『segakiyui短編集』

segakiyui

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『あなた向きの罠』(3)

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 どしゃり、と男はねばねばした紅い粘膜の上に落ちた。とろりとした液体が飛沫を上げて周りに飛び散る。縁を飾っていた象牙の牙がざわざわと蠢いて、こちらへ雪崩れ込んでこようとする。
 瞬間、男の心に安堵と焦りが同時に渦巻いた。
 何だ、やっぱり薬の内容は説明された通りだったのか? けれども、それならあいつはどうしてあそこに居たんだ。それとも、同僚を見たというのも既に薬の幻覚で、実は同僚は俺と自分の妻の密会など知らずに、今日も会社で黙々と働いているのか。
 ………今はとりあえず、この気持ち悪い場所から出るか。
 やり方は簡単だ。集中力さえあれば、誰にでもできる。
 体の下でひくひくと蠕動する粘膜から手を離し、男は腕を組んで座り目を閉じた。
 感覚を分析して、イメージを造り変える。
 脚の下で波打つ感触は間違いだ。それは単に座っている場所が小刻みに振動しているに過ぎない。つい今しがた地震があったのだ。その余波が残っているのだ。スラックスがじっとり湿っているのも、粘液のせいじゃない。零れた水の上に誤って座ったのだ。びちゃびちゃした音が響くのは窓の外からだ。水辺が近いのだ、地震で大きく揺れたから、まだ水面が波打っているだけだ。
 そう、ここはは部屋の中だ。得体のしれない生き物の口の中なんかじゃない。第一、そんなものは地球上に存在していない。そんなものがいたら、この情報化時代に見つかって報道されないはずがない。あのイメージは、俺の中にあった何かの具現だ。そして、それは現実の恐怖じゃない。
 一つ大きな深呼吸をして、周囲の気配を目を閉じたまま伺う。
 さっきのような狭い押し詰まった感じはなくなっていた。妙に暖かい空気の澱みも感じられない。脚の下の蠕動は、今や本当に小刻みの震えとなって、それもどんどん感じないくらいに小さくなりつつあった。響いていた濡れた音も、次第次第に遠くなり、地面に近くなり、やがてゆっくりと空間の奥へ消えていく。
 薄眼を開けかけた男は、視界に飛び込んで来た真紅の色にぎくりとして目を閉じた。鮮やかな紅に薄れかけていた何ものかの気配が再び濃度を増してくる。
 いや、と男は首を振った。
 あの真紅は生物の粘膜の色なんかじゃない。部屋の内装、そうだな、カーテンでもいい。……けれど、あんなカーテンを吊るとしたら、かなり重厚な部屋でないと浮くな。まあいい。ここは部屋だ。生物はいない。
 男は心の中で繰り返し、ゆっくり辺りを見回した。
 いつの間にか、薄暗い部屋の中、壁に真紅のビロードが垂れた空間、その中で男は絨毯の上に広げられていた果実の上に尻餅をついて座っている。スラックスからじんわりと染み込んでくる果汁が、腐りかけたような甘い匂いを立ち上らせている。
 何だ、このイメージは?
 男は苦笑しながら立ち上がった。
 脳裏にちらりと同僚の顔を思い浮かべ、やがて納得した。
 そうか。薬の話は本物なんだ。思った通りの夢が見られる。けれど、具現性が強過ぎて『廃人』を作ってしまった、というあたりが胡散臭い。あの同僚が、妻との密会を続けている男に仕返しするために、わざと危険な罠のイメージを男の中に植え込むように、製薬会社に依頼して、夢の中で男を苦しめようと言う魂胆なのだろう。その証拠に、ほんの少し我に返れば、恐ろしげな生物は跡形も残さずに消え、感触は腐った果実にすりかえられる。あの同僚らしいささやかな復讐だな、と男はせせら笑った。
 そんな奴だから、妻にも愛想を尽かされるのだ。男に復讐なぞしている暇があったなら、退屈しきっているあの妻に、心身共の家庭サービスでもしてやればいいのに。
 何はともあれ、罠のイメージが、放り込まれたものならば恐れることはない。せいぜい、楽しい夢の中でリラックスさせてもらおう。
 まずは、この陰気な部屋から出ることだ。
 周囲の垂れ幕を引き開けると、清潔なオフィスへ続く、そう念じて、男は垂れ幕を開けた。
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