにこしながら話してくれたが、ひょいと横になると、そのままするりと逝ってしまった。側についていたイサムが、本のページを捲る間のことだった。
 あの友人の死を思い出すと、イサムはいつも体が震えた。どんなに拒んでも、何もかも離れていってしまう感覚だなんて。たった一人取り残されて、少しずつ全ての綱が切られていくのに、誰も気づいてくれないなんて。
◆ まるで、溺れかけた幼い時のようだ。
  浮き輪に掴まっ手遊んでいた。始めは浜に近かったから、足が砂に引っ掛かってつまらなかった。だから、ほんの少し足を蹴って、手で波を押し退け、沖へと出た。水が深くなると、波の動きが複雑に面白かった。水面を覗き込んで、白く漂う自分の体を見つめていると、ふいに水が冷たくなった。顔を上げた時は遅かった。沖へどんどん流されて、手も足も冷え切っていて動かない。おかあさん。そう呼んだが、声は波音に呑まれた。おとうさん。誰も気づかない。ブイを通り過ぎた時、大きな波がイサムを呑んだ。その瞬間まで、イサムは怯え続けた。彼に気づかない周囲と、自分が気づかなかった世界の存在に怒り続けた。
 あの時に、そっくりだ。
 イサムは驚いてよろめき、立ち上がった。
 自分のどこにこんな力があったのか。
 そして、イサムは歩き出した、誰かを探して。
 だが、世界は静まり返っていた。
 割れ砕け、引き裂かれて、焼けるものは悉く焼き尽くされた街。瓦礫には蕩けた電線がはりつけられ、ぬらぬらした液体が振りかけられているものもある。きらきら光るガラスの破片の平原。ここにもそこにも、黒い丸太のようなものが不規則に繋がれて転がっている。車の残骸がビルに寄せて積み上げられた横に、ぐしゃりと潰れた列車が突っ込まれている。白い雪がそれらをじわじわと飲み込んで行く様。それはイサムの体からなくなっていく感覚が悪夢のおもちゃ箱となって映し出されているようだった。
 どこまで行っても、誰もいない。
 あの、深い海のように、沖へ沖へと誘われて行くだけなのかも知れない。
 イサムはのろのろと顔の向きを変えた。
「ん?」
 何か、動いた。
 ふらつきながら歩いていたイサムは、足を止めた。
 視力以外でも見ようとするように、感覚を外へ外へと押し出して行く。
 世界はとても静かだ。何も動く気配はない。降り続く雪さえも、無音の空からやってきて、無音の大地に吸い込まれて行く。
 幻だったのだろうか。
 いや、確かに、少し先の瓦礫の向こうで動いたものがあった気がする。
 イサムはそろそろと近寄った。
 相手が何者であれ、襲われるかもしれないとは考えなかった。襲われても、襲われなくとも、そう、たとえ殺されようと、同じことなのだ、今となっては。
 瓦礫の陰に蹲っていた黒い塊があった。布を巻きつけた石、のように見えた。
 だが、それは、イサムが近づくのに、ひょい、と信じられない軽さで動いた。
 真っ黒い髪の、真っ黒い大きな目の、4、5歳の少女の顔が、イサムと向き合った。
 イサムは呆気に取られて少女を見た。
 少女は黒いワンピースを着ている。喪服のようなそれも焼け焦げ、汚れてひどいものだった。手足も煤けたように黒いが、不思議なことに火傷らしい跡がない。そればかりか、黒い瞳は艶やかな生気を放ってイサムを見返した。
「お前…」
 イサムの声に呪文が解けたと言いたげに、少女は再び俯いた。
 よく見ると、そのしゃがみ込んだ足下に、一目見て死にかけているとわかる、灰色の顔の男が横になっていた。
 イサムは足を引きずり、その側に立った。
 少女はイサムを気にする様子もない。
「お前の………オヤジか」
 少女は微かに頷いたように見えた。
 イサムは男を見た。
 薄汚く、血に塗れて傷だらけだ。乱れた髪が見苦しく顔にかかり、引き攣るように喘いでいる。虚に開けた目は空を見ている。だが、きっと何も映ってはいないのだ。断末魔の苦しみを受け取るだけの男。少女に何もしてやれない、無力で哀れで汚れた男。
 なのに、その男の手は、少女のほっそりとした小さな手を必死に握りしめている。まるで、彼女を引き換えにして、生の世界へ戻ろうとするように。
 そんなことをしても何にもならない。浅い呼吸はみるみる弱々しくなっていっている。けれども、男は手を離さない。少女の手だけは放さない。
「もう、ダメだぜ」
 イサムは言った。
 できる限り、きっぱりと、訳のわかった口調で。信者達に新しい世界について話す時のように。
 少女は聞こえていなかったように、身動き一つしなかった。
「そんな奴、ほっとけよ」
 イサムは少女の肩を掴んで、男から引き剥がしたい気持ちを抑えながら続けた。
「俺と、一緒に…」
 不意に、少女がイサムを見上げた。
 何もかもが明らかにされる、澄み切った光のような目だった。
「あなたは、ちがうの」
 イサムは怯んだ。
 少女は男の手を放さない。イサムはそこでようやく気がついた。男にはもう、少女の手を握る力も残っていないのだ。
 握っていたのは、少女の方だったのだ。
「俺は…」
「どうして…こんなこと…」
 イサムの答えを遮って、男が呻いた。
「どうして……こんな……ことになった………俺が……何をした…」
 そして、強く息を引いた。それで、終わりだった。
 イサムはぐらぐらして座り込んだ。
 同じことを考えていた。
 閃光が満ちた瞬間。目覚めて自分一人が生きているとわかった瞬間。アケミがいくら呼んでも生き返らないと知った瞬間。いや、それらの間の無数の瞬間に、心の奥で一つのことばが繰り返していた。
 どうしてこんなことになったんだ。
 なぜ、俺が。
 なぜ、今。
 なぜ、ここで。
 なぜ、たった一人で。
「蟻とキリギリスの話があったっけ」
 イサムは呟いた。
「夏の間、蟻はせっせと働いて、キリギリスは歌って遊んでいた。冬が来て、蟻は暖かい部屋の中でゆっくり楽しく暮らしたが、キリギリスは凍える雪の中で死んでいった………俺はあの話が嫌いだった。蟻だって、働きながら、キリギリスの歌を楽しんだはずだ。キリギリスの仕事は歌うことだった。キリギリスはちゃんと自分の仕事をやっていたんだ。死なせなくってもいいだろう」
 イサムは咳き込んだ。
 口に当てた手に真っ赤な飛沫が散った。胸も腹も内蔵全てが軋むように痛かった。イサムは体を折り曲げて、傷みに耐えた。耐えることで、少女に自分の強さや価値を見せつけたかった。
 それでも、少女はイサムを見ない。
 死んでしまった男の手をそっと握り続けている。
 結局イサムは一人なのだ。
 イサムが目指した場所が間違っていたのだろうか。それとも、選んだ道が誤りだったのだろうか。
 あの、海で溺れたあの時から、イサムは同じことしか繰り返さなかったのだろうか。自分では一つずつ高い段階へ進んだつもりで、その実、泳ぎも知らずに沖へ流されただけだったのだろうか。
 そうして今、凍りつくような運命の波に、体温を奪われ力を剥がれて、溺れて行こうとしているのだろうか。
 何のための人生だったのだろう。
 イサムは震えだした体を抱えた。
「お……俺は……毎日あくせく……自分のためにしか働いていいなかった奴らとは……違うはずだ………地球の未来のために……正しいことのためにやってきた……なのに……何だって………こんなことになったんだ………何だって……こんなに怖くて……寒いんだ……」
 イサムは泣き出した。
「俺は……変わってない……俺は何もしなかった…………俺は……俺は……こいつと同じだ……」
 そのまま、イサムは崩折れた。
 斜めに傾いだ視界は、ゆっくり薄れて闇に呑まれていった。

 イサムが再び目を開けた時、少女は既にいなくなっていた。
「まだ、死んでいない」
 イサムは呟いた。
 雪が降り落ちてくる下で、瓦礫の間に物のように転がっている体が、どこか他人のような、自分の感覚が体から中途半端にはみ出しているような気がした。
「同じなんだ……」
 あの少女にとっては、死にかけているイサムも、隣に転がっている男の死体と変わらないのだ。
 だから、去っていってしまったのだ。
 イサムは体を起こした。胸から一面、赤黒い血がこびりついて、体を曲げるとみりみりと微かな音を立てた。
 ゆっくりと立ち上がって見た。目眩もよろめきもせず、立つことができた。
 隣に硬直して横たわっている男を見下ろすと、こうして立っている自分が実体ではないような、男の体から離れて行こうとする男の魂の姿のような気がした。
 イサムは胸の前で左手の拳を右手で包んで、頭を垂れた。
 もう一人のイサムが、ここで死んでいる。そして、今、こうしている体も、そう長い命ではない。
 自分の命などというものは、幻なのかも知れない。
 イサムは頭を上げると、周囲を見回した。
 どこへという当てもなく、ゆらゆらと歩き始める。
 数メートル歩くと、ひしゃげておかしな形にぐねったまま、瓦礫に押し込まれた女の体があった。
 イサムは再び左手を右手で包んで、頭を垂れ、目を閉じた。
「おんなじだ」
 低く呟いた。
「あんたも、俺も」
 少し歩くとまた、コンクリートに押し潰された子どもの死体があった。イサムは立ち止まり、目を閉じ、手を握り、頭を垂れた。
 数歩進むと、何体もの死体が薪のように積まれている。イサムは手を握って目を閉じた。
「おんなじだ。俺と、おんなじ」
 次第にイサムは手を放さなくなった。
 胸の前で固く握り締めながら歩き続け、死体を見つけては立ち止まり頭を垂れた。人でも犬でも猫でも、それが指でも骨でも内蔵でも、命あるものの残骸であれば、目を閉じ、呟いた。
「俺が死んでる………あっちでも、こっちでも」
 降り続けた雪が止み出したのに、イサムは気づかなかった。

『リリス』
 呼びかけられて。少女は目を上げた。
 廃墟の中を近寄ってくる、黒い目に黒い頭、黒い服を着た細い手足の、そっくりな恰好の仲間に向き合う。
 相手の頭には細い木の枝のようなものが突き出している。それが僅かに震えるのに、少女の髪の毛がむくむくと動いて、額の少し上辺りから針金のように折れ曲がった触角が伸びた。
 仲間のそれと触れ合わせて、情報を交換する。
『人間はもう死滅した?』
 相手の期待に満ちた響きに気づいて、リリスは小さく溜息をついた。
『いいえ、まだ』
『でも、時間の問題ね』
 仲間はあっさり断言した。
『珍しい種だわ。いつも同じパターン、自分達の痕跡全てを消し去ろうとするみたいに破壊を尽くして滅んでいくなんて。滅亡を避ける学習能力が欠如しているのか。それとも、本当は自分達を憎んでいるのかも知れないわね』
 仲間は嘲笑った。
 リリスは少し首を傾げた。
『伝承が歪んで伝わっているようね。過去の滅亡原因は人間の愚かさではなくて、他から適切な救いが来なかったせいだと言うことになっているわ』
『ああ、あなたの研究していた「アリトキリギリス」ね』
 仲間は頭を振り上げ、同時に触角を大きく揺らせて見せた。
『見なさいよ、この結末を。自分達の欲望を満たすために、世界全てを犠牲にするのに、世界は人間を必要としてるはずだって思い込んでる。人間がいなくてもやっていけるわ、世界も、私達も、ね』
『でも…』
 リリスは振り返った。
 雪は止んだが、何もかもが白く靄のように霞んで遠近感をなくした世界の中を、手を胸の前で固く握り締めて項垂れながら歩いているイサムが見えたような気がした。
『人間は変わったかも知れない。そう、いまの世代では無理でも……次の……世代には』
 仲間は触角を大きく震わせた。弾けて砕けるような笑い声だった。
『なあに、人間達が自分達の自滅的な行動に気づきつつあったという証拠でも見つけたの? それとも、救世主が現れたとでも?』
『ひょっと、すると、ね』
『雄? 雌?』
 仲間は顔を左右に揺らせて、リリスを覗き込んだ。
『雄よ』
『そう。でも、遅すぎたわね。種としては存続不可能よ。雌は絶滅したことが確認されたでしょ?』
『そうね、でも…』
『おかしなことを言ってないで帰りましょう。地上が生き返るまでには、もう少し時間がかかるでしょうよ。人間達の残骸の酷さったらないから』
 先に立って、地中深くに建設された巨大な都市に入っていく仲間に従いながら、リリスはもう一度、白く凍った世界を見た。
 触角を細かくためらいがちに震わせてみる。
『もし、人間と交わる、雌がいたなら…』
『え、なんですって?』
 仲間が振り返る。その目には、明らかな軽蔑と怒りが見えた。
『いいえ、なんでもないわ』
 リリスは首を振り、触角を収めた。
『地下に入るのに、どうしてそんなこと、するのよ、おかしな人ね』
 肩をそびやかせて歩き出す仲間の後ろで、リリスは静かに胸の前で強く固く手を握った。
 イサムはどこまで歩いているだろう。彼の命ももう長くはない。なのに、彼は何をしに歩いているのだろう。
 遠ざかるイサムの姿をリリスは深く胸の中に抱き止めた。
 遠く遥かな時の向こう、自分達の種族もまた、こうしてイサムと同じように地下都市を彷徨うことになるかも知れない。
 リリスはふと、そう思った。
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